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その6「抗議」が議論と出会うとき
   「伝説のオカマ」論争を「あす」に活かす
[2002年02月8日]

●第03回

平野広朗
高校教員/
OGC(大阪ゲイ・コミュニティ)
メンバー

「いちばん傷つく人」

 すこたん企画は「いちばん傷つく人を基準に」と言う。それは正しい、のかもしれない。だがしかし、誰を「いちばん」傷付いた人として位置づけるかは、その人の経験の質・量と洞察力と、その人の成熟度に関わってくる。

 「おかま」と言われて傷付く。「おかま」という言葉にぶち当たって憤慨する。同じ人が「ゲイ」と言って囃されたら、どうだろう。同じように、同じくらいに傷付くだろうか。「おかま」という言葉には、「ゲイ」「同性愛」といった言葉とは微妙に(人によっては歴然として)異なったニュアンスが染み付いている。それは人を侮蔑し卑下する言葉として使われてきた歴史があるからだが(逆に、「ゲイ」や「同性愛」に屈辱感や違和感を抱いて、好んで「おかま」と自称する人もいる)、そこには肛門性交(の受身の男)、「女装の男娼」、(かつての)ゲイ・ボーイといった人々に対する軽蔑が底流に潜んでいたように思う。世間には、彼ら性産業に従事する男、「女のように/女として」振舞う男、「女のように」受身を享受する男に対する抜きがたい嫌悪・憎悪・侮蔑がはびこっている。そして、ぼくたちゲイの間にも、そうした空気が澱んでいることをぼくは否定できない。現にゲイ自身が、「おかま」を罵ることも少なくない。(他人事として)「おかま」を罵ることによって、自分は「あんなの」とは違ってあくまで「おとこ」なのだと言い張ろうとする、さもしい根性がそこには働いている。「おかま」より優位に立つことで辛うじて「自尊心」を保ちたいという、悪あがきが見え隠れする。

 だから、「おかま」と言われて「傷ついた」と訴える人の内面に、「あんなの」と一緒に一括りにされたことに対する憤怒が巣食っているのではないかという疑念をぼくは拭えない。「仲間」である(かもしれない)ゲイからさえ罵られてきた彼らこそが、「いちばん」に傷付いた人々であるとも言えるのではなかろうか。

 このように考えたとき、「いちばん傷つく人を基準に」して「伝説のオカマ」に「抗議」したという伊藤悟・すこたん企画に、ぼくは同意できない。「当事者」を名告《なの》る彼らの「抗議」が、「おかま」という言葉を我が身に引き受ける覚悟を決めてのものだとは、どうしても思えないからだ。そうした覚悟もないまま、「おかま」を差別してきたゲイの過去と現状に目をつぶった彼らの「抗議」に、はたして、何か期待できるものがあるだろうか。またしても、「自分たちこそ、いちばんの弱者である」とでも言いたげな甘えと身勝手をぼくは嗅ぎつけて、うんざりしてしまうのである。

 ここでぼくは、彼らがゲイ雑誌『アドン』1995年4月号(2月発売。96年末、事実上廃刊)に書いた文章のことを思い出す。そこには「他の少数派(在日朝鮮人や障害者)と同性愛者が決定的に違うのは、自分と同じ立場に置かれた他者との出会いが非常に少ない」ことだと書かれていた。そして、「自分の性的指向を隠すことができるために、かえってお互いの存在を知ることが難しい」「在日朝鮮人や、障害者は、同じ立場に置かれた人がいることを親、あるいは様々な情報源から知ることができる」と言うのだ。ぼくはこれを、CP(脳性麻痺)でゲイの友人から怒りの電話をもらって知った。あまりにも無知で自己中心に過ぎる。「しんどさ比べ」はナンセンスだ。これでは共に闘えるかもしれない人々とも切れてしまう。

 たしかに、ゲイが互いの存在を知る機会が少ないことは事実だろう。だが、それはゲイだけに限ったことではない。「決定的な違い」を言うのなら、もっと別のところに視点を求めるべきだ。「本質的な違い」は、ここにはない。

 ぼくが「OGCにゅうす」(95.2.26)で展開した批判に対して簗瀬竜太さんからは「お礼と反省」の手紙が届いたが、そのなかには「親から同性愛者としてのアイデンティティを学ぶことができない。だから大変だ」と言いたかったのだとあって、ぼくの疑念はかえって深まった。たしかに、親子ともども同性愛であるということは(皆無ではないが)少ない。父親も息子もゲイであることを互いにオープンにしているケースは、さらにずっと少ない(これも皆無ではない)。だが、自分の親を人生のモデルに出来ないでいる若者はゲイに限ったことではないし、親との闘いが人生であるような若者だって数知れずいる。親が隠していたために、自分も朝鮮人だと知らずに友だちを「チョーセン」「チョンコ」呼ばわりして、近所のおばさんから「真実」を教えられたといったケースもあると聞くし、本名を名告《なの》ることを他ならぬ家族から阻まれるようなケースもある。「お前のため」を理由として、家から出してもらえない障害者も多いし、年老いた両親が障害をもった子を道連れに心中を図るといった事件さえ起きている。さらに、「隠していること」によって同じ境遇の仲間に出会えないのは、通名で生きる在日朝鮮人でも外見からはそれとわからない障害をもった人でも、変わらない。

 生きていくことが困難な事情はそれぞれに違いがあるとしても、ゲイだけがしんどいわけではないのだ。「自分たちは大変だ」と言いたい心理もわからなくはないけれども、口に出して言う前に、苦しんでいる他の人々のことにも想いを馳せる視野の広さをもたないと、独りよがりに終わってしまう。狭い視野に留まって困難さを訴えることは、単なる「しんどさ自慢」に陥る危険性を持つ。このようにして「しんどさ」を自慢することで何か得るところがあるとは、到底思えない。

 あれから6年が経つ。だが、今回の「抗議」を巡るすこたん企画の言動からは、あのときの「反省」が活かされてきた形跡は見られない。自分たちのしんどさに目が行くばかりで、自分たちゲイも一方で「おかま差別」に加担してきたという事実に目を配っているようには見えないのだ。

 今回の「抗議」に対して、「辛かったんだね」「しんどかったんだね」と声を掛けてくれた人はいただろう。確かに、いるにはいたが、すこたん企画に「共感」「理解」を示してくれた人々の発言から、「おかま」という言葉はどのように問題なのか、なぜ差別語として機能するのか、それを許しているヘテロセクシズム(異性愛優位主義)社会が人々を抑圧している根本はどこにあるのか、それは「伝説のオカマ」とどう関わっているのか、自分にとってこの問題はどのような意味をもつのか、といった問題の本質を見据えたものを、残念ながら、ぼくは見ていない。「虐げられたゲイ」を慰める「理解ある異性愛者たち」を見せてはもらったが、ぼくたちはそんなことで満足していてよいわけがない。問題の本質を衝いた議論を経ない「共感」「理解」は、感傷に溺れた「同情」「憐れみ」から出ることはないだろう。それでは、優位に立つ者からの施しをもらって喜んでいるだけのことだ。差別を撃つことは、おぼつかない。

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