2005-12-15

【入門編】フランスの大女優・カトリーヌ=ドヌーヴが同性愛者に説法

100人予約が集まれば出版化?!という予約投票プロジェクトにあげた、89人がすでに申し込みあと11人で目標達成となる『PHOTOエッセイ Gay @ Paris』に予約した人・予約する可能性がある人のみ、以下の文章をお読みください。長文ですので覚悟してください。


 傘屋の娘が自動車修理工の青年と愛し合い結婚の約束を誓い合うも、恋人はアルジェリア遠征に徴兵され、戦地で消息を絶つという切ない愛の映画『シェルブールの雨傘』で若かりし頃に傘屋の娘を演じた大女優カトリーヌ=ドヌーヴ(Catherine Deneuve)はフランソワ・オゾン監督『8人の女』でもブルジョワマダムの役を見事にこなし、そして最新の映画「王宮」(Palais Royal)では女王の役を優雅に演じている。
 彼女がフランスを代表する大女優であることは疑う余地もなかろう。フランス映画好きの人でなくても、彼女の顔や名前だけでも知っている人は少なくなかろう。しかし、彼女が市民としての活動を熱心に取り組んでいる……ということをどれだけの人が知っていようか。たとえば、彼女は熱心な死刑廃止論者である。モントリオールで二〇〇三年に開かれた「死刑廃止世界大会」では基調講演を行った。また、同性愛者の権利を擁護する文化人としても知られ、2005年で創刊から10年を迎えたゲイ・レズビアン雑誌「TETU」(テトゥー、ガンコ者の意味)の第六号(96年9月号)の表紙を飾っている。107回目の発刊を迎えた『TETU』2005年12月号では、映画『王宮』のからみでインタビューに答えている。インタビューには次のような下りがある。

★★★★★★★★★★★★★
−同性愛者に対する社会の進歩をどのように評価していますか。
ドヌーヴ:残念ながら、多くの人にとっていまだに同性愛は脅威になっていると私は考えています。やはり、私たちはカトリックの国にいるのです。しかしながら、他方で表面的にはとても奇妙な曖昧さが存在します。それはフランスに特有なものです。ベラトラン=ドラノエ・パリ市長は何の問題もなくカミング・アウト(同性愛者であることを告白すること)できたでしょうか?違うのではないですか?そもそも、なぜフランス語で「重要な現前」(grande sortie)といわず、カミング・アウト(coming-out)というのか私には分かりません。「カミング・アウト」という語のほうがより強いというのは承知しますけれど、英語からの借用というのはいつも私を少し苛立たせます。「自分の意志で出る」(sortir de soi-meme)という意味でという語をつかうとか、フランス語の中からふさわしい語を見つける必要がありましょう。
★★★★★★★★★★★★★

