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特集:図書館人が植民地でやったこと
図書館人の戦争責任意識 「満洲」に渡った三人の場合

東條文規
[1996-09-05]

文●東條文規
とうじょう・ふみのり●1948年、大坂生まれ。1975年から四国学院大学・短期大学図書館勤務。本誌編集委員。


はじめに

 図書館界で戦争責任がはじめて問題にされたのは戦後八年も経てからである。
 裏田武夫は、「図書館員の立場」(『図書館雑誌』第四七巻第六号、一九五三年六月号)で、自分も「またわけも分らず侵略戦争に駆りたてられたのを心から痛恨に思っている中の一人であるから、或る意味では自ら五十歩百歩の同罪とも考えないでもない」と断りながら、次のように書いた。

「今日のヴェテランを以て自他共に許している人たちの口から、今からでも遅くない、はっきりと戦時の後始末をつけて出直してもらいたいことである。実は図書館雑誌の毎号にこのような厳しい自己追求と克服の表明をそのような人たちからうかがうことの出来るのを、心ひそかに期待していたのであるが、ついにそれらしいものは現在に至るまで見当らないようである」。

 そしてこの問題は、「日本の全図書館の連帯責任であると思う」といい、「日本の図書館員が日本の図書館サービスの根本問題を反省するに、又とない深刻な材料であり、将来に対する貴い飛躍台である」と提起した。
 この時期、『図書館雑誌』では「図書館の中立性」をめぐって活発な議論が闘わされていた。一年前、一九五二(昭和二七)年四月、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が発効し、占領は終了した。が、五月一日にはメーデー事件が起こり、七月には破壊活動防止法案が衆参両院で可決した。朝鮮半島では戦争は継続していた。日本が再び軍事基地化する危険性が現実のものとなっていたのである。アメリカではマッカーシー旋風が吹き荒れていた。
 各地の図書館では、警察に閲覧票の提示を強要されたり、「アカハタ」の保存に圧力がかかるという事件が頻発していた。図書館は、このような権力からの圧力に資料をいかに守るのか、そして「インフォメーションセンター」(有山)としての役割をいかにはたすのかが切実な問題として提起されていたのである。
 やがてこの「中立性論争」は、一九五四(昭和二九)年、東京での全国図書館大会で「図書館の自由に関する宣言」として議決されるのであるが、約二年に渡る『図書館雑誌』での討論の基調は、権力からの圧力にいかに図書館を守るかということであった。つまり被害者としての図書館という視点からの議論だったのである。
 そんななかで、裏田の「図書館員の立場」は、はっきりと図書館(員)の戦争責任を明らかにせよと迫ったのである。それは、戦前、戦中は国家主義、戦後は民主主義、もしくはマルクス主義に器用に転向し、ずっと指導的位置にいる図書館の専門家に対する若い世代からの当然の疑問であった。
 裏田の指摘には、未だアジアの人びとへの侵略という加害者責任という視点は見当らないけれども、少なくとも図書館(員)の戦争責任を「中立性論争」の基礎に据えるべきだという提起は重要な意味をもつものであった。
 とはいえ、この裏田の疑問に反応した図書館人はいなかった。無視したのである。そしてその後もずっとわずかな例外を除いて当時の図書館人から自らの戦争責任に関して、率直な反省のことばは聞かれなかったのである。
 けれども、彼らは確実に戦後も図書館界の指導者の席に納まっていた。のみならず、いろんな局面での発言によって、図書館界に少なからず影響を与えた。同時に、彼らの存在が過去を封じることになった。彼らが存在することがある意味で、歴史的事実、そこに秘められた真実の発掘を困難にした。そのことによって、後の図書館員の信頼を失くした。後輩に信頼されない図書館(員)が利用者に信頼されるはずがない。
 すでに戦後五一年が経ち、当時の図書館員は現場にはいない。彼らの口から直接戦争体験を聞くことは不可能である。私たちに出来ることは、彼らが書き残したものからその責任の一端を垣間みるしかない。以下、小論では三人の植民地図書館人を対象に彼らの戦後の対応を見ていきたい。


衛藤利夫の場合

●責任は教育に

 裏田が指摘したように、戦後の図書館界の再建を担ったのは、つい先日まで、国家の政策に乗った図書館政策を推進していた図書館人たちであった。
 その先頭に立ったのが衛藤利夫である。戦後復刊された『図書館雑誌』(第四〇年第一号、一九四六年六月号)に、衛藤は「日本図書館活動の新生面——就任の挨拶にかえて——」を書いた。衛藤の文章は、戦前のそれと変わらず檄文調である。

「日本がこのシドロモドロの昏迷の間から起ち直り、焦土の瓦礫を除けて、新生日本、平和日本の逞ましい根を伸ばし、生々とした芽を吹くためには、まず冷静な理性を取戻し、苦難にめげぬ勇気を振って、素直にかかる無惨の敗戦の由って来るところを尋ね、われには辛き冷厳なる、残酷なる事実と事理を承認して、思い切り日本と日本人に深く根ざした禍因を剔抉し、抜本塞源、これを建て直すことから着手せらるべきであろう」(丸山泰通、田中隆子編『衛藤利夫——個人別図書館論選集』 日本図書館協会 一九八〇)。

