ず・ぼん7●富山県立近代美術館・県立図書館問題 訴訟に至るまでの経緯

富山県立近代美術館・県立図書館問題
訴訟に至るまでの経緯

堀 渡(ず・ぼん編集委員)

[2001-08-06]

 天皇の肖像をコラージュに組み込んだ版画作品の、公立美術館での収蔵・公開とその作品を含む展覧会図録の美術館・図書館での収集・公開・保存に端を発し、文化行政のあり方や裁量権が問われた、一四年に及ぶ議論が最高裁判所の上告棄却で一つの節目を迎えた。
 問題になっていた作品は、東京都国分寺市に住む美術家大浦信行氏が一九八二年から八五年にかけて制作した、一〇点の版画シリーズ「遠近を抱えて」。一九八六年に企画展に招待、展覧後に買い上げ、その後の対応がいろんな局面で問われていたのは富山県立近代美術館と富山県立図書館。大浦氏は自分の作品及び図録を鑑賞してもらう権利等の侵害を理由に、また共闘する富山県民内外三四人は作品の特別観覧請求権及び図録観覧権侵害を理由に、富山地裁に一九九四年九月、訴訟を起こしていた。被告は監督官庁の富山県教育委員会、富山県。
 一九九八年、富山地裁で原告側一部勝訴、のち原告被告両者から上告、二〇〇〇年二月名古屋高裁金沢支部での原告側全面敗訴に続いての最高裁控訴であったが、同一〇月二七日上告棄却となり、高裁判決が裁判所の判断として確定したのである。
 「ず・ぼん」誌は創刊号でこの事件をそれまであまり論じられなかった図書館の問題に光をあてながら特集を組み、第三号でも関係論文を掲載してきた。富山市内で出版社を営みながらこの裁判に関わってこられた勝山敏一氏には昨春の高裁判決後に論文を依頼していたが、予想外の早い上告棄却(と今号の発行の遅れから)こういうタイミングでの掲載となった。

 改めて事件を振り返ってみよう。
 一九八六年三月一五日から約一ヶ月、富山県立近代美術館で展覧会「ユ86富山の美術」が開催された。八一年の同美術館オープン時にビエンナーレ(隔年制)での開催が決まっていた館主催の企画展の三回目である。県内在住作家及び県とかかわりが深い作家のうちから、招待作家選考委員会が選んだ三〇人の出品による九七点の展覧会であった。それに富山県出身である大浦氏の連作版画「遠近を抱えて」一四点のうち一〇点が出品された。昭和天皇を含め、既成の写真素材(古今東西の名画の一部、頭蓋骨、人体及びイカの解剖図、裸婦、入れ墨の後ろ姿、木の幹、家具など)を様々に組み合わせたコラージュの連作であった。開催期間中に同美術館から、一〇点のうち四点を購入するので六点は寄贈してほしい、との申し出があり、大浦氏は了承した(実際にはこの六点は正式寄贈の前に、九月に大浦氏に返却されている)。展覧会終了後の六月、県議会教育警務常任委員会で二人の議員が大浦作品には不快感を覚えたと発言。一週間後、美術資料として保管するにとどめる、という非公開措置が美術館長の見解として公表された。同七月県議会本会議で再度議員が批判。「天皇の肖像権侵害」の疑問を含め、県民感情を原点とすべき美術館運営の基本姿勢を質した。県知事は陳謝。美術館は、展覧会図録「ユ86富山の美術」の非公開も決定。この直後には、全国から右翼団体二二〇人程が県庁周辺などで街宣車五〇数台による大規模な街頭宣伝活動を展開。教育委員会と美術館に抗議し、作品の焼却と館長解任を要求。一時は騒然となった。一方、かねてよりの県立図書館からの図録寄贈の要請にたいし、美術館は一般非公開を条件に八月一二日に図録を寄贈。図書館は「当分のあいだ」閲覧や貸出をしないと決定した。大浦氏を含む公開派・擁護派も近代美術館や図書館に公開や閲覧を求めて抗議や交渉を行う。八七年には、県の情報公開条例に基づき収蔵された四点の作品の「特別観覧請求」を美術館に出すが、却下。その後の「異議申立て」も却下となる。八八年九月、元美術評論家・新聞記者であった美術館長は辞任、美術短大の学長に転職。
 一方、八八年三月、日本図書館協会「図書館の自由委員会」は、県立図書館の措置を「妥当でない」とする見解を発表、勧告書を送る。昭和天皇の病状重く、落ち着かない世情のなか同年一〇月の全国図書館大会(東京・多摩地区)の「図書館の自由に関する分科会」では、図書館としては大変危険でまずい事態であると、大いに議論になる。八九年一月七日、昭和天皇死去。九〇年三月二〇日、県議会では同二二日から県立図書館所有のの図録を制限付き公開する旨の報告、美術館の図録についても同様の取り扱いとしていきたいとの教育長答弁がある。その県立図書館での公開の初日、最初の図録請求者となった県内在住の神職が、図録の「遠近を抱えて」の掲載四ページ分を破り捨て、その場で逮捕された(県議会は「憲法に保障された『表現の自由』を侵害する行為」とする声明を発表。県知事は器物破損罪で神職を告訴。神職等は「天皇の名誉」等を掲げて最高裁まで争うが、有罪が確定)。九〇年九月、日図協「自由の委員会」は「公費によって作成された刊行物が閲覧できないことは情報公開の趣旨に反するから、図書館は図録をぜひとも再入手すべきであり、美術館は再寄贈すべきである」という意見書を発表。九二年八月、右翼団体幹部が知事室に侵入、知事に棒で殴りかかって逮捕されるという事件がある。
 九三年四月、美術館が収蔵中の作品「遠近を抱えて」の四点を匿名の個人に売却したことを、県議会で教育長が報告する。また同時に図録の残部四七〇冊を焼却していたことが後日明らかとなる。その理由は作品及び図録が天皇の肖像権・プライバシーの権利を侵害するおそれと、右翼団体からの作品及び図録の破壊や美術館職員への危害のおそれの下で県立近代美術館が作品等を保管するかぎり、管理運営上の障害が解消されないからというもの。これに対して「ユ86富山の美術」展出品者有志による抗議声明、全国の美術評論家や作家による抗議声明など相次ぐ。また、この問題を考えるシンポジウムが何度か開かれ、雑誌や出版物で取り上げるようになる。
 一九九四年四月、作品売却と図録焼却に対して県民が県の監査委員会に監査請求。五月に監査請求は却下。そして同年九月、大浦氏および県民内外三四人は富山県と富山県教育委員会を相手に訴訟を提起したのであった。大浦氏は、作品及び図録を鑑賞してもらう権利等の侵害を理由に、また他の三四人は作品の特別観覧請求権及び図録閲覧権侵害を理由に、国家賠償法第一条に基づき富山県を被告に。
 また、富山県教育委員会教育長に対しては、行政事件訴訟法三条四項に基づき、作品の売却処分及び図録の焼却処分の無効確認の訴え並びに作品の買い戻しと図録の再発行を求める義務づけ訴訟であった。