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コーナー●その5この問題を考えた [2001-11-17]

●その5-11 
[01-11-11アップ]
H氏への回答 2

松沢呉一

→松沢呉一
ウロコの部屋へ飛ぶ

 

 H氏から、さっそくの回答をいただきました。私もさっそく回答したかったのですが、しばらく東京にいなかったため、遅くなって申し訳ない。
 今回、オカマ表現とは直接は何ら関係のない話なんで、第三者が読む意味はないかと思います。H氏だけ読んでいただければいいかと。
 正直なところ、前回のような質問をさせていただいたのは、H氏からのメールを読んで、言葉は丁寧ながらも、「すこたん企画」弁護のための「ためにする批判」なのではないかとの疑いを抱いたことによります。もし「ためにする批判」だとすると、本腰を入れて回答するのもバカバカしいため、そのことを明確にしておきたかったのです。
 まだその疑問は払拭されていないので、このテーマに絞り込んで、さらに質問とお願いをさせてもらいますが、以下に書くことは、抗議のルール以前の、表現のルールだと思います。このまま延々とこの件についてやり続けてもしょうがないので、これについてH氏が受け入れてくれないのであれば、ここで終了にしたいと思ってます。

 その前にお詫びと訂正。前回の文書で、私はこう書きました。
[掲載されなかった伏見氏らの投稿を含めて、さまざまな異論がこのコーナーにも出されており、これに対してポット出版から意見を表明しないかと「すこたん企画」に申し入れているにもかかわらず、「すこたん企画」は何ら弁明なり反論なりする気はないようです。ここにおいても「すこたん企画」は[至極あたりまえの事]をやっていません。]
「松沢さんから指摘されたことについて」でH氏が指摘していたように、このことはまだ公開されていませんでした。弱ったな。情報はすべて迅速に公開した方がいいと沢辺さんにはお願いしていて、てっきり私はこのことも日誌で公開していたと思っていたのですが、確認したら出てませんでした。ごめんなさい。
 沢辺さん、忙しいのはわかるのですけど、こういう行き違いが生じてしまうので、やっぱり情報はすべて公開しましょうよ。前々から言っているように、私はこの問題を本にすることよりも、活発な議論を起こすことの方が重要であり、その結果として本にすべきであると考えていて、その点、日誌がこの一ヶ月更新されていないのは、さすがにヘンだと思うんですよ。
 しゃあないので、私の方から説明しますけど、10月23日、ポットの沢辺さんは「すこたん企画」に対して、「『伝説のオカマ」は差別か」のコーナーに対する反論などがあれば送って欲しい旨をメールしております。私の知る限り、これに対する回答はありません。

 ここはこちらの間違いですし、H氏が山中氏の手紙を読んでいないことも了解しました。しかし、だとしても、H氏の「すこたん企画」に対する評価はやっぱり理解しがたいものです。
 H氏が「すこたん企画」を批判していない理由について、H氏は「松沢さんに指摘されたことについて」でこのように説明しておられます、。
[「すこたん企画」さんが批判の対象になるはずなのに、私の書いたメールがそのような構成になっていないことの理由についてですが、
・今回、私がポット出版さんにメールを出そうと思ったきっかけが、「一連の記事を読んで抗議に対する反論のしかたについて興味を持ったから」であったため、その反論のしかたに関する言及が中心となったこと。
・私自身も「すこたん企画」さんに対して疑問に思う点はあるが、既にポット出版のページ上で私の意見とほぼ同様の内容があがっており、あえて同様の意見を投稿する必要はないだろうと判断したこと。
などがその理由です。]
 これは了解しました。しかし、こういう意図のメールであるにもかかわらず、現にH氏は「すこたん企画」を弁護しているとしか思えない表現を多々やっておられます。もしここに書かれた通りだったら、「すこたん企画」を弁護するような表現をしなければよかっただけじゃないですか。
[これまでの経緯を読んでいて、すこたん企画さんと週間(ママ)金曜日さんのやりとりは、基本的にはこの流れにそってなされているように私には感じられたので、このまま成り行きを見ていこうと私は思っています。] 
 H氏が「私なりに考えたこと」でこう書き、これに対して、私は「H氏への回答1」で、「すこたん企画」はH氏が書いた流れに添ってはいないと思われる点を挙げました。対して、H氏は「松沢さんに指摘されたこと」に、こう書いています。
[この文の主語でも示してある通り、「すこたん企画さんと週間(ママ)金曜日さんのやりとり」についてのみ言及しております。]
 ですから、そこのみを見て、「すこたん企画」を評価すること自体がおかしいと私は指摘したのです。H氏が「すこたん企画」に批判的な考えをもっていて、このコーナーでその考えを表明しないことはいいとして、私が言っているのは、現にH氏が表明した範囲で、「すこたん企画」に対して批判的ではなく、逆に肯定的にとらえていることに対して疑問を抱いたということです。
 この違いはわかりますよね。このことは、[至極あたりまえの事]という表現を撤回していただいたところで何ら変わりません。

