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ポット出版
宣伝リーフレット●『たったひとりのクレオール』という1冊

聴覚障害の実態やそれをとりまく社会的文脈、
聴覚口話法の意義と限界、障害者の自己形成などを、
体系的に論じた書物
■橋爪大三郎

[2004-01-22]
たったひとりのクレオール

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たったひとりのクレオール
聴覚障害児教育における言語論と障害認識
[2003.10.20刊行]
著●上農正剛

定価●2700円+税
ISBN4-939015-55-6 C0096
四六判/512ページ/上製


決してきちんとは「聞こえない」にもかかわらず、「聞こえているはず」という視線の中で生きていかざるを得ない子どもたちの苦しみを、私たちは本気で考えたことがあったのだろうか。(本書より)
約10年にわたる論考の数々によって、聴覚障害児教育に潜む諸問題を分析し、新たなる言語観、障害観を提起する試みの書。



無料【宣伝リーフレット】
『たったひとりのクレオール』という1冊

聴覚障害の実態やそれをとりまく社会的文脈、
聴覚口話法の意義と限界、障害者の自己形成などを、
体系的に論じた書物


■橋爪大三郎


まったく違った分野の専門書であるのに、ぐいぐいひき込まれ、強い印象を残す書物がある。たとえば、秋元波留夫氏の『失行症』(一九三六年初版、一九七六年再刊、東京大学出版会)。上農正剛氏の新著を手に取って、ずっと以前に読んだこの本のことを思い出した。
 秋元氏は一九○六年生まれ。医師として北海道に赴任し、炭鉱の事故から救出された患者を多く診療した。一酸化炭素中毒の結果、奇妙で独特の症状を呈する患者が多くいる。ものの形が認識できなかったり(失認)、言葉の意味がわからなくなったり(失語)、特定の行為ができなくなったり(失行)。中毒により大脳が局部的に損傷を受け、それに対応する機能が障害されたためと考えられる。逆に考えるなら、健常者の大脳が、どれだけの局部にわかれていて、それぞれどういう機能を分担しているかを、そこから推測することができるわけだ。
 秋元氏は、現場の診療を通じて失語、失認、失行といった病態にふれ、欧州の最新の研究を参照しながら、症状の分類や診断基準、その発生の機序や治療方法をひとつずつ考え進めていった。特に、構成失行(マッチを擦ったり、パジャマを着たりといった種類の動作だけができなくなる)という障害のメカニズムを再構成するところなどは、議論の進め方にわくわくした。ひらがなや漢字が別々に失われるといった日本語特有の失語症の症例を報告分析したことも、大きな貢献だと敬服した。
 上農氏の書物も、未踏の領域に踏み入って、病態の根幹を見極め、それに即した合理的な体系を組み立てていこうとする明快な意志に貫かれているところが、秋元氏とよく似ている。
 上農氏が扱うのは、聴覚障害児である。出来あがった機能が途中から失われる場合(失行症)と、最初から失われている場合(聴覚障害)では、だいぶ事情が異なる。聴覚障害にもかかわらず、どのようにして、それ以外の機能を十分に発達させるか。この方法をめぐる思索の格闘が、本書のなかみである。
 一般に見過ごされがちなことだが、視覚障害にくらべて、聴覚障害のほうが問題はむしろ深刻である。
 視覚障害児(目が見えない子ども)は、生活上の不便はあっても、親とのコミュニケーションに問題がない。親は音声言語で、コミュニケーションを行なっている。視覚障害児は、その言語共同体に参加し、音声言語を通じて精神を形成し、教育を受けることができる。困難が生ずるのは、文字言語を使おうとしても目に見えないので使えない段階、すなわち学齢に達してからである。それ以前に、音声言語を習得し、それを媒介にして情緒や人格を形成することができる。
 聴覚障害児(耳が聞こえない子ども)の親は、ほとんどが聴者(健常者)である。親の用いる音声言語を、子どもは聴くことができない。聴覚障害児は、親と言語コミュニケーションを行なうことができず、言語共同体に加わることができない。言語が獲得できなければ、情緒や人格など精神形成に大きな影響が及ぶ。精神機能はもともと障害されていないのに、その発達に問題が起こるのを見過ごすことは、ゆゆしい問題、まさに人権問題である。
 聴覚障害児には、とりあえず、二つの道しかなかった。第一は、音声言語をあきらめ、手話をコミュニケーション手段に選ぶこと。これは、聾者として生きることを意味する。第二は、困難をおして、音声言語を習得する道を選ぶこと。それには補聴器をつけ、唇のかたちを読み取り、発声練習を繰り返すという、ハードな訓練を重ねなければならない。
 実際にはどちらも、大きなマイナスをともなう。手話を身につけても、手話ができるとは限らない親や一般の人びとと、自由にコミュニケーションができるわけではない。手話(日本手話)は、日本語と語彙や文法が異なる。日本語と対応のつかない、もうひとつの言語(外国語)なのだ。したがって、漢字やひらがななど日本の文字言語も、容易には身につかない。聾者同士が語りあう、孤立した手話の言語共同体に閉じ込められてしまう結果となる。かと言って、音声言語を選択しても、現実の状況で聴き取りや発話ができるレベルにまで、音声言語を身につけることはむずかしい。そして、この困難をどうにか乗り越えたとしても、聴者の世界に対等なメンバーとして受け入れられるわけではないのである。
 それならば、なるべくマイナスを小さくするために、両方を身につけるしかないのではないか。聾学校は、そうした環境と訓練を提供するものであるべきだろうと思う。
 ところが、日本の聾学校は、手話の使用を禁止してきた。上農氏にお目にかかった八年前にこのことを確認して、私は改めて怒りをおぼえた。日本語の習得に邪魔になるからという。手話への偏見もあるかもしれない。聴覚に障害をもって生まれた子どもたちは、障害そのものに加えて、不十分で非科学的な教育環境をも耐え忍び、そのもとで苦しまなければならないのである。
 その聾学校の生徒数が、急激に減少しつつあるという。補聴器をつけて音声言語を聴き取り、音声言語を発音する「聴覚口話法」にもとづいて、一般の学級で学ぶインテグレーション(インテ)教育が一般的になったからだ。子どもの「聴こえない」現実を認めたくない親たちや、聴覚口話法をよかれと推進する教師たちによって、インテ教育が推進されている。聴覚障害児の言語能力は、一般の学級の「自然な環境」で、無理なく習得されるはずだった。だが現実には、言葉を聞き取ることができず、クラスから疎外され、勉強にもついていけないという大部分の聴覚障害児たちの実態がある。そしてそれは、とりかえしがつかなくなるまで放置されているのだ。
上農氏は、聴覚障害児の教育指導に長年取り組み、数多くの障害児たちや親たちの苦しみ、聴覚口話法の矛盾、聾教育の実際を見てきた。本書は、そうした経験を踏まえて、聴覚障害児教育の根本的な見直しを提案する、画期的な書物である。言語学や哲学の知見が随所に織り込まれ、時間をかけて温められたアイデアがくっきり打ち出されている。聴覚障害児をもつ親たちや聴覚障害児を教える教師たちはもちろん、聴覚障害者本人、言語や障害や福祉に関心をもつ人びとすべてにとっての、必読書であると思う。聴覚障害の実態やそれをとりまく社会的文脈、聴覚口話法の意義と限界、障害者の自己形成などを、これほど体系的に論じた書物は、おそらく初めてなのではないか。
 聴覚口話法の問題点とは何だろう。聴者が大部分のクラスで意思疎通ができず、孤立していく。授業がわからず、学力が停滞する。親とのコミュニケーションもうまくゆかず、家族としての交流が十分でない。「自然な環境」を重視する結果、躾けや社会的訓練がおろそかになる。どれもその通りである。だがとりわけ上農氏が強調するのは、人間精神の発達にとって、言語の運用能力の獲得が本質的に重要であること、そして、聴覚口話法のみによっては、その能力が決して十分に身につかないことだ。
 そこで上農氏は、聴覚口話法とは別に、言語の運用能力を獲得することが大切であると説く。それが、書記言語(文字の読み書き)の重視であり、手話言語の重視である。聴覚障害者は、自覚的なバイリンガルの学習者として自己形成するのが正しい。少なくとも一種類の言語を、人生の早い時期に、十分に使いこなせるようになること。精神の発達にとって、このことは本質的である。そして、聴覚口話法では、これは不可能なのだ。
 見知らぬ異国に移住した親たちが、不完全なカタコトの外国語(ピジン)をしゃべっていたとしても、それを聞いて育つ子どもたちは、それを流暢なもうひとつの母語(クレオール)に変えてしまうという。子どもたちには、障害を乗り越えて進む内発的なエネルギーがそなわっている。『たったひとりのクレオール』というタイトルには、聴覚障害児の孤独と、それを見つめる著者の希望に満ちた激励の視線とがこめられている。
(書き下ろし)


