第15回セミナー・「誰がために
PDFの鐘は鳴るやと」
参加者の意見や感想と
それに対する回答


第15回セミナーにいただいた意見・感想・批判およびそれに対する回答を掲載します
 

感想--03
編集者が思うPDFとAcrobat
吉田浩章


 先日行われた日本語の文字と組版を考える会のPDFのセミナーについてコメントを書いて欲しいと、世話人の萩野さんに依頼されたが、当日、後半から参加したため全体像が見えていない。そんな事情なので、編集者(筆者の仕事)とPDFというテーマでコメントさせていただこうと思う。

■ 埋め込みができる〜これこそが真の電子ドキュメント

 実は筆者は、今年前半、某パソコン誌で何回かに渡り萩野さん(たち)と一緒にAcrobat 4.0とPDFについて記事を作成した。フォントの埋め込みなどについても萩野さんの協力でタイプバンクのフォントを使う機会などを得、かなり早い時期にフォント埋め込みを体験している。そこで得た感想は、「すごい」ということ。

 英語の記事を作成する機会などがあれば、Acrobat3.0の時代から、欧文についてはフォント埋め込みを頻繁に体験していたのだろうが、残念ながらそのような機会もなかった。それが、Acrobat4.0になって日本語(2バイト文字)が埋め込めるのは目からうろこが落ちるほどの思い、と形容できるほど、画期的なことであった。

 ところで、Acrobat 4.0の主要な機能の一つである(もっともMac版にとっては、唯一のと言ってもいいかもしれないが)フォント埋め込みについては賛否両論あるようだ。Acrobat 3.0で十分という声も実は聞くことも多い。フォントの埋め込みなどをせずとも、文字がきちんと読めればいいというのだ。しかし、やはり筆者はフォント埋め込み機能は必須だろうと思う。

 たとえば雑誌。そこには、編集者なりデザイナーなりが、誌面のなかで強調したい箇所というのがあり、それが文字などであればフォント選びに凝るわけだ。そのフォントが使われてはじめて、その誌面デザインとイメージが完成するのである。ところが、フォント埋め込みができなれば、そのPDFは貧弱なフォント環境だと、たとえばMS明朝とMSゴシックなどに置き換えられてしまう。つまり誌面イメージ(=編集者・デザイナーが苦心したデザイン上の強調)はフラットなものになってしまう。これでは、誌面が与える意味合いを正確に伝えることはできないではないか? 少なくともイメージを伝える仕事をする上ではフォントの埋め込みは歓迎されるはずだ。

 フォント埋め込みが可能になってPDFはやっと一人前の「紙」の機能を果たし得ることとなったと言えるだろう。

■案外使われていないDistiller

 ところで、編集者がPDFを利用するのは校正時というケースは多いだろう。筆者もPDFで校正を出したり受け取ったりする、そのほとんどがPDFWriterを通して作られるPDFだ。元のレイアウトソフトはQuarkXPressがほとんどだから、ビットマップ画像は256色の低解像度、ドローグラフィックもプレビューのビットマップ画像、そしてフォントも置き換えフォントという具合。それでも、本文やキャプションは読むことができるからそれほど気にはしない(本心はきちんとした誌面イメージを伝えたいと思っているはずだが…?)。

 なぜDistillerを使わないのか。理由は簡単、Distillerは設定が面倒な上、いったんPSファイルを書き出したりするので時間がかかるからだ。Acrobat 4.0になってDsitillerも設定が簡単にはなったが、やはりPDFWriterに比べると手間や時間がかかる。忙しい編集者にとって貴重な時間をロスしたくないし、編集者が職場で使っているパソコンなど1〜2世代前のものも多いから余計に時間がかかる。ましてやDistillerを通したらPostScriptエラーが出てPDFさえ作れないなどということになったら、ますます時間の浪費だ。

