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尾辻かな子[大阪府議会議員]●声も出せない人がいることを忘れてはいけないと思う

伏見さんは、私がまだ自分のレズビアンとしての自分に正面から向き合えていない頃から、ゲイとして社会的な発信を続けてこられた大先輩にあたります。この度はその伏見さんの書評を書く機会を頂けて、非常に光栄です。しかし、私が伏見さんの著書の書評を書くというのは正直とてもプレッシャーがきつく、何度も読み返しながらかなり苦労しました。以下の文章は、私の感想と思って読んで頂けると幸いです。

伏見さんは本書で言います。「差別—被差別」とする構図の中には、すでに被差別の側に「正義」を含んでいる、と。「正義」をふりかざすのではなく、「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だと捉えなおすことで、対話ができるようになる、と。痛みに声をあげることのすべてが正義をふりかざしていることになるのか。私にはよくわかりません。それは、私がまだ30代はじめという年齢であり、自分たちを一方的正義とみなしていた社会運動が下火になってからの世代だということもあると思います。また、正義の押し付けだと、声をあげるのが誰なのかによっても、状況は変わるでしょう。

今回、厚生労働大臣の柳沢さんの発言をめぐっても「差別発言」という意見と共に「言葉狩り」だという意見がでてきました。もし、マジョリティたちが自らの権力性に気づかずに、声をあげる人々に対して、正義を振りかざすなというとき、マイノリティが声をあげたこと自体をつぶすことにならないかが心配です。そういう意味では、マイノリティが声をあげにくい状況にあることに、より繊細にならなくてはならないと思います。現在の同性愛者の活動ですが、私の目から見ると、むしろ自分たちの内なるホモフォビアと闘い、自らのあり方を自己否定しながら、政治的に大きな声をあげることをためらってきたのではないかと思えます。

伏見さんは、いろいろな意見を調整する場としての政治の重要性を語っています。議員の仲間内で使う言い方に、「振り上げた拳の下ろし方を誰か考えたらな、いつまでたっても下ろされへんで」とか「どこで落としどころつける」などといった表現をします。さまざまな意見がある場で、お互いの意見を尊重しながら妥協点を見つける作業をするわけですが、そのスキルを当事者たちが身に付けることは、伏見さんもご指摘のように、これからとても重要なことだろうと思います。

次にジェンダーフリーに関する部分です。伏見さんは、性愛は男女の記号のゲームであり、ジェンダーは楽しみや喜びの中から改変していくことができうると書いています。確かにジェンダーをめぐる状況は、異性愛者も同性愛者も、10年前と比べたら随分変ってきていますし、そこには私も希望を持っています。しかし、私の職場である地方自治の現場は、まだまだこの部分に関しては遅れている場所です。男とは、女とは、家庭とは、と堂々と語る議員たちが圧倒的多数を占める中で、私としては、ジェンダーフリーそのものに懐疑を向けるより、バックラッシュの側と対峙する姿勢をとらざるを得ません。残念ながらこれがまだ、日本の政治の現実です。

私は同性愛者であることを名乗って、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスをしている段階です。ただ、次の世代には「ゲイやレズビアンであることは、それは自分の個性の一部でしかない」といえる人たちがでてくるでしょう。このことがアイデンティティ・ポリティクスの成果であり、アイデンティティ・ポリティクスの寿命を迎える時なのだと思います。しかし、そのためにも今はまだ、日常を共に生きている人間としての同性愛者たちの可視化が必要だと思います。

また、ゲイとレズビアンの共通点と差異に目を配ることも重要です。レズビアンは、まだゲイほど可視化されていないように思えます。テレビの中にゲイを公言するタレントはいても、レズビアンを公言するタレントは登場していません。女性と男性の給与格差は、データで見れば厳然としてあります。これが、レズビアンの経済的貧困につながっています。

日本もモザイク状で、状況は複雑です。東京や大阪などの大都市で若いうちからオープンに生きている人が増えているのは事実だと思いますが、私のところに来ている相談メールを読んでいると、地域によっては、カミングアウトしたらそこでは生きていけなくなると思っている人も、まだたくさんいることが分かります。

「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だということで、伏見さんは社会との対話を喚起します。この目指すべきところは、私も同じです。ただ、議員として私が決して忘れてはいけないことは、最も抑圧されている人々の中には、声を出すことも、対話のテーブルにつくことも難しいことがあるということだと思います。

この本には、賛否両論さまざまあるでしょう。しかし、伏見さんの狙いは、きっとその賛否両論を引き起こすこと、読者一人ひとりがどう考えるのかを問うことなのではないかと思います。その決断に心からの敬意を表します。

【プロフィール】
おつじかなこ●1974年生まれ。2003年4月から大阪府議会議員。次は国政にチャレンジすることを表明している。2005年8月の東京レズビアン&ゲイパレードで同性愛者であることを公表し、同時に著書『カミングアウト〜自分らしさを見つける旅』(講談社)を出版。
公式サイト http://www.otsuji-k.com/

【著作】
パートナーシップ・生活と制度—結婚、事実婚、同性婚(共著・杉浦郁子、野宮亜紀、大江千束編)/緑風出版/2007.1/1,700
災害と女性〜防災・復興に女性の参画を〜(共著)/ウィメンズネット・こうべ編/2005.11/800(税込み)
カミングアウト—自分らしさを見つける旅/講談社/2005.8/1,500
みんなの憲法二四条(共著・福島みずほ編)/明石書店/2005.5/1,800
かく闘えり!!—2003年統一地方選挙議員をめざした女たち(共著・甘利てる代編)/新水社/2003.10/1,700

加藤 司◎柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が二十一歳の僕の胸をじくりと刺す

 二十一の私は、同性愛者による社会運動が活発だった九十年代を知らない。
 ゲイであると自覚した頃には、周囲の抑圧から苦しんでいる姿をそう見ることはなかった。例え過去の文献に触れ、当時を生きてきた人から話を聞いても、どこか遠い国のお伽噺としか思えずにいた。

 己の性的指向のために大した実害を被った訳ではないので、時々胸に小さな疼きを覚えるようなことがあっても、そ知らぬ顔をしてやり過ごしてきた。社会人として働き、週に何度かジムで汗を流し、数少ない友人と他愛の無い話で花を咲かせ、時々誰かとセックスをして生きている。コミュニティへ属すことはせず、せいぜいインターネットを使って華やかなイベントを楽しむ彼らを傍観するだけだ。社会へは関心を持たずに、こちらから背を向けていた。
 
 「同性愛者が生きやすい世の中になった」と言われてもう何年経過したのだろうか。世間での印象はそこそこ良くなり、露骨に迫害されることは少なくなった。だが、レズビアン&ゲイパレードやHIV感染、同姓婚制度を巡っての議論等に対しての課題が残っているのに、どこか宙に浮いたままである。

 幾ら活動家やボランティアの人々が頑張っても、何故かその声が遠くから発せられているようで、ただ聞き流していた。同じゲイとは言え、彼らの活動への興味はあっても参加しようとは全く考えていなかった。時間を犠牲にしてまで協力するための理由が存在しない。面倒だと思ったことさえある。それに、どこか敷居が高くて、内輪だけで固まっていそうだというイメージが付きまとっていた。今思えばこれだって一つの偏見である。私は別のコミュニティを直接的ではないにせよ、差別していたと非難されても当然だ。

 全ての問題を他人にたらい回しして、自分だけ楽をするのも一つの選択肢であり、とても魅力的だ。ただ、そうやって何か出来るかもしれないのに、見てみぬ振りをするのにはもう飽きた。そう言っている割には、社会を傍観しているだけで何の行動も起こそうとしない。そんなジレンマを抱えて、時々息苦しく思いながら生きている。

