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ポット出版ず・ぼん全文記事ず・ぼん6

浪江虔を偲んで
[浪江虔ロングインタビューに載せなかったはなし]「羽仁問題」の真相

東條文規
[1999-12-18]

1999年1月、浪江虔氏が亡くなった。
その約3か月前に発行した『ず・ぼん』5号では、浪江氏へのロングインタビューを行い、1966年の全国図書館大会における羽仁五郎氏欠席の本当の理由についてもはなしを聞くことができた。しかし、浪江氏からその部分は削除してほしいと要望があり、「羽仁問題」のくだりは掲載しなかった。まもなく、浪江氏の一周忌を迎える。今回あらためて、浪江氏が語ったはなしを掲載し、これまで「羽仁問題」がどのように語られていたのか、当時を振り返ってみる。

文◎東條文規
とうじょう・ふみのり●
1948年、大阪生まれ。1975年から四国学院大学・短期大学図書館に勤務。
本誌編集委員。著書に『図書館の近代』(ポット出版)、共著に『巨大情報システムと図書館』(技術と人間)、『大学改革』(社会評論社)などがある。

 1997年5月27日、私たちは、浪江虔氏にお話を伺う機会を得た。私たちというのは、手嶋孝典と堀渡と私。『ず・ぼん』5号の編集会議で、特集に浪江虔氏を取り上げようと話し合ったとき、特集の軸は、インタビューでいくと決めた。
 浪江氏にはすでに、『図書館運動五十年――私立図書館に拠って――』(日本図書館協会、1981年)という詳細な自伝がある。ただ、氏もこの本の序文で書いておられるように、図書館関係が中心で、氏の幅広い活動の全体ではないこと。第2に、この本の発行が1981年で、それ以降の精力的な活動が、まだまとめられていないこと。第3に、地元の町田や三多摩地域では、現役の活動家として著名だとしても、全国の、とくに若い図書館関係者のなかには、浪江虔、といっても知らない人が増えていること。
 だから、インタビューでは、氏の活動の全体像を若い人にも理解してもらうために、図書館以外のことも多く伺った。私(たち)の知識不足による不躾な質問にも、氏は1つひとつていねいに応えて下さり、氏の記憶力とその論理の明晰さに、あらためて感服した。
 4時間にも及ぶインタビューのなかで、どこにも不鮮明な部分はなく、そのままテープ起こしをしてもすぐ使える内容だったのであるが、ただ1点オフレコの部分があった。
 私(たち)は、その部分は日本の図書館の歴史にとっても重要な問題であり、推測に基づいた誤解が活字化されているのだから、先生の口から真相を話して欲しいとお願いした。が、氏は、「当時の関係者との約束ですから」といわれ、その部分の公表は固辞された。
 2日後、私たちは、浪江虔氏の米寿のお祝いを兼ねた1泊旅行に参加した。行き先は、1995年10月に新築された静岡県富士市立中央図書館。参加者は、浪江氏と懇意な三多摩地域の文庫関係の女性たちと図書館員で約30名。郷土料理店での懇親会の後、旅館に入った私たちは、お元気な浪江氏に甘えて、夜遅くまでお話しを伺った。
 そのなかで、2日前のインタビューでオフレコになった部分をぜひ公表して欲しいともう1度お願いした。アルコールも入ってごきげんだった浪江氏は、「いいでしょう。もう時効だから」とおっしゃった。だが浪江氏は、校正の段階でその部分を削除された。最後まで、当時の約束を守られたのである。
 今年(1999年)1月28日、浪江虔氏は亡くなられた。亡くなられたから「書く」というのは、あまり気持ちのいいものではないが、私は、やはり書いておきたいし、書くことによって、浪江氏の名誉を決して傷つけることにはならないと思う。

 1966年10月19日から東京で開かれた全国図書館大会の第1日目に、「現代社会は図書館に何を期待するか」というテーマで討論会が企画されていた。講師は伊藤整(日本近代文学館理事長・作家)、坂西志保(国家公安委員・評論家)、大塚明郎(科学技術館長)、羽仁五郎(歴史家)、宮原誠一(東京大学教授)で、司会は浪江虔氏。だが当日、羽仁の代りに蒲池正夫(熊本県立図書館長)が登壇した。
 この間の事情を浪江氏は、『図書館運動五十年――私立図書館に拠って――』のなかで次のように書いている。

