田中康夫」タグアーカイブ

菅直人と田中康夫の相似と相違

週5日・夜勤フリーター、週2日フリーライターの及川 H. 健二です。

菅直人・首相と田中康夫「新党日本」代表を間近で見てきた者として(二人ともいまは関係なし)二人の相似と相違について述べたい(敬称略)。

ヤッシーと菅の相違点は

①「何にでも口を出したがる」(知りたがる)
②「キレやすい」(イラ菅)
③身近な者が去って行く

点であろう。

相違点についてヤッシーについて述べるすることで解き明かしたい。
ヤッシーという人物は、驚くほどに、何でもできる。
典型的な秀才だ。
たとえば、車での話。彼氏は東京の道路について、ほとんど、地図が頭に入っている。
だから、運転手が、変な道を走るとキレる。
つまり、「自分ならできる」のに誰かが「できない」から怒るm(_ _)m
ヤッシーには卓越した「事務処理能力」がある。

菅直人はなんでもしりたがる。
自分の知らないところで、物事が決まることを嫌う。
その点では、ヤッシーと一緒だ。
しかし、彼氏には「事務処理能力」が欠けている。
首を突っ込む。しかし、的確な指示を出せない。
物事はうまく進まない。それで、キレる。
かつては、秘書にパンチ・蹴り・灰皿投げをくらわしていた(複数の元側近から確認)。

ヤッシーと菅首相の違いはそんなところだろう。

ちなみに、わたしは政権交代の大きな失敗の一つは、田中康夫という稀有な人物を内閣・政権中枢に取り込まなかったことだと思う。私ならば国土交通相につけていただろう。

1フリーターの生意気な意見だが。


保坂のぶと「4年で2500万円の区長退職金を即廃止」

4月22日のおやつの時間帯に、明大前駅にて世田谷区長選挙に出馬している保坂のぶと前衆院議員(国民新党・新党日本・生活者ネットワーク・社民党 支持)と応援に入った中川智子・宝塚市長による合同演説会が行われました。

保坂さんの演説要旨は以下の通りです。

[Ⅰ]高額の区長退職金は廃止

世田谷区長を一期(4年)務めるだけで2500万円の退職金がつく。二期務めれば5000万円、四期務めれば1億円だ。こんな世間の常識から外れた退職金は即廃止します。わたしは退職金を廃止し、受け取りません。

[Ⅱ]ガラス張りの区長室を庁舎1Fにつくる

昨日、田中康夫・衆院議員&新党日本・代表が応援に来られました。田中さんは長野県知事時代、県庁舎の一階にガラス張りの知事室を創られた。知事室が県民から監視される場所にあれば、怪しい利権屋は入ってこられない。わたしは情報公開が徹底されたガラス張りの区政をつくります。その象徴として、ガラス張りの区長室を創ることをお約束します。

[Ⅲ]区民みんなが参加できる車座集会を

現在の熊本区長のもとでもタウンミーティングは行われています。しかし、事前に質問を書かせて、参加者を区職員が選別する。これではいけない。「いつでも どこでも 誰とでも」を合言葉に、区民の誰もが参加できるような車座集会を私は実現します。

[Ⅳ]原発にNo!と国にいえる唯一の候補

わたしはチェルノブイリ事故の後に反原発の作家・広瀬隆さんをお招きして、大講演会を企画・主催・実現し、それをVIDEOにして頒布いたしました。根っからの反原発の立場です(※日本共産党はチェルノブイリ当時は原発の平和利用を主張し、広瀬隆さんら反原発の活動家を批判した。現在は原発からの脱却を唱えている)。
わたしは国会議員を三期11年務めました。国会とのその太いパイプを使って、国に原発No!を物申していきます。

_12_0144.jpg

応援演説:中川智子・宝塚市長

自我作古「彼を知り己を知らば……」 ~中華人民共和国・建国60周年を迎えてⅡ~

 一九九三年11月5日から夏期バカンスを除く毎週末に筑紫哲也さんが欠かさず発表したコラム『自我作古』(『風速計』の場合もあり)を読み返す日々が続く。
 中華人民共和国の民主化について考えるヒントは第371回「彼を知り己を知らば……」にあるように思う。引用する。

☆☆☆☆☆☆

 世界初の大学が建てた平和博物館とされる「立命館大学国際ミュージアム」(京都)がリニューアルされたのを機会に、そこを再訪した。

 もともとよくできた博物館だが、初心者に興味が持てるような工夫(「きっかけ展示」)や、展示だけでなく、さらに詳しく知りたいと思う者への情報を辿る回路を設けるなど、さらに改善が加えられている。