 伏見氏はそんな鬱屈を丁寧に、かつ論理的な文章で導いてくれた。
 お互いの欲望を満たすためにはどうすればいいか模索するためにまずは話し合おう、ということだけである。相手を知らないから、「何となく」という感情で判断し、場合によってはそれが悪い方向へ捻じ曲がってしまう。全てを読み終えた頃にはそんな間違ったイメージという概念が取り払われ、憑き物が落ちたように身体が軽くなっていた。
 
 この著作は、冒頭で少数派の人間だって他者を差別するというという“現実”を突きつけた上で、この社会を“理想”へ近づける可能性を提示している。執筆するには相当な気力を注いだのだろうと想像させられる。不勉強な私でも彼が構築した論理を順に追えば、理解するのは難しくないように練られているが、柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が、胸に突き刺さってじくりと痛むことすらあった。時として名の知れた論者を批判し、“寝た子を起こすな”と反発されかねない発言も含まれている。彼は社会に対して誠実に向き合っているのか、それとも根っからのマゾヒストなのか判断に困る。
 
 「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という彼の言葉に応えられたと言えば嘘になるが、多少なりとも真面目に読んでみたつもりである。この本によって、今まで無視していた“社会”に対して、時間が掛かったとしても理解しようと考えさせてくれたからだ。
 新たな選択肢を掲示した伏見氏の動向をこれからも追って行きたい。

伊藤菜子[フリーライター]●細くなくったって若くなくったってパンクスなのだ

伏見憲明さんが自身をパンクスだと表明した本だと思いました。「中野サンプラザまでクラッシュのコンサートに行ったこともあるのよー」と、以前聞いたことがあったので、へえ、伏見さんはパンクロックも好きなのねえと、漠然と思ってはいたけれど、「リアルであることこそが、ぼくのパンクです」なんて、キッチリ言っちゃうなんてカッコいいっス!! 私もこの言葉、どこかで使わせていただきたい。勝手に拝借してもいいですか?
 
あと、どこかで伏見さんの姿を見て、「ちっともパンクスなんかじゃないじゃん」と言ってる人よ。パンクっぽいファッションで身を包んで、バンド活動するだけがパンクスじゃないんだからね。細くなくたって(ゴメン)、年が若くなくたって(さらにゴメン)、生き方や思想がパンクスだということです。

そして『欲望問題』という本自体、パンクミュージックのように、伏見さんの言葉がストレートに響いて、頭に入ってきました。語られていることは平易ではないのだけれど、ホントにわかりやすく、スルリと入ってくるのです。

最初の章に登場する、少年愛者である鈴木太郎さん(仮名)の悩みについては、「自分は犯罪に引っかかるような性的欲望を持ってるわけじゃないから関係ない」という人にとっても、自分の欲望問題と重ね合わせて、または延長線上として考えられるのではないでしょうか。私の欲望対象だって、たまたま犯罪には引っかからないだけであって、もしかしたら線引きされた向こう側にいたかもしれないわけですし。異常だと言うのは簡単だけど、異常と言う前に、自分の欲望問題と照らし合わす人が増えたら、世の中も少しは変わるかなあ。

伏見さんは「ぼくは、この社会は自分の理想に近づく可能性を残しているのではないか、と直感しています」と言っています。「理想の社会だなんて楽観的」だと「ノー」を言うのは簡単なこと。でも「あえてイエスと言いたい」と。「イエス、バットというのが立場です」に、私も1票入れたいです。バット以下はそれぞれが考えて、理想に近づけていこうよと、なんだか前向きな気持ちにさせてくれました。

伏見さんて、ご自身でも言っておられるけど腹グロだし、黒い血がドクドク流れているような人間です(私もそうなんだけど)。でも根底では愛のあふれる優しい人だっていうのが、私の実感。『欲望問題』を読んだ後も、なんとなく温かい気持ちになりました。なので多くの人に読んでもらえるといいなあと本気(マジ)で思います。「欲望問題」という言葉も、「恍惚の人」(古い?)とか「失楽園」「愛ルケ」のように流行語になって、大ベストセラーになってくれたら、とてもうれしいです。

いとうななこ●1969年、東京都生まれ。フリーのライター&編集。

池田清彦[生物学者]●他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。

最近、中島義道の『醜い日本の私』(新潮選書)と題する本を読んだ。中島は明大前や秋葉原の商店街が限りなく醜いと感じ、これに腹を立てない大半の日本人をなじっている。本のカバーには<この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ! 「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、押し付けがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論>とあるが、この本は実は差別論の本なのではないかと私は思う。

中島は明大前の商店街を醜いと感じ、私は別に何とも思っていない。中島はこの醜さを撤去したいと思い、私はどうでもよいと思い、別のある人はこの風景を心地良いと感じて守りたいと思っている。ここには感性と嗜好(指向)の違いがある。社会的な生物であるヒトは、マジョリティーの感性と嗜好を当然だと思い込み易い一般的性質を持っているのではないか、と私は思う。そこでマジョリティーがマイノリティーの感性と嗜好を抑圧すると、そこに差別が発生する。

だから、中島が頭に来ている問題と、伏見がもがいている問題は、構造的には同型である。違いがあるとすれば、性的な感性や嗜好は強く人々を縛っているのに対し、騒音や景観に対して中島のように過度にセンシティブな人は稀で、多くの人はどうでもよいと思っている所にある。たとえば、私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。

この私の立場からすると、反・性差別運動というのはかなり迷走しているのではないかと思う。私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。

性的なマイノリティーに対する歴史的な差別が余りにもきつかったのが原因だと思うが、一部のフェミニストたちは、性差そのものを否定することを最終目的にしていたような時があったように思う(今もそういう人がいるかも知れないが)。しかし、生物学的な性は、社会的に構築されたわけではないので、この戦術が破綻するのは原理的に自明である。さらには、強く差別されていると感じているマイノリティーに比較的共通の感性として、自分の痛みも理解してくれとマジョリティーに要求する傾向があったようにも思う。これもまた、マジョリティーが自分たちの感性をマイノリティーに強制するのを反転しただけの話だから、原理的には間違っていると思う。

この二つの隘路に陥っている限り、性差別の問題はうまく解決しない。今回の伏見の本は、これを乗り越えようとする意欲的な試みだと思う。たとえば、<ぼくが今日、性という現場での「欲望問題」を考えるときに大切にしたいのは、自分の「痛み」に特化してビジョンを立てるのではなく、そこに同様に存在する他の「欲望」に対する配慮や尊重です>(124頁)との文章には、その意欲を強く感じる。しかし他方で、本の帯にもある<命がけで書いたから命がけで読んでほしい>という文書を見ると、やっぱりよく分かってないのかなあとも思ってしまう。人は他人が命がけで書いた本を鼻唄を歌いながら読む自由がある。

人間は自分の欲望を解放するために生きているのだと私も思う。どんな欲望であれ、他人の恣意性の権利に抵触しない限り許されるべきであろう。レイプをしたいという欲望を抱くことは自由であるが、実行することは許されない。前者は他人の恣意性の権利を侵害しないが後者は侵害するからだ。性的な欲望は、他人の恣意性の権利擁護とバッティングすることも多く、当人にとっては切実な問題であろうが、一般的な解はない。

最後に文句をひとつ。伏見は<チンパンジーと人間の遺伝子は数パーセントしか違わないそうですが、それにわざわざ切断線を入れて、自分たちをホモサピエンスに分類している時点で、ぼくらがすでに共同性の中に位置する存在であることを示しています。>(148頁)と述べているが、チンパンジーとヒトの形態や行動の差異には存在論的(生物学的)な根拠があって、共同性とは関係ない。ヒトのオスとメスの生物学的差異もまた存在論的根拠をもち、共同性や社会構築主義が出る幕はないのだ。もちろん、性の文化的側面は社会的に構築されたものであることは間違いないと思うが、この二つを混同するとロクなことはないことは確かである。性差を廃絶したいのであれば、女の人のみからクローン人間を作ればよいのであって、そうなれば、男などというやっかいな存在物はこの世界からなくなるわけで、その時点で性をめぐるやっかいな問題もすべて消失する。当然、性差別反対運動などというものもなくなるわけで、フェミニズムで商売している連中はおまんまの喰い上げになるけどね。