「松沢さんに指摘されたこと」に、こうあります。
[ 特に、シンポジウムの参加を辞退した件については、私も、辞退するのはかまわないと思うけれども、すこたん企画さんには辞退した理由を説明して欲しいと考えています。]
「すこたん企画」は、これについての説明をしていない以上、はっきり彼らはこの問題についての議論をしようと思っていないことは間違いがないでしょう。前回は書きませんでしたが、「すこたん企画」がこの一件について議論を辞退しているのは、知る限り、シンポで3度目になります。及川氏の申し入れを無視し、私の質問にも答えませんでした(これについては主催者の判断であると私は受け取っていますが、それに従った「すこたん企画」の問題でもあります)。このことは及川氏が整理している通りです。
 これだけをとってみても、「すこたん企画」はH氏の考え方と明確に相反する行動をしています。にもかかわらず、「松沢さんに指摘されたことについて」ではなおこう言っておられます。
[私もすこたん企画さんの対応について疑問に思うところはありますし、私が考えてみた「流れ」にそっていない点もあるように思います。]
 だったら、最初からこう書いていただければよいのです。また、今もなおこの程度でどうして済むのでしょうか。批判する必要がなかったからではなく、やっぱりH氏はこの程度にしかとらえていないから、「すこたん企画」を批判していないとしか思えません。

「私なりに考えたこと」でH氏はこう書いてます。
[(5)もし「傷ついたと主張する側」が、自分のお願いが行き過ぎであったと納得したなら、自分の主張を取り下げる。]
 これに対するH氏の指摘はそのアンバランスを見事に表現しています。
[松沢さんは、反論の中で「すこたん企画さんは(5)を考慮していない」という仮定をおいたうえで反論しているように思いました。私も(5)を考えずに抗議するのはよくないと思いますが、私はすこたん企画さんも当然その点は考慮しているだろうと思っています。]
 (5)を実現するためには議論は必須であり、現に「すこたん企画」は3度にわたって、議論できる場を放棄しているのです。ところが、「当然」なる言葉をつけて、H氏は「すこたん企画」の考えを好意的に推測し、対して私は[すこたん企画さんは(5)を考慮していない」という仮定をおいたうえで反論している]とされてしまう。なんですか、これは。
 H氏が私を批判してきたのは、私の書いていた私の考えが彼の考えと違っていたらしき点です。しかも、今回、H氏はその考えが非常にあいまいであることを認めてきました。H氏のあいまいな基準に合致しない私の立場をあいまいだと批判してきたのですが、私はH氏のこのような理不尽な批判に対して、そうする意義をあまり感じられないながらも、こうしてひとつひとつ回答しています。
 H氏は、「行動」として、現にそうしていない「すこたん企画」に対しては何故か飛躍的想像力をもって好意的に推測し、私の「考え」に対しては根拠を挙げないまま、そうではないと推測する。これを私が私に対する悪意ととらえたところで非難されるべきではないでしょう。悪意ではないというのなら、なぜ、「すこたん企画」は(5)を考慮していると考え、なぜ私は[すこたん企画さんは(5)を考慮していない」という仮定をおいたうえで反論している]と言われなければならないのか、具体的根拠を明示してください。