 世界中には、互いに連絡を取り合っている平和博物館がおよそ一〇〇あるが、その半分は日本に在るという。これは誇っていいことだと思うが、「平和ボケ」とか「一国平和主義」とかの罵りことばで「日本特殊」を咎める風潮が強まっている昨今では、「平和」を展示することは容易ではなく、展示の仕方にも工夫が要る。世界中を覆っているのは、兵器を陳列したり、「われ戦えり」と勝ちいくさを強調する戦争博物館や記念建造物(モニュメント)の類である。

 工夫が要るのは、博物館の展示方法だけではない。

 もともと、戦争と平和は表裏一体を成しており、「平和のため」を掲げて行われなかった戦争は滅多にない。しかも博物館や記念碑で象徴されるように、平時においても「戦争文化」は「平和文化」に対して圧倒的に優勢なのである。さらに皮肉なことに、このせめぎ合いのなかでは、「平和(文化)」を守る側も、そのために「戦う」ことが求められる。もちろん、平和的な方法によって、ではあるが---。

 ではどう戦うか。その場合、もっとも心すべきことは何か。

 表題のことばは、戦争文化が全盛のころの日本人ならばだれでも知っていた、孫子のことばで、「百戦殆(あや)うからず」と続く。敵と味方の状況をよく知り、把握して戦うならば、いくら戦っても負けることはない、という意味である。ナポレオンも今の中国を創った毛沢東も「孫子の兵法」の愛読者だったが、彼らはこの有名なことばの次に続くのが何だったかも知っていただろう。

「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」---敵側の実情がわからず、自分の方だけ知って戦う場合は勝敗の確率は五分五分。

「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆(あや)うし」---敵の様子も、自分たちの能力もつかんでいないで戦う場合は勝てる見込みはない全くない。

 「孫子の兵法」は、「戦争文化」が生んだ作品、それも傑作のひとつと呼んでいいものだろう。「平和文化」の側に身を置きたいと願う者がそれを援用する場合には、よほどの用心と咀嚼(そしゃく)力とを備えなくてはいけない。「平和のために戦うぞ」というシュプレヒコールに何の矛盾も感じないような鈍感さであってはならない。

 「戦争文化」の常として、孫子は「敵」(彼)と「見方」(己)を峻別するのだが、それを超えて大事なのは「知る」ということの意味だと思う。「戦争文化」を「彼」、「平和文化」を「己」とする場合、相手の心理過程と実力を「知る」ことも大事だが、「彼」と「己」との距離、相違を「己」のなかで「知る」(確認する)ことはもっと大事だ。貪欲、無知、無関心、強がり、自己陶酔、既成観念や大義への安易な寄りかかり---相手と同じものが「己」のなかにないか。立命館大学で、「平和」に関心のある聴衆を前に、私はあえて「あなた(私たち)の心が戦争を起こす」という話(講演)をした。
【2005.6.3】

☆☆☆☆☆☆

 中国に限った話だけではない。
 官僚(彼)を知らず自分の能力(己)を知らないで戦う場合は、「勝てる見込みは全くない」。前原誠司・国交相や岡田克也・外務相の動向を追いながら「殆(あや)さ」を覚える。
 しかし、「君子(くんし)危うきに近寄らず」という故事に倣って(君子と自分は程遠いが)、静観しよう。いずれは書く。

 最後に、田中康夫「新党日本」代表と筑紫哲也さんのいざこざをあげ、故人を攻撃する文が散見しているので、もの申したい。

 田中康夫さんが「筑紫哲也のNEWS23」をボイコットしていた折にも、筑紫さんはそれを承知で、コラムで康夫さんを応援した。2002年夏のことだ。

 2006年春、フランス共和国から帰国したばかりのころに参加したあるパーティーで、田中康夫・長野県知事(当時)が筑紫さんに丁重にご挨拶され、談笑する二人を見て、微笑ましさとともに、安堵感を覚えた。康夫さんはいまでは、故人の遺志を継ぐ“筑紫ジャーナル”門下生の一人ではあるまいか。ちなみに、康夫さんが加藤周一さんと最後にお会いしたのもその会だ。

 康夫さんが帰られた後の光景が今も目に浮かぶ。

 パーティー会場外にある庭園の椅子に加藤さんと筑紫さんが座られ、春にしては強い陽射しのなかでお二人が話し合う。筑紫さんも加藤さんも真剣な雰囲気だった。談笑とはとても似つかわしくない雰囲気だった。そんな時間が長く続き、筑紫さんが席を立ち、帰途についた。