 「ところがこの会が、私たちの計画とは全くちがった進行をし、一挙に暗礁に乗りあげてしまったのである。具体的なことは一切公表しないことを、直後に協会側出席者が互いに確約した。その確約を今も破るわけにはいかないから、まことにあいまいな言い方になるが、この時の状況から判断して羽仁氏をお招きしないことにせざるを得ないだろうという考え方が、私たちの間でほぼかたまった。ちょうどそのころ、文部省からある種の意志表示があったらしい(「らしい」というのは、私が聞いたことでないし、このことで文部省と交渉することなど全くなかったからである)。だから、多くの方々が憶測したように、協会首脳部が『文部省の圧力に屈した』のではない。文部省の意志表示が全く無関係だったといえば正しくないけれども、われわれの結論は八、九分どおりかたまっていたのである」。
 「ともあれ誠に不本意な成りゆきで、とくに壇上で羽仁氏が出席しない理由について、全参加者にあからさまなウソをいわなければならなかった司会者の立場は、実にいやなものであった。しかもそのあと『羽仁問題』という言葉まで作られ、かなり長いこと『文部省に屈した』われわれへの非難が語られたのであった」。

 私は、浪江氏の本をはじめて読んだときから、この部分が気になっていた。何ごとにも論理的でわかりやすく、歯切れのよい文章を書かれる浪江氏がこの部分だけ極めてあいまいで、奥歯にもののはさまったいい方をされている。
 じつは、浪江氏のインタビューが決まったとき、私はこの「羽仁問題」の真相をぜひ聞きたいと思っていたのである。
 私の質問に、浪江氏は笑いながら、それでもオフレコにして下さいと断って、「羽仁さんには困ったものです。大会の席上で、紀元節復活反対の決議を会場に迫って欲しい。これが私が講師を引き受ける条件ですといわれたのです」とおっしゃった。
 私(たち)が、「エエ?」というと、浪江氏は、「図書館大会の席上で、紀元節復活反対というのはあまりにも場違いです。羽仁さんは図書館のことがわかっておられない。だから仕方なく、こちらから講師を遠慮してもらったのです」といわれた。
 インタビュー時に、このようなおはなしがあって、先の旅館での「いいでしょう。もう時効だから」というはなしになったのである。
 そのはなしの続きで私が羽仁五郎の『図書館の論理――羽仁五郎の発言――』(日外アソシエーツ、1981)を話題にすると、浪江氏はニコニコしながら、「あの本は新聞記事を使っただけで、ほとんどデタラメです。私は、きっちり批判しましたが、ま、あのときのカタキを取ったようなものです」と話されたのである。
 じっさい、浪江氏の「『図書館の論理――羽仁五郎の発言』(日外アソシエーツ、1981年6月刊)批判――公共図書館の立場から――」(『図書館雑誌』第76巻第3号、1982年3月)は、「北から南から」という読者投稿欄に載っているけれども、「不確実な資料や誤った認識と判断」に対して、徹底して「事実を対比するという手法によって」羽仁を完膚なきまでに批判し尽くしている。当時浪江氏は、日本図書館協会常務理事で図書館調査委員会委員長であった。

 それでは、いわゆる「羽仁問題」は、1966年当時、どのように語られたのであろうか。真相は、浪江氏が私たちに語ったように、羽仁五郎の強引な横車ともいうべき主張が原因であったけれども、司会者浪江氏の「ウソ」(羽仁が病気で出席不可能)発言によっていろんな疑惑や憶測を生んだのは事実である。
 まず全国図書館大会の最終日、全体会議の席上、秋岡悟郎が以下のような発言をする。