■橋爪大三郎
◎東京工業大学教授

はしづめ・だいさぶろう
一九四八年神奈川県に生まれる
東京大学文学部社会学科卒業、
同大大学院社会学研究科博士課程修了
一九八九年より東京工業大学に勤務
現在、同大大学院社会理工学研究科
価値システム専攻教授

●著書
『言語ゲームと社会理論』(勁草書房)
『仏教の言説戦略』(勁草書房)
『はじめての構造主義』(講談社現代新書・講談社)
『冒険としての社会科学』(毎日新聞社)
『現代思想はいま何を考えればよいのか』(勁草書房)
『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館)
『僕の憲法草案』(ポット出版、共著)
『橋爪大三郎コレクション(全3巻)』(勁草書房)
『性愛論』(岩波書店)
『橋爪大三郎の社会学講義』(夏目書房)
『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房)
『選択・責任・連帯の教育改革【完全版】』(勁草書房、共著)
『こんなに困った北朝鮮』(メタローグ)
『言語派社会学の原理』(洋泉社)
『天皇の戦争責任』(径書房、共著)
『幸福のつくりかた』(ポット出版)
『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)
『政治の教室』(PHP新書・PHP研究所)
『「心」はあるのか──シリーズ・人間学1』(ちくま新書・筑摩書房)
『人間にとって法とは何か』(PHP新書・PHP研究所)
『永遠の吉本隆明』(洋泉社新書y・洋泉社)、
などがある

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