 衛藤は、敗戦の原因の根源を明治以来の立身出世的な功利主義的教育のあり方に求め、それが同時に図書館の不振にあらわれているという。アメリカが勝利したのは、図書館利用率が高いお蔭だったといえないこともないとまで書く。
 教育の「根本的な効力は、各個に備わる自然発生的な求道求学の本能である」。自分たち図書館人は、「自らの知能は、自発的に、自己の責任において自ら研かねばならぬことを、声を嗄らし、唇を焦がして叫び続けて来た」。だが、功利主義教育の濁流に押されて、図書館からのこのような提唱は効果を挙げなかった。自分も一時は絶望して「クシeン詰」三十年の生活を打ち切った。
 しかし敗戦で「外科手術」が行なわれた。教育の民主化である。
 「それは図書館が持つ大きな役割であり、こいねがわくば、これによって図書館に関する限りの敗戦責任の幾分の償いたらしむべく、同時にそこにこそ災後日本図書館再建の屈強な足場があろうというものだ」。
 再建された日本図書館協会の理事長として衛藤が書いた文章はまず敗戦責任というものであった。それもアメリカに敗けたということである。なぜ敗けたのかといえば、明治以降の功利主義的教育の結果で、自主的・自覚的な自己教育がないがしろにされたためである。自己教育の場である図書館も不振であった。けれども、これからは民主化の時代なので図書館がほんとうに発展する基礎が出来た。その発展に全力を尽くすことで敗戦責任のいくらかは償われるのだ。

「われらの同志、兄弟諸兄!今となっては、敗戦の責任は軍閥にあるだの、指導階級にあるだのというケチな、醜いなすり合いを休めて、日本の各界、各層、各職域の人々が、その己がじしの分野においてしかあらざるを得ざるように、われら図書館に生き、そして図書館のために身を挺するものは、この際むしろ進んで、深く内に省みその責任をわれとわが身の双肩に引取ろうではないか。そのドン底にこそ日本図書館再建の足掛りがあろう」。

 いい気なものだといわざるを得ない。少し下世話になるが、「そうかもしれないが、あなたには言って欲しくない」というべきであろうか。
 衛藤は、その後続けて「図書館協会の徹底民主化」(『図書館雑誌』第四十年第四号、一九四七年一・二・三月号)、「協会は誰のものか」(同、第四一年第二号、一九四七年四・五・六・七・八・九月号)という同趣旨の文章を書き、日本図書館協会理事長として、その再建に全力を尽くす。そして、一九四九(昭和二四)年六月理事長を辞任、一九五三(昭和二八)年七月七日、六九歳で亡くなっている。
 したがって、戦後衛藤が公にした文章は以上に尽きる。
 さて、衛藤の文章に彼の戦前、戦中における図書館活動に対する反省を読み取ることは困難である。彼の念頭にあるのは自らの行為の反省ではない。それは第一に、戦争に敗北したこと。それも対アメリカとの戦争に敗北したこと。第二に、敗北の原因は明治以来の教育が間違っていたこと。そして第三に、しかし自分はその間違った教育に加担していなかった。むしろその間違った教育に対抗して図書館の発展に全力を注いだが、力及ばず「功利主義教育の濁流」に押し流された。これは多かれ少なかれすべての図書館人に当てはまる。したがって第四に、その限りにおいては、図書館も敗北の責任を引き受けなければならない。だが、敗北という「外科手術」が施されたので、今後は教育の「本質と本義」にもどり、図書館再建のために全力を尽くそう。
 衛藤の戦争に対するこのような認識は、当時の一般の日本人とそう違わない。連合国による東京裁判は開廷(一九四六年五月三日)されたばかりであり、その帰趨も定かでなかった。この時期、国家の戦争に対する認識は、有名な「一億総懺悔」論であった。

「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は、軍・官・民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」(『朝日新聞』一九四五年八月三〇日付)。

 戦争責任が天皇と天皇制に及ぶことを何より恐れた政府がかつぎ出した皇族東久邇宮稔彦首相の戦争に対する公式の見解である。
 けれどもこの「一億総懺悔」論は、戦時下の真相が明らかになるにつれて、一般国民には反発をよぶようになる。さらに連合国総司令部(GHQ)が意図的に戦争責任を指導者と一般国民に分け、前者の責任のみを強調するという改策によって、「一億総懺悔」論は破綻していくのであるが(吉田裕『日本人の戦争観——戦後史のなかの変容——』岩波書店、一九九五)、衛藤の文章は、ほとんど「一億総懺悔」論の焼き直しであった。


●「奉天」に衛藤あり

 ところで、よく知られているように、衛藤はたんなる一介の図書館人ではなかった。一九一九(大正八)年、東京帝大図書館司書を辞して、南満洲鉄道株式会社に入社以来、「村の図書館」にすぎなかった満鉄奉天図書館を東亜文献の一大コレクションをもつ蔵書数二〇万の大図書館に仕立てあげたのである。その間、「満洲」の図書館界の自他ともに認める第一人者として君臨していた。
 衛藤の「満洲」での図書館を中心とした活動については、小黒浩司「衛藤利夫——植民地図書館人の軌跡——」(一)(二)(『図書館界』第四三巻第五号、第六号、一九九二年一月、三月)や岡村敬二『遺された蔵書——満鉄図書館・海外日本図書館の歴史——』(阿吽社、一九九四)、中見立夫「衛藤利夫と『韃靼』——戦前期中国東北地域における図書館と図書館人——」(衛藤利夫『韃靼』、中公文庫、一九九二年解説)などがそれぞれの立場で詳細に検討しているのでここでは詳しく述べないが、衛藤の活動は明らかに図書館人のそれを越えていた。[注1]
 衛藤が「満洲」に渡った二年後(一九二一=大正一〇年)、奈良での全国図書館大会で「図書館事業における日支提携の実行策如何」(『図書館雑誌』第四五号、一九二一、前掲『衛藤利夫』所収)という提案を行なっている。
 冒頭衛藤は、一年前の「満洲」での図書館大会の礼を述べたあと次のようにはじめた。

「奉天の衛藤=わが極東の教化事業において、その北進の第一線最前線を承っているものの一人としてお見知り置き下されたいのであります」。

 そして、「満洲」の地に「東亜文献の一大集積所たる大図書館」や「東亜文献の総目録」の編成などの構想をぶち上げた後、以下のような激烈な要請でしめくくる。

「我が北方の前線と申しますのは、今日主義、実利主義の最も猛烈な土地でございます。ほとんど四面楚歌の声をききながら、その精神的の荒蕪地を開拓して行くものの骨の折れ加減は、とても内地のそれとは比較になりません。吾人はその困難なる文化戦における前線の闘士であり、肉弾であり、各位はその後続部隊——後続部隊と申上げては失礼かも知れませんが、大本営または参謀本部の地位におられるものと思いますがどうでしょう。ねがわくばその覚悟をもって吾々に臨んでいただきたい」。

