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[ひとりの学校司書が語る] 風景としての高校図書館

真々田忠夫
[1999-12-18]

 本人が積極的に選択したかどうかは別にして、あたかも通過儀礼の様に、ほとんど誰でもが一度は高校生になってみる時代。そのために、全国には約5500もの高校がある。それらの高校は、その成り立ちや地域性、通ってくる生徒の状況もそれぞれに違う。したがって、それぞれの日々の営みも、その醸し出す雰囲気も千差万別といっていいのではないだろうか。「高校」という言葉で、単純に括る事のできない様々な状況が、そこには存在している。
 そしてほぼ同数の高校図書館がある。そこにも様々な日常が繰り返され、その高校ならではの風景がある。5500分の1の小さな窓の、その片隅から見える風景、そこには5500分の1の世界のひとこまがある。その、小さな破片のような風景の中に垣間見える、高校という世界。この風景を見詰め直しながら、ひとつの高校図書館の表情をなぞってみたい。


文◎真々田忠夫
ままだ・ただお●
司書生活24年目、高校図書館の勤務も13年目を迎えた。この頃は紙芝居をかかえた生徒と一緒に、校外に出かけては、子供達と遊んでばかりいるとのもっぱらの評判。本誌編集委員。


私の居る高校図書館というところ

 サービス対象は、生徒と職員を合わせても約1000人。公共図書館などと比較すれば信じられないほどの少なさである。したがって、利用者(潜在利用者も含め)の顔が見え、その求めるものも掴みやすく、要求にも容易に応じられ、活発な活動がしやすいのではないかと思われがちである。事実、公共図書館から異動してきたばかりの時には、私もそう考えていた。しかし、生徒の利用を考えたとき、実際はそれほど簡単ではなかった。
 確かに頻繁に利用する生徒とは、いろいろ話もできるし、リクエストなども良く出されてくる。また、貸出しの状況や書架の本の乱れ具合などでも、よく読まれている本のジャンル、作者などの傾向は把握しやすい。しかし、それは図書館にともかくも足を運んでくれる生徒の場合である。図書館の利用拡大ということになれば、こうしたことはあまり役には立ってくれない。
 何はともあれ、普段図書館に興味を持たない生徒にも利用して貰い「実績を」と腕を捲くると、これが思いの外大変なことになる。お決まりの「図書館だより」「新刊案内」「ジャンル別図書案内」などなどで、図書館のおもしろさ、楽しさなどをアピールするのだが、生徒は一向に誘いに乗ってくれない。図書館主催の「講座」なんてのもやったし、文化祭にも力を入れた。それなのに「なぜ……」。
 だが、よくよく考えてみれば当然のことかもしれない。誰もが読む事が好きで、図書館に通うことが楽しいというわけでもない。そう、本を読むことがとても楽しかったり、なるほどこれは役に立つと思ったり、本を使って知識欲を満足させたりする生徒ばかりではない。むしろ図書館を利用しないほうが、世間的に見ても多数派なのだ。そんな生徒にとっては、図書館からのアピールは「ふう〜ん」で終わってしまうのかも知れない。
 その上、この図書館の蔵書構成が必ずしも利用者ニーズに沿っているとはいい難い。日頃、生徒の関心や興味に注意を払いながら選書をしていても、高校という「場」や教科教育の内容に沿うといった配慮が当然に働く。そして、それは「不幸」にして、利用者ニーズとずれてしまうことも少なくない。そうした、蔵書構成なのだから、「楽しい」「おもしろい」「役に立つ」とかいって、どんなにアピールしてみても生徒の反応は「…………」。けれど、この蔵書構成を変更するつもりもない。
 しかし、このままでは図書館の存在感が薄くなるばかりである。それでは司書の沽券にもかかわる由々しき事態となってしまう。と、勝手に思い込み、薄れがちな職業意識を駆り立て、試行錯誤を繰り返す内に10年をとうに越える年月が過ぎてしまった。振り返って、自分の目指した「実績」を達成したとは言い難いその年月が、虚しかったのかといえば、そうでもない。よくよく考えてみれば、この図書館の存在することの意味は統計的数値などでは計り切れないものがある。何気なく日々繰り返されている、生徒のいる図書館の風景。その風景から見えてくるすべてが意味を持っている。立ち止まってゆっくり考えてみれば、その風景の中に、ここの図書館が担わされている役割が像を結んでいたのかもしれない。