【プロフィール】
いけだきよひこ●1947年、東京都生まれ。生物学者、早稲田大学教授。

【著書】
科学とオカルト/講談社学術文庫/2007.1/¥760
科学はどこまでいくのか/ちくま文庫/2006.11/¥640
外来生物辞典(監修)/東京書籍/2006.9/¥2,800
脳死臓器移植は正しいか/角川ソフィア文庫/2006.6/¥552
遺伝子「不平等」社会(小川真理子、正高信男、立岩真也、計見一雄との共著)/岩波書店/2006.5/¥2,100
すこしの努力で「できる子」をつくる/講談社/2006.5/¥1,400
他人と深く関わらずに生きるには/新潮文庫/2006.5/¥362
科学の剣 哲学の魔法(西条剛央との共著)/2006.3/¥1,600
環境問題のウソ/ちくまプリマー新書/2006.2/¥760
遺伝子神話の崩壊(訳)/徳間書店/2005.10/¥2,200
底抜けブラックバス大騒動/つり人社/2005.5/¥1,200
やがて消えゆく我が身なら/角川書店/2005.2/¥1,300
生きる力、死ぬ能力/弘文堂/2005.1/¥1,600
新しい生物学の教科書/新潮文庫/2004.8/¥514
やぶにらみ科学論/ちくま新書/2003.11/¥700
初歩から学ぶ生物学/角川選書/2003.9/¥1,400
天皇の戦争責任・再考(小浜逸郎、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.7/¥720
他人と深く関わらず生きるには/新潮社/2002.11/¥1,300
生命の形式/哲学書房/2002.7/¥1,900
新しい生物学の教科書/新潮社/2001.10/¥1,400
正しく生きるとはどういうことか/新潮OH!文庫/2001.8/¥505
三人寄れば虫の知恵(養老孟司、奥本大三郎との共著)/新潮文庫/2001.7/¥514
アリはなぜ、ちゃんと働くのか(訳)/新潮OH!文庫/2001.5/¥600
遺伝子改造社会 あなたはどうする/洋泉社新書y/2001.4/¥680
自由に生きることは幸福か/文春ネスコ/2000.7/¥1,600
昆虫のパンセ/青土社/2000.6/¥1,800
臓器移植 我、せずされず/小学館文庫/2000.4/¥495
生命という物語/洋泉社/1999.12/¥1,600
楽しく生きるのに努力はいらない/サンマーク出版/1999.11/¥1,600
科学とオカルト/PHP新書/1999.1/¥660
オークの木の自然誌(訳)/メディアファクトリー/1998.9/¥2,400
生命(中村雄二郎との共著)/岩波書店/1998.9/¥1,500
構造主義科学論の冒険/講談社学術文庫/1998.6/¥960
正しく生きるとはどういうことか/新潮社/1998.5/¥1,300
さよならダーウィニズム/講談社選書メチエ/1997.12/¥1,600
虫の思想誌/講談社学術文庫/1997.6/¥660
生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった/実業之日本社/1997.4/¥1,200
なぜオスとメスがあるのか/新潮社/1997.1/¥1,500
科学教の迷信/洋泉社/1996.5/¥1,845
科学は錯覚である/洋泉社/1996.1/¥1,942
科学はどこまでいくのか/ちくまプリマーブックス/1995.3/¥1,100
擬態生物の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
「生きた化石」の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
思考するクワガタ/宝島社/1994.10/¥1,748
科学は錯覚である/宝島社/1993.6/¥1,796
分類という思想/新潮選書/1992.11/¥1,100
差別という言葉(柴谷篤弘との共著)/1992.9/¥2,233
昆虫のパンセ/青土社/1992.2/¥1,748
構造主義科学論の冒険/毎日新聞社/1990.4/¥1,262
構造主義と進化論/海鳴社/1989.9/¥2,200
構造主義生物学とは何か/海鳴社/1988.3/¥2,500
教養の生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000
ナースの生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000

菅沼勝彦[メルボルン大学大学院生]●コミュニティと学問言説構築の架け橋となる

 一読し終えてのぼくの感想は、エキサイティングなほどにリアルな、そして現場からの響きを直接感じ取れるほどのプラクティカルな声を発する書ということであった。90年代初頭より日本ゲイ文化(またはクィア文化)の言説形成の担い手の一人であり続けてきた伏見氏が、安着なアイデンティティ懐疑の遂行への危惧を示唆した近年のコメントに注目していたぼくにとって、『欲望問題』はそれらのコメントの背後にある彼の中での思考の変化や転換を丁寧に紐解いてくれるものでもあった。

 伏見氏によるゲイ・リベレーションは日本においてその黎明期に開始されたものだったが、その戦略や思想は一般にマイノリティ解放運動が頼りがちな本質主義的方法論とは一線を引いた、実にポストモダンな性格の濃い内容を持っていた。処女作である『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)において彼は、同性愛者と異性愛者のあいだには決定的なエロスの構造、あるいはそれの作用の仕方に違いがあるという固定観念にチャレンジしている。それは社会の中において、たとえゲイ、レズビアンまたはストレートであれ、それぞれが自らのエロスの発情装置を「ヘテロ・システム」というフォーミュラでお品書きされたジェンダー・イメージ(おもに男性性イメージと女性性イメージ)を駆使して製造しているという意味においては同じ穴の狢であるという主張でもあった。これについて伏見氏は『欲望問題』のなかで、90年代の自分の仕事は「自明であるとされた性を相対化することに力点」を置き、ジェンダー又はセクシュアリティ概念における「脱本質化」を図っていたと回想する(p78)。そしてアイデンティティやカテゴリーの相対化を意識的に繰り返すことによって、性的マイノリティにとって抑圧的なカテゴリー自体の解体が起こる状況を目標としていたとも(p117)。しかし彼は『欲望問題』で、果たして「ゲイ・アイデンティティ」や「おとこ」、「おんな」といったカテゴリーが解体されること自体が、またはそれに向かって一辺倒に突き進むゲイ・リベレーションのあり方が本当に性的マイノリティ(または彼らと社会に共生する人々)にとって生産的且つ幸福をもたらす結果を導くのだろうかと問いただすことになる。

 野口勝三氏との対談を通して多くを気付かされたと告白する伏見氏は、カテゴリーの構築性への気付きを繰り返すことや、アイデンティティの脱構築のみを続行していくことの先にいったいどんな意味があるのだろうと警笛を鳴らす。すべてのカテゴリーが構築されたものならば、それを眺めるわれわれにとって、何が本質的に「正義」だとか、「正しくはこうであるべき」という倫理を絶対化することが難しくなってくる。あるいは、たとえ「弱者至上主義」的な観点から、弱者が「正義」であるという概念を一般化していったとしても、それは新たな抑圧を逆転的に生むことに他ならない。そこで伏見氏は『欲望問題』での論題でもある、性的マイノリティや同性愛者の運動を「正義」の概念にのみ基づいて遂行していくのではなく、まさに「欲望実現のための営為」としても認識していくことが大切であると訴える。そしてその欲望のあり方をつかさどるジェンダーのイメージやアイデンティティの利用価値を批判的であれ認め、有効利用するべきであると。

