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ポット出版ず・ぼん全文記事ず・ぼん7
[お道楽]酒と蕎麦の日々

新海きよみ
[2001-08-06]

文◎新海きよみ
しんかい・きよみ●哀しき地方公務員。生活密着型サービス業従事者と呼んでください。


『わたしの図書館宇宙』の読者のみなさま、拙文にもかかわらずご愛読ありがとうございました。で、突然ですが、わたくし図書館員ではなくなりました。一年のうちにはいろいろなことがあるものです。いまやれっきとしたお役所の人。異動の内示を受けてからしばらくは意気消沈・沈思黙考・臥薪嘗胆(これは違うか?)の毎日でしたが、今はケアレスミスand記憶力の減退と戦いの日々を送っています。
 異動してから、スーツを五着買いました。これ、別に今の職場のドレスコードが著しく厳しい訳ではなく、言ってみれば憂さ晴らしです。でも図書館勤めの頃に比べて服装が堅くなったのは事実。そしてちょっと地味。クローゼットの中にスーツもあることはあったんですが、どっちかというとイヴェントスーツ、勝負服系。今回はキャリア系ビジネススーツ。たまにキリッとした格好するのも結構気分のいいもんです。
 困るのは日常の動線の範囲がググッと狭まってしまったこと。図書館では毎日一万歩は確実に歩いてたのよ。万歩計つけて実際に計ったことあるから確か。今は一番の遠出が階段踊り場のトイレまでの旅。そのうち足が萎えてしまうんじゃないか(その前に確実に豚だわ)と心配です。かといって俄にスポーツマンタイプに変身するわけもなく、休日(なんと規則正しく毎週土・日に休める! 長いおつとめ生活初めての経験)は相変わらず昼寝に昼風呂でぐだぐだ。これがわたしのリフレッシュ アーンド リラクシングですもの。
 そして近頃もうひとつ身に付いたのが「蕎麦道楽」。昼の貴重な一時間、溜息と煙草を友に得難い一人の時間を楽しむ。あるいは五時のチャイム「キンコーン」の「ン」が消え残っているうちに「お疲れさまでした。お先に失礼しまあす」と暮れ泥む町に一人繰り出しひっそりと一人で杯を傾ける。この場合、長っ尻は御法度。さっと飲んで蕎麦で締めてさっと立ち去る。このひとときが哀しいわたしの大いなる慰安なのであった。

●某月某日
 昼休みが所在なく、ひとりふらっと蕎麦やに出る。
 雨降りなので、六、七分離れたこの店に知った顔は来ないだろうと辰巳屋へ。いかにも町のそばや、という感じの、気取らない店。特にしゃれてるわけでもなく、ちょっとくすんだ感じがいまの気分。おろし七五〇円。
 注文を通して、さて手持ちの本でも…(N図書館で借りた『古くさいぞ私は』坪内祐三 晶文社)と開きかけたところへ、なんと異動先の直属の上司K係長が暖簾を分けて入ってきた。瞬間、お互いにギョッとする。
 向こうは知らぬふりは失礼と思ってくれたらしく、同席しようか迷う素振りであったが、どうぞお気遣いなくと、礼儀正しく別の席へ誘導。まだよく知らない相手と差し向かいで蕎麦をすするのは…ねえ。辰巳屋の太めの麺を咀嚼もそこそこに、そそくさと席を立つ。

●某月某日
 仕事帰りに足取り重く(日々の凡ミス続きに心も沈みがち)歩いていると、元図書館員N嬢に遭遇。彼女は数年前から教育委員会に勤務。最近発見した小体な蕎麦や長寿庵に誘う。ここの“ほろ酔いセット” 一〇〇〇円はビール・日本酒(冷やまたは燗)・焼酎のお好きな一品に好みのつまみ一品ともりそばが付いてくる。お得感満載。日本酒も何種かから選べる。
 先頃の昼休みに独りで蕎麦や探索をしていて見つけた店だが、わたしの好きな茅場町長寿庵とは何かしらのつながりがあるのかしらん。あそこの穴子南蛮はおいしかった。夏ならすずしろ。日本図書館協会の資料保存委員会には、長寿庵の蕎麦が楽しみで通ってたようなものだわ。もうめったに行く機会もないだろう。ちょっとしんみり。
 二人で向かう道すがら、都立T図書館から会議帰りの図書館S係長にばったり。職場復帰を主張するS係長を「もう五時過ぎたよ」と拉致。結局三人で“ほろ酔い”して図書館談義に花を咲かせる。