私の目に映るさまざまな風景

†風景……1

 毎日と言って良いほど図書館に顔を見せ、頻繁に本を借りていく。だいたい好みのジャンルがはっきりしていて、話題になった本などもよく読んでいる。それに、リクエストなどもこまめに出してくれる。それだけに、「名前」と読書傾向などが結び付いて印象づけられ、選定の際に「顔が浮かぶ」のがこのケースである。図書館にとってはお得意様中のお得意様である。さらに発展すると、司書室を放課後の生活の場にしてしまう輩もでてくる。授業が終わるとあたかも帰宅したかの様に毎日訪れ、友達との団欒タイムを楽しんだり、ここから部活などにでかけていく。それだけに司書との個人的つきあいも深くなり、卒業してからも訪れることが多い。


†風景……2

 書架を丹念に見て、おもしろそうな本を見付けて立ち読みをする。借りていくことはあまり無い。これらの生徒は、目立たない所に移動して読んでいる事が多い。中には、時間になると近くの棚に無頓着に置いて帰っていく者もいる(とんでもないところに本が移動していて困ってしまうこともあるが、読書傾向の参考にはなる)。この変形として何人かで「ひそひそ」という事もある。この様な場合の関心のジャンルは大体決まっている。これらの生徒は、読書の秘密を最も大切に考えているようで、私が近付く事を嫌がって場所を移動する。したがって、私もなるべく素知らぬ顔をする。いずれの場合も貸出しには結び付かないけれど、大事なめだたない顧客である。なかなか侮れないのが、こうした利用の館内読書の量である。


†風景……3

 試験勉強のために使われる。これは図書館の古典的利用方法として定着している。定期試験や大学受験のための勉強部屋にも変身する。あまり歓迎できる利用ではないが、邪魔にしたことはない。どんな形でも、生徒との接点を大切にしないと、閑古鳥さえ逃げてしまうことを肝に銘じないといけない。そのため、進路コーナーなどを用意して、こうした生徒の図書館愛用者への転向を画策している。これが結構成功していると、自画自賛している。


†風景……4

 あおざめた顔でキャレルデスクに座っている。何か思い詰めたような雰囲気が漂う。やがて彼は保健室へも通っている事が判明する。さて、どう対応したらいいか気をつかう。時々声を掛けて本の紹介などをすることもあるが、だいたい功を奏することは少ない。もちろん保健室とも連絡を密にする必要に迫られる。2人の場合もある。深刻な顔で話しをしていたり、時には涙で濡れていることもあるが、こういう場合はちょっと近寄ることが憚れる。それとなく注意を怠らず、関係の職員と情報交換が必要になる。


†風景……5

 単なる待ち合わせ。友達が部活や委員会にでていて、それが終わるのを待っている。生徒面談までの時間潰しもある。ぱらぱらと雑誌などを捲くっている。こういう使い方をしている生徒だからといって邪険にしてはいけない。これはチャンスである。いろいろ話し掛けながら、それとなく図書館の宣伝をして、愛用者になるように暗示を掛ける。進路に関する話題になることが多いので、それに関する本の紹介や同じような希望をかなえた先輩の話などをする。そして、顔見知りになり挨拶などが交わされるようになったら、顧客リストに加える。