 無論、カテゴリーの有用性を認めること、あるいは伏見氏の言葉で「アイデンティティへの自由」を訴えることにより、既存のジェンダー構造を手放しで肯定しているわけではないことを再確認しておかねばならないだろう。むしろ、彼は既存構造で不利益をこうむっている性的又はジェンダー・マイノリティがいかに生活しやすい空間を自ら形成していく過程において、注目すべきは己への差別を生産しているのは既存構造であると同時に、それを改善していくヒントもその既存構造のなかに含まれているということに気付くべきであると訴えているのである。まさに、敵対的な運動論ではなく、敵対的に見える既存構造を「包み込む」ヴィジョンを示唆しているのだ。

 クリティカルな視野の基、探求されるべき生産的「妥協」とでも称せる彼のあらたなテーゼは、『欲望問題』のなかで机上の空論にとどまることなく日本の現代社会を取り巻く多くの問題(小児愛問題、「ジェンダー・フリー・バッシング」論争など他)に絡めて展開されている。そのような端的な右派vs革新派というバイナリーに集約されがちなトピックにコメントを寄せることにより、『欲望問題』での彼の訴えが「伝統への帰り」或いは「保守的な実践論」と消化される可能性があることを本人も十二分に認識している(p182)。ただそこで敢えて、日本のゲイ文化(又はクィア文化)の変容を90年代初頭から鋭く観察してきた彼が既存構造との「歩み寄り」を提言しているのには、現代の性的マイノリティにとってリベレーションのパラダイムを「抑圧からの解放」というものから「欲望への自由」へと転換していく必要性を、複雑変化してゆく現代社会のなかで性的マイノリティが自由を模索していくために、彼がひしひしと感じているという現実があるのであろう。ゲイ・リベレーションにアカデミアとして一定の距離をすえて関わってきた者とは違い、雑誌などの編集・出版活動により常にコミュニティと学問言説構築の架け橋を築いてきた伏見氏の、まさに現場からの声(或いは素直なまでの欲望)を十二分に組み込んだ末のプラクティカルな訴えに聞き入る必要性を疑うことはできないだろう。

【プロフィール】
すがぬまかつひこ●
1979年、岡山県生まれ。メルボルン大学大学院カルチュアル・スタディーズ博士後期課程在学。

【著作】
論考
Enduring Voices: Fushimi Noriaki and Kakefuda Hiroko’s Continuing Relevance to Japanese Lesbian and Gay Studies and Activism/in 『Intersections』 no.14/2006
共編翻訳著書(with Mark McLelland and James Welker)
Queer Voices from Japan: First-Person Narratives from Japan’s Sexual Minorities/Lexington Books社/2007年出版予定

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第五話

相互の「自由」を実現させるには?
━━『欲望問題』のその先にあるもの

沢辺●それ、大変だよね。相互の自由をうまく調和させましょう、折り合わせましょうというところに立つこと自体がけっこう大変だよね。

野口●具体的に政治の決定システムの中に入っていくのはなかなか難しいところは確かにあるとは思うんだけど、例えば現在同性愛者に対し、その存在を全否定して、殺してしまえばいいと主張する政治家はいない。一般の人でもそんな人はほとんどいないわけですよね。そうすると、普通の感覚で生きている人を説得できるプランを実現していく可能性はあると思う。

沢辺●ただね、僕は会社をつくって仕事をしているわけですけど、そこにはもれなく不測の事態というのは年がら年中おこるわけです(笑)。

例えば今日6時から彼女とデートを設定していても、トラブルが起こってどうしても仕事を残ってやらなければならないということがおこる。だけどみんな自由だよね、ということを前提にすると、まだ「僕の自由だからトラブル放っておいて帰ります。それが僕の自由でしょ」そういう程度の自由観が多数なんじゃないかな、と。

野口●そういう意味か(笑)。公共性を作り上げていく志向性があんまりないんじゃないかということですね。各自の自由に対する感度はあがってきたけれども一緒にコストを払っていくという感覚が。

沢辺●ひとたび仕事で稼ぐということであればそのトラブルに対処しなければいけないわけだよね。例えば担当者が僕と野口さんの二人だったとします。「じゃあ野口さん、今日の彼女はどうしても落としたいから今日は頼むよ。今度は僕がやるからさ」と僕がいう。野口さんは野口さんで誰かと飲む約束していたりして、そうやってお互いの自由がぶつかるわけだよね。

そうやって二人の自由は両立しえないということがある。もちろんそこには原因であるトラブルを減らすという解決策もあるけれども、それは明日からのことで今からはできないよね。あるいはその仕事を断念する。客には売らなくてもいいとする。それも自由ではあるよね。

野口●自由についていえば、最初から絶対的な自由というものがあるわけでなく、各人がお互いを認め合うことではじめて自由な存在になることができるわけで。

沢辺●そうそう。ところがその自由という感覚はお互いの自由を調和させてうまく実現させていかない限り、自分の自由すら実現できない。そういうところまでは自由がみんなのものになっていない。

ただそのことを後ろ向きにまだまだだよね、と評論家的に言っていてもしょうがなくて、それをさまざまな形で「昼飯をおごるから」とか「今度は俺がやるからさ」とか、あるいは「なんで沢辺おまえだけしらんぷりするんだ」と文句言ったりして対話するとか、さまざまな組み合わせのなかで、じゃあそういうトラブルがあったとき交替で対処するくらいはしょうがない、ということを了解し合う。

そうやって徐々に具体的な解決策が出来てくるんだけど、今の我々は、その解決策を山ほどつくっていく鳥羽口、いや2合目くらいにいるのかなという感じなのね。………………つづく

山元大輔[生物学者]●欲望の価値

伏見憲明は、日本のゲイ・コミュニティーを代表する評論家・作家である。そして『欲望問題』。とくれば、ゲイ・レズビアン=被差別者・マイノリティーからの社会批判ないし告発、しかもどことなく爆笑問題を連想させるタイトルからは、伏見流のちょっと“おちゃらけ”の隠し味が効いた軟着陸路線の本だろうとの予断を呼ぶ。この予断が油断となり、軽い気持ちで一ページ目を開くと、にわかに緊張を強いられることになる。

その文章はいきなりシリアスなのである。しかも、小児愛者を許容できるか否かの論議で始まる冒頭部分。常識的には、小児性愛ほど忌まわしいものはない。それは無条件に排斥すべきものであり、小児愛者=異常者である。しかし、伏見憲明がこの問題を取り上げる時、私は不安に駆られた。おそらくその不安は、私の“常識的感覚”を伏見とは共有できないのではないか、という不安なのである。私が伏見を“あちら側の人間”として、どこか心の深層で感じていることをそれは意味する。

むき出しの表現を敢えてとるなら、伏見は同性愛者であり、世の中の多数を占める異性愛者=マジョリティーとは区別される集団の一員であるのに対して、私は“普通の集団”に属している、という私の中の潜在的差別感に根ざしていると言える。実は、これがまず伏見が摘出したかったポイントなのではないだろうか。伏見を基準としたとき、自分が「こちら側」の人間か、「あちら側」の人間かを読者自身に否応なく答えさせる、そういう展開になっている。

「こちら側」と感じるのか、「あちら側」と感じるのか。本書が問う問題の本質がある。そして意外にも(?)、伏見は小児性愛を忌むべきものとして彼岸に、つまり伏見自身の属さない「あちら側」へと追いやる。こうして「こちら側」へと“越境してきた”伏見に、私は安堵し、信頼感を持つことになるのだ。しかし伏見のこの越境は、“命がけ”だった。

小児愛者が子供に性的に欲情するのは(しかもおそらく彼らは性欲のはけ口としてのみ子供をみているのではなく、本気で恋したりもすると私は推察する)、伏見が自然に男性に恋し、私が自然に女性に恋をするのと同じであり、それ自体が犯罪的ではあり得ないだろう。にもかかわらず、同性愛者であることによって差別と抑圧を受けてきたものが、小児愛者を差別し抑圧する。

