『百年の憂鬱』(伏見憲明)の紹介記事が、2012年10月14日(日)の北海道新聞に掲載されました。
ありがとうございます。
前回、伝説になる「コンサート」の後に“彼女”と六本木のビストロで食事をした、と書いた。実は、その時、なんとなく近況を話したくらいで、肝心なことは話していない。勿論、別離の「理由」は聞けなかった。また、知ってもどうにかなるわけではない。おそらく、想像通りのことだろうが、その理由に真実を肉付けしていく必要などないだろう。さらに傷つけ合うのは愚かしいこと。男女の仲では、知らなくていいことはたくさんある。
真実は残酷で、人を傷つけもする。別離の泥濘に嵌り、もたつきはしたくないだろう。何も知らない、いまなら、笑顔で別れられるというもの。去り際は、ボギーのようにありたい。“君の瞳に乾杯”だ。二人の間には「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(As Time Goes By)」が静かに流れる。
そんな女狐との格闘。喪失感と徒労感に苛まれつつも、真底に落ちないのが私である。春に向け、次の一手を打っていた。新宿を離れ、再び、渋谷へと舵を切る。すると、自然と釣果が出る。今度は、田園調布の“お嬢様”だ。
名だたる一等地に住む女
下町生まれ、下町育ちゆえの山手コンプレックスなどはないが、ある種、生息地(!?)のランクによる、女性のランクアップもある。まるで、四万十川の鰻や大間の鮪、勝浦の鰹、丹波の黒豆、小布施の栗のようだが、グルメたるもの、ブランドというか、その産地や漁場には拘りたい。東京でも田園調布は特別な響きがある。麻布や六本木などではびくともしないが、やはり、田園調布には、豪邸が立ち並び、人生の成功者が住まいしところというイメージがある。かつて、1980年には、成功し、大金持ちになれば、“田園調布に家が建つ!”という、星セント・ルイスのギャグがあったくらいだ。
そもそも田園調布の発祥は、かの渋沢栄一の息子・秀雄がイギリスのガーデン・シティーに魅せられて構想を立てた田園都市計画だった。しかし、この構想は、五島慶多を始めとする野心あふれる実業家によって欲望に満ちた不動産業へと変貌したという。大学の誘致、住宅地と鉄道敷設を一体にした開発、在来私鉄の買収劇など、東急王国はみるみる増殖、ロマンあふれる構想はもろくも挫折し、生臭い話が残るが、田園調布そのものは変わることなく、イギリスのガーデン・シティー構想を端緒とした田園浪漫が残る街ではある。その辺の経緯は現在、東京都副知事の猪瀬直樹の『土地の神話』(1988年)に詳しい。同書は第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『ミカドの肖像』(1987年)の続編ともいえる作品。近代の日本を描いた名著である。まさに、バブルの時代。土地開発など、どのように近代日本が作られていったか、西武と東急の暗躍(!?)を含め、自然と興味を持ち、貪るように読んだ記憶がある。東京生まれ、東京育ちの自分にとって、東京がいかに変わっていったか、気にならないはずはない。後の「地上げ」や「土地転がし」などに繋がる因子が書かれている。バブルの萌芽は既にあった────というような「都市論」は、またの機会に譲ろう。
田園調布のお嬢様と出会ったのは、90年の春だった。丁度、女狐とのラブ・アフェアーがクロスフェイドした頃である。多分、再会の「コンサート」の前には会っていたと思う。懲りないとは、私のことだ(笑)。
渋谷の桜ヶ丘にある、私の隠れ家「アンアン」で、コールを受けた。おそらく、夜の9時過ぎくらいだろう。どんなことを話したか、ぼんやりとしているが、お嬢様の恋愛相談に乗ったことだけはよく覚えている。好きな人が二人いて、その間で揺れる女心みたいなことを散々、聞かされた。テレクラ相談員としては、うんざりするようなことでも嫌な顔せず(当然、見えないが)、親身に聞くのが作法というもの。そういう点では、本当、根気のいる仕事(!?)だろう。
ある意味、お嬢様はもてる女性、引く手あまただ。同時に、気の多いというのも確かである。一途などという言葉は、バブル時代以降、完全な古語、死語になっていた。そんな性格ゆえ、その気の多さゆえに、私も知らぬ間に彼氏候補になっていった。私の誠実(!?)な対応が気にいったのだろう。相談を受けながら、私への興味が増していったようだ。恋愛相談など、当人にとっては悩みごとだが、他人にとってはどうでもいいこと。しかし、それにちゃんと対峙するだけで、好印象を抱かせる。単なる思い違いや勘違いでないことは、この後の様々な出来事がそれを立証することになる。
コマ劇場近くの映画館で
私が彼女と話していて一番、驚いたのは、お嬢様らしく、ピアノを嗜んでいる、その発表会が春にあるから、予定を空けておいてと言われたこと。その“春”だが、今春ではない、来春である。一年も先のことを言われたのには、正直、ある意味、驚きを超え、何を考えているのだろうという気さえした。数時間、話をしただけで、まだ、会ってもいないのにだ。その場限りや、セックスしたら終わりという出会いしか、考えられないテレクラ遊びをしている私にとって、1年後などは、とても考えづらいことだ。
多分、ピアノの発表会の話が出るくらいだから、恋愛相談以外にも音楽などの話もしたのだろう。その流れから映画などの話題も出た。実は、そのお嬢様との最初の“デート”が「映画鑑賞」だったのだ。