†風景……6

 彼はいつも新聞を見に来た。休み時間にはいつも新聞架にいた。でも、新聞を繰っているがどうも読んでる風はなかった。紙面とは全然違う所を見ていたりする。そうした繰返しの中でも友達ができ、なんとか3年間を「無事」通過していった。そうかと思うと、書架を巡り、私の書架整頓ぶりをあたかも監視しているかのごとく振る舞う生徒もいた。彼も本を読むではなく、書架の間を巡回し昼休みの時間を終える。また、所在無げに雑誌を見たり、雑誌架の前で思索にふけっていた哲人もいた。そうそう、書架の本を数棚分裏返しにして、私のあわてぶりをおもしろがっていた生徒もいた。


†風景……7

 授業の一貫として使われることも多い(昨年1年で200時間ぐらい)。いわゆる調べる授業である。課題を与えられたり、テーマを自分で選択したりして図書館の資料を使って「レポート」をまとめるような形が比較的多い。この場合いわば「無理やり固定客」とでも言えばいいのか。こうした図書館の利用をしている生徒を、授業を離れてからも顧客にするのはなかなか難しい。こうした使われ方はこれから確実に増えていくのだから、彼等にとって図書館はどんな印象なのかを探っていかなければ……。


†風景……8

 書架の陰で2人だけの世界を作っていることはよくあるそうだ(私はあんまり気が付かなかったが図書委員の密告によれば)。これは図書館だけに限らず、物陰好きな彼等はどこにでも出没する。なかなか、他人?が立ち入れない雰囲気が漂っていることもあるそうだ。目的外使用の様な気がするけれど、静かな利用者として振る舞い、回りに迷惑を掛けない限り、そっとしておく外ない。


†風景……9

 車椅子で利用する生徒も何人かいた。高い書架の本の利用などは、いつも友達が手伝ってくれていた。特別な配慮もできなかったけれど、時々顔を出してくれた。また、介助のお母さんの方が多く利用してくれた場合もあった。そして、頼りない手話での貸出しにもめげず図書館を良く利用してくれた生徒もいた(彼女とは本のことに限らずいろいろな話しをしたけれど、私の手話が未熟で口話の読取りが多く、ずいぶん疲れさせてしまった)。


†風景……10

 司書室にお喋りにくる生徒(教員)もいる。親のこと、友達のこと、授業のこと、担任のこと、将来のこと、もう様々な話しがあふれかえる。相手は、ただお喋りしてしまえば気が済んでしまう事も多いのだが、こちらはそれでは済まさせない。その結果、ただお喋り(愚痴)だけで終わる場合と利用に結び付く場合と2通りある。後者の場合が多いのは、私の司書としての職業意識の成せる業(?)である。かくして、私は学校一の事情通(裏も表も)にもなってしまう。


†風景……11

 近くの公共図書館を訪ねることがある。そんな時、本校の生徒を見掛けることがある。蔵書量や蔵書内容だけではなく、匿名性を求めてのこともあるのかな。学校ではどんなに努力しても匿名性を完全に保証できない。少なくとも、司書の私には何を読んでいるか知られてしまう。そのことすら認められないこともあるだろう。自分の都合や判断で学校の図書館を使わないのも大人になっていく彼等の姿なのだ。


†風景……12

 図書委員会活動というのがある。簡単にいえば、生徒会活動の一部で図書館の宣伝をしたり、運営のお手伝い的な事をするのであるが……。それだけに、活発に活動しているときには、活動場所の図書館は図書委員の天下になる。
 文化祭などに参加するときには、大変である。司書室は文化祭準備の作業部屋となり、私の仕事など片隅に押しやられ、乗っ取られてしまう。佳境に入ると、夕食のための食堂になってしまうことさえある。とにかく、てんやわんやである。とにかく、こうした活動に積極的な生徒は、図書館のお得意様でもあるので、何かと便宜を図る事になる。したがって、図書館挙げての活動になってしまう。そして、図書館史に残る結果を残してくれるから尚更である。