ここに、うっかりすると見逃してしまうポイントがある。それは、“自然に”恋する、という点である。初恋を思い返してみればよい。あなたの心に決して消えることのない鮮烈な思いを残したその相手は、女性だったか、男性だったか。そこに選択の余地はなかったはずだ。稲妻のごとく押し寄せるその情感には、思考の介在する余地など微塵もない。その“感覚”こそ、自然な恋愛である。それは本能であり、脳に組み込まれた無意識の神経装置が機能した結果なのである。それは、育つ環境や教育によってほとんど左右されることのない、脳のハードウェアの性質によるのである。小児性愛にも同様の堅固な土台があるに違いない。となると、それは矯正など容易に出来るものではないのだ。こう問うてみるとよい。矯正によって、自分の異性愛(同性愛)は揺らぐだろうかと。

恋愛に動機など必要ない。恋愛だけではない。ヒトの多くの行動には「動機=意識される理由」など存在しないのである。人を殺すこと−自殺を含めて−にすら、多くの場合、動機などない。しかし社会は理由を求める。脳の配線のわずかのたわみが、“想定の範囲外”のことを人にさせるものなのだ。

自動装置としての脳は、進化の所産である。それは、動物、そして人の、欲求行動を支えるマシンとして、何億年もの歳月を費やして築かれた。科学的発見による知的興奮も、経済的充足も、セックスの快感を生み出す神経回路そのものによって生み出される。神経回路にとって、高級も低級もなく、それは単に欲望として存在するに過ぎない。

そう考えるとき、一見、あやふやな「欲望」と言うくくりで「痛み」も「正義」も一緒に束ね、そのいわば駆け引きを通じて多様な価値に折り合いをつけるという伏見の主張に、実はきわめて合理的な基盤があることに気づかされる。

例えば、小児愛者の欲望は、社会を平和に健康に維持しようとするもう一つの欲望により、抑圧される。この場合、両者が折り合いをつけるための「線引き」は小児愛者の欲望の大半を切り取る場所に設けざるを得ない。その線とは、結局、「あちら側」と「こちら側」を隔てる欲望の境界線である。

マルクスは労働が商品となり、労働量(時間)があらゆる生産物の共通の通貨として機能することを示した。その中で等価交換の成立しない労働力搾取の構造を暴きだした。しかし、我々には、労働時間よりももっと身近な共通の通貨があったのである。それは、「欲望」である。

自らはさんざん女性としての生活を享受しながら、空想の世界以外にはありえない性差の抹消を主張する不誠実なフェミニストたちの残骸の上に、伏見は新しい価値の塞を築いた。そこには生々しく、生き生きと、欲望を抱え、そして差別をつねに内にはらんだ人間の本当の姿がある。

やまもとだいすけ●
1954年東京都生まれ。東京農工大学大学院農学研究科修士課程修了。早稲田大学教授などを経て、東北大学大学院生命科学研究科教授。行動遺伝学専攻。

【著書】
心と遺伝子/中公新書クラレ/2006.4/¥780
睡眠リズムと体内時計のはなし/日刊工業新聞社/2005.5/¥1,200
男と女はなぜ惹きあうのか/中公新書クラレ/2004.12/¥760
記憶力/ナツメ社/2003.6/¥1.300
超図説 目からウロコの遺伝・DNA学入門(訳)/講談社/2003.2/¥1,900
恋愛遺伝子/光文社/2001.10/¥1,500
3日でわかる脳(監修)/ダイヤモンド社/2001.9/¥1,400
遺伝子の神秘 男の脳・女の脳/講談社+α新書/2001.7/¥840
「神」に迫るサイエンス(瀬名秀明、沢口俊之らとの共著)/角川文庫/2000.12/¥619
行動の分子生物学/シュブリンガー・フェアラーク東京/2000.12/¥4,000
脳が変わる!? 環境と遺伝子をめぐる驚きの事実/羊土社/1999.1/¥1,500
行動を操る遺伝子たち/岩波科学ライブラリー/1997.5/¥1,200
脳と記憶の謎/講談社現代新書/1997.4/¥660
本能の分子遺伝学/羊土社/1994.6/¥2,621
ニューロバイオロジー(訳)/学会出版センター/1990.7/¥9.708
神経行動学(訳)/培風館/1982.5/¥4,900

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第四話

対話から問いを立て直していく
━━『欲望問題』の面白さ

野口●今言われたように、反権力をスローガンにした社会運動はよく普通の生活者の中に生きている「常識」や「普通」に対して、過剰に反応して「常識」って一体なんだ、「普通」ってなんだと攻撃的な態度に出ることが多いんだけど、当然のことながら「常識」の中にも良い部分と悪い部分が必ずある。「常識」というものが、人が共同的な社会を生きていく中で醸成されるものである以上、そこには異なる価値観をもつ人々が一緒に生きていく上で必要になる作法、合理性も当然含まれる。「常識」には、そうした人の倫理の普遍性と、一方的に何かを排除しようとするような、近代的な人間観に抵触したものが存在している。つまり、「常識」の中の正当化できないものと正当化できるものを区分けする必要がありますね。

これもさっきの議論と同じで、自分たちの価値観、意見、共同性と違う人たちからの意見に対して、それはマジョリティの常識的な意見だと十把一絡げで否定するのではなく、その意見を区分けして核を取り出していき、正当な意見かどうか検討しなければならないわけです。

さっきの沢辺さんの地下と地上の話でいうと、役職や地位というものは、人間が一緒に集まってひとつの組織を運営していく上で不可避的に生じるものです。全員が平等な立場で同じ決定権を持って運営するのは、組織が大きくなればなるほど不可能なわけです。だから地位が生じること自体には普遍性があるということを認め、よりよい地位関係はどのようなものかとか、それはどうやって作っていけばよいのかなどの具体的な方法論を考えていくことが重要だと思います。

この『欲望問題』にも、多くの人が枝葉の部分でいろいろ言ってくるかもしれない。例えば、伏見さんはフェミニズム、ジェンダー論が性差解体を主張していると言っているが、こういう議論もあるし、ああいう議論もあるというような反論が必ずあるでしょう。また、なぜジェンダーフリーを主張する側への批判ばかりで保守派への批判があまりされていないのかという意見もあるでしょう。でもそれは読み方としてはまったく正当な読み方ではない。

議論に耳を傾ける場合、核心をまずつかむ必要があり、それをつかんだ上で、この掴まえ方にはこういう問題があると言う必要がある。今回の場合、例えばジェンダーフリーに関する部分では、ジェンダー論が性別というものをどう扱うのかについての原理を提出しないまま、性別が悪いものだというイメージを流し続けていることを批判しているわけです。

一方ではジェンダーを政治的な概念だといい、一方で中立的な概念だということを主張して、学問の世界以外の人に理解できるような論理をキチンと提示していないことを批判しているわけです。もっとも学問の世界の人間が正確に理解しているのかどうかもあやしいのですが。そして、学問の世界のこうした誠実でないやり方が、ジェンダー・フリーバッシングの動きを背後で支えているのではないかという疑問を提出しているんですね。つまりジェンダーフリーへの反発の根本原因は、ジェンダーフリーを推進する側や、ジェンダー論の研究者にあるのではないかという疑問を提出しているわけで、問われているのは自分たちです。ですから批判をするなら、保守派に対する批判をなぜもっとしないのだ、などのような問いをずらす反論ではなく、こうした論点に直接向けた反論をする必要があると思います。

もし批判を相手の議論の核心をつかんだ上でなさずに、自分に都合のよい点だけで行うなら、議論が自己の信念を補強するだけの、単なる闘いのための言語ゲームになってしまい、議論を深めていく対話のための言語ゲームでなくなってしまう。でも本当は、闘いのための言語ゲームなんて自己意識を強化するだけの作業で、たいしたことじゃないんですよ。

