スタジオ・ポット
ポットのサイト内を検索 [検索方法]
 
その6「抗議」が議論と出会うとき
   「伝説のオカマ」論争を「あす」に活かす
[2002年02月18日]

●第06回

平野広朗
高校教員/
OGC(大阪ゲイ・コミュニティ)
メンバー

[自分の]人生

 最近ぼくは、「(ゲイ・リブの)運動を始めた最大の理由は東郷健への反発」だという若者が東京にいるということを知った。これも一つの「けれども……」となってくれたらいいとぼくは思うのだが、気になることがあるので、敢えてここでふれておく。それは、彼が書いた文章にこんな一節があったからだ。「彼の活動(功罪両面ありますが)の最大の罪は『ゲイがゲイということを明らかにして選挙に出ても当選出来ない』という誤った認識を日本社会に植え付けたことです。やり方さえ工夫すればゲイ議員は誕生します。彼がいなければとっくの昔にゲイ議員は日本でも誕生していたのでは?」と(下線部、原文では波線)。

 「やり方さえ工夫すれば……」については、ぼくも否定はしない。確かに、健さんのやり方はうまくなかった。「世間様」に迎合してスーツ・ネクタイ姿で立候補したら良かったなどとは言わないけれども、着流しに甲高い声で「おかまのどこが悪いのや。びっこがなんで悪い……」と叫ぶ健さんからは、多くの人が目を背けた。ノン・ゲイばかりでなく、おそらく、むしろゲイのほうがより強く嫌悪感・恐怖感を抱いた。だから、「功罪両面」があったことも、そのとおりだと思う。ただ、彼の「功罪」はかなりドギツイものではあったけれども、「反発」を原動力としてこうした若者が活動を始めたのだとしたら、それも健さんの「功」だろう。

 だがしかし、「彼がいなければとっくの昔にゲイ議員は日本でも誕生していた」、これはない。バカ言ってちゃいけない。

 日本にカウアウトしたゲイの議員が生まれなかったのは、なにも「東郷健のせい」なんかではなくて、ひとえに日本のゲイに意気地がなかったから、それだけのことだ。「おかまの東郷健です」でダメだと思ったら、自分がもっとましなゲイ候補になったらいいのだ。健さんが初めて選挙に打って出て以来、すでに30年もの歳月が流れた。30年経ってもオープン・ゲイの議員を輩出できていないことを、「他人のせい」にしていてはいけない。自分たちの不甲斐なさを猛省すべきであろう。

 自分らの「不幸」を「他人のせい」にして自らを慰める(誤魔化す)性癖を、ぼくは「他人のふんどし根性」と呼んでいるが、これは他人を羨む「隣の芝生症候群」「おねだり根性」と表裏一体の関係にある。「伝説のオカマ」論争から話は離れるけれども、HIVを巡る運動の中でもこのことを痛感したことがあるので、言及しておきたい。

 1995年夏、結審を迎えた非加熱製剤薬害訴訟で勝利を勝ち取るために、薬害の要である厚生省(当時)を人の鎖で取り巻いて徹底追及の意志を示そうとしていたときのことだ。当時、川田龍平くんのおっかけをしていたぼくも当然のことのように厚生省前に立っていたのだが、そのときぼくは、一部ゲイの間から「薬害のことばかりがクローズアップされて、これでは性行為感染の問題が忘れ去られてしまう」という「懸念」が漏らされているということを耳に挟んだのである。それを聞いて、ぼくは心底あきれ果てた。情けない。

 たしかに当時は龍平人気に煽られてもいただろう、マスコミを始めとする世間の耳目は、薬害HIVのことばかりに向けられていた。性行為感染の問題が忘れられていていいわけはない。だが、彼ら血友病の人たちは内出血によって動かなくなった関節の痛みに耐えながら、それこそ文字通り血の滲むような闘いを何年も続けてきて、やっとの想いであの日々を迎えていたのである。翻ってぼくたちゲイは、いかほどの闘いを闘ってきたというのか。自らは動かずして他人を羨むなど、浅ましい根性だ。「隣の芝生」を羨む前に、自分のところの芝の手入れをするのが筋というものだろう。