当時、封切られたばかりの『フィールド・オブ・ドリームス』(監督&脚本:フィル・アルデン・ロビンソン)を見に行くことになった。同作品は1989年4月にアメリカで公開され、日本では1990年3月に公開されている。ケビン・コスナー主演で、某映画評論家が「生涯最高の映画」と絶賛したもの。アメリカ文学の巨匠、W・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』を原作にした映画で、とうもろこし畑を野球場に変えたところ、続々と人が来るという夢物語のようなストーリーで、かの相棒と村上春樹ともに愛読した作家、サリンジャーを思わす幻の作家も登場する。私自身も気になっていた映画である。
ある日の夕方、主人公はとうもろこし畑を歩いていると、ふと謎の声(”If you build it, he will come.” = 「それを作れば、彼が来る」)を耳にする。その言葉から強い力を感じ取った彼は家族の支持のもと、周囲の人々があざ笑うのをよそに、何かに取り憑かれたように生活の糧であるとうもろこし畑を切り開き、小さな野球場を作り上げた……。
1989年には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー 2』などがヒットし、翌90年にも『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』『ダイハード2』など、満漢全席のようなハリウッド産の大作の豊漁は続くが、その狭間に“小品ながら良心的”な映画として、話題になっていた。実際、日本では、かのハリウッド大作に負けないくらいのヒットを記録している。毎回、満漢全席では飽きが来るというもの。精進や薬膳のような料理もいいというところだろうか。
その女性、お嬢様らしく、女子大学(どこか、忘れてしまったが、いわゆるお嬢様大学だった)を卒業後、会社などに就職することなく、「花嫁修業中」という名の「家事手伝い」をしている。年齢は20代半ばだった。それゆえ、休みに関しては、平日も土日も関係ない。
翌日、私達は新宿・歌舞伎町のコマ劇場の側にある映画館の前で、待ち合わせた。平日の昼間である。歌舞伎町は夜とは違う顔を見せる。まだ、コマ劇場もあったし、シアターアップルもあった。当然、映画館もいまとは比べものにならないくらい、たくさんあった。ある意味、文化的な街でもあったのだ。シネコンなどが普及する以前のこと、まだ、新宿は歌舞伎町を始め、新宿南口や靖国通り沿いにも映画館が林立していた。幼い頃、父親とかのコッポラの『ゴッドファーザー』の封切を見たのも新宿のコマ劇場の側だった。
歌舞伎町は男と女の欲望が交錯する街だけではない。文化や芸術の街でもあったのだ。新宿のアルタ前(同所は既に1979年には出てきていた)などではなく、歌舞伎町の映画館の前で、待ち合わせたのも昼なら女性一人、歩かせても問題ないと考えたからだろう。
さて、私の前に現れたお嬢様、どこかしら浮世離れした雰囲気があり、独特の浮遊感がある女性だった。良家の子女だからといって、高級ブランドを纏うことなく、落ち着いた、どことなくコンサバな服装をしているのも好感を抱かせる。顔立ちも特に目を引くような容貌ではないが、育ちの良さが現れている。皇室にでもいそうな雰囲気を持っている。どこか、理知的で聡明な風情を漂わせつつ、若干、メルヘンな香り(いまなら、不思議ちゃんとでもいうのだろうか)が包んでいく。
予想外なお誘い
とりあえず、簡単なあいさつをして、映画の上映まで、あまり時間もないので、そのまま映画館へ入ることにする。テレクラで会って、いきなり映画館というのも不思議な感じだが、昨夜のトークで、なんとなく、お互いを知り得たようなところがあるので、まさにあいさつもそこそこに、敢えて自己紹介するまでもなく、すんなりと映画を見ることになる。
映画館では当然、隣り合わせに座る。本来であれば、手を握ったり、肩に手を回したり、軽く前戯の前戯(!?)をするものだが、流石、初対面である。そこまではできないだろう。同時に、私自身、結構、映画を見入ってしまうタイプなので、そんなお遊びをすることもなく、かなり真剣にスクリーンと向き合ってしまった。
映画そのものは、このところのハリウッド大作に食傷気味だったので、私的には丁度いい塩梅の腹持ちだった。ちょっと、いい時間を映画とともに過ごしているという感じである。ところが、お嬢様はお腹が痛くなり、途中で出てしまった。私も当然、最後まで見ることなく、出てしまったのだ(後日、ちゃんと、一人で見直した。映画の評価そのものは変わらない、名作である。私のように汚れきった生活をしているものを浄化してくれる)。
映画館のベンチで休んでいたら、容態も落ち着いたらしく、顔色も良くなる。聞いたところ、前夜は興奮して、あまり寝ていなかったらしい(子供の遠足か?)。多分、睡眠不足が原因だろう。当然の如く、映画そのものは見ていて気持ち悪くなるような描写はない(ホラーやパニックものではない!)。
とりあえず、軽く食事を取りに、コマ劇場から靖国通りに向かったところにあるタイ料理へ行くことにする。店選びは、敢えて変化球を投じることにした。
シンハビールを飲みながら、トムヤムクンやパッタイ、グリーン・カレーなどを食す。お腹が痛いのに香辛料が強いものはどうかと思ったが、お嬢様は体調が戻ったらしく、もりもりと食べる。フレンチやイタリアンではなく、エスニックというのが珍しいらしく、彼女のツボに嵌る。私の目論み通りである。