 「あの一番最初の討論会に羽仁五郎先生がみえなかったという裏話を私は知っておりますけれども、あういうことも、図書館協会が微力であるのに力以上のことをあんまり計画するからいかんのです。自分のがらにあったことをしていればいいのです。(笑声・拍手)それはともかく、公会堂を借りるとか何とかいうことのために、文部省や東京都から金をもらわなきあならないということ、権力とそれから金力のために協会が頭を下げて、そしてそういう人達の意思によって、協会がほんとうに自主的なそして自由な会合がスポイルされる、制限されるということは、図書館が自由を持たないということになる。もし、あの宮原先生が言ったように、我々が過去十何年か前に決議したことが、もしほんとうに我々の心の中にあるならば、そういうことも何もおじぎをして、わずかばかりの金をもらって文化会館のような会場を借りるよりも、もっと近いところに、ただで使えるような会場でもいい、これだけ熱意のある人が集って協議するには、何も頭を下げて、教育長ぐらいにえらそうなことを言われてやらなくったっていいと思う(激しい拍手)」。
 「文部省にスケベ根性を出して頭を下げて金をもらいにいったり、文部省に要求してどうとかいったってやっぱりもっと図書館のほんとうの民衆の生活と権利を守るという使命感に立って決起してやらなければ、そのヘッピリ腰でいろんな要望をつきつけたって何にもならない」(『図書館問題研究会・会報』第79号・1966年11月24日。同じ秋岡発言は、『図書館雑誌』第60巻第12号・1966年12月号の「昭和41年度全国図書館大会記録」にも掲載されている。ただ、テープ起こしの関係上か、秋岡発言のニュアンスは弱められている。日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会編『「図書館の自由に関する宣言」20年の歩み――1954――1972――』(図書館と自由第3集)日本図書館協会・1980年、には『図書館問題研究会』の『会報』の文章が再録されている)。

 この秋岡悟郎の発言を取り上げ、最初に活字にしたのは、図書館問題研究会の『会報』(第79号・1966年11月24日)であった。じつは、この『会報』全8ページ中6ページ分が「羽仁問題」関連の内容になっていて、その基調は次のようなものである。
 (1)、官権の圧力で「言論・集会の自由」が侵されたこと、しかもこれが自主規制の形をとっていること。(2)、建国記念日を2月11日にするのは文部省の方針であること。(3)、図書館界内部に、この文部省の態度を支持する強い力があること。その背景には、右傾化した館長連が多数出てきたこと。
 以上のような基調は、羽仁五郎が欠席した10月19日の大会初日の図書館問題研究会主催の交流集会で確認されたものであるが、そのとき同時に、日本図書館協会の分裂を避け、議論を混乱させないために、全国図書館大会の全体討議には、「羽仁問題」を持ち出さないことも確認されていたのである。『会報』によれば、この交流会には浪江氏も出席されているのだが、「具体的なことは一切公表しない」という先の確約を守って、「羽仁問題」に関しては発言されなかったと思われる。
 ところが、最終日(21日)の全体討議で、図書館界の長老で、日本図書館協会顧問の秋岡悟郎が、先の引用にあるような厳しい協会批判を展開した。
 秋岡悟郎は、1895(明治28)年、熊本生まれ、文部省図書館員教習所(図書館情報大学の前身)の第1期生として東京市内の図書館長を歴任、戦時下日比谷図書館にあって、中田邦造の下、貴重図書の疎開事業に挺身。戦後も都立の各図書館長を歴任し、反骨の図書館人として多くの図書館関係者に慕われていた。
 その秋岡が、いわば爆弾発言をしたものだから、「羽仁問題」は、各地方紙も取り上げ、社会的な波紋を呼ぶことになった。
 『図書館雑誌』にも、1967年4月号(第61巻第四号)の「北から南から」欄において、三苫正勝(図書館問題研究会大阪支部代表者)の「羽仁事件の真相と協会の見解を求める」という投稿が載り、同じ欄に、日本図書館協会事務局長叶沢清介が「三苫正勝さんへ」という回答を寄せている。
 ただ叶沢の回答は、「羽仁五郎氏が欠席になったことについて、私の扱った範囲での正式の理由は、討論会席上司会の浪江氏が報告されたとおり、同氏は病気のため出席不可能になられたわけで、極めて残念ながら大会実行委員会決定の線に変更を加えざるを得なかったという以外にはありません」というように、いかにも歯切れが悪い。その上、現状の大会は、協会と主催地の地方自治体、教育委員会との共催であり、両者の意見の食い違いが過去といわず、将来についてもあるだろう。早く協会が力をつけて独自でも大会が開けるようにしたいという。
 このような回答では協会自身が、文部省なり東京都なりから圧力があったということを暗に認めているといわれても仕方あるまい。