 筑紫さんと加藤さんが天に召されて以来、わたしはその光景を時折、思い返す。あの日、何を議論(論議)していたのだろうか。

 お二人が亡くなられてもうすぐ一年が経つ。
 そんな意識がわたしには芽生えている。
 上田耕一郎さんの死も忘れてはいない。

 今は身を 水にまかすや 秋の鮎

                        合掌

「梶山静六&亀井静香」と非戦の誓い

ウィキペディアの「梶山静六」元・衆議院議員の項に次のような話が載っている。

【梶山の長兄は太平洋戦争で戦死。長兄の「名誉の戦死」の報が伝えられた時、母は地元の人々とともに万歳三唱。梶山は母の行動を不可思議に感じたが、その後自宅土蔵の陰で号泣する母の姿を見つけ、母の心情を理解する。このような悲劇が二度と起こらぬようにと政治家を志したという。生前折に触れて「長兄の戦死を陰で嘆き悲しむ母の姿が私の政治の原点」と語っていた。この話を梶山から直接聞いた田中康夫は感銘を受け、「東京ペログリ日記」等でたびたび紹介している。】

「今は亡き茨城出身の政治家・梶山静六氏が幾度も僕に語ってくれた」話とことわって紹介するのだが、

「と記すと美談に過ぎぬ、と氏が田中角栄氏の懐刀だった事を知る向きは冷笑するやも知れぬ。
 だが、定見無き日本は、有視界飛行のグライダーであるべき。にも拘らず、数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ近時の若手政治家は、計器飛行のジャンボジェットに似て危うい。と語った氏の警鐘を、今こそ拳々服膺すべきではないのかな。」

と梶山先生の現在的意味を問う(http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/ent_573.php)。

「戦士は死ぬ。しかし、思想は生きる」

カストロ議長はそういったが、梶山静六先生の思想を正統に継承されているのが、国会では田中康夫・参院議員だけなのが哀しく、やるせなく、しかし、さすが、ヤッシーだと感心させられる。

康夫さんの意見にまったく賛同である。

亀井静香先生の「戦争の記憶」を伺った時、梶山静六先生の戦争体験と共に、記録されなければなるまい……と思えた。
「戦争を二度と起こさない」。
その誓いは相通じる。梶山先生は「智性・勘性・温性」を持つ康夫さんの真っ当な感覚を信じて、語り手に選んだのだろう。戦争で体験・不条理を康夫さんには頻繁に語られたと聞く。康夫さんは梶山先生の意志を受け継ぎ、現在も、次世代への「遺言」を伝えている。

1945年8月6日、静香先生は7歳で、原爆の閃光を目にした。「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

美談に過ぎぬ、しょせん、『保身を優先する警察庁長官だよ』と亀井先生を揶揄する人もいる。数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ赤松広隆・衆院議員が「民主党」選対委員長を務めておられる。野中広務「私は闘う」(文藝春秋)では非情の人として刻印するためだろうか、1995年末の社会党の新党結成プレ集会で、赤松広隆・衆院議員が「お前が委員長でいるから新党ができないんだ」と大声でヤジったと記されている(単行本・172頁)。 温厚な村山富市首相が「やれるもんならあんたがやったらいいじゃないか」と赤松を怒鳴りつけた。村山トンチャンが日本社会党委員長であり、赤松は役職もないいサラ議員だった。道理からすれば、赤松が「新党結成のために離党すればよかった」話だ。

亀井先生が赤松選対委員長と会談したエピソードは笑える。

【(8月半ばに)赤松が俺にさ、民主党と国民新党との選挙協力を提案してきたよ。料亭の座敷で交えてね、2人で話をした。あいつはいうんだよ。
「亀井先生、富山と広島ではウチは候補者を立てないから、全面的な御協力をよろしく御願いいたします」
私はこう応えてね。
「富山と広島ならば、どうぞ、おたくから全選挙区で、候補者を立ててみなさいよ。喜んで受けて立ちます。」
キョトンとしていたよ。話にならないと見限って、私は

「女将さん、決して、料理が不味いから箸をつけないのではありません。女将さん、どうか誤解なさらないでください。話が不味いんですよ」

といって、すぐに席を去った。赤松は終始、オロオロしていたよ。
まあ、選挙区調整は俺と小沢一郎で直接交渉することにしたよ。昨日も二人で一時間ばかり会って話をしたんだけれども、とにかくね、軽い気持ちでやったら、政権はとれないという点で一致している。「自公政権」をブッ倒すんです。自民党だけを問うているわけではないということ。国民新党にもね、公明党がすり寄ってきていますよ。よほど、焦っているのかね?民主党と国民新党の協力は俺と小沢でやるからさ。(笑)。まあ、見ていてくれ。】