僕はいま学生と一緒に文章を作る仕事をやっていて、学生は自分の経験の中の出来事やそのとき感じたことを捉え返して、なぜその出来事のそういう感情を持ったのかを考えて文章を書いてくるんだけれども、僕のアドバイスと同じことを同じ言葉で書いてきたのを読んでもまったく面白くないんですね。僕がアドバイスした内容と同じ意味であっても、彼ら固有の表現で書かれているとやっぱり面白い。また、僕が思いもよらなかったような理由を彼ら自身が取り出して書いてくると、やっぱり面白いんですね。実は言論の本質はそこにある。

闘いの言語ゲームで勝つというのは、いわば自分の言葉で相手との違いを全部埋めることになるわけですよね。でもそれは本当はつまらないことで、言論の本質は、自分が投げかけた言葉を相手が受け止め、さらに返してくるやり取りの過程で、自分が触発され、考えを深めることができるというキャッチボール、対話性の中にある。言説の世界で、言論の持つそうした面白さに対する感度がどんどんなくなってきている気がする。自分の信念で全部埋め尽くして、批判されると排除しようとする傾向がある。それは結局自意識に負けていることを意味しているんですね。そういう形で言論という言語ゲームが闘いの言語ゲームに還元されてしまう貧しさを感じていて、とても残念に思います。

しかし伏見さんの『欲望問題』はそうではなくて、ある議論に感じたことを内省して、その感覚が一体どこからくるのかということを、相手の議論の核を受け止めた上で、自分の経験や自分のありようとすりあわせをしながらもう一度初めから考えている。さまざまな立場の人々との対話が『欲望問題』のいちばん中心にあるんですね。結論も重要なんだけど、それ以上に相手の意見を受け止めようとする態度や内省のプロセス──それは生き方とも言えると思うんだけど──がこの『欲望問題』の一番の面白さだと思う。

沢辺●その通りだよね。具体的に言えば、少年愛の指向を持っている人から手紙が来たという話が書いてあるんだけれど、その少年愛の指向を持っている人と自分は居る場所が違うだけ、自分と相手との間には大きな川があって、相手は犯罪者で自分は正常だと分けているのでなく、自分と相手が居る場所は地続きの中にあると位置づけている。僕はこれもすごいなと感心したことのひとつなんです。

ほとんどさまざまな問題に自分を重ねているでしょう。少年愛を指向している人を自分と無関係なこととしてどう評価するのかではなく、例えば自分が少年愛という指向をもっていたらどうだったのかとか、自分が持つ可能性はあったのだろうかとか、ほとんどの事象に対して、自分を重ねている。これはまったくすごいよね。

野口●うん。たまたま自分はゲイであり、少年愛ではなかったという自分自身の性の指向性をさまざまな性の指向性との連続性の中で捉えるということは、今言われたように問題に自分を重ね合わせるということなんですね。またさらにすぐれているのは、自分の問題として捉えてそれを全部正当化するのではなく、その指向性を社会の中に置き直したときに、どのレベルで認められる問題なのかということを、もう一度捉え直している点ですね。少年愛の場合は内面の問題としては仕方のないことだが、社会的なルールとしては認められないだろう。何らかの線引きは社会にとっては必要だろうと、痛みに満ちた結論を引き受けているわけです。

これは、別に少年愛者だから裁断しているわけではなく、ゲイに関しても同じなんですね。ゲイだからということでゲイの利害が全部通るわけではないということを引き受けている。ゲイは再生産を核にした家族中心の社会において、抑圧を受けてきたといえるわけだけど、だからって、家族、子供を作る人たちは自分の利害に反する存在だ、家族を再生産していく社会システム全体が間違っている、とは言わない。ゲイである自分は子供をつくらない。子供を中心とした家族を営むわけではない。しかしながら社会の存続可能性にとって子供が必要である以上、ゲイも同じ社会を生きる人間として、社会を維持するコストを払う必要がある。子供を作るという形でのコストを払うことができないけれども、それに代わりうるコストを払っていく必要がある。このように自分を常に他者と重ね合わせながら、社会の中に置きなおして普遍化して検証する態度を一貫して持ち続けているんですね。

ゲイリブの中には「反家族」という理念を打ち出す人もいる。しかし同じ社会のメンバーである以上、それを維持するためのコストは、どのレベルでどの程度払う必要があるのかは議論によって決定されていくのでしょうが、互いに負担しなければならない。異なる利害を持っている人が同じ空間のなかで存在する以上、維持するコストはお互いに払っていく必要があるという意識を持つこと。公共性というのはそういうものですね。

家族を自分たちを抑圧する共同性だからと否定するのではなく、家族を持ちたいという利害を持った人たちも社会の中にいて、われわれもそうした人々も等価なものとして社会の中に存在している。自分の利害は絶対的なものでなく、他者によって相対化されうるものであり、そういう人間同士が一緒に社会を作っていくならば、誰がどのようなコストを支払うのかは、対等な権利をもったメンバー同士で決定されうるものだ、と。ところが、特殊なイデオロギーを持つと、このような見方がなかなかできないんですね。

そこから抜け出すのは難しいと沢辺さんがおっしゃったんだけど、全くその通りで、イデオロギーは世界を見る認識枠組み、フィルターのようなものの一種だと考えることができる。図式化して言うと、世界はいわばカオスであって、人は何らかのフィルターを通してカオスとしての世界を、再整理して認識していくわけです。そのときのフィルターにマルクス主義があったり、フェミニズムがあったり、クィア理論があったりする。そして、このフィルターを信じていればいるほど、そのフィルターを通した世界像から抜け出すのが困難になるんですね。

大切なのはこのフィルター自体を検証する回路を持っておくことです。その認識枠組みを共有しない人が、さまざまな現象をどのように意味づけているかを不断に検証しておく必要があるんです。自分たちはある現象にAという意味づけを行っている。しかしながら同じ現象を別の人はそのように意味づけていない。だとすればもしかしたら自分の認識枠組みが間違っているかもしれない、それが本当に正しいかどうか検証してみよう、というように自身を内省する回路を作っておかなければならない。この認識を共有する人たちだけにしか通用しない議論をするのではなく、その認識枠組みを知らない人に対しても理解可能な議論をしていく中で、互いの認識を深めていく過程をたどらなければならない。

そういう姿勢を持つことが今後の反差別運動では特に求められていると思います。現在、先進国では各人の自由がだんだんと実現されてきた。日本もそうですね。もちろん全ての自由がかなえられているわけではないが、自由の水準が上昇した社会になって来た。このようなときに、ある特定の利害に基づいた見方をみんなが共有すべきだという議論は、その利害を持たない人には全く通用しないんですね。そのイデオロギーを信仰してしない人から見ると、何を言っているんだろうこの人たちは、となる。

だいたい「普通」に生きている人たちは、強固な一つの利害に基づいて生活をしているわけではないので、議論を俯瞰して冷静に見られる人が社会に大勢いることを認識しておかなければならない。そのような現実に謙虚であり続けなければならないんです。

異なる価値観を持った人同士で生きていく社会である以上は、差別の克服というのは非常に重要で、アメリカなんかが典型ですけど、他民族国家の社会においては差別を克服できないと社会の存続自体が危うくなる。現在の日本では異なる民族の人たちの共生の問題はそれほどクローズアップされていないけれども、今後だんだん問題になっていく可能性がある。

それは民族だけでなく、ゲイや障害者、いろんなマイノリティもそう同様です。そのときに多くの人が納得しうるような論理を立てないと、結局差別の克服は実現できない。マイノリティ側にとっても自分たちの言葉が全然通用しないという現実を、反権力、反社会的な信条だけで目をつぶってやり過ごしていくことになる。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第三話