話した内容は、昨夜の繰り返しのようなものだが、それよりもお互いのことを話し合ったと思う。多分、その頃には、すっかり打ち解け、お互い信用したようで、結構、プライバシーを明け透けに話す。家族のことや学生時代のことなども聞いたはず。
いつもであれば、時間を引き伸ばし、「終電逃し&ホテルへGO作戦」を取るところだが、今回は、誠実感(!?)を演出するため、すんなりと帰すことにする。すると、意外な申し入れがされる。今度の日曜日に家に来ませんか、と、誘われたのだ。家庭訪問を断る理由はない。テレクラ男を親にでも紹介しようというのか、あまりに予想外な展開である。
まぼろしの旧駅舎
数日後、私は田園調布の駅舎に降り立った。先日、複々線化にともない、地下化していた旧駅舎が復元されたが(この辺は東京駅の復元と同様だ)、まだ、地下化される前だったと思う。東京急行電鉄のHPには「旧駅舎は東横線の抜本的な輸送力増強工事である『目蒲線改良工事および東横線複々線化工事』の一環として実施した田園調布駅改良工事により平成2年9月4日に解体されたものです。」とある。平成2年だから1990年のこと。お嬢様の家庭訪問時には、旧駅舎であり、それは昔の風情を残したものだった。その駅前には噴水や花壇があり、らせん状に道が広がっていた、と、記憶している。勘違いなら申し訳ないが、洗練されながらもどこか鄙びた趣きがあった。都心に比べれば、緑多く、空気澄む、田園地帯である。まさに田園浪漫、フィールド・オブ・ドリームスだ。
お嬢様は駅舎に迎えにきていた。多分、家で昼食を取ってから出かけているから午後だったと思う。彼女の笑顔が迎えてくれる。その笑顔を見た時、私の頭の中には、セント・ルイスの“田園調布に家が建つ!”が木霊する。
そして、伊達邦彦や北野昌夫など、我が敬愛する大藪春彦が描く世界の主人公たちは、政財界の要職にあるものの令嬢を誑かし、落として、上流階級に食い込み、地位や財産を築き上げていく。そんなハードボイルドな野望も擡げてくるのだ。
そのために、羊の皮を被った狼は牙を隠し、誠実を装っていた。いきなり会って、すぐセックスしないのは、相手のことを大事にしているからと思われていた、のどかな時代でもある。テレクラ男子の大いなる野望劇の始まりである────なんてね。
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妙な収まり具合
「たかが、一度や二度、寝たくらいで、彼氏ヅラするんじゃねーよ」
多分、いまだったら、そんな言葉を吐かれてていたかもしれない。勿論、あの時代は、そんな鉄火肌の表現をする女性は、まだ、多くはなかった。そんな言葉が女性誌などで頻繁に飛び出すようになるのは、誰とでも気安くセックスをするようになってからのことである。
彼女とめくるめく箱根の夜を過ごす。そのため、あまり寝ることはできなかったが、朝食を急いで食べ、早雲寺にほど近い旅館を早めに出た。彼女は午前中から仕事があり、遅くても10時までには出社しなければならない。旅情に浸る間もなく、小田急を東京へと急ぐ。
表参道で、二人は乗り換えだ。ともに銀座線。彼女は数駅して降り、私はずっと先まで乗っていった。彼女が下車する前、また、今度の日曜日に会う約束を取り付けていた。場所や時間は決めていないが、日曜日にまた会えると思うだけで、自然とにやけた顔になる。いまにして思えば、相当な阿呆面だったはず。
2泊3日の箱根への旅行。考えれば、随分と長い時間、彼女と過ごした。テレクラがあったからこそ実現した出会いだが、まさか、いきなりこんな展開があるとは思っていなかった。会って数日で旅行をともにするなど、普通の恋愛関係では、あまりないことだろう。二人の距離はいきなり縮まる。急接近である。
そんな時間の中、私自身、まさかという感情が芽生えてきた。ただセックス出来ればいいというだけではなく、恋愛感情めいたものも伴ってきたのだ。彼女に対して惚れたとか、可愛いとか、魅力的だなどと感じ、そんな言葉を前回、敢えて散りばめたのも、私の感情の奥底に溜まった声を形にして、吐き出しておきたかったからだ。
つくづくセックスとは強烈なものだ。「セックスから始まる恋愛がある」。そんなフレーズは、“セックスが自由解禁”(「アンアン」のセックス特集ではないが、80年代後半から90年代にかけ、レディスコミック、レディスマガジンなどにもセックス礼賛漫画や企画が増えてくる)された90年代以降の表現だが、セックスをしている時の高揚感と安心感みたいなものがそう思わせるのだろう。フィット感といってもいい。妙な収まり具合。何か、二人でいることが必然でもあるように感じるのだろうか。
多分、その時は、それほどではなかったかもしれない。薄らとした恋心くらいか。といっても流石、張芸謀(チャン・イーモウ)の『初恋の来た道』(1999年・中国映画)ほどの純粋さはない。当たり前だ。
留守電
日曜日に“デート”(!?)の約束をしたが、具体的な待ち合わせの時間や場所は決まっていなかった。自宅の番号を聞いていたので、電話をする。彼女は出なかったので、留守電に、折り返し電話をしてもらうように吹き込む。私は実家住まいだったが、自分専用の電話(勿論、携帯電話という時代ではなかった)があり、留守電も外から聞けるように設定していた。
