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エスムラルダ[ドラァグクイーン]●そんな、ごく「当たり前」のこと

 20歳の時に初めてゲイの友人を得、「ゲイはセクシュアル・マイノリティである」と教えられた私は、それからしばらく「マイノリティとしての誇り」を胸に生きていました。「マイノリティだからといって、誇りを失ってはならない」「マジョリティの生き方や考え方に迎合する必要はない」などと考えていたのです。私が「同性が好きな自分」を肯定するためには、こうした強烈な「マイノリティ・イズム」が、一時的に必要だったのでした。

 しかし「マイノリティ・イズム」は、いつしかうやむやになっていきました。日々の生活に追われ、「(マイノリティだのマジョリティだの言う前に)自分自身がどう生きるか」の方がはるかに重要な問題になってしまったためです。また大学や会社でのカミングアウトが意外とあっさり受け入れられ、「誇り」を振りかざす機会がなかったせいでもあり、「非婚・難婚・晩婚ノンケ」の増加や労働力の流動化によって、「マジョリティの生き方や考え方」という概念自体がよくわからなくなってしまったせいでもあります。

 そんな私が2002年から、何故か、東京で行われるセクシュアルマイノリティのパレードの運営に関わることになりました。「苦労自慢」になってしまうのは嫌なのですが、パレードの準備は結構大変です。おびただしい数の会議に出席しなければなりませんし、私の場合は猛暑の中、大量のグッズをショップに運んだこともあれば、風邪で熱を出しながら、広告費を回収しにスポンサーのもとへ行ったこともありました(あえて大変そうなエピソードを選んでみました)。

 そういった作業を完全ボランティアでやっているパレードの運営スタッフが、時に「セクシュアルマイノリティの中のマジョリティであるゲイが多数を占めている」「だから、他のセクシュアルマイノリティに対する配慮が足りない」といった「批判」を受けることがあります。

 かつては自分を「マイノリティ」だと思っていた私ですが、今度は「マジョリティ」に鞍替えです。そして、上記のような「批判」を目にし、耳にする度に、私は心の中で「ゲイ中心にならないよう、スタッフもできる限りのことをしているのに!」「マジョリティ認定されたら、マイノリティのどんな要求にも従わなきゃいけないわけ?」と反発したり、「そもそも全セクシュアルマイノリティの中で、パレード運営スタッフの人数なんて、ごくわずか。つまり『マイノリティ』なのだ! 運営スタッフにも人権を!」と主張してみたりするのでした。

 ……ごく私的な体験談が、ずいぶん長くなってしまいました。

 世の中というのは、本当にままならないものです。
 「マイノリティ」だったはずの自分が、ちょっと視点を変えただけで「マジョリティ」になる。「マジョリティ」からの価値観の押し付けに抵抗しているはずの「マイノリティ」が、逆に自分たちの価値観を、一方的に他人に押し付けていることもある。「性役割」や「枠付け」、「アイデンティティ」などは、時と場合によって必要にも不要にもなり、それらに縛られすぎたり、あるいは完全になくそうとしたりすると、さまざまな歪みが生じる。物事に線を引き「二項対立」の図式で捉えるのは、単純でわかりやすいけれど、そればかりに終始すると問題の本質を見失う。物事を論理的に考えることは大事だけれど、人の感情や現実のありようを無視して完璧な理論を組み立てても、それは「机上の空論」にすぎない——。

 要するに、世の中に絶対的なものなどなく、何事もいきすぎるとロクなことにならない。そして、「いきすぎ」を防ぐためには、常に「(他人を、ではなく)自分自身を疑う」必要がある。また、世の中のさまざまな問題を(より多くの人が納得できる形で)解決するためには、「あらゆる立場の人が、他人の欲望(事情、価値観、主張、と言い換えてもいいかもしれません)をきちんと理解し、話し合い、それぞれの欲望をすりあわせて『落とし所』を見出す」しかない。

 この本に書かれているのは、そんな、ごく「当たり前」のことです。
 しかし「当たり前」のことを言うのに、著者はわざわざ「欲望問題」という新たな概念を提示し、一冊の本を費やさねばならなかった。それだけ、従来の「差別問題」が(いや、実際には「世の中全体が」ですが)抱えている問題の根が深い、ということなのかもしれません。

 伏見憲明さんは、(何だかんだ言っても)非常にバランス感覚が良く、そして常に自分を客観視しようと心がけている方だと、私は思っています。だからこそ、15年以上も「(主に同性愛の)差別問題」に取り組んでいながら、「『差別問題』が抱えている問題を、自身の過去の言説を反省しつつ詳らかにする」ことができたのであり、「命がけで」この本を書かずにはいられなかったのでしょう。
 難しい問題に、あえてメスを入れられた伏見さんの勇気と覚悟、そして愛情に、心から敬意を表したいと思います。