 フランス人の多数派は同性愛者【homosexuel(le)s】の権利を擁護する立場にあるが、一方で少なからぬ人々にとって未だにゲイ・レズビアンが脅威足り得ている事実も是認しなければならないだろう。
 たとえば、3万5000人の人々が入場した欧州ゲイサロン「Rainbow Attitude」で、フランスに未だにはびこる「ホモ嫌い」(l’homophobie)が如実に現れた事件が二つ起きた。
 ひとつは二日目のお昼過ぎのことである。
 ステージで行われたある催しがおわり、司会者が登場した。小林幸子か美川憲一かと見まがうほど豪華絢爛な衣装に身を包んだ彼が今後のプログラムを告げている最中、ステージのまわりにいた一段が突然、壇上に駆け上がり騒ぎ出した。その数、50人前後。彼らは伝統主義的右派学生集団・REDの活動家たちである。黄色いチラシを花びらがまうように散らし、横断幕をかかげ、シュプレヒコールを上げる。中央にあご髭をたくわえた堅強な男が立ち、司会者をにらみ付ける。司会者は初め何が起きたのか、事態を飲み込めず、ただ呆然とするばかりだった。
 「ノートルダム寺院を思い出せ!」
 撒かれたチラシにはこの文言で始まる。
「何ヶ月か前に、ゴロツキ集団・アクトアップ(act-up)の連中が結婚もどきを開催した。そして、神父を殴りつけた」
 とアジテーションが書かれ、
「アクトアップよ、解散せよ!」
 という文言で結ばれてある。
 このチラシで非難されているのは、2005年6月5日にアクト・アップが中心となってレズビアン・カップルの結婚式がノートルダム寺院で執り行われたこと、その際に、抗議した神父が参加者から殴られたという(主催者側は否定している)ことの二点である。
 横断幕には「子どもたちはみな異性愛者によってできた」と書かれてある。
 シュプレヒコールをあげる学生たちに対して司会者は「あなた達は『ホモ嫌い』の人たちです」といい、一喝した。自らの主張が終わると学生等はいっせいに脱兎のごとく逃げ去った。
 ふたつめの事件は広告をめぐる騒動である。欧州ゲイサロンの広告は男性同士、女性同士がキスしている写真をつかった。一悶着合ったとはいえ、最終的にはそれが掲示されることになり、パリ市内・郊外の駅構内・バス内に約3000枚掲示された。しかし、それはすべて何者かの手によって剥がされるなり破損・落書きされたりし、広告のうち100%が張り直さなければならない状態であった。
 3000枚もの広告がすべて破壊される。組織的犯行なのだろうが、これだけの大技をやってのけるホモ嫌いに凝り固まった人たちが、「ゲイの都」パリにも存在するのである。そして、それもまたフランスの現実なのだ。
 ゲイに寛容であると同時に、狂信的なホモ嫌いの人もいる。それをドヌーヴ氏は「曖昧さ」といっているのだろう。
 彼女の「カミング・アウト」という語を、安易に用いることに対する批判も当を得ているといえよう。日本のゲイ・ムーヴメント(とここでもカタカナをつかってしまうのだが)のなかでも、何かとアメリカで発生した概念・用語を租借することなくそのままカタカナにして援用することが往々にしてある。
 たとえば、ホモフォビア。同性愛者に対する嫌悪を意味する英語「homophobia」をカタカナにしたものだ。同性愛嫌悪・同性愛恐怖症と訳せばよろしい。あまりにも堅苦しくてしっくりしないというのであれば、私のように「ホモ嫌い」といえばよいのではなかろうか。
 あるいは、「ゲイ・パレード」「ゲイ・プライド」。日本経済新聞(10月18日の日本経済新聞・関西版)で御年輩の木村重信・兵庫県立美術館館長が「<心境仙境>同性愛と男女両性具有」という記事の中で、オランダの同性愛の祭典・運河パレードのことを「ホモ祭り」と表記したことに対して抗議する向きがゲイのなかから起こった。記事を読む限り(http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/29402.html)、筆者は確信犯で差別心をこめて「ホモ祭り」といっているわけではなかろう。おそらく、「ゲイ・プライド」なり、「ゲイ・パレード」という語を知らなかったのだし、敵性言語とかつて教えられた英語の単語を一つでも覚えることが苦に他ならず 、たとえば「steakbeef」をいまだに「ビフテキ」と日本語化して呼ぶような感覚で「ホモ祭り」といったのかもしれぬ。
 何がいいたいのか。
 ひとつは日本には「ゲイ・パレード」という語が浸透していないという現実である。本年六月にパリで行われた同性愛者の祭典「誇りの行進」(MARCHE DES FIERTE LGBT)について、それが行われた翌週にパリを訪れた日本人の女性に話をした。

「先週、ゲイパレードが行われて、パリ中大騒ぎだったんですよ」

 という私に対して、
「ゲイパレードってなんですか?」
 と突っ込まれた。そもそも、「ゲイ」が「男性同性愛者」を指し、男性同性愛者(ゲイ)・女性同性愛者(レズビアン)・両性愛者(バイセクシュアル)・性同一性障害者(トランス)を統合する象徴的語としてもつかわれる(それに対しては批判もあろう)語であるということも知らない。ましてや、男性同性愛者(ゲイ)・女性同性愛者(レズビアン)・両性愛者(バイセクシュアル)・性同一性障害者(トランス)が年に一度、世界各地でそろいも揃って、どんちゃん騒ぎのお祭り・行進をするなんていうことすらもしらないのだ。
 なぜ、日本で「ゲイパレード」という語が浸透しないのか。一つはメディアが報じないこと、主催者側の発進力の弱さ(欧州と比較して)があげられよう。フランスもオランダも公共の場にゲイ・パレードを告知する広告が貼られる。パリでは地下鉄構内や道路で見かけた。フランスでは新聞で大特集が組まれる、テレビでも放映される。オランダでも同じ事情だ。
 浸透しないもう一つの理由は「ゲイパレード」などというカタカナ語をつかっているからではなかろうか。これはあくまで推測に過ぎぬ。しかし、せめて副題でもいいから、何か日本語で表現できないものかと思う。「虹の行進」なんていいかもしれぬ、「虹の祭典」だって。良いアイディア、もとい、良い提案がある人はぜひコメント、もとい、書き込みをしてください。
 ドヌーヴさんは「カミング・アウト(coming-out)」についてもコメントしている。フランス語でもこの語はそのまま英語を借用している。カミング・アウトとは公の場で自らが同性愛者であることを宣言すること。日本でもそのまま、カミング・アウトといわれている。「告白」「宣言」「誇りです!同性愛告白」とか「同性愛宣言」とでも訳したらいいだろうか。

このエントリへの反応

  1. あの女優はfranco-phille(スペルあっているかな?)なほうだとおもう