ところが、彼女から折り返しの電話はなく、何度かかけるも、留守電に繋がってしまう。繰り返しかけたが、後に社会問題化するストーカー(同語が日本で定着したのは90年代に入ってからで、事件として規制対象になるのは2000年からのこと)ではない、繰り返し電話をかけるといっても常識の範囲内である。
結局、電話をかけ続けるが、連絡が取れないまま、その日が来てしまう。当日も、おそらくいるであろう午前中に連絡をするが、やはり、出てはくれない。私はいてもたってもいられなくなり、彼女の家へ行くことにした(一回目の家庭訪問で、次も来ることを考え、場所や道順はしっかり把握していた!)。後年、将棋棋士・中原誠名人が当時、愛人だった林葉直子との間でスキャンダル事件(1998年)が起こり、林葉の留守番電話に中原が「今から突撃しま〜す」と吹き込むなど、話題になったが、私自身はそんな“討ち入り”感情はなかった。むしろ、連絡が取れないことで、その安否が気になっていた。変な事件や事故に巻き込まれていないか、心配だったのだ。私の時で明らかなように、初めて会った男性とすぐにホテルへ行ってしまう、その行動は危険極まりない。危なっかしい女性である。何が起きてもおかしくはないだろう。
私の家から彼女の家までは1時間ほどだった。最寄駅から家への道は、しっかり覚えていた。迷うことなく、辿りつく。チャイム(オートロックではなかった。その普及にはもう少し時間がかかっていたのかもしれない)を押す。しかし、返答はない。ドアに耳を押し当て、聞き耳を立てるが、水道や空調、テレビなど、生活音はしない。部屋には誰もいないようだ。
もし、近くに買い物などで出ていれば、部屋の前で待っていればいいのだが、訳もなく前にいるのは流石に怪しい。不審者と間違われてしまう。近所の住人に通報でもされたら、それこそ、洒落にならない。時間を少し置いてから、また、来ようと思って、暫く彼女の家の周辺をぶらりとする。駅周辺の表通りには店などが点在しているが、裏通りに入ると、すぐに閑静な住宅街。犬の散歩をさせているご婦人も見かける。下町とは違う山手感が漂う。
彼女の家の周回(!)も2、3周目に入ったところで、いきなり坂の上から目の前に白いベンツが現れた。助手席に座っていたのは彼女だ。思わず、目を疑う。彼女も驚いたような顔をしている。運転席側の窓が開くと、今でいう(といっても既に死語ではあるが)“ちょい悪”風の男性が「あんた、誰!」と、どすの聞いた声で、恫喝とも取れる言葉を残し、そのまま走り去った。言葉を返すことも追いかけることもできなかった。
一瞬、何のことか、わからず、頭が混乱した。彼女は、私の彼女で、今日は、デートの約束をしていた。ところが、それはすべて、こちらの思い過ごしで、勘違いではないかという気持ちにさせられてしまう。
元々、テレクラなどは敗者のゲームと認識していたが、その敗者のゲームでも敗者になってしまった気分だ。流石、悔し涙にくれるということはなかったが、釈然としない気持ちのまま、この日は撤収を決め込む。そこにいてもいいことは起こりそうにない。
迷走
この日から私の“迷走”が始まったといっていいだろう。ニンフォマニアを自認する“女狐”を再び捕まえ、我が掌中にしようと足掻いたのだ。本来なら、相手は自分より一枚も二枚も上のプレイガール、関わると火傷をするだけ、諦めが肝心と、ケツをまくるのが妥当だろう。何しろ、粋を任ずる私のこと、引きずり、執着することなく、綺麗さっぱりと諦めるのが私らしいというものだ。しかし、そうすることができなかった。
セックスに一縷の真実があるかわからない。ただ、欲望を剥き出し、求め合っていた時、お互いが必要と思い、かけがえのない同胞に出会えたような気がしていた。その刹那に永遠を感じたといったら、嘘くさいかもしれないが、それほど、強烈で、彼女の磁力に引き込まれてしまったのだ。
電話などしなければいいものの、凝りもせず、何度も電話をかけてしまう。留守電に吹き込むものの、当然、折り返しの連絡はない。また、その電話も悪戯電話のように何十回も何百回もかけるようなことはしなかったが、深夜、早朝、お構いなしにかけてしまう。
連絡が取れなくなると、余計、熱くなる。彼女への思いが沸騰する。少なくとも何故、電話に出てくれないか、その理由だけでも聞きたくなる。私にしてみれば、何の断りもなく、いきなり、門前払いをくらわせられた。晴天の霹靂。納得できないというのが正直なところだ。
しかし、その理由を知ることはできない。出てはくれない電話と格闘して、数週間(実際は数日間かもしれないが、とてつもなく、長く感じた)がたったある日、多分、日曜日の昼だったと思う、彼女が電話に出てくれた。
話かけるものの、暫く無言が続くと、いきなり、見ず知らずの男性が出てくる。少し甲高く、声も若々しい。若干、震えてもいる。
「もう電話をするのはやめてください。彼女は本当に迷惑しています。これ以上、しつこくしたら、警察に通報します」
これでは、まるでストーカーである。何度も書いているが、まだ、日本ではストーカーという言葉も認識されていず、その当時は法規制もできていなかった。流行の先駆けと、自画自賛したいところだが、当然の如く、その時はそんな余裕などはない。
私が反論する間もなく、その電話は切られてしまう。声の主は、彼女の家で鉢合わせしたちょい悪の男性ではない。これでもう一人、男性の影が浮上したわけだが、流石、ニンフォマニアである。他にもまだ、いそうだ(笑)。
