スタジオ・ポット/ポット出版 株式会社スタジオ・ポット Phone 03-3478-1774
〒150-0001 渋谷区神宮前2-33-18 #303
  TOP > 【読みもの】 > 欠歯生活 >
プライバシーポリシーサイトマップお問い合わせ

 
 
ポット出版欠歯生活
第11回仮入れ歯

書き手北尾トロ
[2003-08-25公開]

 しばらくぶりの欠歯生活でございます。
 今年の煮えきらない夏のように、我が欠歯生活も一進一退で先の見えない日々が続いてましたが、その原因のひとつは前回装着の運びとなった仮入れ歯でして。
・・・・・・
 治療室を出たぼくは一目散にトイレへ入った。誰もいないことを確認して鏡を見ると、そこには都合3本の歯にがっしりと絡みついた入れ歯止め金属が。
 醜い。わかっていたことだが、装着したのを見るとショックである。
 入れ歯経験のない人にはわかりづらいだろうが、細い針金が歯に巻き付いていると思ってもらえればいい。歯の上に置くだけでは動いてしまい、物が噛めないので、入れ歯が動かないよう固定しているわけだ。
 さすがは保険物件、誰がどう見ても100%入れ歯であることがわかる逸品だ。私は入れ歯をつけておりますと宣伝して歩くようなもんである。不思議な話だ。そんなことを望む人など皆無だと思われるのに、保険が適用される範囲内で入れ歯を作るとそうなるのだ。なにしろ医者が苦笑しながら「家で食事するときだけ着用すすようにしてはどうか」と、インプラントに備えての“仮”であることを強調しながら言うほどである。外出時は相変わらずの欠歯確定だ。
 つまり保険が適用されるのは「明らかに(肉体的に)危機である状態から脱する処置」についてであり、それ以上のことは保険外とされてしまうのだ。医師の説明を聞くかぎりでは、それほど難易度が高い技術とも思えないのだが、「他人にそうとわからない入れ歯」は肉体的苦痛を伴わない“ぜいたく品”だからダメってこと。
「別に入れ歯だってわかっても死なないでしょ」とおっしゃる、すごい論理である。“ぜいたく品”の基準がおそろしく古く、患者の側からすればこの論理、歯科医や業者を儲けさせるためにあるとしか思えない。いい歳した中年男のボクでさえ、この入れ歯で人前に出ることだけはするまいと即座に決意するほどの製品。大半の人は、保険適用入れ歯を選択するとは思えないんだな。ちなみに、それとわからない入れ歯にすると、ぼくの場合は15万〜35万(隠し方などによる違い)くらいかかるらしい。
 このあたり保険の詳細を知ることもなく憶測で書いている部分があるので、あらためて調べようと考えているが、ともかく機能性・デザイン性ともに最低ランクの入れ歯を装着したため、帰宅するまでいっさい口を開くことができない有様だった。
 しかもこの入れ歯、噛むたびに歯茎が削りとられるような痛みがある。合ってないのだ。慌てて電話を入れ、数日後にカタチを修正してもらったが、これでますます装着への意欲ってもんが失せてしまい、以後は気が向くと夕食時につける程度。たいした活躍ができずにいる。
 丸わかりであることを別としても、入れ歯特有の装着感、物を噛んだときのきしむような感じ、食後や就寝前に行わなければならない掃除など、マイナスポイントが数多くあるためだ。とりわけ装着感については、右側と左側をつなぐ金属板が前歯の裏側を這っているため、しょっちゅう舌先がそこに触れている状態になる。つまり、常に入れ歯を意識しながら生活しなければならないところがツライのだ。
 こうした現実を目の当たりにした家人からは、これまでの入れ歯をからかうような反応が消え去った。シャレにならないから、もはや冗談の種にもならないのだ。それどころか、多少こっちを気遣うような気配さえ感じられる。入れ歯を話題にしないのが、せめてもの親切。そう思っているのだろうか。
 それでも入れ歯を見るのはイヤなんだろう。いつの間にか洗面所の死角になっている部分に、入れ歯を水に浸すための器が用意されていた。こういう小さなことが、けっこうショックだったりする。
 それまで顔を合わせるたびに「歯の具合はどう?」と訪ねてくれた知り合いも、入れ歯男になったことを知ってからは、まったく歯の話題を口にしなくなった。歯が弱いこと、抜いたり治療することはツッコミOKだが、入れ歯はアウトなのだ。気を使わせては悪いと思い、こちらから積極的に入れ歯話をしてみたけれど、さっぱり盛り上がらない。そんな話は聞きたくないのである。喋っているほうも、どんどん落ち込んでしまうのである。そして誰もがーぼく自身もー入れ歯の話から距離を置くようになり、反比例するように、ぼくの気持ちはインプラントに傾いてゆく。
 一日のうち23時間半は欠歯で暮らし、家での夕食時のみ入れ歯を装着する生活が1カ月ほど続いたあたりから、何も知らない知人に会うと同じことを言われるようになった。
「ちょっと痩せたみたいだな」
 違うんだって、むしろ太り気味なくらいだ。奥歯がないので妙に顔のラインがすっきりして、痩せたように見えるらしい。
「そうかなあ」
 入れ歯のことを話しても、相手が沈黙してしまうだけ。ぼくは曖昧な笑いを浮かべ、その場をやり過ごしている。

第10回●2本目の抜歯 第12回●3本目の抜歯
PAGE TOP  ↑
このサイトにはどなたでも自由にリンクできます。掲載されている文章・写真・イラストの著作権は、それぞれの著作者にあります。
ポットの社員によるもの、上記以外のものの著作権は株式会社スタジオ・ポットにあります。