 今回の「伝説のオカマ」問題に関しては、「もっとひどいマスコミ・メディアがあるのに、それらには『抗議』せずに謝ってくれそうな『週刊金曜日』を狙った」などと謗る声がゲイの間からも聞こえてきたが、だったら、そう思った人が「もっとひどいマスコミ」に「抗議」したらいいのだ。自らは動かずして他人を謗る。みっともないことである。とにもかくにも、すこたん企画は人任せにせずに自ら動いたのだ。ぼくが本稿で伊藤悟・すこたん企画ばかりを批判しているのは彼らを「仲間」であると思えばこそのこと、主体性を失った『週刊金曜日』編集部・編集委員の不甲斐なさまで面倒を見る気がないからであって(それはヘテロセクシュアル同士でやってくれたらいい)、ぼくは「抗議」の内容ややり方には批判的だが、マスコミ相手に抗議することのエネルギーを過小評価すべきではないと考える。

 そんな彼らが展開する主張の中に、しばしば「他人のふんどし根性」が紛れ込んでいることがあるのは残念だ。「親から同性愛者としてのアイデンティティを学ぶことができない」という嘆きの声については、すでに指摘した「しんどさ自慢」の問題のほかに、自分の「不幸」を「(人生のモデルになり得ない)父親のせい」にしてしまう甘えをぼくは感じる。そしてぼくは同じことを、すこたん企画が「性的指向は自分の意志で変更したり選択したりすることが極めて困難」なものであると強調するときにも感じるのである。確かに「変更・選択」は困難なことであろうとはぼくも思うが(セクシュアリティが変化した人や揺れる人も、「自ら選んだ」と公言する人もいないわけではない。「選んだ」人たちのことを「当時はそう言わざるを得ない状況にあった」などと評す人もいるようだが、他人が「解釈」してさしあげるなどは失礼の極み、いらぬお節介であろう)、ことさらに困難さを強調して見せることの真意がどこにあるのか、訝しく思うのである。

 伊藤悟・すこたん企画は、「性的指向」という用語だけが正しくて「性的志向・嗜好」は誤りであるという主張とセットで、「自分の意志で変更したり選択することは難しい」ことを強調する論法を好む。「性的指向」はsexual orientationの訳語として導入されたものなのだろうが、自動詞としてのorientに由来を求めて解釈すればその通りかもしれないが、他動詞的な捉え方も加味すれば「志向」もあながち間違いとは言えまい。「性的指向」という訳語を採用したことは政治的な選択であったと言えるだろう。こうした語義解釈は措くとしても、「指向」に固執する論法にぼくは二つの問題点を見る。

 一つは、「自分の力ではどうしようもないことなのだから、差別することは許されない」と言ってしまったときの危険性である。もともとセクシュアル・オリエンテーションという用語は、1986年にアメリカ連邦最高裁判所が「性的行為の領域は憲法に保障されたプライヴァシーの問題である」という理論を否定する判決を下した(「ソドミー法」(注)の憲法違反を訴えた裁判。5対4の僅差で「合憲」とした最高裁判決は、ハードウィック判決と呼ばれる)ことから、対抗手段的に「法的保護」を獲得するための戦略として仕方なく採用された概念だという。「ソドミー法」などによって法的にも迫害を受ける可能性があるアメリカでのことだから、緊急避難的にはやむを得ない戦略であるかもしれないとはぼくも思う。ともかく、なんらかの形で「生存保障」を得ておかなければ、命に関わる場合だって起こらないとも限らない国なのだ。だが、セクシュアリティの本質を考えるうえで、法廷戦術に左右されるのは本末転倒、邪道の論理だろう。これでは○かXの判定を時代の趨勢・社会の大勢(マジョリティ)に握られたままになってしまう。私的領域に公権力が介入することを許していては、権力《おかみ》から「お目こぼし」を恵んでいただくだけの存在に甘んじることになる。しんどいことだが、長期的視点に立って最高裁判所の誤りを正す運動を展開するのが本来の姿であろう。それが「ソドミー法」訴えたマイケル・ハードウィックの意志を正しく受け継ぐ道ではなかろうか。