彼女の家に電話をかけることもままならなくなった私は、次は彼女の会社へと向かう。最初に会った翌朝、彼女から名刺を貰っていた。
会社の前まで行き、まちぶせをする(石川ひとみか!?)。何度か、試みるも都合良く鉢合わせなどはしない。空振りは続く。
そんなある日、夜遅くだが、会社の前に行ってみると、既に灯りは消えていた。誰もが退社していた。会社はビルの2階にあって、外階段を上って入るようになっている。どんなところか気になり、階段を上ってみると、会社の窓が少し開けっ放しのままになっていた。入ろうと思えば、入れる状態になっていたのだ。彼女のデスクを見てみたい。引出などを漁ってみれば、彼女のことが何かわかるのではないかという思いが込み上げる。実際、窓を少し開けてみて、どうしたら、侵入できるかを考えていた。同時にまわりの様子も伺っていた。人が来たら、見つかってしまう。
これでは不法侵入だ。間違いなく犯罪である。あと少しで窓枠に足を掛けそうになったが、寸でのところで理性が働き、思いとどまる。ほんの少しで、犯罪を犯すところ。翌日の新聞に私自身が乗ってしまうところだった。
しかし、そんなことまでしようという、まさに“僕、どうなっちゃてるんだろう”である。本当に常軌を逸していた。恋患いとは、人の心を狂わせてしまうものだ。
そんな“嵐の季節”に足を踏み入れつつも、その時、仕事が忙しかったこともあり、多少なりとも忘れることができ、犯罪を犯すまでには至らなかった。しかし、少しでも時間があると、また、彼女のことを考えてしまう。本当、いつもの自分らしくない。
彼女のことをどれだけ思っていたかなどは口にして敢えて言う必要はないが、その行動がすべて語っているだろう。
日々の忙しさが彼女を失った痛みを忘れさせていった。なかなか立ち直れないでいたが、そうもいってはいられない。後ろ向きのままではいられない、前向きに生きていくしかないのだ。
スキャンダル
それから数ヵ月後、事態は思いもかけない展開を見せた。ある週刊誌が彼女の会社の接待疑惑や贈収賄をスクープし、そのスキャンダルの中心に、彼女がいた。コンパニオンを派遣する会社と、派遣先である大手企業との関係が取り沙汰され、彼女は“愛人”という名の肉弾接待の主役を演じていたのだ。当時、F1などもブーム(日本では1990年から1992年にかけて、社会現象化した。特に後年、1994年、レース中に亡くなるアイルトン・セナが人気だった。ちなみに木村拓哉の1996年のヒット・ドラマ『ロングバケーション』の主人公の名前も瀬名だった)になりかけていて、そういったものに大きなお金が動く時代でもあった。
詳述は避けさせていただくが、そういうことを考えれば、私が鉢合わせをしたちょい悪の男性は、肉弾接待の相手だったかもしれない。妙に辻褄が合ってしまう。
彼女に突然、降りかかったスキャンダル。まさか、彼女自身もそんなことになるとは思っていなかったはずだ。幸い、そのスキャンダルは一誌だけで、他が追随することなく、暫くして、人々の耳目から消えていった。しかし、彼女の傷や痛みは大きいに違いない。
余計なお世話かもしれないが、落ちこんでいるであろう彼女を励ましたかった。これを利用して、復縁(!?)を迫ろうなどとは考えてもいなかった。本当に励ましたかったのだ。
何度か、電話をかけたが、幸い、彼女が出てくれて、少し話すことができた。どんな言葉をかけたか忘れてしまったが、その翌年90年の春に来日するアーティストのコンサートに行くことを約束した。敢えて、名前は出さないが、ビッグ・アーティストで、スタジアムでの公演である。
それから数ヵ月後、私はとっておきの席を取り、その日、彼女とスタジアムで、再会した。騒動の傷は多少、癒えたものの、まだ、心からの笑顔は取り戻せていないようだ。それを隠そうと、モード系のとびきりお洒落なファッションに身を包み、髪は緩いウェイブをしっかりと固め、メイクも凛とした彩を施す。どこかしら、近づきがたいような美しさを漂わせている。彼女をエスコートする自分を誇らしいとも思えた。
そのコンサートは後に伝説となり、語り継がれるものになったが、すべてを忘れさせるような音の洪水が彼女に纏わりついたものを洗い流したようだ。
コンサートの後、六本木のお気に入りのビストロで、彼女と食事をした。ワインを飲み、少し上気した彼女の顔に、久しぶりに笑みを見ることができた。
彼女とは、また、会う約束は特にしなかった。それっきりになってしまうが、それでいいと思った。復縁を目論んでいたわけではない。ただ、少しでも嫌なことを忘れ、楽になってもらえばいい。また、私の“いい人気取り”が出てしまったわけだ。彼女の人生に、私はいない。彼女が解決しなければならない問題は、自らが解決しなければならないだろう。
六本木の夜は、もう春だというのに、少し肌寒くはあった。そんな日はぬくもりを求めたいところだが、一人で、寝ることにする。こんな時に、誰かと温めあったら、また、勘違いをしそうだ。
TOWER RECORDS ONLINEでの連載「アイドルのいる暮らし」の第5回:ジェリーさん編を公開しました。
著者は『グループアイドル進化論』共著者の岡田康宏(@supportista)さんです。
この連載は、ポット出版から単行本として刊行を予定しています。
平日のライブ会場やショッピングモールで行われるイベントで、いつも見かける大人の姿がある。けっこういい歳してるけど、この人たちはいったいどんな生活をしているのだろう?