 これに続けて、もう一点、H氏の奇妙とも言える偏向を指摘しておきます。
「私なりに考えたこと」にこうあります。
[すこたん企画さんは、「おかま」という言葉がこの言葉をなかなか肯定的にとらえることができない集団(例えば子どもたちや、いわゆる地方に住む人たちなど)の間で否定的に使われている点を問題視しているように私は思いました。しかし、松沢さんの記事では、このような集団の中での言葉の意味についてはふれておらず、主に、いわゆる性労働に従事している方たちや、その方たちと交流のある人たちの間での言葉の使われ方を説明しているように思いました。これでは議論はかみあわないように私は思います。]
 私は「すこたん企画」の立場には欠陥があることを説明しました。「すこたん企画」の説明では欠如している部分を縷々述べてきたのですから、両者の言い分が合致しないのは当然です。合致しているのでしたら、私の指摘は間違っているということですし、最初からこんなもん書きませんよ。私の考えを直接批判していただければお答えしますけど、「すこたん企画」と噛み合わないことをもって批判されたのでは、「はい、その通り」と言うしかない。
 だって、噛み合わないから議論が必要とされるんじゃないんですか? 違いを論じ合うことが議論であって、合致している人同士が互いの正しさを確認し合うことが議論ではないでしょう(そういう議論があってもいいんですけど)。
 違う意見をもった同士が議論していけばいいだけのことで、それをここまで拒絶しているのが「すこたん企画」です。議論が成立していないのは、「すこたん企画」に原因があります。にもかかわらず、あたかも私の書くことに問題があるかのようにされてはたまったものではありません。
 また、私の批判の仕方、及川氏の申し入れの仕方、伏見氏の申し入れの仕方、沢辺氏の申し入れの仕方が間違っていて、だから「すこたん企画」が拒絶するのだと言いたいのであれば、どうかHさん、正しい申し入れの仕方によって、あなたはあなたが抱く疑問とやらを「すこたん企画」と議論して、お手本を見せていただけないでしょうか。私はどうしていいのかわからないんです。

「松沢さんから指摘されたことについて」にあった質問にも答えておきますが、これを見ていよいよ私は「ためにする批判」あるいは「いやがらせ」の類ではないかと感じました。
[この件に関する松沢さんのご指摘について、ひとつ疑問に思う点があります。すこたん企画さんへの及川さんの反論が週間(ママ)金曜日さんに掲載されることについて「「すこたん企画」さんと「週刊金曜日」さんの関係」という趣旨のことを述べているのに対し、すこたん企画さんがシンポジウムに参加されなかった点については、「「すこたん企画」さんと「シンポジウム主催者」さんの関係」とせずに「「すこたん企画」さんと「及川さん」の関係」としているのはなぜでしょうか?]
「関係(2)」として挙げた、及川氏と「すこたん企画」の関係を述べた流れで書いたものだからであり、他意はありません。伏見氏なり私も「異議を感じた当事者」であり、そのことは[これは伏見氏や野口氏、私などにとっても同様です]と書いた通りです(シンポ以前には、野口氏がどう考えているかについて、「すこたん企画」には伝わっていない可能性が大ですから、知りもしないことについて、「すこたん企画」が答えなくてもおかしくはないわけですけど)。
 ですから、シンポを辞退したのは、及川氏と「すこたん企画」の関係の問題であると同時に、「シンポジウム主催者」と「すこたん企画」の関係の問題でもありますが、あの箇所は及川氏と「すこたん企画」の関係に触れたものだったため、そのことを指摘し、なおかつそのあとで、伏見氏や私などとの関係であることも指摘しているんですけど、理解できなかったのでしょうか。
 これって、しっかり読んでいただければ容易にわかることかと思いますし、ここで一切「シンポジウム主催者」のことに触れていないとしても、なんらおかしなことではないでしょう。そもそもここは、「週刊金曜日」と「すこたん企画」の関係のみを見て「すこたん企画」を好意的に評価しているH氏の姿勢に疑問を呈している箇所なのですから、「すこたん企画」によって誌面で批判された当事者である及川氏が参加するシンポを辞退したことに触れて、H氏の見方の偏りを指摘すれば十分です。
 H氏がやらなければならないことは、こんな意味のない質問をするのでなく、なぜそのことを無視して、「すこたん企画」を弁護するようなことを書いてきたかの説明です。
 ここに書かれてきたことと重複してもかまいませんので、及川氏の申し入れ、私の質問、シンポへの誘い、ポットからのメールをすべて無視している「すこたん企画」に対して、今現在、H氏はどう考えているのか、明確にお答え願えますか。
 このように、私にとってはどうでもいい質問としか思えず、どうして改めて説明しなければならないほどことなのかよくわかりません。意味のあることには答えますけど、こういう些末なものにいちいち答えていると、人生の無駄遣いになりかねないので、慌てて文章を書くよりも、疑問を持ったらまずはじっくり拙稿を読んでいただいた上で、そのことがどうしてそうも問題なのかを私に説明していただけると助かります。じゃないと、「いやがらせ」の類になってしまうと思うのです。以降、このような「いやがらせ」に対しては答える気はありません。