 「○○だから差別してはいけない」は、いとも簡単に「XXだったら差別されて当然」に取って代わられる運命にある。両者は同じコインの表と裏でしかない。たとえば、昔から「ゲイになった原因」とやらを「研究」する暇な学者は後を絶たないが、次々出される仮説に一喜一憂右往左往するゲイも少なくなかった。新しい説が発表されるたびに、「ああ、そうだったのか。そういう理由なんだったら、自分に責任はない。だから差別されるいわれはない」と胸を撫で下ろしたものである。だが、それでは「△△が原因(理由)だったら差別されて当然(されても仕方がない)」と別の理由を出されて来たら、対抗できないことになる。「差別されても仕方がない」領域を残すような戦略は、将来に禍根を残すことになるだろう。11月9日号で志田陽子さんが紹介しているように、アメリカのゲイ・リブ周辺ではすでに「指向」を論拠とする戦略の妥当性が議論されているという。自立したゲイが増えてくれば、こうした議論が闘わされるのは当然のことであろう。

 二点目に挙げたいのは、自分の人生を他者に預けてしまう甘えの精神構造である。「指向」であろうと「志向」「嗜好」であろうと、じつはどうでもいいことなのに「指向」にしがみついてしまうのは、「自分の力の及ばないところ」に「逃げ道」を作っておきたいからである。目の前に「世間」が立ちはだかったとき、「だって、好き好んでゲイをやってるわけじゃないんだから、仕方ないでしょ」などと言い訳を並べる姿は、みじめったらしい。ぼくたちは本当に「仕方ない存在」でしかないのだろうか。このようにして「自分の力ではどうしようもないこと」に存在の根拠を求めることで「存在することの許し」を請うという形でしか自己の正当性を主張できないのは、心の底から自己受容・自己肯定できていないからである。肯定できていないから、何か自分以外のところにすがるのだ。

 「性的指向」という用語を使うこと自体はいっこうにかまわないと思うが(ぼく自身、特別な意図がない限りは「指向」を使う)、「指向」に存在証明をすべて預け切ってしまうことは自らを貶めることに繋がるということを肝に銘じておくべきだろう。ほかでもない自分の人生なのだから、「どんな理由であろうと、理由があろうとなかろうと、人の人生に口を出すな」と、胸を張って言い切ることが出来ない限り、差別者とのいたちごっこは終わらない。    

(注)「ソドミー法」は法文上では、同性愛そのものを禁じているわけではなく肛門性交や口唇性交といった生殖に関わらない性行為を禁じた法である。事実、たとえ夫婦間であっても、フェラチオをしているところを目撃されて訴えられたという事例もあるという。だが、問題となるのは、この法律があるために同性愛嫌悪が法的に正当化されてきた面があることである。ハードウィックのケースでは、事件の発端はバーから出てきたハードウィックが飲酒運転をとがめられたといった些細なものであったが、後日家まで罰金を徴収しに来た警官によって、男と性行為をしているところを見られて(つまり、警官は覗き見をしたことになるだろう)逮捕されたことから、問題が膨れ上がっていった。ハードウィックは、逆に「ソドミー法」の違憲性を訴え出たわけだが、この最高裁判決によって、「同性愛そのもの」を処罰の対象として見なすことが法的に確認されてしまったのである。以来、この判決を巡ってはさまざまな議論が闘わされている。

「伝説のオカマ」は差別か topにもどる page top

▲home▲


このサイトはどなたでも自由にリンクしていただいてかまいません。
このサイトに掲載されている文章・写真・イラストの著作権は、それぞれの著作者にあります。
ポットメンバーのもの、上記以外のものの著作権は株式会社スタジオ・ポットにあります。
お問い合せはこちら