【プロフィール】
1972年、大阪府生まれ。ライター兼ホラー系ドラァグクイーン(東京都ヘブンアーティスト)。携帯サイト「公募懸賞ガイド」、雑誌「CDジャーナル」「フォアミセス」等に、コラムや漫画原作を執筆中。
 
HP:
『エスムラネット』
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/murapon/

藤本由香里[評論家]●「豊かな魑魅魍魎」のために

 小倉千加子はかつてこう言った。
「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」
 これを読んだとき私は快哉を叫び、それまである種のフェミニズムに感じていた微かなとまどいやひっかかりが、いっぺんに吹き飛んだ気がした。

 そして伏見憲明は、ホモセクシュアルの問題や、もっと広くクィアという存在を考えるにあたって(「クィア」という考え方自体がすでに「豊かな魑魅魍魎」だが)、それをやり続けてきた人だと思う。
 それは彼自身がこの『欲望問題』の中で、『プライベート・ゲイ・ライフ』や『キャンピィ感覚』を通じて自分がとってきた立場や戦略を明らかにしている通りであり、そして私は、個人的には一貫してそれに拍手を送りつづけてきた。

 同時に伏見は、非常に示唆的な理論構築をも並行してやり続けてきた人であり、この『欲望問題』は性差別問題(同性愛差別・女性差別含めて)についての彼の考え方の集大成といっていい。
 この中で彼は、「差別を解消したいという理想」も、「性差を楽しみたいという気持ち」も、「それぞれの性別役割に充実を感じる感性」も、「欲望」という意味では同じである、といい、それらすべてを同列に並べることを考えの基本におくことを提案する。
 絶対的な「正義」などというものはないのであり、大事なのは、ジェンダーという領域の中にあるさまざまな「欲望」が、お互いの間で利益調整を図っていくことなのだというのである。
 「差別を解消したいという理想」も欲望の一つに過ぎない、という位置づけ方は確かに新しいし、それ自体は私は正しいだろうと思う。また、そう位置づけることで、議論を新しいステージに進めることができる、という側面があるのもまた事実だろう。

 それを高く評価してこの一文を終えてもいいのであるが、私にただ一つ解せなかったのは、なぜ今、伏見憲明はこんな問題提起をしなければならなかったか、である。
 この「解せなさ」にはいくつかの感覚がからんでいるのだが、小倉千加子が「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」と言った時点で、そして伏見自身がそれをみごとに実践してきた時点で、もうその答えは出ていたのではないか、と私には思えることがその一つ。
 つまり、その先問題になるのは、つまるところ運動の実践論に過ぎないはずだからだ。
 現状ではまだ強く「差別解消」を訴えていった方がいいのか。
 それとももっとソフトに理解や共感や「お、そっちの方が面白そうじゃん」と思わせる戦略に訴えていった方がいいのか。
 あるいはその両方だとして、自分はどの立場からどういうパフォーマンスをするか、ある問題についてどういう立場をとるのか。

 誰が何を主張するにしろ、それは現状判断の違いにすぎない。けっして本質論ではない。
そこで問題になるのは実践の有効性の判断だから、もちろんそのときどきで、論理的には矛盾が出てきたっていっこうにかまわない、と私は考える。
 私たちがより生きやすくなるために求められているのは、論理的な一貫性などではないのだ。だから、内向きの「論理」の要求などに答える必要はない。いや、答えてもいいが、そうした運動内部の要請に対する答えを外に向かって言う必要は、必ずしもない。
 それまで、運動の内部を見つめるのでなしに、運動が変えようとする「外部」をこそ意識し、つねに外に向かって発信し続けてきた人ならなおさらである。

 たしかに運動の中では、「やせた清廉潔白」を求める人もいるだろう。
 だが、そもそも、そこにかかわる人間に、論理と実践の厳密な一致とか、論理と行動の一貫性とか、「正しい」ことを過剰に要求するようになった運動は、害悪の方がはるかに大きいし、長続きもしない。
それは、思春期に社会主義者の両親のもとで「家庭内文化大革命」を経験し(詳しくは拙著『少女まんが魂』の中の萩尾望都さんとの対談を参照)、「運動の理想」というものが人をいかに追い詰めるかを、オーバーではなく死と向き合って実感した私の強い確信である。だから人は、いくら運動の中にいるからといって、厳密な論理的一貫性を求めて自分を追い詰める必要などないのだ。

 
……と、ここまで書いてきて、もしかしたら私は、とても的外れなことを言っているのかもしれないと思う。
 ただ、なぜか『欲望問題』を読んでいて、かつて吉澤夏子の『女であることの希望』や『フェミニズムの困難』を読んで感じた、「運動の内部の論理に追い詰められてこれが出て来た」感と同じものを微かに感じてしまったのだ。