 衛藤のこのような大言壮語ぎみの覚悟は、しかしある程度実現されていく。一九三一(昭和六)年満洲事変勃発を契機に、「満洲」だけでなく、広く「内地」や朝鮮、台湾にまで呼びかけた「陣中文庫」、「夜も昼もない、暮れも正月もブッ通しで作業を続け」たという『全満二四図書館共通満洲関係和漢書件名目録』の編纂などである。
 衛藤は、この二つの作業を「事変によって孕まされた図書館の仕事の、代表的なもの」と自画自賛し、事変を契機に、青年参謀や真剣な閲覧者が図書館に来るようになった。図書館の進むべき道がはっきりしてきたのだ。図書館と事変が結びつくことが事変の文化現象たる所以であるという。

「一つの国家が——日本全土、台湾、朝鮮をも含んだ広さに二倍する程の大国家が、世界監視の焦点の中に生れ出ると云ふことが、何とスバらしいことであるか? そしてその建国精神——建国のイデオロギーがドンナ過程で、醗酵され、醸されたか、それをお話して居る時間を持ちませぬが、たゞこゝでは、砲煙むせび、弾雨たばしる間に、漢籍の礼記や、尚書や、春秋や、通鑑や、甚だしきは二十四史などの大物がアチラからもコチラからも多くの方面から要求され、一としきり、図書館の応接室が王道思想の討論場、国家哲学のルツボのやうになったと云ふことを、申上げるだけに留めて置きたいと思ひます」(「満洲事変と図書館」『書香』第三九号、一九三二年六月)。

 当時衛藤は、「満洲国」の資政局訓練所の講師であったが、それ以上に関東軍と深く関わっていた(小黒、前掲論文)。だからこそ、満洲事変に際し、会社に無断で軍と交渉し四庫全書を守るとか、「時局文庫」をつくるとかが出来たのであるが、これ以上触れない。要するに、「満洲事変によって衛藤は『英雄』になった」(小黒、前掲論文)のである。
 じっさい衛藤は、一九三二(昭和七)年一月十一日、奉天の大和ホテルで開かれた「満洲建国前夜の日支名士座談会」に石原莞爾関東軍作戦参謀中佐らと出席している。そこで石原が従来の「満蒙占領論」から「満洲独立論」へ転向したことを表明し、他の参加者は当惑し、反発するのだが、衛藤は一人、アメリカ大陸に米国が建設された故事に照合しながら、新国家建設には明確な「イデオロギー」と「真摯なる夢」が必要だと指摘して、石原中佐の見解に同情を示したのである(児島襄『満州帝国』二、文春文庫一九八三)。
 おそらく衛藤は、石原と同じように、「満洲」をたんなる植民地にするのではなく、「五族協和」、「王道楽土」の地にするという「真摯なる夢」を信じていたのであろう。そしてその「夢」の実現に、図書館活動で参加しようと考えていたはずである。
 その意味では、衛藤の思想は、一国策会社満鉄の思惑を明らかに越えていたし、さらには民族国家の思想をも越えていたといえる。[注2]
 そうだとするなら、満鉄の組織改革のあおりを受けて満鉄奉天図書館を失意のうちに去った衛藤が戦時下、次のように書いたことにも納得出来ないわけではない。

「満洲に行ってからこの失望に次ぐ失望の苦闘の生活は二十何年続いた。ある年の予算の削減と人減らしに会った時は、部下を馘にする程だったら自分で退めようと思った。そしてつくづく自問自答した。『お前はここまで乗り出して来て、仮りに一人になったとしても、柳行李に本を詰めて、蒙古を越えた国境の奥までも、草鞋ばきで支那人や、蒙古人や、ないしその間に淋しく生活している日本人に、それを読ますべく漂泊の旅に出る勇気があるか? あるなら今の仕事をやれよ、なけりゃ断然退職して引上ぐべきだ』と。ところがこの内省においてわたしの返事は肯定的だった。よし! それなら、独立でやる気でやろう」(「クン詰め半生」『図書館雑誌』第三六年第十二号、一九四二年十二月号、前掲『衛藤利夫』所収)。

 そしてすでに衛藤は、この「クン詰め半生」のなかで、明治以来の「学制」の功利主義を指摘し、人間主義の教育の必要性を説いていたのである。
 とするならば、衛藤の思想は、戦前と戦後の間でまったく変化していなかったといえる。[注3]というより衛藤の内面では、変化する必要がなかったのである。衛藤にしてみれば、自分が必死で人間中心の教育を説き、そのために全力を挙げて図書館の必要性を説いたにもかかわらず、指導者は衛藤の説く方向に進まなかった。だから敗戦という事態に陥ったのである、ということになる。
 極めて我田引水、牽強付会な論理といえなくもないが、衛藤は真底、それを信じていたのである。おそらく衛藤もまた、石原莞爾らとともに、「五族協和」、「王道楽土」という「イデオロギー」に「真摯なる夢」を垣間見た一人であったことは間違いない。が、その「夢」は、現実の国際政治のなかで、償い切れない犠牲をしいたことは、いうまでもない。
 衛藤は戦後友人に次のように語ったという。