 このような現状は致し方ないことだろうが、Distillerがもっともっと簡便になって品質の高いPDFが簡単に作ることができるようになれば、校正の品質(あるいは校正に向かう態度=DTPになって校正が甘くなったと言われるが、文字も色も最終成果物に近いもので校正を行えば校正にしっかり向き合うかもしれない)も格段にアップするのではなかろうか。それに、校正段階からライター、編集者、デザイナーなどなどが同じ誌面イメージを共有できるようになるわけだからコミュニケーションのロスも少なくなるのではと思うのだが。

■PDFの利用価値 

 フォントを埋め込んだPDFは、編集・出版の作業上どのような場面で役に立ち得るか。まず、思いつくのは校正フォーマットとしてだ。文字や写真がつぶれ、色も伝わらないファックス、コストや時間のかかる校正紙そのものを送るという方法、に比べ、ほぼ常識的になりつつあるインターネットを使ったPDFの送付により、高品質の校正(紙)を時間やコストを大幅に削減して送付することができる。特に仕事相手が遠隔地にいるような場合、PDFとネットワークを使った校正は非常に効率的だ。

 また、半永久的な文書保管のフォーマットとしての利用も考えられる。DTPが導入されてデータを保管することが当たり前になった。版下や製版フィルムを保管するよりも、QurakXPressなどのデータを保管するほうが大きな保管スペースを必要とせず、なおかつ次回そのデータが多少の修正の加えた上で必要となったときでも簡単に修正できるからだ。ただし、そのデータを作成したアプリケーションを誰もが操作できるとは限らない。特にレイアウトソフトは多少なりとも複雑な操作が必要だ。また、数年後、そのアプリケーションがきちんと稼動する状態が保証されているとは、今はだれも予測できないというのは致し方ないことか。

 一方、PDFもデータであるため大きな保管場所を必要としない。さらには、写真やイラストまで1つのファイルの中に取り込まれているから、面倒なファイル管理も必要としないし、加えて、圧縮しておけばMOやCD-ROMなどのメディアの容量もわずかで済む。またAcrobat4.0では文字の簡単な修正や画像の修正(TouchUp)も可能(TouchUpは埋め込みのできないPDF1.2のバージョンでも可能)だが、機能が限られていることもありレイアウトソフトほど難しい操作を必要としない。

 ただ補足しておくと、TouchUp機能については、賛否両論を聞くことがある。1)どの段階で修正が加わったのかわからなくなり責任の所在も曖昧になるので、むやみに使ってほしくないという意見と、2)最終的な直しが発生し、それをワークフローの川上に戻していられないという時には役立つだろうという意見だ。いずれの意見もうなずけるが、要はPDFによるどのようなワークフローを構築するかということだから、筆者はTouchUpの機能はないよりはあった方がいいと考えている。

 将来的にもっとPDFが標準的なフォーマットとして流通するようになれば、修正機能は必要不可欠なものとなるだろう。筆者自身は、PDFは将来のテキストファイル(!)になるのではないかと考えている。

■出版メディアとしてのPDF

 PDFは出版メディアとして分かりやすいフォーマットだ。それはやはりPDFが紙のアナロジーとして見えるからだと思う。だが、PDFの出版メディアとしてのメリットは他にある。

 出版社などが、自社媒体のデータ保存や有料配布などを目的としてページをPDF化することが多いと思うが、それは紙用に作られたデータのあくまで副産物としてPDFがある。逆に最初からPDFの作成を目的とする場合もあるだろう。主に、印刷コストと印刷部数のバランスが取れない少部数の出版物だ。この場合、そのまま配信するケースとオンデマンド印刷で紙にする場合があるだろう。マスマーケットが崩れ次第にニッチマーケットに変わりつつあるのだから、これから少部数の印刷体制はますます重要になるだろう。PDFなら配布元(版元)と配布先(読者)、どちらでも必要な時に印刷することができるのだが、このようなフレキシブルな印刷の仕方が今後求められるのかもしれない。