大人のアイドルファンは、アイドルファンであるだけではなく日常を生きる社会人でもある。お金も暇もある大人のオタクには、元気なだけの若者にはない深みと趣きがある。ライフスタイルとしての現場系アイドルファン、大人のオタクの遊び方とは?
今回お話を伺ったのは、ジェリーさんだ。関西在住、30代後半の女性で一度の離婚経験がある。中学生のころ光GENJIにハマったのをきっかけにジャニーズファンとなり、現在は嵐・二宮和也担当。代理店勤務で多忙な毎日を送りながらも、嵐、Sexy Zoneを追いかけて全国のツアーを回る。「会えるアイドル」が全盛となった今も手の届かない存在として圧倒的な人気を誇るジャニーズの魅力とはどこにあるのか。
『隠密剣士、いまここに甦る!』の著者・徳永文一さんからいただきました。

書名●毎田周一 君 気持ちを大きくもとう
編●徳永文一
発行●長風舎
発売●トランスビュー
定価●1,500円+税
2012年11月5日発行
ISBN978-4-7987-0132-5 C0095
四六判/173ページ/上製
知られざる求道の詩人、毎田周一(まいだ しゅういち)のことば。
「この不安な時代、混迷の時代に、右往左往せず、自分を見失わずに歩んでゆく。悲しみも逆境も悠然と乗り越えてゆく。毎田周一の言葉には、そんな生き方を支え、励ます力があります。
あなたを包みこむようにして、勇気を希望の風が渡っていきます」(編者・德永文一)
暁烏敏が激賞し鈴木大拙や柳宗悦らに見いだされながらも、隠遁の生活を選んだ毎田周一が今、私たちの胸に沁みる。
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毎田周一(マイダ シュウイチ)
1906年(明治39年)金沢市に生まれる。
浄土真宗の高僧、暁烏敏の薫陶を十代で受け、のちに、西田幾多郎が教鞭をとる京都帝国大学文学部哲学課に学ぶ。終戦後、石川県師範学校教授を辞め長野県上水内郡鳥居村(現在の長野市豊野町)に転居して仏教の研究と伝道の活動をはじめる。最初の著作である『雑阿含無常讃仰』は、暁烏敏が激賞し鈴木大拙や柳宗悦らにも見出されたが、宗派や学会からは距離をおき在野での求道・探究に徹した。
多くの経典解説書や、人間を探究し生きることを励ます言葉の数々を遺し、1967年(昭和42年)心筋梗塞により死去。
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コンパニオンを派遣する会社に勤める20代後半の女性とのめくるめく夜。それは、あまりに短かった。夜が明け、陽が上る頃には“ブティックホテル”を出なければならない。ほとんど寝ることなく官能を貪っていたが、感嘆と喜悦の夜はあっけなく過ぎ、朝を迎えてしまう。彼女のようにニンフォマニアを自認する女性なら、本来であれば、やることを済ませたらそこで終わりだろう。ところが、さらにめくるめく展開があったのだ。
まさかのモーニングサービス
ホテルを出ると、既に陽は上り、日差しが眩しい。健やかな秋晴れである。246号に近いにも関わらず、空気は澄んでいるように感じた。彼女の家は、そのホテルから歩いて15分ほどのところだという。会話をしていると、耳を疑う言葉が続いた。
「家に来る?」
“家庭訪問”を断る理由はない。意外な“お誘い”に驚きつつも、「うん、行く!」と即答する。
246号を三軒茶屋方向に向かい15分ほどで、彼女の家に着く。世田谷区らしく、板橋区などのマンションとは違い(失礼! 板橋の皆様、すいません!!)、お洒落な外観をしている。彼女の部屋は2階だった。1LDKほどで、特に豪華でも貧相でもない。ある種、バブルとは一線を画した20代後半女性の住処という感じである。コンパニオンの派遣という派手な職業柄、分不相応な部屋を想像していたが、いい意味で裏切られ、思いの他、慎ましやかな暮らしぶりに好印象を抱いた。
彼女はキッチンでコーヒーを淹れ、トーストを焼いてくれる。まさかのモーニング・サービス! テーブルに向かい合い、朝食をともにする。まるで、気分は“同棲時代”(上村一夫の同題の人気漫画があったが、舞台は70年代。そんな貧乏くさい雰囲気はなかった。むしろ、柴門ふみの1990年の「新・同棲時代」が相応しいだろう)。
昨夜会ったばかりなのに、翌朝には、彼女の家で朝食をともにしている。想像や妄想を超える現実に驚く。半信半疑で、女狐に化かされているという感じさえする。しかし、これは夢や幻ではない。
彼女とは、ハレとケ、非日常と日常を共有していた。わずか3日間(アポを取ったのが一昨日、会ったのが昨日、そして、朝食をともにしている今日)で、二人の関係は急速に接近していく。まさにテレクラが成せる業だ。そこに恋愛の駆け引きはなく、ただ、剥き出しの欲望や官能があっただけだ。転がる時は転がるものだ。