「ねえ、われわれが満洲でやってきたこと——あれが“侵略”だったのかねぇ?」(宮永次雄「四庫全書を守る」『文藝春秋』一九八五年六月
号)。

柿沼介の場合

●資料以外に興味がない

 衛藤と同じ時期(一九一九年五月)に満鉄に入社し、満鉄大連図書館長として、衛藤とともに「満洲」の図書館を領導した柿沼介もまた、「侵略」という認識は最後まで持ち合わせていなかった。
 柿沼は、衛藤と異なり、自分で「退嬰的」というように、「無欲恬淡であった」(大谷武男「大連図書館長時代の柿沼さん」柿沼介『剰語』剰語刊行会、一九七二所収)という。だから、衛藤のように時局に便乗したジャーナリスティクな文章も残していないし、軍部との付き合いもなかった。
 満鉄大連図書館時代の後輩大谷武男の回想によれば、柿沼は満鉄図書館が作成した総合目録(衛藤の提唱による『全満二四図書館共通満洲関係和漢書件名目録』)の作成が関東軍の作戦に貢献したという理由で叙勲者のなかに加えられたが辞退している。また、一高時代の後輩である「満洲浪人」が図書館の本を利用して『満洲事変』という本を書き、柿沼に序文を依頼してきたが、柿沼は「軍のお先棒を担ぐ本の序文はお断りする」と言下に拒絶したという。
 このようなエピソードにみられるように、柿沼は資料それ自体にしか興味がなかった。柿沼の死後、「満洲」時代の後輩たちによって編まれた『剰語』(剰語刊行会、一九七二)所収の論文がそのことを証明している。満鉄図書館の共同館報『書香』に載せた論文をはじめ、そのほとんどが正確な文献解題と収集した資料の紹介、書評、それに図書館の紹介に終始している。衛藤のような時局的な文章は一編もない。
 たとえば、一九三七(昭和十二)年、「満洲国」で開かれた全国図書館大会に関する文章でも、「満洲」には古い文化があり、それを大会参加者はしっかりと学んで欲しいと書いている。同じ大会での文部大臣諮問「大東文化進展の為図書館の採るべき方策如何」や衛藤利夫の提出議題「図書館中心の挙国的文化機構結成」といった空疎な大言壮語と、柿沼の文章は対照的である。
 柿沼は、一九四〇(昭和十五)年、満鉄を退職する。前年の満鉄調査部の改組、拡充方針(大調査部)によって、従来の「自由」な図書館運営が不可能になったからである。その後一時、満洲国立中央図書館籌備処嘱託として洋書の収集にあたり、一九四三(昭和十八)年、再び満鉄大連図書館顧問に復帰。敗戦後、大連図書館が中国長春鉄路公司に接収され、科学研究所中央図書館と改称された同館の館長を一九四八(昭和二三)年まで勤めた。引き継ぎのための目録作成と事後処理であった。
 一九四八(昭和二三)年帰国後は、国立国会図書館で議事録索引の基礎をつくり、図書館学資料室の充実を図った。さらに一九六〇(昭和三五)年から一九七一(昭和四六)年まで、上海にあった東亜同文書院大学の流れをくむ愛知大学教授に就き、一九七一(昭和四六)年、八十七歳の天寿をまっとうした。


●諦念かそれとも無邪気なのか

 さて、柿沼は戦後も衛藤と異なり、表だった活躍は一切していない。国立国会図書館勤務時にも、館員の有志を集め、図書館学関係の新着雑誌の輪読会や雑誌記事索引カードの作成にあたっていた。『びぶりお』や『国立国会図書館月報』に海外文献の紹介や海外図書館の消息などを多く書いたが、すべて無記名であった。
 その柿沼が唯一、自らの過去を語ったのは、もりきよしを聞き手にした「図書館に生きた五十年」(『図書館雑誌』第五七巻第十号、十一号、一九六三年、十月号、十一月号)である。
 けれども柿沼のはなしは、ここでも当然のように、図書館に関連することばかりである。アメリカ、ヨーロッパへの留学。満鉄大連図書館での分類、目録、収書の苦労ばなし。館報『書香』の発行、満鉄業務研究会など、興味あるものではあるが、自らが植民地の図書館を担ったという反省はない。
 なかでも資料収集に関しては、満鉄の参考図書館としての機能を第一に考え、じっさい大学出の若い社員の要求に応じたこと。[注4]中国の善本も多く購入し、中国人にも喜ばれたことなどを無邪気に語っている。[注5]しかしその内実は、それほど単純なものではなかった。購入したといっても、満鉄の資金力にまかせた強引なものだったのである。
 そしてその資料が戦後分散したことについては、「わたくし達がもっとも努力して力を費やしたものが、砂の上に建てた楼閣だったということになるわけですね」というように語られるのである。
 それでも、満鉄の図書館で十分仕事が出来たことについて、「振りかえってみると図書館人としてはいいところに運よくいかしてくれたといえますね」とたんたんと語り、図書館員としての心がまえを聞かれると、「もっている資料をフルに使う、そのためになるべく資料をよく知る」、「ほんとうに求めている人に適書を橋渡しする。これが図書館員の役目であります」という。
 柿沼の回顧談を読むと、衛藤とは異なり、悔いはないようにみえる。与えられた図書館という職場で、図書館人として利用者が必要とする資料を集め、その資料を組織化し、それを欲している人に提供するということに徹しているのである。
 衛藤もまた、柿沼と同じように、資料を集め、それを組織化し、利用者に提供するという図書館人としての業務を誠心誠意追求した。その限りにおいて両者に違いはない。だが衛藤は、そのことを通して社会に働きかけようとした。心から「五族協和」、「王道楽土」という当時の思想を信じ、自らの信念である彼のいう人間主義の教育にも携わった。それは、衛藤にとっては、「真摯なる夢」の実現の場であった。
 だから、その「夢」が破れたとき、衛藤は東京に去った。そして戦後、再び新しい場で「夢」の実現に向けて第一線に立ったのである。
 一方柿沼には、衛藤のような「夢」はなかったはずである。おそらく柿沼は、自らを図書館人として自己限定していたのであろう。もしくは性格的に政治や社会に関心が薄かったといえばいえる。が、むしろ彼の奥深いところで、ある種の諦念が存在していたように感じられる。それは、先に触れたエピソードにあらわれているように、時局に沿うということ、文献をもって時局に役立てるということに対する嫌悪感であったのかもしれない。
 けれども、このような嫌悪感は、必ずしも質の高いものではない。知識人としてはあまりにも無邪気に資料、その集積の場である図書館を肯定しすぎているのである。図書館も、したがって図書館をつくるということも社会的関係性のなかでしかあり得ないという極めて自明のことが柿沼には理解出来なかったというべきであろう。
 だから、追われるように満鉄大連図書館を去ったわずか一カ月後(一九四〇=昭和十五年六月)、再び単身「満洲」に渡り、新京で国立中央図書館籌備処嘱託に就任するのである。ここでは、図書館長時代の煩わしい人事や予算から解放されて、のびのびと洋書の収集を楽しんでいたという(福井保「籌備処時代の柿沼先生」『剰語』)[注6]
 情況に疎い、もしくは情況とかかわることを避け続けた書物に憑かれた人、が、いたというべきであろうか。