先祖の祟りだというのと同じ!?
━━近年のジェンダー論を批判する

野口●僕もかつて、伏見さんの本を最初に読んだとき、ゲイの反差別運動と理論は性別二元制の解体というものに定位していく必要があるという結論を、なるほどその通りだと思っていました。でもだんだんその議論が本当に正しいのだろうかという疑問を持つようになった。その理論を自分の生に引き付けてとことんまで考えてみると、自分がゲイだということ、男であるということ、それ自体を悪いとはどうしても思えないという違和感が残った。そこで初めて、もしかするとこの議論自体がどこかがおかしいのではないかと思えてきた。それはいったい何なんだろう、というのが僕自身が思想や理論を一から考え直そうとした動機なんです。そこで僕がぶつかった問題は、一言で言えばルール批判の、または社会批判の正当性の根拠は何かという問いだったわけです。

多分伏見さんも同じだったのではないかと思う。理論というものは具体的現実を基点にして、それを抽象化することで作り上げられるわけですが、そこで作った理論は再び具体的現実によって検証する必要がある。理論は具体性と抽象性の間を何度も往復することで初めて普遍的なものとなっていく。そのときに重要なのは、理論にとって都合が悪い具体的事実が出てきた場合、それを正面から受け止める必要があるということです。具体性による検証によって都合の悪い事実をもう一度繰り込むことで、理論を新しい形に編み上げ直さなければならないんですね。

その意味で、特に理論を作るような人々、典型的にはアカデミズムの人々は現実のありように謙虚である必要がある。自分たちの作り上げている理論が現実の人々の中でキチンと生きているか検証しなければならない。自分たちの理論というものが現実世界によって試される一つの考えに過ぎないんだという謙虚な姿勢を持たなければならない。自分たちが特定のイデオロギーを再生産する制度になっていないかを現実世界の中につねに内省していくことが大切です。これは実は、現代社会における「知」の役割は何かという問題を考えることでもあるんです。しかし都合が悪い事実が出てきたときに、例えば「あなたはそう言うけれども、実はそれは背後にある〜に言わされているんだよ」というようなロジックを組み立てると、都合の悪い事実が都合が悪いという形で処理されないんですね。理論に当てはまらない現実の矛盾を無視するということになってしまう。これは実は「他者」に全く向き合っていないということを意味しているんですよ。こうしたロジックは現在のジェンダー論に広く見られると思います。

沢辺●それは失礼なことだよね。お前はだまされてる、バカだっていうことでしょ?

野口●例えば、たとえ好きな人とセックスをしていてもそれは強姦なんだということを平気で言えるようになる。こうした物言いは、あなたはおかしいと思っていないかもしれないが、実は先祖に祟られているんだ、と言うのと論理的には一緒ですね。

沢辺●「僕はあなたが嫌いだ」というのは個人的な好みだからいいけど、「あなたは真実を見てませんよ、だまされてますよ」と言うっていうのはものすごく失礼だと思う。

野口●もちろん、「だまされていますよ」っていうとき、なるほど確かにだまされてるなって思える説得力のあるロジックが組み立てられているのならいい。例えば、何らかの政治課題について、〜のように思っているかもしれないが、実際の政策決定の現場ではこういうことが行われているんだよという確かめられる情報を提示されたときに、ああ、なるほど、先の考えが自分の思い込みだったと気づくこともある。そういうふうに相手を説得することができる論理を組み立てることができるか、また組み立てようとする意志があるかどうかが重要なんですよ。

沢辺●相手がだまされていると思ったときに、きちっと説得できるだけのロジックを獲得している者と、ただ単に信仰として信じていないから間違っている、だまされているという理屈は根本的に違うということですよね。僕はそれはその通りだと思うんだけれども、それともうひとつ違う判断基軸が実はあるような気がしている。それって本人に正面から間違っているって言っているかどうかという問題。多くはそういう場合、本人にはだまされてるって直接言わないんですよ。

例えば、フェミニストの批判する美人コンテストの話で言えば、社会が悪いと遠回しに言っているんだけれども、要はそう思わない女はバカだって言っているわけでしょ。もちろんそういうひどい言葉では言わなくても「あなたはだまされているから気づきなさいよ、なぜならこうこうこうですよ」ということを、真っ正面から言わずに遠回しにしか言わないじゃないですか。僕は、そういうのは思想的に真摯じゃないと思う。人民がだまされているとか、女性がだまされているって本当に思うんだったら、すべての女性はだまされているってちゃんと言った上で、野口さんがいうようにそれはなぜなのかというロジックできちんと説得していく。それがどんなにボロボロになっても袋だたきにあっても私はそう思うんだと最後まで説得しようとする態度があれば、ひとつの有り様として許容できるんです。しかし、そうではなくシンポジウムとか、結果的に自分に共感する女の人たちだけが集まるような場、そういうところでしか言わない。だいたいシンポジウムなんて論者に共感している人しか来ないじゃない? ふだんの現場、たとえば正月に親戚一同が集まり女の人が半分いるような場で、勝負していないっていう気がする。それはやっぱり真摯さに欠ける。

野口●なるほどね。それはさっき言ったあるひとつの信念を強固に信じた共同体っていうのができると、その外に対する感度が悪くなり、それ以外の考え方をキチンと開こうという意識が希薄になってくるという問題と通じますね。そうした態度は「他者」と向き合うという姿勢から最も遠いものですね。 「他者」に向き合うとは、自分の信念はもしかしたら間違っているかもしれない、それはさまざまな信念のうちの一つとして相対化されうるものだという意識を持つこと、異なる意見を言っている人々の議論を適切に受け止めて、批判の核を捕らえるという事を意味しているんです。批判をしている人たちを十把一絡げにするのではなく、批判を分節化して、この人の批判には理がない、この人の批判についてはきちんと自分たちが考えなければいけないという区分けをして、相手の言葉をつかまえるような努力をするということなんですね。「他者」に向き合うことを要請する議論には、実際にはこうした視線を欠いたものが数多く見られます。それは結局鏡像的自己像を確認しているだけなんですね。

沢辺●この『欲望問題』は、僕にとっては自分が左翼をやめたことと非常にオーバーラップしてしまう本です。僕、実は20代の頃は地方自治体の中の労働組合運動を中心に左翼をやっていたんですよ。組合事務所が地下1階にあって、そこで組合の役員たちが活動家として議論するわけですよ。しかしそこで議論していることと、昼間は机を並べて一緒に仕事している人とは全然噛み合ないわけ。例えば、係長試験というのがあったんだけど、それは出世競争をえさにして労働者を競い合わせる悪い制度だ、と地下1階では議論していたし、そういうふうにビラにして巻く。でもその時に同じ机を並べていた僕より10歳くらい年上の人に、「お前にはね、なんだかんだ言っても、組合の青年部長っていう「長」っていうのがついてんじゃねーかよ。出世に背を向けて僕はみんなのために労働活動をやっていましたという理屈が立つだろ。しかし俺たちただの庶民は係長の長でもなければ、ただの父親でしかないよ。俺たち何にもないのに、なんで俺たちから長のチャンスを奪うんだ」って言われたんですよ。地下1階で自分たちだけが信仰している宗教のなかで議論していたときと、上の仕事場に行ったときの乖離(笑)。ノックダウンなんですよ。でもそのときはまだわかってない奴を俺たちが啓蒙して教えてやるんだということで、かろうじてその乖離を納得させてたわけ。

今振り返って考えれば、一般の人が考えたことは必ず正しいということではないが、しかし庶民が考えたことの感覚のなかにもそりゃそうだなというところもいっぱいある。無条件に受け入れるのも間違いだし、無条件にだまされているバカどもだというのも違うなと。僕には労働組合の仲間もいたし、議論の場もあったが、しかしこの『欲望問題』を読むと、伏見さんはたった一人でリアリティをつかまえてきて、それはすごいなと思いますね。

玉野真路[科学技術批評家]●イデオロギーからゲームへ、そして免罪の拒絶へ……

わたしたちは、日々、ゲームをしている。ゲームというのは、いわゆる遊びとしてのゲームとは限らず、日々の生活の中で自分の利得を最大に、損失を最小にするにはどうすればよいかを考えて、戦略的な行動をしているということだ。