 H氏は拙稿をちゃんと読まないまま、私に対する批判をしていると思わざるを得ず、そのような表現は「私なりに考えたこと」でも何点見出すことができます。
[ジャップとジャパニーズについても、私はすこたん企画さんのページを読んで、「言葉を略す場合と略さない場合とで言葉の意味やニュアンスに違いが生じることがある」ことの例として英単語の習慣を持ち出しているように思いました。しかし、松沢さんは「略すことがいけない」と解釈して反論をしているように思いました。]
「個室36」の該当個所を挙げておきます。
[シンポでも述べたように、私は「ホモ」という言葉に愛着があります。私にとっての同性愛はまさに「ホモ」だからです。この言葉を差別語だとして使用しにくくしたのは、これを差別的に使用した人々であるわけですけど、それと同時に、これを「差別語」だと決めつけた人々でもあるように思っています。
 その時に、「ホモとレズは略称だからいけない」といった馬鹿げたことを言う人もいます。]
 これが「すこたん企画」を指し示しているとH氏は受け取ったらしいのですが、明らかに誤読です。「ジャップ」や「ニップ」という略称が蔑称であることについて触れているのがこの世の中で「すこたん企画」だけであるならともかくも、このような話は差別表現の本を読めばいくらでも出てくることです。また、今すぐに原文を探せませんが、「略称だからいけない」としたものを私は過去に読み、それに反発した原稿をずいぶん前に書いていて、ここではそれを繰り返しただけのことであり、それを書いた時点で、「すこたん企画」の書いたものを私は読んでいなかったと思いますよ。
[これが、すこたん企画さんの主張への反論ではないのであれば納得できますが、もしそうであるなら、この反論はかなり誤解をまねきやすいのではないか?と私は思いました。]
 納得してくださいよ。どう読み直しても、この箇所が「すこたん企画」について触れたものだと誤解されなければならない事情が私にはわからず、「誤解するようなことを書いた私」に問題があるのでなく、誤読した側に問題があるのではないですか。
 改めて上記の文章を読んで、どうしてH氏はこれが「すこたん企画」について述べたものだと解釈し得たのか説明していただけますでしょうか。ことによると、H氏はこの「5の家」で私が書いてきたことはすべて「すこたん企画」を指し示していると考えているのでしょうか。
 私は「すこたん企画」の抗議から始まったこの一連の出来事につき、「すこたん企画」という一団体だけの問題として、ここまで語ってきたわけではありません。タイトルにあるように、「オカマ表現」について考えたものであり、差別表現をどう考えるのか、差別はどう解消され得るのかなどなどを考えてきたつもりです。当然、「すこたん企画」とは何ら関係のない個人や団体も批判対象になることはあります。
 このような誤読による批判についても、今後は無視させていただきます。

[類型化についても、類型化そのものに問題があるのではなく、その表現の仕方を問題にしているのだと私は思います。例えば、「日本人はアメリカ人に比べて背が低い傾向がある」「日本人にはご飯が好きな人が多い」などのような表現を用いれば、集団に対してある種の決めつけをしているという誤解をできるだけまねかないようにしながら、集団の傾向や特徴を表現することはできると思います。]
 これも該当する部分を「個室38」から抜き出します。
[こういった類型化は、言語に常にまとわりつくわけで、これらをすべていけないとすると、それこそ我々は言語を放棄しなければいけなくなります。そこまで言わずとも、「ピグミー族は世界で一番背の低い民族だ」「日本人はアメリカ人に比べて背が低い」「日本人はご飯が好き」といったように集団の傾向や特徴を示すこともできない。したがって、「ピグミーやジプシーという言葉をこのように使用してはいけない」という意見には単純には賛同できず、「すこたん企画」に対しても、「差別だ!」といきり立って抗議するようなものではありませんけど、「オカマ」は肯定的に使用できる言葉であるのに対して、「ピグミーチンパンジー」はどこまでいっても「ピグミー=体が小さい、背が低い」ということですから、どういう文脈で使用しても、表現そのものに差別性が込められているとも言い得るわけです。]
 一体どこで私は[類型化そのものに問題がある]なんて書いているのでしょうか。「もし類型化そのものがいけないとすると」という仮定を書き、それには単純に賛同できない私の立場を説明しているのであって、その仮定を私の意見だと誤読しているのではないですか。私は「ピグミーチンパンジー」のような言葉を差別的だと単純には言えないながら、「すこたん企画」の論理で言えば「ピグミーチンパンジー」という言葉も差別的であり、使用してはいけない言葉なのではないか、ということを述べているのであり、H氏の意見はこれを覆すものではない。それどころか、私の立場を補足しているだけではないですか。
 どこかで揚げ足をとってやろうという意図のみが先行してしまったのではないですか。やめましょうよ、こういうことは。
 