 その結果、吉澤夏子は「フェミニズムは個人の領域に立ち入るべきではない」と言った。片方に「個人的なことは政治的である」という非常に強いフェミニズムのテーゼがあるにもかかわらず。
 そのとき私は吉澤が、なんだか違った方向に力を使わされているように思った。よしんば誰かに「フェミニストのくせに矛盾してる」と言われようが、そんな<たらいの水ごと赤子を流す>ようなことをしなくとも、「そう? でも私はこれが好きなの」ですむことなのに。

 もちろん、伏見の『欲望問題』がそれと同じであるというつもりはない。これはとても誠実な本だし(吉澤の本もとても誠実な本だ)、結論にも基本的に同意する。
 だが、私にはもう一つ、伏見が今この本を書いた、それも命がけで書かなくてはならないと思った、その内的な動機がよくわからない気がするのである。
それが運動の内圧によるのだとすると、そのさなかから逃げない伏見にエールを送ると同時に、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかと、一声かけたい気持ちになる。

 
 それともう一つ大事なこと。
 『欲望問題』では「ジェンダーフリー」をどう考えるか、というのも一つの大きな論点になっているように思えるが、これもまた、私は他ならぬ伏見によって「とっくに回答が出ている」問題だと思っている。

 なのになぜ伏見がこの中で、ジェンダーフリーとジェンダーレスはどう違うか、性差の解消抜き(ジェンダーレスにならない)で性差別解消(ジェンダーフリー)が可能か、という問題に論理的にこだわっているのかが少し不思議だ。もちろん、各論者の立場の違いが整理されていて、いい仕事だとはいえるのだが。
 「ジェンダーフリー」という言葉は私はあまり好きではないが、ジェンダー問題を解決する鍵は、「性別をなくす」ことではなくて、「人間の性別はいくつかの層に分かれていて、それぞれの層のつながりは一貫していなくてもいい」つまり、「性別をいくつかの要素に分け、それぞれを自由に組み合わせることによって、たくさんの性別のパターンを作ることができる」ということだと思う。私はこのことを伏見の著作の中で学んだ。

 たしかにそれまでは私の中にも、性差別解消を推し進めていくと、男女の性差のない、のっぺりした社会が出来上がるような不安があった。
 それが80年代末、秋里和国のマンガ『ルネッサンス』の中で「完全両性愛社会」のイメージに出会うことで、「そうか! 性差の要素を徹底的にクロスさせてしまえばいいんだ!」と思い当り、いっぺんに目が覚めたような気がした。

 そして伏見の『プライベート・ゲイ・ライフ』の中で、「性別はいくつかの層に分かれている」という考え方に出会うことで、この考え方のイメージがより構造的に説明できるようになったのである。
 『プライベート・ゲイ・ライフ』ではとりあえず、性別パターンを構成する層は「♂/♀」「男制/女制」「ホモ/ヘテロ」の三つにしか分かれていないので、<性別>のパターンは2×2×2で8通りだが、「男制/女制」はくっきりと二つに分けられるものではなく、その中で「女言葉/男言葉」だの「ダンディ/フェミニン」だの「男前/乙女」だの、いくつもの層にまた分けることができる。
 こうすることによって、それぞれの層の「男女」という性別二元法はそのままで、その層の組み合わせのあり方によって、身体的性別はその人が表現する性別の一部でしかない、まさに個人ごとに異なるn個の性の組み合わせが可能になるのである。これがジェンダーレスでなどありえないのは自明の理ではないだろうか。

 そして社会は現在、そちらの方に着々と進み始めているように思える。たとえば「乙女系男子」という言葉が、マスコミでも喧伝される時代だ。「乙女」要素はカセットのように身体的性別から切り離すことができ、それを女子が選択しても男子が選択してもいい。
 そういう意味では、私が『欲望問題』の中でいちばん「使える」と思ったのは、「イカホモ」(いかにもホモっぽいルックス)という言葉がゲイの間で肯定的に流通した、という事実である。<つまり、「真の男」と自分の間に隙間、遊びがあるという感性が、そのジェンダー表現にはある>と伏見は書く。

 社会はこれからどんどんその方向に進むだろう。そしてその中で差別も解消されていく、というのが私には一番望ましいあり方に思える。
 もっとも、伏見には、そんな答えはもうとっくにわかっているはずなのだが。

【プロフィール】
●ふじもと ゆかり
1959年、熊本県生まれ。編集者、評論家。とくにマンガ評論家として数多く連載を持つ。

【著書】
達人が選ぶ女性のためのまんが文庫100(村上知彦、夢枕獏との共著)/白泉社文庫/2004.9/¥648
愛情評論/文藝春秋/2004.2/¥1,600
少女まんが魂/白泉社/2000.12/¥1,500
快楽電流/河出書房新社/1999.3/¥1,600
私の居場所はどこにあるの?/1998.3/¥1,600

