だがそうはならなかったのである。初めてアルバイト代をもらったとき、これでやめさせてくれと社長に言ったところ、機関銃のようなトークで引き止められ、もう少し続けると答えてしまったのだ。
「どうしたの。理由があるでしょ、言ってみてよ」
「えー、その、給料11万ではちょっと……」
「わかった、上げましょう」
一瞬で逃げ道をふさがれる。 続きを読む
だがそうはならなかったのである。初めてアルバイト代をもらったとき、これでやめさせてくれと社長に言ったところ、機関銃のようなトークで引き止められ、もう少し続けると答えてしまったのだ。
「どうしたの。理由があるでしょ、言ってみてよ」
「えー、その、給料11万ではちょっと……」
「わかった、上げましょう」
一瞬で逃げ道をふさがれる。 続きを読む
「はい、もうすぐ中に入るから急いで作業服に着替えて」
イシノマキでアルバイトを始めて半月ほど経った金曜日の深夜12時前、ぼくは丸ノ内線茗荷谷駅の近くに止めたハイエースの車内で、あわただしく着替えをしていた。軍手をはめて、ヘルメットを装着したら準備完了。作業に必要な荷物を運ぶ段取りはすっかり板についている。
仕事の内容は単純だ。終電が行ってから始発が走るまでの間に、駅構内から線路に降り、地盤沈下を調べるための測量と、壁面のクラック(ひび割れ)調査をするのだ。測量は社員がするので、アルバイトの仕事は、ミリ単位で刻まれた板を、指定の場所に立てて持ち、手持ちのライトで照らすこと。クラック調査は、壁面に走るひび割れに沿ってチョークで線を引くこと。これは、ひび割れの太さごとに赤、青、白と色を変える。たまに工事車両が通るくらいで危険は少ないし、誰でもできる簡単な仕事だった。進む距離は一日に500メートル程度。これを月曜日から金曜日まで、毎晩続けてゆく。実労時間はせいぜい4時間だったが、拘束時間がそれなりにあるのでアルバイト代は4千円ほどと割がいいので、学生時代からずっと続けている。社員や他のアルバイト連中ともすっかり顔なじみだから気楽なものだ。 続きを読む
翌日から、編集プロダクション(以下、編プロ)イシノマキでの仕事が始まった。初仕事は原稿の受け取りで、K出版社の編集者がアルバイトで書いているオーディオ関係のコラムを取りに行き、小学館の『GORO』編集部まで届けるというもの。いわゆる“お使いさん”である。
わざわざ原稿を取りに行っていたのはファクスが普及していなかったからで、まだ編プロにもなかったと思う。ファクスはその後数年で出版業界人には欠かせないものとなるのだが、この頃まで、原稿は取りに行くなり届けるなり、直接やり取りするのが普通だったのだ。
K 社の編集者に会うと、まだ原稿はできておらず、喫茶店に誘われた。「コーヒーでいい?」と言われて頷くと、彼は「いま書くから悪いけど待ってて」と言い、原稿用紙を広げて資料を見ながらその場で書き始めた。2Bか3Bの太い鉛筆。丸っこい字がサラサラと升目を埋めてゆく。原稿用紙は200字詰めのペラと呼ばれるものだ。へぇ〜凄いな、喫茶店で、しかも人の目の前で原稿を書くなんて、ぼくには真似できそうにない。 続きを読む
大学3年末の試験が終わってすぐ、生まれて初めての海外旅行でインドへ行き、すっからかんになって帰国。そのまま九州の実家に転がり込んでしばらく過ごした4月初旬、ひとり暮らしをしていた阿佐ヶ谷のアパートに戻り、2カ月ぶりで大学に行ったら留年が決定していた。インドで遊んでいる間に、法政大学社会学部では追試が終わっていたのである。
間抜けだ。落とした必修単位は英語かなにかだったと思うが、ほとんど白紙の答案を提出したにもかかわらず、ぼくは追試とか、留年なんてことが全然頭になかったのである。留年者を貼り出した掲示板の前で呆然としていると、通りかかった知り合いがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「もう一度3年生かよ。ま、お前らしいな」
どこが“らしい”のかはわからなかったが、いまさら騒いでもしょうがない。それより、この事実を親にどう伝えるかだ。父は他界しており、母は決してラクな生活をしているわけじゃない。この上、1年余計に学費と生活費の面倒を見てもらうのは心苦しい。今年はともかく、5年目となる来年は、学費くらい自分で出すべきだろう。
その5年目、ぼくはほとんど大学へ行かず、アルバイトばかりしてなんとか卒業にこぎつけた。だが、サラリーマンになりたくなかったので、就職活動もしなかったし、自分の将来にさしたる関心もなかった。 続きを読む