 そのような出版メディアとしてPDFを捉えたとき、筆者が気になるのは、印刷(オンデマンド含)するのかプリンタでプリントするのかで、デザインを変える必要があるのではないかということ。印刷ではドブを裁ち落とすので判型一杯のデザインが可能だが、プリンタでは用紙全部にプリントすることはできない(紙の4辺の数mmはプリント不可能)。一回り大きな用紙にトンボ付きでプリントしてそれをカットするというのも、忙しいオフィスの現場では現実的ではない。やはり、PDFでの出版が前提なら、裁ち落としにならないデザインを考える必要があるだろう。

■メディア変換ツールとしてのPDF〜Mac版Acrobatの不足機能

 Acrobat 4.0で不満があるとすれば、印刷周りの完成度が多少なりとも低いことか。筆者の環境では大きな用紙サイズのドキュメントがプリントできないことが多い。そのような話はMLなどでも時々取り上げられるようだ。この当たりはいずれアップデータなりで改善されるのを期待するしかないのだ。

 それよりも問題はWindows版にあってMac版にない機能。筆者のような編集者にとってWebからの情報はもはや必須のものだ。これまではWebブラウザにブックマークを取り、見たいときは再度そのサイトを訪ねるか、プリントするなどしておいたが、Windows版のWebキャプチャ機能を知ってからは、重要なWebの情報をWebキャプチャを使ってPDFにしている。Web上のリンクもPDFに継承される。はじめからリンク加工されたPDFが手に入るのだ。後から情報を確認したいときなど非常に役立つ。編集者にはMacを使っている人も多いはず。早急にMac版AcrobatにWebキャプチャ機能を搭載してもらいたいと思っているMacのAcrobatユーザは多いことだろう。

■長々と述べたけれど…

 細々したことなら、まだ言いたいことはあるが(Acrobatの動作が遅い、Mac版では正式にTrueTypeがサポートされていない、大きなサイズ=判型や容量のPDFのプリントがうまくいかないことがある、など)、だが概してAcroabt 4.0は、よくできていると思う。DTPに関係する仕事をしているなら、その延長線上に必ずPDFは現れてくるし、場合によっては紙媒体をすっ飛ばしてPDF(だけ)を納品するという仕事さえもボチボチ現れてきているようだ。まともなPDFを作る(=まともなDTPデータを作る)ことができるのは、今後の必要技能の一つと捉えてもいいだろう。

 筆者が編集者であるためPDFを語るとき、どうしてもDTPとフォントと出力周りの話に終始しがちだが、もちろんそれだけではない。PDFを紙のアナロジー、それもネットワークでの配布が簡単で検索が可能、フォーム機能による入力のしやすさ、etc.などの特徴を備えた高機能な電子の紙と捉えると、生活そのものを変えることもできるだろう。PDFが「紙」代わりに使えるということは、実はユーザーはことさら意識することなく自然にPDFを利用し始めるかもしれない。

 ただ、周り(デジタル系、非デジタル系いずれの編集者やデザイナー)を見ても、Acrobat、PDFを理解していない(もしくは知らない)人が多いのも事実。PDFといのは、それ自体で何かを生産するものではない、というよりデジタル時代のインフラみたいなものだから、なかなかその特徴を伝えることが難しい。筆者がどんなにPDFを彼らに強調しても、どうもピンとこないようなのだ(DTPもそうだった)。おそらくこのあたり、PDFを社会的にどう認知させるか、というのがPDFをもっと普及させ、そして使いやすくするための課題なのだろう。

 

感想--02
ある転向者の告白

田村浩


 AcrobatとPDFは自分の楽しみを奪いかねない悪のツールだ。こんなモノでピューっとゲラや出力データをやりとりするようになったら、出先で一服したり、打ち合わせと称してビール飲んだり出来なくなる、と危機感を募らせていた。こんな保守的・退廃的じゃ、DTP雑誌の編集者としてはマズイかなと思ってはいるのだが、歩いてゲラを持っていった方が体にいいし、バイク便をガンガン飛ばして経費を使った方が不景気の打破には効果的だ、と半ばヤケクソ的に開き直っていた。