◎「週刊現代」(3/17号)『リレー読書日記』で池田清彦さんにご紹介いただきました。[『欲望問題』の評判]

◎「週刊現代」(3/17号)『リレー読書日記』で池田清彦さんにご紹介いただきました。
伏見憲明・公式サイト :「週刊現代」で取り上げられましたをご参照下さい。

松沢呉一●macskaさんのブログへの反論[更新]

編集部から●本コーナーの2月3日にアップした松沢呉一さん書評原稿「欲望のためのジェンダーレス教育を!」に対して、macska dot org[http://macska.org/]のブログで批判がなされました。本コーナーでは、その批判に対する松沢呉一さんの反論を公開していきます。適宜、追加していきますので、どうぞお見逃しなく!


では、macskaさんの批判に対する反論なり弁明なりをやっていきます。

ネットの文章なので、その必要があると思えば、修正箇所をわかるよう、適宜原文に訂正、改訂、補足を加えていきます。

一度にすべてを論じると混乱しそうなんので、ひとつひとついきます。

まず言葉の定義です。

macskaさんの引用した定義。

————————————————————–

A.よくある誤解だけど、ジェンダーフリーは、性差を全部なくすこと(ジェンダーレス)とは違います。ジェンダーフリーは、社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らしていこうというもの(参照)。 ジェンダーを全部なくすのではなく、バイアスや偏見をなくすためだからこそ、男性の育児休暇への配慮や男性の労働時間の縮減、女性の生理休暇や産休なども含まれるわけで。

————————————————————–

公教育の範囲において、私は【ジェンダーを全部なくす】ことを主張してます。すでに書いたように、どこまで可能かという問題はあるにしても、それを目指すべきと考えてます。

社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らすものであることを個別に立証する必要はなく、検討する必要もなく、ただひたすら教育の場ではなくせばいいと言っている。

だから、私の主張は「ジェンダーレス教育」だとしているわけです。定義通りに解釈しているだけだと思いますが、いかがでしょうか。

 
 

[3月1日 追記 macskaさんのコメントへの返信]

体調を崩して寝込んでしまい、返事が遅くなりました。すいません。

ジェンダーフリー論争のざっくりとした流れは『欲望問題』で読んでましたが、おかげで正確な経緯が理解できました。ありがとうございました。

ところが、いよいよわからなくなったところがあって、「ジェンダーレスとジェンダーフリーの区別は可能なのか」「その区別に意味があるのか」という『欲望問題』で提示されているテーマに行き着かざるを得ず、一から出直して、まずは『バックラッシュ!』を読んでみます。

それから改めて書きます。

松本侑子[作家]●同じ時代を同じように摸索し、答えを探しながら生きてきたんだな

 本書を読んで、思わず涙が出ました。とくに、第2章「ジェンダー・フリーの不可解」には、心を揺り動かされました。

 伏見さんと私は同い年ですが、「同じ時代を、同じようなことに悩み、模索し、答えを探しながら、生きてきたんだな」とつくづくと実感したのです。

 伏見さんの御本は、デビュー作の『プライベート・ゲイライフ』以降、ほとんどを拝読していると思いますが、ゲイ/ヘテロの差がありながら、ここまで同じような変遷を経験していたのかと驚きながら、ますます共感をおぼえた次第です。

 第2章の主題は、「ジェンダー・フリーの不可解」という章題から連想されるように、昨今の「ジェンダー・フリー/ジェンダー・レス」の混乱と、それが目指すものへの疑問です。

 しかし私が注目したのは、この章で、「自分らしく生きること」と「性別二元論」の相克、それをどう克服し、今はどこへ着地したのか、その過程が告白されている点です。その記述に、私は惹きつけられたのです。

 本書によると、伏見さんは、1980年代のフェミニズムの時代に、「男らしさから自分らしさへ」というその時代の理念に従って、オネエ的な自己表現をしたところ、あまりモテなかった。

 ところが同性愛者に好かれるある種の記号としての「男」、つまりジェンダーの「欲望」に沿ったイメージを演出したところ、恋愛相手には困らないようになった。

 しかし、彼はまた別の困難に直面します。
「性愛は満たされるかもしれないが、もう一方で、自分が抱える<女制>蔑視から生じるゲイ差別の問題が取り残されてしまうことになりました。ぼくは同性愛ということでも思春期に抑圧感を抱かざるをえませんでしたが、女性的な男性という部分−−これはすべてのゲイに当てはまるとは言えませんが、少なからずのゲイに見られる傾向−−でひどく攻撃された経験がありました。それは、男女のジェンダーの格差に根ざした蔑視でしたから、ぼくは<女制>差別の当事者でもあったと言えます。」