弥吉光長の場合

●資料を守るために

 弥吉光長も敗戦を「満洲」で体験した。当時弥吉は、旧記整理処長兼任国立奉天図書館長であった。八月十五日、天皇の「玉音放送」を聞いて、「身体中電流が走る思いがした」が、中国語訳放送中に冷静さを取り戻し、騒ぎ出した中国人の館員に次のように話した。

「日本は敗れた。私は今から館長ではない。この図書館は諸君が自分達の力で護らねばならない。日本人が清朝の文化財を護り続けたように、諸君はこの文化の至宝を、次の館長が来るまで完全に守らねばならない」(「国破れて図書館存す」『弥吉光長著作集』第二巻、日外アソシエーツ、一九八一)。

 そして中国人の幹部に図書館を守ることを命じ、自らは中央銀行に行って金を引き出し、職員の給料を出来るだけ支払った。翌年三月、図書館によび出されて行くと、国立瀋陽図書館の大きな看板がかかっていて、資料は守られていた。弥吉は翌日から、遼寧省教育庁研究員として高等官待遇で一九四七(昭和二二)年七月末まで留用となる。
 弥吉は留用までの七カ月の期間に、「この国に来て何をしたか。文化に貢献しえたか、自分の一生に何を加え、何を失ったか」と自ら問い、当時、「文化に貢献したことは奉天の図書館事業を守ることができるか否かできまると思った」という。
 図書館人弥吉としては、何よりも資料=文化を守ることが第一義だったのである。だから、「日本人が清朝の文化を守った」と何の躊躇もなく書いた。それは、国立奉天図書館長として散逸しそうな資料を組織的に収集したこと。図書館の屋上に高射砲を据えることを断り、軍隊の駐屯も断ったこと。また明朝時代の石碑を発見し、それを図書館前に展示して、図書館は文化を保存するところであることを中国人に示し、日常から友人であるという観念を植え付けていたことなど、図書館長として、日々の活動に自信をもっていた故の発言であった。
 だから戦後、「日本人が来ている」とあやしまれても、他の人が「もとの図書館長で、いま留用だ」と説明してくれて危害を加えられなかった。このような体験から弥吉は、「文化保管の体制を平時から強調する必要がある」として、「図書館は多くの友人を持ち、日頃から頼りになる人達との観念をもたせるようにサービスしておくことが必要である」という。そして、

「もとより、図書館が無事であれば、事業を失ったのは止むを得ない。個人としては擬制国家の国立図書館に奉職した出発点が過りの原因で止むを得ない。文化を守りえただけで満足する外はあるまい」(弥吉前掲論文)。

 弥吉がこのように書いたのは一九七九(昭和五四)年のことである。戦後すでに三十四年が経っていた。この文章は、同時期の「東北地方(旧満洲)図書館の回顧史」(『図書館大道』五、六号、一九七九、八〇、『著作集』第二巻所収)、少し以前の「氷の裂ける音——満洲で迎えた終戦——」(『日本古書通信』三八八号、一九七六、『著作集』第六巻所収)とともに、いわば弥吉の戦前における図書館活動の総括と考えてよい。