たとえば、同性愛者がある場面でカミングアウトをする戦略と、しない戦略のどちらを採用するか。カミングアウトをするという戦略を採用するには、カミングアウトの利得をコストとリスクの和と比較し、それぞれの場面の中で利得が勝ると考えればカミングアウトをするし、コストとリスクの和の方が大きいと判断すればカミングアウト戦略を採用しない。

つぎに、ある一人のゲイを見ると、その人はあるところではカミングアウトしていて、あるところではカミングアウトしていないことがほとんどだろう。その人は、カミングアウトをする戦略と、しない戦略の混合戦略を採用しているということになる。そうすることによって、自分の人生から得られるうま味を最大化しようとする。カミングアウトの利得を多めに勘定する傾向のある人はカミングアウトをする頻度は高く、コストとリスクを高く算定する傾向のある人はカミングアウトの頻度は下がる。

さらに社会の中でのゲイの集団を考えてみよう。学生などカミングアウトの敷居の低い(つまりコストのかからない)層ではカミングアウトが行われる傾向が強くなるだろう。旧態依然たる会社などリスクが大きい社会ではカミングアウトが起こる確率が減るだろう。そうしてカミングアウトが社会全体でどの程度の頻度で起こるかについて、一定の均衡状態を得るだろう。

この均衡は歴史的に変遷する。近年起こったように、社会の中でカミングアウトをする人が増えてくればカミングアウトの敷居は下がり、均衡はよりカミングアウトをする側に傾くだろう。一方で、保守化が進めばカミングアウトの均衡はカミングアウトしない側に傾くことが予想される。

ジェンダーの境界も、カテゴリーやコミュニティを維持するか放棄するかといった選択の戦略もほぼ同様に考えられるだろう。ジェンダーの差異を温存する利得と捨てる利得を天秤にかける。そこでうま味を多くの人が得られると判断するならば、一部のアカデミズムがジェンダーの差異をなくすことが「正しい」と唱えても、人びとは簡単には応じない。ゲイというカテゴリー、ゲイ・コミュニティについても、最終的にはそれがなくなることが「正しい」といっても、多くの人がそこからうま味を得ていると実感できれば人びとは手放さないだろう。逆に、多くの人びとにとってうま味を提供できなければ、コミュニティは役割を終えて次第に縮小していくだろう。

こうして、利得とコスト+リスクを天秤にかけ、どういう戦略を採用すると、人生のうま味が最大になるかを考えながら、私たちはさまざまな行動選択をしている。このときに理屈として「正しい」ことがいつでも採用されるわけではない。たとえば、「ゲイというカテゴリーがなければ、ゲイ差別もなくなる」というのも理屈としては正しいだろう。しかし、たとえば「ゲイというカテゴリーがあったほうが出会いの機会が増える」など、ゲイというカテゴリーから多くの人が利得を得ている場合には、ゲイというカテゴリーが捨てられることはないだろう。論理としての究極の形を提示すれば、そこに結論が行き着くわけではなく、人びとがお互いの欲望をせめぎ合わせながらフロントラインが決まっていく。

しかし、こんなに「言われてみれば当たり前」のことが、なぜ「命をかけて」書かれなければならないのか?

これまでジェンダーやセクシュアリティに関する反差別論の領域では、カミングアウトしない戦略、性差別に抗わない戦略、ゲイというカテゴリーをゲイであっても嫌悪し近寄らない戦略をとる人びとが圧倒的に多い中で、ごく少数の人間によって担われてきた。そうした人びとからすると、利得の幻想を信じ込む必要があった。そういうときには幻想としてのイデオロギーは有効だったし、これから新しいムーブメントにはある種のイデオロギーは必要とされ続けるにちがいない。

カミングアウトは絶対的に正しいという幻想、差別の解消のためにはゲイというカテゴリーやジェンダーの差異がなくなることが正しいという幻想……それらの幻想が「正義」だとする価値観。わたしを含めて、反差別論の分野で言説を弄してきた人間たちは、そういった幻想を見て、その価値を信奉しながら闘ってきた。多くのアクティビストたちはしばしば単純な損得には還元できない行動選択もしてきただろう。損得勘定を越えた言動が人に現れるところに“愛”を見るとすると、そこには確かに愛もあっただろう。

しかし、この幻想はいつしか絶対的ないし規範的な「正しさ」「正義」と考えられるようになり、原理主義的に突き詰められていく。たとえば「カミングアウトをすることは正義であり、その正義を行えない人間は差別に屈している」という風にして、カミングアウトをする人間が一段上に立ったりするようなことが起こる。そうなると運動の外部から見ると、その運動にリアリティがないと思われるようになってくる。つまりゲームの均衡点から、イデオロギー的な主張が大きく離れていくのだ。そうなると、多くの人から飽きられていくことになる。ときとしては攻撃されることにもなるだろう。

さて、こうした暴走を止める手段は何か?

伏見はまず冒頭で、少年愛者ではないという自己規定をしてマジョリティの側から、少年愛者というマイノリティを見て、彼らの自分との連続性を確認する。ところが、そこで「みんな欲望において少年愛者と地続きだから、少年愛者の気持ちも考えましょう」といった耳あたりのいいヒューマニスティックな結論に落ち着くことはない。社会を営む以上、線引きをせざるを得ない場合がある。自分たちの利害だけではなく、多くの人がゲームを行い、欲望がせめぎあう場として社会を構想するからだ。それでも、彼は言う。

「この社会を営んでいく過程で、善し悪しの線引きをしていくことの割り切れなさや、「痛み」は、それぞれが心の中で引き受けていくしかありません。この社会自体にノーを言い立てることでその責任を免れるわけではないし、そんなことは頭の中での罪悪感の打ち消し、自己慰撫でしかないでしょう」(p65)

線引きで向こう側に追いやった人びとに、われわれは痛みを与えているのであり、現行の社会の中での正しさを唱えることで免責されるわけではない。そこへの想像力を堅持しなければならない。与えた痛みを忘却する「免罪」は許されない。

さらに第3章では、『X-men』に出てくる、人間にはない能力を持った「ミュータント」というマイノリティの立場に立ってつぎのようにいう。

「人間社会には人間社会の、それまで積み重ねてきた合理性も意味もあるのだから、「ミュータント」の利益からしたらそれは自らを抑圧することに思えても、それを全否定する権利は一方的にはない。」(p161〜162)

マイノリティの側も、マイノリティであるというだけでどんな要求でも通るわけではない。マイノリティであるというだけで、無限に権利を要求し、マイノリティが反転した特権を持つという事態を避けるためにも、「免罪」によって痛みのない社会を構想するのではなく、これを拒絶する思想が必要だということだろう。

社会の中で対等な決定権をもつ人びとが、共同性を維持するためには、こうしたゲームをうまく機能させることが鍵となる。そのためには、マジョリティが線引きをして正しさに酔うことで免罪されることも、マイノリティがマイノリティの立場で免罪されて反転した強者になることも拒否することだ。

免罪を拒否して、合理的な思考へと進むこと。本書は、現代ジェンダー・セクシュアリティ論の「宗教改革」の書といえるだろう。

【プロフィール】
たまのしんじ●予備校講師、科学技術批評家。名城大学非常勤講師。セクシュアリティの科学などを専門とし、科学や医療の問題を、科学的データを踏まえたうえで社会的な視点でとらえていこうとしている。

【著書】
新しい高校生物の教科書(共著)/講談社ブルーバックス/2006.1/¥1,200
新しい科学の教科書/文一総合出版/2004.5/¥1,800
同性愛入門(伏見憲明らとの共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
クィア・サイエンス(訳、サイモン・ルベイ著)/勁草書房/¥4,500