 さて、それでは肝腎の羽仁五郎は、紀元節と図書館について何を語りたかったのであろうか。
 その骨子が先の図書館問題研究会の『会報』に、「図書館は先見の論理を持とう――紀元節について羽仁五郎氏の談話――」として載っている。羽仁によれば、紀元節の問題は、戦後の民主主義にとって極めて重要な問題であり、良心の自由に抵触する問題である。したがって、図書館の自由と深くかかわるので、図書館とは「次元の違う」問題などといわずに、図書館大会で、紀元節問題を取り上げるべきだというものである。
 同じ趣旨の論文を羽仁は、「紀元節と図書館」と題して『月刊社会教育』第11巻3号(1967年3月号、後に『図書館の論理』に所収)に掲載している。この論稿は、1966年11月22日に国立国会図書館職員組合主催の講演会で語ったもので、いうまでもなく、先の図書館大会での不明瞭な経緯が踏まえられている。
 『月刊社会教育』第11巻第3号(1967年3月号)には、羽仁の論稿のあとに「あとがき」を入れ、図全協事務局(図書館活動推進全国労働組合協議会事務局)名で、羽仁の「『突然の欠席』の真相」として以下のように記されている。

 「東京都、文部省、図書館界の一部に、羽仁氏排斥の動きが起って、その圧力で、羽仁氏はついに講師を辞退されるにいたりました。そしてこの羽仁氏排斥の1つの契機になったのは、氏が事前に『学問・思想の自由を侵す紀元節の復活は、図書館の自由とも深く結びついており、さけて通ることのできない問題なので、自分は討論会でこの問題を提起したい』と語ったことにあるといわれています」。
 「当時、紀元節の問題は、審議会で審議されている段階でしたが、私共図全協(図書館活動推進全国労働組合協議会)と国立国会図書館職員組合は、この問題がこのように国民の間での自由な発言や討論を封ずるやり方で進められることに強い疑念を持つと同時に、大会実行委員会の正式な決定を一方的にふみにじった行為は言論、思想、図書館の自由に対する重大な侵害であると考え、直ちに全国の図書館員、文化人、マスコミ関係者にアピールしました」。

 じっさい、図書館大会の最終日、秋岡発言のあった10月21日に、国立国会図書館職員組合は、10・21スト職場集会で、「民主的に決定された講師が、『紀元節問題』を提起するならば、都・文部省が後援をおりるという形で圧力をかけたことは全く非民主的な態度であり、言論の自由と民主主義を守るため断乎として斗うという趣旨の声明を採択し、それはアピールという形で直ちに各方面に発送され」(図書館問題研究会・『会報』第79号)たのであった。