●誠実に過去を語りながらも

 とはいえ、弥吉がそれ以前に、図書館と戦争の問題についてまったく触れていないわけではない。断片的ではあるけれども、何度かこの問題に触れようとはしていたのである。
 まず最初は、先に引用した裏田武夫の「図書館員の立場」に対して、「図書推薦者の態度」(『図書館雑誌』第四八巻第二号、一九五四年二月号)で反論を行っている。
 しかし、この反論は肝心の戦前、戦中の図書館活動には触れず、裏田が同じ論文で弥吉を批判した日本図書館協会の図書推薦の問題に終始しているに過ぎない。おそらくこの時期、弥吉は、まだ自らの過去をじっくり反省する余裕を持ち合わせていなかったといえる。
 もう一つは、「『人間の条件』を読み直してください」(『図書館雑誌』第六〇巻第五号、一九六六年五月号)である。弥吉がこれを書いたのには以下のような経緯があった。
 一九六五(昭和四〇)年八月号の『図書館雑誌』(第五九巻第八号)が五〇〇号記念で「敗戦前後の図書館」を特集した。その一つに「朝鮮・満洲の図書館を語る」という座談会がある。出席者は関野真吉(元京城帝大図書館)、西沢秀正(元満鉄奉天図書館)、弥吉光長、それに司会が中村道冏(元満鉄奉天図書館)の四人。
 座談会の中身は、司会の中村が当時の図書館人は「満洲大陸の文化に役立てようと」図書館活動をしたのであって、植民地政策とか、戦争のお先棒をかついだとかしたのではない。意識的には決してそういうものではない。という結論にもってきて、それ以上突っ込んだ内容にはなっていない。
 弥吉は、中国の古文書を収集する際、嫌がっているのを無理に集めてくるという「苦労」ばなしをしたあとで、それが日本人の研究者(満鉄調査部の天海謙三郎ら)[注7]にたいへん喜ばれ、自分の一生のうちでいちばん人に喜ばれる仕事をしたという。が、一方では、先にも触れた八月十五日の体験を語り、中国人も協力してくれた、だから中国人とも仲良くやれた、と中村の強引な結論に便乗するだけで済ませている。
 じっさいこの時期、日本の中国侵略に対して、反省、謝罪しなければならないという認識は政府はもちろん、いっぱんの日本人のあいだにもまったくといっていいほどなかった。一九五八(昭和三三)年七月十四日の風見章、細川嘉六、中島健蔵、伊藤武雄の連名による「反省声明」が唯一のものであった。この声明は、この年の五月に岸信介内閣が台湾政権支持を露骨に示したことと、長崎市で中国国旗侮辱事件が起きたことに際して出されたもので、公式新聞発表もされたが、共同通信以外の大新聞は無視した。が、「人民日報」が大きく取り上げ、九月の国慶節祝典に風見章を代表とする日中国交回復国民会議の一行が招待されたのであった。
 この「反省声明」は、「われわれは過去の侵略戦争によって、中国人民に与えた絶大な苦痛を忘れることはできない。この人道上の責任に対する深刻な反省なしには、日本民族将来の発展はありえない」と率直に語り、誠意あるものになっている。
 しかし、この声明は当初、なるべく多くの署名を得ようとしたが、ならず結局四人に落ち着いたという。署名者の一人伊藤武雄は、「あらためて戦争責任の自覚というものの徹底が、困難であることを理解した次第です」と書いている(伊藤武雄『満鉄に生きて』勁草書房、一九六四)。
 弥吉らの座談会が行なわれたのは、「反省声明」から七年後、だが伊藤がいうように、「戦争責任の自覚というものの徹底が、困難であること」に変わりはなかったのである。
 そんななかでこの特集全体に対して、福田誠は「図書館員として、戦争に対する反省がみられないのはどうしたわけなのだろうか」(「『敗戦前後の図書館』特集を読んで」『図書館雑誌』第六〇巻第一号、一九六六年一月号)と疑問を呈した。
 そして、次のように指摘した。

「私を含めた戦後の図書館員に、先輩が残すべきことの一つは、体制にどう押し流されたのか、どう抵抗しようとしたのか、どういう形で図書館を残そうとしたのか、あるいは、全く意識しないうちにああなってしまったのかという、本当の『戦争と図書館』というテーマではないだろうか」。

 福田の指摘は、朝鮮、「満洲」での加害者責任にも言及しており、裏田が提起した戦争責任の視点を植民地にまで広げたという点において画期的なものであった。
 というのも、高度成長のまっただ中にあったこの時期、福田のような提起は先の伊藤らの「反省声明」以外ほとんどなかったからである。当時戦争体験の「風化」が叫ばれるなかで、一九六五(昭和四〇)年六月、日韓条約が調印された。同じ年、ベトナムでは米軍の北爆が本格化してきたのである。けれども、日韓条約に象徴されるように、日本の植民地支配に対する反省はなかった。
 政府はもちろんであるが、日本国民のあいだにも、その反省は希薄であり、日韓条約に反対する側も、南北分断の固定化、米・日・韓の軍事同盟形成の危険性を強調していた。日本政府は韓国そして北朝鮮にも明確に謝罪し、必要な賠償を払うべきだという意見はなかった。このような植民地に対する加害者責任の自覚のなさは、一九七二(昭和四七)年の日中国交回復の時点でも変化がなかったのである(吉田裕『日本人の戦争観』)。
 さて、福田の鋭い問題提起に、「特集」の執筆者たちは、裏田のときと同じように沈黙でしか応えなかったが、そのなかでただ一人反応したのが弥吉であった。
 弥吉は、福田の指摘に半ば理解を示しながらも、「何がその事業の価値をきめるかは、その精神の純一さに求めねばならないと考えて、私は文化財の収集と保存に生命を賭けた」といい切る。そのために、古文書を製紙材料にせよという政府の命令に反して、「満洲」中をかけまわった。図書館を軍隊に貸すこともしなかった。中国人と仲よくするのも思い上がった考えではない。そうしなければ文化財は守られないからだ。結果は文化財は守られた。文化事業は軍人に縁のないことであったのがせめてものことであった(「『人間の条件』を読みなおして下さい」)。
 おそらく弥吉のことばにいつわりはあるまい。ここにも書物そのものの価値に憑かれた図書館人がいた、というべきであろうか。
 弥吉は、一九三七(昭和十二)年、大森志郎、柿沼介に誘われて、翌一九三八(昭和十三)年、「満洲」に渡った。三八歳のときである。それは、自らも述べているように、古書の番人で、半ば死んだような絶望的な日々を送るよりも、国立図書館創立計画に参画する方が意味があると思ったからである。
 だが、満洲国立中央図書館と建国大学大学院図書館を兼ねるという案に反対し、国立図書館独立を強く主張したために、奉天に左遷された。その奉天で中国人一二〇余人のなかでただ一人、参考図書館を目指して資料の収集に携わっていた。そのなかで敗戦を迎えたのであった。
 したがって、弥吉の「満洲」生活は、衛藤や柿沼に比べて短い。短いから責任が少ないというわけではないが、衛藤や柿沼が「満洲」に渡った一九一九(大正八)年と一九三八(昭和一三)年とでは、日本国内の状況もかなり異なっていた。この時期、国内の息苦しさに耐えかねて、もしくは研究の「自由」を求めて、何人もの研究者や転向者が満鉄調査部や「満洲国」に渡った。たとえば、衛藤利夫に引導を渡した石堂清倫もその一人であるが、[注8]弥吉もまた、同じような思いであったのであろう。
 じっさい当時の図書館界は、改正図書館令(一九三三年=昭和八年)が公布されたにもかかわらず、「時局」の進展に伴って、府県立図書館の義務設置もかなわず、国庫補助金の要求も受け入れられず、職員の待遇も改善されなかった。「非常時」にあって図書館は「不急の事業」と見なされていたのである。
 そのころ弥吉は、『図書館雑誌』(第二八年第二号、一九三四年二月号)に「非常時図書館活殺論」を書いて、図書館の必要性を説いているけれども、弥吉自身が図書館の将来にそれほど光を見い出しているとも思えない。そんな折、尊敬する先輩から、国立図書館の創設に参画して欲しいと誘われれば、断る理由はない。
 のちに、弥吉は、「甘い条件に動かされた愚かさ」(「過去・現在・未来の図書館——ある老図書館人の意見——」『図書館雑誌』第六三巻第二号、一九六九年二月号、『著作集』第六巻所収)と書いているが、そのことを非難するのは酷であろう。
 問題は、福田誠が的確に指摘したように、自らの行為を率直に述べることである。その意味では、弥吉は、「あまり回顧癖のないために、私は過去について語るのが得意ではない」(「過去・現在・未来の図書館」)といいつつも、十分語っている。もちろん、岡村敬二が鋭く指摘しているように、弥吉の戦後の文章は、「書物や文化というものをアプリオリにまた無批判に肯定しすぎている」きらいはあるし、そのことによって、「満洲という固有の時間、生きられた物を内在化しそしてそれを越えることが竟にできなかった」(岡村敬二「満洲国で書物を司る」石井敦先生古稀記念論集刊行会編『転換期における図書館の課題と歴史』緑蔭書房、一九九五)ということはできる。
 とはいえ、弥吉の総括がたとえ自己と自己の営為を対象化するには不十分なものであったとしても、決して無駄だとはいえない。半ば開き直りぎみに戦後の図書館再建に取り組んだ衛藤や、ほとんど沈黙を守った柿沼と比べても、意義深いことに相違ないのである。