朝食を取ったからといって、ゆっくり彼女の家で寛ぐわけにはいかない。お互い仕事がある。彼女が着替えている間に、私は食器などの後片付けをして、最寄りの駅まで急ぐ。「じゃあ、またね」といって別れるが、今度はちゃんと再会するため、お互いに電話番号を交換し、本名も名乗った。名刺交換もしたかもしれない。
燃え上がる二人(というか、私が勝手に盛り上がっていた!?)は、すぐ明日にでも会いたくなるもの。しかし、お互いが仕事を抱え、なかなか、時間が取れない。結局、週末に、仕事を終えてから会うことを約束。その日のうちに決めた。
寝不足でぼけていたのか、どういう経緯からかわからないが、何故か、温泉旅行へ行くことになる。いきなり一夜&朝食をともにしたと思ったら、今度は“旅行”である。まるで、中学生や高校生が夢想するような急展開である。旅行ということは泊りありだから、当然の如く、セックスもありだ、と、勝手に想像を逞しくする。
その温泉旅行、行き先は箱根となった。かの“星空のドライブの看護師”と、箱根を目指して峠道を上るものの、途中で引き返したところだ。“リベンジ”ではないが、箱根よ、もう一度というところだろうか。
週末までは、3日ほどあった。それまで、仕事は上の空というほど子供ではないが、不思議なもので、会えない時間があればあるほど、思いは募る。まるで、付き合い始めた恋人同士みたいだ。勿論、そんな関係ではないことは心得てはいるが、気持ちははやる。ちょっと楽しい、わくわくとした感じ……。前日はまるで遠足の前の日のような気分だった。
おとなの遠足
彼女の仕事柄、土日も仕事になることは珍しくない。その土曜日は仕事が夕方まであるものの、日曜日は休日にできるという。土曜日、仕事を終えた後、私達は待ち合わせをした。千代田線の代々木上原駅のホームに7時(こんどは、車を持っているという嘘はついていない!)。彼女の仕事が赤坂終わりのため、そのまま千代田線の赤坂から代々木上原に来てもらう。そこから小田急線で、小田原まで行くことにした。そのまま箱根に行きたいところだが、箱根だとどうしても到着は9時を過ぎてしまう。食事出しの関係で、それでは遅すぎる。そのため、土曜日は小田原のビジネスホテルなどに宿泊し、翌日、箱根の日帰り温泉に行くことにしたのだ。
代々木上原駅、ホームの進行方向の一番前で待ち合わせした。待ち合わせ時間を少し過ぎ、彼女を乗せた電車が滑り込んでくる。彼女を見つけると、慌てて、乗り込む。下北沢で急行に乗り換え、小田原を目指す。
電車は1時間ほどで、小田原に到着する。ホテルは特に予約していなかったが、駅周辺のホテルに宿泊することができた。チェックインを済ませ、小田原の繁華街にある居酒屋で、鯵のたたきや金目の煮物などを肴にビールをあおる。
ほどよく飲み、良い酔い心地になったところで、ホテルへ戻る。ビジネスホテルのダブルだから、そんなに広くも豪華でもないが、清潔感と簡素さがあれば、二人には充分だった。
めくるめく夜は過ぎていく。不思議なもので、旅先という非日常感が官能を高めるのかしらないが、前回以上に激しく貪ったような気がする。ただ、欲望に任せるままかいうと、そうではなく、気持ちのやり取りもあったように思う。思いが官能を高めるというのだろうか。刹那が永遠に繋がるような錯覚(!?)さえ覚える。
翌朝は、旅館ではないので、チェックアウトぎりぎりまで寝かせてもらう。11時近くまでまったりとしていた。朝食と昼食を兼ねた軽い食事を済ませ、箱根登山鉄道で小田原から箱根湯本へ。まずは箱根湯本の周辺を散策し、土産物屋などを冷やかし、ケーブルカーとロープウェイを利用して、姥子温泉へ向かう。
姥子温泉は大涌谷と芦ノ湖の中間に位置し、金太郎の名で知られる坂田金時の伝説が残る温泉。山姥に連れられた金太郎がこの湯で眼病を治したといわれ、古くから眼病に効く温泉として知られる。特に眼病を患っていたわけではない。箱根の強羅や千石原などの有名どころではなく、箱根でも秘湯といわれるところへ行きたかったのかもしれない。ロープウェイの空中散策では、箱根特有の霧が出てきて、霞の中を進んでいるようで、幻想的でもある。かつて、英国ロック界を代表するピンクフロイド(ちなみに先のロンドンオリンピックの閉会式にもメンバーが出演し、代表作『炎(あなたがここにいてほしい)』をモチーフにした演出もされた)が『箱根アフロディーテ』という野外コンサート(1971年8月6日、7日に神奈川県箱根芦ノ湖畔・成蹊学園乗風台特設ステージ)を行い、そのステージが霧に包まれ、幻想的なサウンドともに幽玄の世界になったという伝説があるが、まさに霧の中を進むロープウェイは、そんな感じでもある。心の中では「原子心母」(ちなみにアフロディーテでは「エコーズ」も演奏された。かの辻仁成のバンド、エコーズも同題から取られている)が鳴り響く。ちなみに、you tubeで、「ピンクフロイド 箱根」と、検索すると当時の映像が出てくる。凄い時代だ!