これからの高校図書館の風景は

 学校図書館法の改正、教育改革などといった、高校図書館を取り巻く状況にも、様々な変化が起きている。その流れは確実に、高校図書館の在り方にも影響を与えることになるだろう。こうした影響によって、高校図書館が今までとは違った活動を求められることは間違いない。さて、どの様な未来が待ち受けているのだろうか。
 1つには、学校図書館法が改正され司書教諭の配置が現実のものとなってきたことである。このことは、高校図書館において微妙な問題を孕らんでいる。現在、多くの高校図書館では学校司書などの図書館専任(職種・雇用形態は様々だが)の職員がいる。そこに新たに司書教諭が配置されるとすれば、それぞれの職務分担と連携・協力をどの様にすれば良いのかが課題となる。その結果次第では、図書館の運営に支障がでることにもなり兼ねない。
 また、それは単なる職務の割振りということに止まらず、図書館運営の方針・考え方にまで影響が及ぶ可能性がある。生徒自身が選択し、その興味と必要によって利用する場としての図書館。しかし、教科教育や生活指導の色彩が強く感じさせられるような図書館になれば、図書館の独自色は薄められて、生徒にとっての魅力が薄れていくことになる。もちろん、高校図書館であるから、その高校の方針に沿って運営されてしかるべきなのだが、その反映の仕方によっては、図書館の表情を偏平にし、結果的にその高校の多様性を狭めていくことになるかも知れない。
 もう一方で、「教育改革」の検討による教育方法の見直しがある。これは、主に2つの側面から再検討が促されている。1つには、社会の変化が、学校教育に対する期待も変化させている事である。いわゆる「個性を伸ばす教育」である。そのために教育の制度・仕組みが再検討され、その一貫としての教育方法の見直しが行われている。
 また、他の側面として生徒自身の変化がある。教育という作業は対象の数だけ方法が必要なのだが、学校教育ではそれを満足させることなどできるはずがない。そんな余裕があろうはずがなかった。だから、効率的な方法を行い、それに生徒も倣う事が求められてきた。しかし、現在はその現実的妥当性が段々小さくなり、そうした点からも教育方法の再検討が求められている。 だがこれは今に始まったことではない。高校においては、少なくない数の学校で授業を行う事自体が困難を伴っている。そこでは、高等教育などといった建て前などではなく目の前にいる生徒に合わせた授業をするしかない。教科書も指導要領もない、ただ在るのは、生徒の現実だけだ。そうした高校を取り巻く「社会・業界・マスコミ」などの当を得ない議論とは関係なく、生徒と教職員の困難な日々が続いている。しかし、最近になって、小学校の学級崩壊などといわれる実態があからさまになって、こうした状況に対する認識がかわりつつある。子供達の変化が如実に見えるようになり、そのことが、社会状況の反映であることがはっきりし、社会の目がようやく現実を直視するようになった結果であろう。
 こうした理由によって、従来からの一斉・画一的な教育方法が見直されている。そのなかで、調べる学習など図書館の資料を活用しての学習が注目されている。将来的には、教科教育での図書館利用も増加し、「学習」の場としても賑わうことになるだろう。それにつれて、授業の場としての高校図書館という風景も定着していくことだろう。
 こういった変化が、生徒達の学校生活に一定の影響を及ぼす事は確かである。しかし、すべてが変わっていくわけではない。授業以外の部分では、大きく変わり様もないという彼等の姿が見えるような気がする。とくに、この世代特有の不安、悩みや戸惑いに彩られた心象風景は変わらないのではないだろうか。いやむしろ、今まで以上に重い現実となって彼等を悩ませる兆候が見えている。そして、教育という行為には単に知識の伝達だけではなく、個人の社会化という内容も含んでいるため、それを受ける立場の個人とは軋轢を生む宿命を持っている。この軋轢による苛立ち、不平・不満なども同様ではないだろうか。
 生徒が、自分の抱えるに問題に悩みながら、そのことを自立的・自主的に解決し、成長する場としても高校図書館は機能してきた。それが、この高校の生徒に対する表情の豊かさを演出していた。そして、これからは、さらに大きな期待が寄せられるかもしれない。したがって、この高校図書館の授業以外での風景は大きく変わることはないだろう。この図書館が様々な生徒の思いを引き受ける姿勢を変えない限り。また変えることもできないはずだから。

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