おわりに

 加藤周一は、知識人は十五年戦争に対し、どういう態度をとったかを問うて、五つの型に分類している(「『過去の克服』覚書」『戦後日本 占領と戦後改策』第五巻「過去の清算」岩波書店、一九九五)。
 第一は、少数の狂信的な超国家主義者。
 第二は、きわめて少数の反戦主義者。
 第三は、権力機構の内部に入って、その動向を少しでも合理的・人間的な方向に変えようと望んだ知識人。
 第四は、日本型ファシズムの体制に批判的ではあったが、始めた戦争には勝たなければならないと思い、戦争に協力した知識人。
 第五は、大勢順応主義者の知識人。
 そして加藤は、第四と第五の型の知識人が圧倒的に多数派であったといい、戦後、日本の侵略戦争の責任について、はっきり発言したのは第二の型のきわめて少数の反戦知識人と第四の型のごく一部の知識人であったという。
 加藤のこのような分類がどれほど当時の知識人(少なくとも図書館人も知識人であったことに間違いない)の意識と行動の分析に有効かは、正確に判断できないし、一人の人間の思想がいずれかの型にぴったりあてはまるわけでもない。
 けれども、戦前、戦中そして戦後の図書館界の指導者の思想と行動を見ていくと、そのほとんどの人が第五の型に分類されることがわかる。[注9]もちろん、このことは図書館界に限ったわけではないし、加藤もいうように、大衆を含めて圧倒的多数の人びとが「狂信的超国家主義者ではなかったが、超国家主義とそれぞれに折り合いをつけて暮らしていた」のである。
 その意味では、図書館界の指導者も、多くの日本人と同じように、戦争責任を自分のこととして自覚的に捉える意識は薄かったといえる。[注10]じっさい、図書館人としていわゆる公職追放にあった人は一人もいなかったのである。そのことが裏田武夫や福田誠の問いを真正面から受けとめ、誠実に応える作業を避けてきた一つの原因にもなっている。
 衛藤利夫は、自らの戦争協力を国家の功利主義教育の責任に転嫁し、当時の「一億総懺悔」論に便乗していった。柿沼介は、戦争に批判的ではあったけれども、概ね大勢に順応してきた過去を、無署名の書誌研究のなかに韜晦した。
 二人より若かった弥吉は、回顧癖がないといいながらも、かなり率直に自らの過去を語った。たとえそれが現在の地平から見れば不十分であろうとも、貴重な証言であることにかわりはない。その弥吉も今年(一九九六年)、九五歳の天寿をまっとうした。
 すでに、図書館界に、体験としての戦前、戦中を語ることのできる元図書館人はほとんどいない。彼らの口から、ついに「戦争責任」という言葉は聞くことが出来なかった。しかしそれは、彼らだけに非があるのではない。むしろ、彼らの「戦争責任」を引き出すことを怠った、もしくは避けた後進の図書館人たちの責任もまた問われなければならないのである。

 

[注]