 ところで、このように現在からみると、この「羽仁問題」に関して過剰とも思える反応を図書館界がその一部とはいえ、見せたのは、理由のないことではなかった。
 当時、建国記念日をめぐる問題は、世論を二分する極めて重要な政治的な課題になっていた。
 旧紀元節復活の動きは1948年、現在の祝日法がつくられたときからすでにあったが、当時はGHQの横やりで表面に出なかった。しかし、独立後は次第に勢いを盛り返し、1957年に自民党から初めて国会に議員提案されてからは、1965年までに7回の議員提案がくり返された。1964年には佐藤栄作内閣が政府提案した。いずれも野党の反対で実現しなかったが、1966年、第51通常国会に2度目の政府提案として出された祝日改正法案が可決された。1957年以来、10年越し9回目であった。
 だが、この法案はすんなり通ったわけではなかった。敬老の日(9月15日)と体育の日(10月10日)は日付が決定したけれども、肝腎の建国記念の日の日付は6カ月以内に政令で定めるという妥協的なものだったのである。
 政府は、奥田東(京都大学長)、松下正寿(立教大総長)、大宅壮一(評論家、後辞任)ら学識経験者からなる建国記念日審議会をつくり、審議会は、民俗学、歴史学、暦学らの研究者を参考人に招いたり、東京、大阪などで公聴会を開き、世論調査も行なわれた。
 一方、賛成派、反対派もそれぞれ、集会を開いたり、新聞や雑誌にも、いわゆる文化人たちが賛否それぞれの意見を書いたりしていた。
 たとえば、賛成派は、四月二七日、東京、日比谷公会堂で、紀元節復活法制化本部主催で紀元節制定推進国民大会を開き、2月11日を建国記念の日とすることを要求した。他方、反対派は、9月15日に、紀元節復活反対キリスト者決起集会を開き、17日には紀元節復活反対国民集会を開いていた。
 また、桑原武夫、末川博、江口朴郎ら学者、文化人884人は、2月11日を建国記念日とすることに反対声明を発し、学術会議学問・思想の自由委員会や日本歴史学協会もそれぞれ反対声明を発していた。
 全国図書館大会の講師の一人に、羽仁五郎が選ばれたのは、まさにこのように、紀元節復活問題で世論が大きく揺れ動いていた時期だったのである。いうまでもなく、羽仁は、紀元節復活反対の急先鉾であった。ある種の政治的アジテーターの羽仁が1000人以上も集まる図書館大会を紀元節復活反対の格好の情宣の場と考えたとしても不思議ではなかったのである。
 他方、図書館界の方にも、羽仁五郎にはある種の思い入れがあった。戦後、参議院議員として、国立国会図書館の創立に奔走し、国立国会図書館法の有名な前文、「真理がわれらを自由にする」を起草したあの平和と民主主義の旗手、羽仁五郎という存在は大きかったのである。
 なかでも、国立国会図書館職員組合の羽仁に対する思い入れは格別であったと思われる。だから、図書館大会で「拒否」された羽仁五郎を1カ月も経ずに講演会に招き、講演記録の掲載誌には、図全協事務局名で先のような「あとがき」も入れたのである。
 ついでにいえば、図全協は、国立国会図書館職員組合が図書館研究集会を開催するなかで一九六二年に結成されたものであり、図書館問題研究会の事務局も、1966年当時は、国立国会図書館職員組合内に置かれていたのである。
 以上のように、「羽仁問題」は、明治100年を2年後に控えた1966年の政治情勢と国立国会図書館職員組合を中心とする一部の図書館労働者の羽仁五郎に対するある種の思い入れが事態を大きくさせたのである。その意味では、講師の1人として羽仁五郎を選んだ最初の人選が軽率であったといえないこともない。
 さらに、日本図書館協会事務局長叶沢清介の「三苫正勝さんへ」(前出)という回答にみられるようなあいまいな説明がより事態を深刻化させる結果になった。

 いずれにしても、講師決定後に司会を引き受けた浪江氏の苦労は多大であったと思われる。その上、浪江氏も所属している図書館問題研究会が批判の先頭に立ち、かつその火を付けたのが図書館界の長老で信頼の厚い秋岡悟郎だったのだから、その心労は想像に難くない。
 浪江氏も日本図書館協会も予想外の事態であった。にもかかわらず、浪江氏は沈黙を守られた。
 おそらく、浪江氏には、政治的にはすでに決着のついている紀元節問題を、羽仁五郎のアジテーションによる一時的高揚によってむし返すよりも、地道な図書館運動の方がより重要だという確信があったものと思われる。
 この時期、浪江氏が「満腔の賛意」を表した『中小都市における公共図書館の運営』=「中小レポート」(1963年)から3年、その実践の場である日野市立図書館が自動車文庫ひまわり号で出発して1年、まさに、「市民の図書館」が芽生えはじめていたのである。
 浪江氏は、この新しい図書館の動きに賭けた。誤解を恐れずにいえば、羽仁五郎の煽動で図書館界が混乱し、せっかく芽生えはじめた図書館の新しい動きに水が差されてはならない。逆にいえば、羽仁五郎の煽動ごときで混乱するほど図書館界の思想的基盤は脆弱だといえるのだが、ともかく浪江氏は1つの決断をされたのである。
 ここに、同じ民主主義を希求しつつも、政治的アジテーターとしてのロマンティシスト羽仁五郎と、なによりも地域に根差した民主主義の定着を目指したリアリスト浪江虔氏との政治的姿勢の相違を読み取ることも出来るが、そのテーマについては別の機会に書きたいと思っている。
 とはいえ、通信傍受法や国旗・国歌法案が現実化している現在、30数年以前の羽仁の危惧を「次元の違う」問題として切り捨てていいのか、という思いが、私には、ある。ほんとうのところ、浪江氏がご存命ならば、お聞きしたいという気持ちもある。
 2年前、私は、浪江氏に、「あのとき、羽仁五郎にそのまま思う存分語らせたら、どうだったでしょう?」とは、お聞きしなかったけれど、いまになってふと、そんな思いが過ぎったりするのである。

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