ロープウェイを下りて、歩いて数分もすると、姥子温泉である。特に日帰り温泉施設などはなかったが、普通の旅館で、日帰り入浴が可能だった。少し寂れた感じで、逆にそれが深山の湯治場という雰囲気を醸し出す。
残念ながら混浴でも露天風呂でもなかったが、二人は温泉に入らせてもらった。泉質は、単純温泉、硫酸塩泉だが、心地いい刺激があるお湯は、昨夜の激務(!?)に染み入るようで、身体が解れていくのがわかる。1時間ほど、温泉を出たり、入ったりする。窓の景色は煙っていたが、それはそれで風情があり、旅の宿気分を満喫することができた。
温泉から出てきた彼女は浮かない顔をしている。泉質が合わなかったらしく、吹き出物が出てしまったという。困ったような、泣きそうな顔をしていたが、その顔は抱きしめたくなるくらいチャーミングだった。困惑する顔を見て、可愛らしいというのも変な話だが、千変万化する表情のどれもが魅力的である。惚れた(!?)ものの弱みか――(笑)。
ひとまず、彼女が落ち着くまで時間をやり過ごしたが、のんびりし過ぎたせいか、ロープウェイがなくなってしまった。まだ夕方くらいだが、思いのほか早く、運転を終わってしまったのだ。同時に、バスを乗り継いでも東京に戻る電車に間に合わなくなってしまった。いつもの“終電やり過ごし作戦”のつもりではではなかったが、気づいたら、なくなっていたのだ。仕方なく(ではないが)、もう一泊して、早朝に宿を出て、東京に戻ることにする。
とりあえず、翌日の出発時間を考え、箱根湯本まで戻り、観光案内所で、旅館を探す。幸い、戦国時代を代表する武将のひとり北條早雲に縁ある早雲寺(北條早雲の遺命により 小田原北條家二代の北條氏綱が大永元年、1521年、箱根湯本に創建した小田原北條家 歴代の菩提所であり、臨済宗大徳寺派の古刹。山号は金湯山。本尊は釈迦如来である)に、ほど近い旅館が予約できた。駅まで旅館の車が迎えにきてくれる。
旅館は国道1号から三枚橋を渡り、旧東海道を上って、早雲寺を通り過ぎ、少ししたところにあった。当時の温泉旅館にありがちな華美な作りではなく、質素でいて、品格がある。飛び込みにしては上々の宿だろう。うまく転がる時は、転がるものだ。
夕食もぎりぎりだが、間に合い、部屋出しにしてもらう。食事の前に軽く温泉に入る。ここも残念ながら混浴ではなく、男と女に分かれて、大浴場へ行くことになる。泉質はアルカリ性単純温泉なので、姥子温泉とは違い、刺激が少なく、しっとりと身体に馴染む。
彼女は湯上りに浴衣姿だ! 浴衣に包まれた肢体が艶っぽい。濡れ髪を結わき、後れ毛がしたたる様は、和の色香がある。彼女の新たな魅力発見である。今度は泉質も肌や皮膚にあったらしく、湯あみが本当に気持ちいいという顔をしている。
部屋の食卓には相模湾の海の幸が並ぶ。鯵やまぐろ、鯛、かんぱちなど、綺麗な皿に盛りつけられる。新鮮な刺身を伊豆の天然のわさびを自ら擦り、しょうゆにつけて、食す。日本酒といきたいところだが、明日も早いので、ビールにする。
焼き魚や煮物なども付いている。酢の物や香の物、汁物、水菓子まである。大した料金ではなかったが、二人には充分過ぎる量である。温泉旅館、浴衣姿、部屋出しの食事など、ある意味、あまりに非日常を過ぎる。1週間ほど前は、まったく想像できず、ましてや、知りあってもいなかった。一本の電話が私達をここまで、導いた。出会いとは不思議なものだ。
温泉に来たからには
元々、食事の始まりが遅かったので、食べ終えた頃には結構な時間になっていた。夜も遅く、日曜日ということで、客も少なかった。ここで、良からぬ考えが浮かぶ。折角の温泉旅館である。やはり、混浴だ!
部屋を出て、男風呂に行ってみると、幸い先客はいない。彼女を手招きして、脱衣所へ呼ぶ。私が風呂に入り、後から入るようにいう。ちょっと冒険だが、男風呂を二人で独占することにする。混浴風呂で、抱き合ったり、水を掛け合ったり、男子たるもの誰もが憧れる“いちゃいちゃ”を実行。室内風呂のため、湯気が浴場内を覆い、ぼやけている。姥子温泉を目指すロープウェイが霧に包まれ、幽玄な世界を彷徨ったが、箱根湯本温泉の大浴場も湯気に霞み、幻想的な世界になる。ある意味、この二人の世界はファンタジック。夢か、幻か。しかし、彼女は、私の手に収まる。それが現実である。
と、ここで、ハプニングが発生。脱衣所から音が聞こえたらと思ったら、一人の男性が風呂場に入ってくる。あまりの突然のことで驚くが、湯気で風呂場は霧のように覆われ、視界もきかない。湯気を纏い、二人は声を押し殺し、息を潜め、抱き合いながら、その男性が出るのを待つ。15分ほどだろうか。風呂から出る音が聞こえ、脱衣所に消える。大人の隠れん坊だ(笑)。
その男性が脱衣所を出たのを確かめ、風呂を出る。流石にのぼせてくる。早く部屋に戻り、水分補給をしなければならない。
部屋に戻ると、冷蔵庫にあった冷たい水を一気に飲み干した。のぼせ、上気した身体を静める。一日中、動き回り、風呂にも長くつかり過ぎた。身体は疲れ切っているはずだ。翌朝も早いというのに、二人は朝まで求め合う。と、書くと激しい攻防(!)を連想させるかもしれないが、風情ある“むつみごと”だった、とだけいわせていただく。
2泊3日の温泉旅行。箱根への旅は、いうまでもなく、テレクラが契機である。新宿・歌舞伎町のストリートの先に箱根へのロードがあった。私のテレクラを巡る、新しい旅が始まったようだ。