●某月某日
 日曜日。芸大美術館の「日本画の100年」展を一人で見た後、馬場で途中下車して傘亭へ。辿り着くまでつま先上がりの坂道をてくてく歩きながら、この前ここに来たのは三月の初め。国会図書館での研修「戦略的パブリシティ活動のノウハウ」の帰りだったなあと淋しく思い出す。
 図書館だって周りの理解を得るためには、適切な売り込みが必要よ。なんたって図書館を維持するには金がかかる。本を買うにも、データを正確に整えてさまざまなアクセスが可能なように整備しておくため、あるいは書架を見やすく魅力的に演出するための人手を確保するにも、金が絶対に必要。図書館員はそれを常に意識しなくちゃね。その金をGETするには、まずは財政当局ひいては市民に、その経費がけして無駄金ではなくてかかった以上の効果を生み出す生き金だと納得してもらわなくちゃ。
 そんなことを再認識しながら、意気軒昂と坂を上った三月だったけど、今図書館で働いているしあわせな(私から見れば)人々のいったいどれくらいが、そのことをちゃんと意識してくれてるんだろう。
 傘亭は売り切れ仕舞いなので、歩いていった先にそばにありつけるかどうか、いつもスリルだ。本日はセーフ。酒も肴も美味い店で、何を頼もうか迷う。生湯葉と鮪のヅケ。神亀の純米。細めで腰のあるそば。

●某月某日
 午後半休をとって、大学時代の先輩と白金・利庵へ。上京するとすでに一時過ぎで腹ぺこ。洒落た街並みにそこだけが時間を忘れたような佇まい。中に入ると意外な盛況に驚く。若いのから年輩のカップル、OL風の二人連れなど。
 卵焼き、そばがき、穴子天。菊正の樽酒、にしようと思ったら、口紅つけてる人には白木の枡は出してくれないんだって。信楽の渋い片口でいただく。濃すぎず甘くない香りのよい汁が細めのそばに絡まって…うーん、しあわせ。
 ただ、店を仕切ってるおかみさん風の人が、テキパキしすぎててちょっと怖い。一見の不慣れな客にこのテンポはちょっと気後れ。図書館の応対でも、そのあたりの呼吸はよく考えないとね。
 そういえば年輩のちょっと変わった雰囲気のおばさんに、「たかだか田舎の地方公務員のくせに!」ってえらく怒られたことあったなあ。「新しい住宅地図を出せ、確かにこの図書館で見た」との要求に、うちの図書館ではまだ購入していないのでなにか勘違いされたのでは、と応対して。
 ゼンリンの住宅地図って全部いっぺんには刊行されないし、値の張る買い物だから値引率の関係もあって、もう少し出揃うまで待ちましょうってときだった。あくまで言い張るおばさんにバイトの女の子が困っていたので、事情を承知の私が助け船、のつもりが、逆に大噴火させてしまって…。
 まちがったことは言ってないし物腰も丁寧に応対したけど、言下に事実を告げられて「あなたの勘違い」と指摘されるより、一緒になっておろおろ探す温かさが、その時の客の気持ちには添っていたのだろう。ことほど左様に、客商売はムズカシイ。
 ほろほろと心地よくなって、自然教育園を散歩。都会の真ん中の静寂スポット。しばらく歩き回った後、庭園美術館のガーデンカフェへ。木陰でのんびり腰掛け、最近面白かったミステリーの情報交換などして優雅に午後を過ごす。