「私なりに考えたこと」で、H氏はこう私を批判します。
[私は、「抗議に対して反論する場合」にも「抗議する側の文脈を考慮することは必要だ」と思います。]
 そりゃそうだと思いますけど、誤読した上で私を批判したH氏にこそ、「人の文章をちゃんと読んでから批判してくれよ」と言わないではいられません。この文章は私が[文脈を考慮することが必要だ]と書いたことを受けたもののようですけど、私はこんなことも書いていません。
 これに類する文章を探すと、「個室5」に以下のようなものがあります。
[私は「差別表現は否定されていいが、差別的に使用されることが如何に多いとしても、文脈を問わないで言葉を差別語として否定すべきではない」という立場です。]
 あくまで差別表現か否かの判定の基準を述べたもので、一般論として[文脈を考慮することが必要だ]なんてことは書いてません。もちろん、H氏がそう考えるのは勝手ですし、私もそう考えないではありませんから、H氏には「文脈を考慮せよ」と強く申し入れますけどね。

 といったように、H氏の書いてきたことのほとんどは、いちいち答えるだけ時間の無駄との思いが強くあります。しっかり読まずに間違った読みをして批判してきた人に、どうして「原文はこうだよ」「この文章はこう読むんだよ」と書き手が説明してやらねばならんのでしょうか。正直、いらつきます。金を払って、カルチャースクールの「文章の読み方講座」にでも行ってください。
 しかし、そのすべてが些末だとも思っておらず、その点については、H氏と今後もやりとりを続けたいと思っているのですが、今後も同様の批判を続けられては困りますので、以上を考慮していただくとともに、今後のために、以下を先に説明していただけないでしょうか。

(A)「私なりに考えたこと」にこうあります。
[「オカマ表現を考える」の文章を読んで、私は最初は松沢さんが(1)を否定しようと試みているのではないかと思いました。しかし、肯定しているように思える部分もみうけられるため、どちらの立場をとろうとしているのかとてもあいまいに感じました。もし(1)を否定する立場であるなら、私はそれはよくないと思っています。]
 私としては「あいまいで何がいけないのか」とも感じていて、それを説明したいと思っているのですけど、私の立場があいまいだとする根拠があいまいすぎて、何をもってこう言っているのかよくわかりません。H氏が指摘していることと違う論点に答えるのは無駄になりかねないので、私の文章から、具体的箇所を挙げて、私のあいまいさを説明してください。
 今の時代はパソコンという便利なツールがあって、人の文章を正確に引用することが容易なんですから、こういう場合は、該当個所をそのまま引用して指摘することが適切だと思いますよ。

(B)「私なりに考えたこと」の冒頭で、H氏は「ホモ」という言葉を否定的に感じるご自分の事情を述べておられます。これは、「個室13」を読まなかったご自分の事情を説明するためだけに書いたのでしょうか。あるいは「ホモ」を多用することが「差別的」であり、傷つく人がいるかもしれないことを考慮しない文章であると言いたいのでしょうか。どうもよくわかりません。
 何故これを知りたいかというと、H氏が言う[(1)「表現する側」は自分ができる範囲で、読む人を傷つけないように配慮した文章を書くように努力する]という考えをより明確にするためです。つまり、「個室13」はH氏の考えに反するものなのか否かを知っておくことにより、この問題をより明確にできると思うからです。

 長くなってしまいましたが、以上よろしく。こちらの指摘を納得していただけたのであれば、(A)(B)のみに答えていただければいいですよ。

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