 こうして伏見さんは、「性愛を生きようとすれば差別を再生産し、差別をなくすためには性愛を断念しなければならない」というディレンマにさらされた結果、「性愛は私的領域の中で交わされる『ゲーム』だと了解し合い、一つのパロディとして遂行していく」ようになったと書いています。「キャンピィ」な感覚もまた、「パロディ」の一つだったようです。

 それから歳月を経た今、第2章の結末では、「性別二元制」の中でも、ゲイ男性の欲望を引きうける理想的なイメージの一つに、「いかにもホモらしい人」が出てきて、いわゆる普通のヘテロ男性が考える「男らしい男」とはまた別に分化して、ゲイ独自の男制が発展していることが語られて、終わります。

 実は同じ遍歴を、私自身もたどってきたように思います。
 10代の1970年代にアメリカのフェミニズムの洗礼を受け、1980年代の20代は上野千鶴子さんや小倉千加子さんの片端から本を読みあさりました。

 私生活では「自分らしさ」を心がけていましたが、メディアで仕事をしていたことから、「女性性」の表出は、職場では、日常的に求められていました。また、意中の男性の前では、恋人になりたいために、ヘテロ男が求める「女制」の記号も表現しました。
 すると、恋愛が成就することもありましたが、相手が私に求める「女制」や「支配・被支配的な男女関係」に失望したり、疲れたりして、結局、長続きしない。恋愛の中で、性差別の再生産をする羽目になる。

 さらに私は、子どものころから女性的な服、キモノ、家庭的な手仕事が大好きだったのですが、そうした自分の好みは、因習的な刷り込みなのか、それとは無関係な個体的な好みなのか、うまく分析できない(今思えば、同じ親のもとで育ちながら、姉妹はそうした趣味を共有していないので、個体差だったのかもしれせません)。

 そうした迷いの結果、女らしいドレスアップをしてメイクをする時は、「女装」と語っていた時期もありました。過剰な女性性の演出それ自体を、ある種の性表現のパロディにして、自分と他者を納得させていたのかもしれません。また私自身、別人に変わるくらいの「女装」をとても楽しんでいました。演劇的な喜びもあります。

 その頃は、自分の公式サイトに女装専門コーナーも常設して、美しい女装者の皆さま方のお写真を多数、掲載していました。やがて、本物の女装者と、自分の「女装」との違いがわかるようになり、結局、今は、女装コーナーは廃止しています。

 そして現在、注目していることは、女が意識する<女制>のイメージが、必ずしも「男性にとって受けが良い外見、イメージ、性的記号」ではなくなっている明確な現実の変化です。

 女たちは、必ずしも異性の目だけではなく、むしろ自分や同性の意識や価値観を体現する外観とイメージを、理想として考えているように感じます。私自身も、同様です。

 たとえば、私自身の服装を、パートナーや男性が「???」と反応することもあれば、気に入ることもあるのですが、いずれにしても、さほど重きを置いていません。むしろ自分と同性の美意識のほうが比重が思い。

 倖田來未さんのエロカワという高い評価も、セクシーさという性的魅力が語られながら、男の目線ではなく、むしろ女の肯定的な目線が基準になっていることを思えば、性別二元制の中でも、男制、女制のイメージそれぞれが、ヘテロの硬直した欲望の視線から比較的、自由になりつつあることを感じています。

 最後に、「ジェンダーフリー」という言葉については、私も懐疑的です。
 学校では、「性差別撤廃」で良いのではないでしょうか。それは女性/男性という身体的性別だけでなく、同性愛/異性愛といった性的嗜好性も含めて、差別的な扱いに警戒してほしいという意味です。

 そして最後にもう一つ。伏見さんは、ゲイのカミングアウトは、場合によっては家族を傷つけかねない試みだったが、現在はお母様と良好な関係を築いていらっしゃることを書いておられます。
 同じようにフェミニズムもまた家族を傷つけかねない思想でした。
 親たちが当たり前のように信じてきた価値観、(男はかくあるべきだ、女はかくあるべきだ、女の幸せはこういうものだ)が、娘によって、むざむざと否定されていく。
 また娘である私自身もまた、自分が育ってきた環境の価値観や自分の過去の理想を否定しながら、あるべき自分や異性関係を探していく、という、時にはつらい問いかけ、作業を繰り返して文章を書いてきたように思います。
 しかし両親は、娘の試行錯誤から、きっと何かを感じとってくれたのではないかと思います。とくに以前は男権主義的だった父が大きく変わったことを、私は嬉しく感じています。

 伏見さんの『欲望問題』は、ご自身の思索と活動の過程、昨今のセクシュアリティをめぐる現状を、時に自己批判もまじえながら語った書物です。その率直で真摯な態度に心打たれました。
 ゲイの人だけでなく、ヘテロの女性も、男性も、自分の性愛と生き方を見つめ直す大きな機会をあたえてくれると思います。