亀井先生は現在の心中を、自身の短歌に託す。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

「静香」という名は女児につけられる。

「生まれたときに荒川静香さんみたいにさ、かわいくてきれいだったのよ(笑)」
「お袋が『静枝』だからね、その『静』をとって『香』をくっつけちゃったんじゃない」

と口にする(http://www.kamei-shizuka.net/media/2006/060510.html)。
その記事の小見出しには

【静香という美しい名前、好きです
美少女「静香」に会える!期待した兄の友達は駅で私を見て絶句した】

とある。

御本人に取材したからだろう。
「美しい名前」は「おふくろさん」からの最高のプレゼントだ……という夢想が強くなった。

山本モナさんと原爆 ~愛に雪、恋を白~

亀井静香・衆院議員と山本モナさんの共通点は、広島県出身ということだ。
静香先生を被曝1世とするならば、モナさんは被曝3世にあたる。

フランソワ=ミッテラン師の最晩年について以前、書いた(http://www.pot.co.jp/oikenparis/mitterrand-2.html/)。

女性が愛に生きることを何で咎められようか……。

「亀井静香&保坂展人」の絆 ~原爆と死刑廃止~

社民党・公認、国民新党・推薦。異色の組み合わせである。保革共存だ。

保坂のぶと(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/)さんの応援者として6人が写真入りで名を連ねている。

・小沢一郎(民主党・代表)
・土井たか子(社民党・名誉党首)
・菅直人(民主党・代表代行)
・亀井静香(国民新党・代表代行)
・福島みずほ(社民党・党首)
・山口文江(東京・生活者ネットワーク・代表)

亀井先生が名を連ねているので目を引いた。

保坂さんは次の総選挙では杉並区(東京8区)から出馬する。
対立候補は現職の石原伸晃「自民党」幹事長代理だ。
石原慎太郎・都知事が御寵愛する御長男である。
自分でも「親バカ」とおっしゃるほどだ。

慎太郎知事と亀井先生は入会に血判が必要とされた「青嵐会」以来の親友・同志である。慎太郎知事が自民党総裁選に出馬した時には清和会(三塚派)の決定に反して亀井先生は助太刀した。その結果、派閥を除名された。派閥より友情を大切にしたのだろう。

慎太郎知事が1995年に衆院議員在職25年を記念した演説で引退表明するのを事前に知っていたから、用があって退席しようとした野中広務先生を

「おい、ちょっと待ってくれ。彼の演説を聴いてやってからにしてくれ」

と亀井先生は引き留めたそうな。野中先生「私は闘う」に載っている逸話だ。

慎太郎知事の演説は実に見事だ。下野した自民党の政策提言『二十一世紀への橋』のほとんどを、慎太郎知事が1人で執筆されたんだとか。(同氏の御著書として『わが人生の時の時』 (新潮社)を私は推薦したい。)

都知事に就任された後、3人は定期的に料亭で会食するようになった。

大切に護ってきた御長男の対抗馬を推せば、御父上はお怒りになろう。

保坂さんと亀井先生は「死刑廃止を推進する議員連盟」を通じて知り合った。議連会長を亀井先生に要請したのがはじまりと聞く。

「死刑廃止を推進する議員連盟」では亀井先生が会長を務めて、保坂氏が事務局長として支えている。バリバリの改憲派と頑固な護憲派。ミスマッチに思える組み合わせだ。だが、2人は密かに敬い、絆を固くしてきた。

会長が自民党を追われても、亀井派から誰もついてこなかった。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

そんなやるせなさを抱いたのではないか。

「志帥会」会長の座にあった亀井先生は、「死刑廃止議連の会長が前面に立っているように思えますが……」という質問へ応答して、体育会系のノリで呼び捨てなのだろう、

「俺1人の力じゃないよ。保坂は真面目なヤツで、熱心に活動しているよ」

と語られた。2003年総選挙で保坂さんが落選する憂き目にあった折、
「次は亀井派から自由民主党公認で出ましょう」
と勝連太郎さんは笑い飛ばした。最高のユーモアだった。

亀井先生は事務所で油絵を描くことに時間を費やす。どちらかといえば、論理よりも、情の人だろう。ユーモアに溢れる親分だ。

保坂さんは資料マニアと呼ばれるほどに書類や本を多く読む。どちらかといえば、論理の人だ。真面目だ。真剣すぎる。実直の方だ。

亀井先生から今夏、お話を伺う機会を得られた。

師の根底には「人間へのやさしさ」がある。永遠のヒューマニストだ。

1945年8月6日が原点にあるように思えてならない。
静香先生は7歳で、広島にて原爆の閃光を見た。

「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

亀井先生はこう語る。次の総選挙を「最後の決戦」と位置づける。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

現在の心中を自身の短歌に託す。

「キューバ革命」の指導者・チェ=ゲバラを「心の師」として仰ぎ、事務所に肖像写真を飾り、東京大学経済学部生の頃は「マルクスの亀井」と呼ばれることもあった静香先生が、ガチンコで「革命」を起こそうとしている。

次の衆議院解散を「亀井静香なる解散」と呼びたい。