 それなのに、人に誘われて行った先日のセミナーで、語り上手な講演者の方々のお話を聞いているうちに、ついその気になってしまい、「僕もPDFを記事にしよう」なんてウッカリ思ってしまった。この商売根性がなんともやりきれないが、きっと魔が差したのだ。あるいは2次会で飲んだビールに何か入っていたのかも知れない……。

 おかげでひどい目にあった。300MB弱のドキュメントをPDFにしたのだが、一回変換するのに約30分、用紙設定が違った、フォントがビットマップ画像になった、もとのデータに誤植を発見した……というように何度も「Distill」しているうちに、夜が明けてしまった。やっぱりPDFは使えねぇ、と自分の未熟さを棚に上げて地団駄を踏んだ。

 ところが翌日、それを出力ビューロに持っていき、プリンタフォントがないのに、キッチリとフィルムが出た時は、思わずニヤリとしてしまった。これであのフォントも使えるし、マニアックなあのソフトで作ったデータも出力できるぞ、と実感し、想像をたくましくした。

 これからは「PDFでゲラ送ってもいいですか?」とか「埋め込めるフォント使いましょうよ」とか、利いた風なことを、僕もぬかしてしまうんだろうなあ。

 

感想--01
「遺すデータフォーマット」としてのPDF
秋田公士
・法政大学出版局

 PDFについては、以前から関心は持っていた。PDFの伝道師・井上さんのお話も何度か聞かせていただいた。ただし、職場では写研のCTS一本槍なので、当面関係はない。使うのはあくまで趣味の範囲だ。しかも、日本語フォントの埋め込みが延び延びになっていたので、何となく関心が薄れつつあったのも事実である。

 ようやく日本語フォントの埋め込みができるようになり、アクロバットのバージョン・アップ版が届くのを待っているところへ、「日本語の文字と組版を考える会」のご案内をいただいた。私にとってはグッドタイミングであった。

 参加者数の多さ、しかもその大半が既にPDFを知っている、あるいは活用している人たちであることは、出版界、とりわけわれわれのような零細学術出版の世界における関心のなさと比較して驚きだった。

 萩野さん、瀬之口さん、井上さん、植村さんのお話もそれぞれに興味ぶかかったけれど、僕としては足立さんの、PDFによる印刷のケーススタディにショックを受けた。プラグインで面付けまで出来てしまうという。居眠りしている間に、世の中は確実に変化していたようだ。とくに印刷関係者の対応の早さには驚かされる。

 今、出版界では、大手取次や書店によるオンデマンド出版が話題になっている。ところが、オンデマンドが意味を持つような書物を作っている出版社には提供できるデジタルデータがない。活版時代のものは仕方がないとしても、CTSのデータであれば使えるのかといえば、たぶん使えないだろうし、そもそもCTSデータの場合、権利が出版社にあるのか印刷所にあるのかはっきりしない。

 そこで、スキャニングデータの利用が考えられているようだが、これが、かなり高いものにつく。自社でやるにしても、人件費は馬鹿にならないだろう。1部でも2部でもという、オンデマンドの理想は実現不可能だ。品質的にも問題はあるだろう。

 PDFが、永久に最良最善のファイル形式であるとは思わないけれども、現在の段階で、出版物を後世に遺すことを考えるならば、単なる重版であれ、オンデマンドであれ、ネットワーク出版であれ、PDF化しておかなければ動きが取れなくなるのではないかと思っている。特に写研のCTSを利用している出版社にとってはそうだ。写研のデータが使いものにならなくなるのは、そう遠い日のことではあるまい。

 もちろん、たいていの場合、重版にはフィルムを使用するわけだから問題はないように思えるかも知れないが、フィルムを保存するというスタイル自体が、果たしていつまで可能なのかとも思っている。CTPが一般的になれば、フィルムはもう存在しないのだ。

 



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