 私はこれからも、憲ちゃんの本を真剣に読んでいきたいと、あらためて実感しています。

【プロフィール】
まつもとゆうこ●
作家・翻訳家。テレビ局に在職中に『巨食症の明けない夜明け」ですばる文学賞受賞して文筆業に。小説、海外紀行集の他、訳注つき全文訳『赤毛のアン』などの翻訳も手がける。

【著書】
海と川の恋文/角川書店/2005.12/¥1,700
ヨーロッパ物語紀行/幻冬舎/2005.11/¥1,500
アンの青春(訳)/集英社文庫/2005.9/¥762
憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言(井筒和幸、井上ひさし、黒柳徹子らとの共著)/岩波ブックレット/2005.8/¥476
愛と性の美学/幻冬舎文庫/2005.2/¥600
引き潮/幻冬舎/2004.9/¥1,300
性遍歴/幻冬舎文庫/2004.4/¥495
イギリス物語紀行/幻冬舎文庫/2004.2/¥571
物語のおやつ/WAVE出版/2003.9/¥1,400
光と祈りのメビウス/ちくま文庫/2003.1/¥680
どうして猫が好きかっていうとね(訳)/竹書房/2002.7/¥980
別れの美学/幻冬舎文庫/2001.12/¥495
赤毛のアンに隠されたシェイクスピア/集英社/2001.1/¥1,900
誰も知らない「赤毛のアン」/集英社/2000.6/¥1,700
赤毛のアン(訳)/集英社文庫/2000.5/¥800
花の寝床/集英社文庫/1999.8/¥362
グリム、アンデルセンの罪深い姫の物語/角川文庫/1999.5/¥552
偽りのマリリン・モンロー/集英社文庫/1993.1/¥457
植物性恋愛/集英社文庫/1991.10/¥381
巨食症の明けない夜明け/集英社文庫/1991.1/¥343

竹田青嗣[哲学者]●「差別」の問題を考えるとき、これがいまのところいちばん根本的である

『欲望問題』を一読し、ある感慨を覚えた。自分が在日コリアンなので、いろいろ思い当たることがあったからだ。伏見憲明氏のことは、それほどよく知っていたわけではないが、なんとなく勝手な「仲間」意識があった。差別の問題を、単に社会問題としてだけではなくて、いわば「不遇」の感度でちゃんと考えている人という程度の理解だったが。

 私もまた二十歳すぎから三十歳近くまで、民族問題(差別問題も込みで)でずいぶん悩んだ経験がある。いってみれば、これから自分の人生をというときに、変な怪物スフィンクスに出会って、この難問を解かないと先には進ませないと言われたようなものだった。「私とはいったい何者か」というのが第一の難問で、「どうやって差別をなくすか」というのが第二の難問。はじめがアイデンティティの問いで、つぎが「社会的正義」の難問だが、ところでこの二つの問いには、なぜかすでに「正解」が存在していた。第一の問いの「正解」が「朝鮮民族として主体的に生きよ」で、第二のそれは「一切の階級や差別のない理想社会を創り出すために生きよ」というものだ。私の感度からは、これは両方とも、いわば「超自我」の声のようでどうにもなじめなかったのだが、その威力は圧倒的に大きかった。当時、ずいぶん差別の本とか、あれこれ読んだが、どういう理由だか、私にはみんな同じこと(上の正解)ばかり言っているように思った。ハイデガーじゃないけれど、「本来性」を生きるか、それとも「頽落」(=ダラク)の道を生きるか、どっちかです、みたいな。驚くべきことに、当時、そういった「正義論的構図」のほかにはどんな「答え」のモデルもなかったのである。
 
 そういうことでずいぶん悩んだのが理由で、私はいま「哲学」などを仕事にするようになった。なのに、考えてみると、差別問題についての本格的な本は一つも書いていない。どういえばいいか、正直いって、うーむ、こういうの、書きたかったなあ、と、つい思ってしまったのである。

 自分が仕事をしていないのでこういうことを言える立場ではないが、あれから日本の社会で、部落差別や障害者や性同一性障害やその他もろもろ、たくさんの差別の問題が大いに沸き立ってきたわりには、差別の本の基本構図はほとんど変わっていない、と私は思う。在日の問題でも、やっぱり四十年前と変わらず、民族とか主体性とか愛国心とかが主張されているし、ジェンダー論では男社会排撃論がまだ一定勢いを保っている。しかし、差別論は、単なる社会正義論だけで語ると決してその本質をつかめないのである。
 