注●1 四男衛藤瀋吉の回想によれば、衛藤は「満洲」時代、図書館長にあまり誇りをもっていなく、蒙古学者、満洲学者として遇されることを喜んでいたという。司書はしがない世を忍ぶ姿で、朝十時に出て、夕方四時に帰ってくるので、図書館はらくな仕事だと子ども心に思ったという。衛藤瀋吉「図書館に期待するもの」日本図書館協会編『日本図書館協会創立一〇〇周年記念特別公演・シンポジウム記録集』(日本図書館協会、1994)。
 報われぬ図書館での鬱屈した思いが逆に衛藤を、「五族協和」、「王道楽土」といった空疎で過激な「理想」主義に深入りさせたといえないこともない。
注●2 先の座談会で衛藤は新国家になれば「在満邦人」の国籍はどうなるのかと石原に問うている。石原はこともなげに、国籍は新国家に移すといった。だが他の日本人出席者は反対した。ほとんどの日本人が「満洲」を植民地としてしか考えていなかった証左である。そして結局「満洲国」では国籍法は制定されなかった。四千三百数万人といわれた「満洲国」居住者のなかに法的にはたった一人の「満洲国民」もいなかったのである。山室信一は、国籍法制定を阻んだ最大の原因は、「在満日本人の心であ」り、「王道楽土満洲国とは国民なき兵営国家にならざるをえなかったのである」といっている。そして「満洲国」総人口に占める日本人の割合は最大でも3パーセントに満たなかったのである(山室信一『キメラ─満洲国の肖像─』中公新書、1993)。まさに、「満洲国」とは石原莞爾や衛藤利夫の「夢」とうらはらに「偽国家」、「傀儡国家」だったのである。
注●3 岡村敬二は、「図書館と戦争責任──奉天図書館長衛藤利夫を例に──」『季刊としょかん批評』3、せきた書房、1983)のなかで、衛藤を「全き“善意の人”」と規定し、「二重三重に折れまがった典型的な転向のパターン」だといっている。じっさい、クリスティの『奉天生活三十年』に感動した衛藤、敗戦直前日本に帰って、読書指導運動に邁進した衛藤、そして戦後、民主化を絶叫した衛藤、を見ていけば、その行為の変遷の「無自覚さ」を指摘することはできる。だが、それを思想の変化、もしくは、ことばの厳密な意味で「転向」と考えることには留保したい。
注●4 当時調査部に在職し、満鉄調査部事件で検挙され、獄中からシュモラーの『国民経済学論』の原書を借り出した体験をもつ野々村一雄は、『回想満鉄調査部』(勁草書房、1986)のなかで次のように書いている。
 「僕の満鉄調査部在職当時、調査部資料課第一資料係主任であった、横川次郎、石堂清倫両氏の、資料への深い造詣と、係員に対する組織能力と、それにも拘わらずこの有能な「主任」自身が先頭にたって、資料の購入、分類、研究者へのリファランスに献身しておられる姿をまのあたりに見た。大連図書館についても、同じようなことがいえる、これほど、必要な資料がそろい、これほど使い易く、これほど館員の親切な図書館を、僕は知らない」。
注●5 だが、一方では、一九三二(昭和七)年、「満洲国」は各地の文化機関に「現存の各書籍中、満洲国の国情にかなはないものは凡べて、焼き棄てる」という通告を出し、三月から七月末までのあいだに六五〇万典余を焼いた。これに少しでも異議を唱える者は直ちに弾圧をうけたという。さらに「満洲国」内で出版される印刷物(本・雑誌・新聞)にも厳格な検閲を行った(易顕石『日本の大陸政策と中国東北 東アジアのなかの日本歴史』11、六興出版、一九八九)。
注●6 じっさい当時の『満洲読書新報』(第四一号、一九四〇年八月)にも、「柿沼さんが、予算の、人事の、渉外の、という煩わしい庶務をはなれて、図書館固有の知的な方面に専心されて立派な国立図書館を盛り立て、続々と後進を育て成していただけるであろうことを満洲のために喜びとする」という文章が載っている(湖東生「新京の柿沼さん」)。
注●7 天海謙三郎は、大正初期に『満洲旧慣調査報告』(全九冊、一九一三〜一九一五)の編纂を担当し、いったん退社したが、一九三四(昭和九)年から、嘱託として満洲旧慣調査、土地制度調査を行なっていた。石堂清倫によれば、天海は人格者で道徳家であったという。だが、敗戦後、中国語の新聞号外に「日冦」(日本人ギャング)と書かれてあるのを見て、「私は中国の人にたいして生涯誠意をもってつきあってきたつもりである」といって号泣したという(石堂清倫他「満鉄調査部とは何であったか」(1)『アジア経済』第二八巻第五号、一九八七年五月)。
注●8 石堂清倫が満鉄に入社したのは一九三八(昭和十三)年。翌年(一九三九年四月)大調査部ができ、すぐに調査が出来る人材ということで、多く左翼前歴者が採用された。この間の事情について石堂は、計画的に入社したのではなく、縁故的に入ったといい、「偉そうな顔をして行ったのではなく恥を忍んで、ばらばらに個人的に逃避した面が強いのです。内地で手も足も出なくなって、ただ一つ道のあけてあった外地へ流れて行ったという事情を忘れてはならないと思います」といっている(石堂清倫他「満鉄調査部は何であったか」(2)『アジア経済』第二八巻第六号、一九八七年六月)。
 その石堂らも、一九四二(昭和十七)年、一九四三(昭和十八)年の二次に渡る「満鉄調査部事件」(「満洲国」治安維持法違反)で四四名が検挙されるに至る。石堂清倫の満鉄時代の回想は多くあるが、さしあたり『わが異端の昭和史』(勁草書房、一九八六)参照。他に『アジア経済』第二六巻第四号(一九八五年)から第三一巻第二号(一九九〇年)まで随時連載された計三五回の「満鉄調査関係者に聞く」のなかの石堂出席部分も含めて貴重な記録である。
注●9 清水正三は、少数ではあるが、わずかに抵抗を示した図書館人もあったとして、竹内善作、関位太郎、田島清の名を挙げている。なかでも堺市立図書館長であった田島清は、戦時中憲兵による『日本地理風俗大系』の提出を拒否したが、「玉音放送」のあった日、辞表を出したという。田島はその事情を『回想のなかの図書館』で次のように書いている。
 「たとえ組織の末端であれ、戦争中市民の知的精神的指導者の一人として私が呈した役割に対する責任を、なんらかの形でとらないわけにはいかなかったのであり、今後もはや知的職業には就くまいというそのときの私の決意も、そこから生まれたものであった」(清水正三『図書館を生きる──若い図書館員のために──』日本図書館協会、一九九五)。
注●10 「戦争責任」の重さの度合を競い合う気はないが、いみじくも衛藤が指摘したように教育、なかでも教育学者の「戦争責任」は圧倒的に重い。そして彼らもまた戦後、その責任に頬かむりしたまま戦後も指導的位置についた事実を忘れるべきではない(長浜功『教育の戦争責任──教育学者の思想と行動──』、大原新生社、1979)。

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