●某月某日
 埼玉県内での談合防止策について急いで調べられないかと上司に頼まれ、秘書室前のインターネットで当たってみるが、県のホームページにちょこっと載ってるだけ。これは図書館でしょ、とレファレンス室にすぐ電話。S係長に、強い味方のD.N.A.(朝日新聞の有料データベース)と市役所にはない埼玉新聞を調べてもらうことに。三〇分も経たずして記事のプリントアウトがFAX送信されてくる。
 今まで図書館と縁がなかったらしい現職場のK係長は「ほー、大したもんだねー」と感心することしきり。内心嬉々としつつ、図書館での調査可能なツールについて、「何かあったら使ったほうがお得ですよ」とプッシュしておく。
 ちょっと気分がよくなったので、帰りは一人でガードをくぐって奈美庵まで歩き、“お疲れセット”で一息。酒(冷やか燗)につまみが三品ついて一〇五〇円。この日は刺身と串カツ、おからの煮付け。これにもりで〆ると一五五〇円。この前図書館のT氏とここで飲んだ時のTおそばやさんのクリームチーズUってつまみもおいしかったな。賽の目に切ったクリームチーズに鰹節がたっぷり、それに薄目の蕎麦つゆがかけ回してあるの。四五〇円だったかな?
 太く煤けた柱に格子仕切の席の昔ながらの蕎麦やで、二階には宴会用の座敷もある。いい店なのにすぐ近くの中央図書館で働いてたときは、たまの宴会と、飲んだ翌日のたぬきうどん(なぜか昔から、飲んだ翌日にはたぬきうどんが食べたくなるのよね)くらいしか来なかったな。あと、冬場の力うどん。ここの力はお餅が揚げてある珍しいもので、すごくおいしいの。でも夜の仕舞いが早いんだよね、八時かな。うかうかしてると夜勤のあとに寄っても暖簾が出てないことあったよな。

●某月某日
 高校時代からの友人T嬢と夕方中央図書館で待ち合わせ。今日はかめ井で飲むことにしている。なんとなれば。ジャジャーン!! 昨日ご亭主が新そば粉を仕入れに行き、今日はその粉でそばがきを作ってくれる約束になっているから。
 かめ井は目下のMy Best。T嬢に紹介して以来ヤツもハマリ、昼に職場の近くで拾ってもらって週に二〜三度通っている。いつもは車のT嬢も、今日はしっかり飲み支度で電車(しかしヤツは車で来る昼でもビール一本は必ず飲んでる。中瓶だけどね)。
 中休み開けの夜の営業が五時半からなので、中央線のガードを南へくぐりぶらぶらと夕方の町をふたりで歩いていく。梢に残った銀杏の黄金色がとてもきれいだ。のんびり歩いたのにやはり開店には早く、店の前で煙草を吸っていると(店内禁煙である)、ご亭主が慌てて出てきて招じ入れてくれる。
 初めて座敷へ。T嬢はビール、わたしは桂月で飲み始める。桂月は奥方の郷里・四国高知の銘酒とのこと。突き出しは〆鯖の麹和え。待つことしばし、待望のそばがき登場。「うちのは生醤油で召し上がってください」とのご指示に素直に従い山葵に生醤油でいただく。固めにしっかりとこねた素朴な味。美味い。これだけで相当な腹ごたえ。つまみの品数は多くないので、卵焼きと板わさ。このあたりで焼酎のそば湯割りに切り替える。相客もなく、ゆったりと流れるしあわせな時間である。
 〆めは小菅そば。いつもの昼に食す普通のもりは北海道のそば粉を使っており、もちろんこれもうまい。が、今日は仕入れたばかりの小菅(山梨県)の新そば粉で打ったぴかぴかのそばを食わずばなるまい。麺は細からず太からず。ややみどりがかって腰がある。けっして野卑でなく、かといって気取ってもいない。素朴という概念を、磨いて磨いて究極まで洗練したらこうなろうか、という味わい。ここのそば湯がまた絶品。
これだけ寛いでおいしい時間をすごして、勘定はひとり三〇〇〇円を超えない。なんと素晴らしいことであろうか。

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