 この本は、そういう正義による差別の救済論ではない。差別の問題は、いかに現行の社会の不平等や不正義を正してゆけるかという問題とは別に、もう一つのまったく異なった課題を持っている。個々人が、差別を感じることからくる不遇感やルサンチマンやリアクションをどう自己了解して、自分の生を組み立て直すか、といういわば実存的な課題である。ここでは、社会制度の改変の条件を考えるのとは別の考え方が必要である。そして、この本では、まさしく差別の不遇性を生きることのそういう微妙な側面が、著者が経験した一つの思想体験としてはっきりと打ち出されている。

 差別(的)経験はいろんな局面をもっており、だから多様な問いがわき出てくるし、さまざまな選択の場面にぶつかる。正義論的な構図では、それらの多様性は一つの正しい「答え」に収斂されていくことになる。しかし著者の声は、正しい「本来性」の道でなければ「ダラク」の道しかないよという言説の威力にあらがって、そういう人間的選択の自由の感度を届かせるものだ。こういう「差別?」の本がきわめて稀だったことを考えると、もうそれだけで、挑戦的かつ開拓的な意味をもっている。

 「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」というキャッチが、またきわめて象徴的である。

 差別の不遇を生きる人は、自分の存在のマイナス性を打ち消そうと努めるところから出発するが、その最も典型的な類型として、不正義な社会に対する「反=社会」思想が現われる。まさしく、「差別をなくすために生きる」ことこそが、自分の不遇感を取り払う絶対的な道のように感じられるのだ。たとえば革命によって理想社会を創り出すというのが、まずやってくる考え方のモデルであり、それが無理なら、ねばり強い社会批判を続けていく、という方向がつぎの方向になる。しかし、革命は成功するかどうか分からないし、いったいいつ理想の社会がやってくるかも定かでない。著者もその機微にふれているが、この生き方は、人間の当為とエロス(「欲望」)を、カント的な二律背反(理性か感性か)、キルケゴール的な「あれか、これか」(美的か、倫理的か)に必ず引き裂くことになり、要するに、原理主義的にガンガン頑張れる人以外は、ちっとも楽しくないような道になってしまうのである。

 どんな差別運動も、それ以外には道がないというぎりぎりのプロセスを経緯しているから、こういう正義の感覚に根ざす原理主義的反差別運動が不必要だった、と言うつもりはぜんぜんない。これらの運動が、社会が抱え込む差別意識の悪質な反動性に対抗する上でどれほど大きな役割を果たしてきたかということは、ユダヤ人や黒人の歴史を見ればすぐに理解できることだ。しかし、どんな反差別運動(や思想)も、その本質から言って、絶対平等や絶対正義に向かう運動という理念のままではけっして生き続けることができない。反差別の運動は、公正で開かれた市民社会の成熟へ向かうときにだけ、さまざまな市民階層の中によく根を張り、感動的な慣習や秩序にたいする持続的な改変の運動として持続することができる。

 たとえば「在日」の中では、さすがに「民族的主体性」のテーゼは、一部の(もっと言えば、日本のサヨク的陣営が期待するような)在日=反日知識人だけの看板になっていて、ふつうの「ザイニチ」の若者の中では確実に死滅しつつあり、この状況はもはや決して後戻りしない。性の問題においても、いわゆる原理主義的フェミニズムの思想が一つの時代の役割を終えつつあることは明らかである。しかし、ニーチェが力説したように、じつはその「次の考え方」が難しいのである。「神は死んだ」。それはよいとして、次に何が現われるかというと、もしわれわれが生の積極的な価値を根拠づけられないかぎり、古い倫理に根拠を求める反動、無神論、相対主義、ニヒリズムといったさまざまな「反動形態」、といったものが世界にはびこることになるだろう。

 そう、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」。そんな、正義のためだけに生きることなんてふつうの人にできやしないし、だいいち、「楽しく」ない。しかし、「差別をなくす」という社会的な希望をすっかり捨ててしまうと、われわれはどこかで生きることが「寂しく」なる。いま差別や不遇の感覚を生きている多くの人間が立っているのは、いわばそういう微妙でやっかいな地点だと思う。

 考え方を変えてみよう。必ずつぎの出口がある。たとえば全てを「欲望問題」として考えてみよう。そうすると、社会的な不正義の構造をいかに少しずつ変えてゆくという課題と、不遇の感覚を生きる自分といかに折れ合って自分の生のゲームを創っていけるか、という課題とのつなぎ目が見えてくるはずだ。伏見憲明はそう言っている。

 私はこの考えは正しい出発点だと思う。すべてを「欲望問題」として考えることは、いわば二十世紀における、支配と被支配の善悪、という構図をいったんチャラにして、代わりに、多様な欲望をもった人間がその多様性を承認しあいながら、どのように「市民社会」というゲームの中に積極的なエロスを創り出していくか、という前提に立つことだからである。私の立場から言っても、「差別」の問題を考えるとき、この立場がいまのところいちばん根本的である。「差別のない社会」というような前提で考えると、道はおそろしく遠いものになる。そうなるとじわじわ絶望だけがやってくる。さまざまな「欲望問題」が多様な仕方で承認しあうゲームを創り出すと考える。そのゲーム自体が一つの深いエロスになると、道の遠さは関係なくなる。この本は、われわれがそういうゲームをうまく設定してゆくための、一つの重要な布石になるにちがいない。
 

【プロフィール】
たけだせいじ●
1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。早稲田大学国際教養学部教授。

【著書】
「自分」を生きるための思想入門/ちくま文庫/2005.12/¥740
人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想/講談社/2004.12/¥2,700
愚か者の哲学/主婦の友社/2004.09/¥1,400
よみがえれ、哲学/日本放送出版協会/2004.06/¥1,120
近代哲学再考:「ほんとう」とは何か・自由論/径書房/2004.01/¥2,100
現象学は<思考の原理>である/ちくま新書/2004.01/¥780
哲学ってなんだ/岩波ジュニア新書/2002.11/¥740
言語的思考へ 脱構築と現象学/径書房/2001.12/¥2,200
天皇の戦争責任(加藤典洋、橋爪大三郎との共著)/径書房/2000.11/¥2,900
プラトン入門/ちくま新書/1999.03/¥860
哲学の味わい方(西研との共著)/現代書館/1999.03/¥2,000
陽水の快楽 井上陽水論/ちくま文庫/1999.03/¥680
二つの戦後から(加藤典洋との共著)/ちくま文庫/1998.08/¥700
はじめての哲学史(西研との共著)/有斐閣/1998.06/¥1,900)
現代批評の遠近法/講談社学術文庫/1998.03/¥820
現代社会と「超越」/海鳥社/1998.01/¥4,000
正義・戦争・国家論 ゴーマニズム思想講座(小林よしのり、橋爪大三郎との共著)/径書房/1997.07/¥1,600
エロスの世界像/講談社学術文庫/1997.03/¥820
世界の「壊れ」を見る/海鳥社/1997.03/¥3,800
恋愛というテクスト/海鳥社/1996.10/¥3,398
エロスの現象学/海鳥社/1996.06/¥3,107
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/講談社学術文庫/1996.04/¥800
ハイデガー入門/講談社選書メチエ/1995.11/¥1,800
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1995.11/¥1,300
<在日>という根拠/ちくま学芸文庫/1995.08/¥1,068
「私」の心はどこへ行くのか 「対論」現代日本人の精神構造(町沢静夫との共著)/ベストセラーズ/1995.06/¥1,760
自分を活かす思想・社会を生きる思想(橋爪大三郎との共著)/径書房/1994.10/¥1,800
ニーチェ入門/ちくま新書/1994.09/¥720
力への思想(小浜逸郎との共著)/学芸書林/1994.09/¥1,748)
自分を知るための哲学入門/ちくま学芸文庫/1993.12/¥740
エロスの世界像/三省堂/1993.11/¥1,553
意味とエロス/ちくま学芸文庫/1993.06/¥950
恋愛論/作品社/1993.06/¥1,800
はじめての現象学/海鳥社/1993.04/¥1,700
身体の深みへ 21世紀を生きはじめるために3(村瀬学、瀬尾育生、小浜逸郎、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1993.02/¥1,796
現代日本人の恋愛と欲望をめぐって(岸田秀との共著)/ベストセラーズ/1992.10/¥1,553
世紀末のランニングパス:1991-92(加藤典洋との共著)/講談社/1992.07/¥1,845
現代思想の冒険/ちくま学芸文庫/1992.06/¥740
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1992.05/¥1,300
自分を知るための哲学入門/ちくまライブラリー/1990.10/¥1,300
陽水の快楽 井上陽水論/河出文庫/1990.04/¥466
批評の戦後と現在/平凡社/1990.01/¥2,136
現象学入門/NHKブックス/1989.06/¥920
夢の外部/河出書房新社/1989.05/¥1.942
ニューミュージックの美神たち/飛鳥新社/1989.01/¥1,300
ニーチェ(For beginnersシリーズ)/現代書館/1988.06/¥1,200
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/河出書房新社/¥1,600
現代思想の冒険/毎日新聞社/1987.04/¥1,300
<世界>の輪郭/国文社/1987.04/¥2,000
意味とエロス 欲望論の現象学/作品社/1986.06/¥1,600
陽水の快楽 井上陽水論/河出書房新社/1986.04/¥1,300
物語論批判(岸田秀との共著)/作品社/1985.09/¥1,200
記号学批判 <非在>の根拠(丸山圭三郎共著)/作品社/1985.06/¥1,200
<在日>という根拠 李恢成・金石範・金鶴泳/国文社/1983.01/¥2,000

ぼせ[研修医]●「正しさ」を疑い、「あちら側」を忘れない

本書は「欲望問題」の視点から、差別問題、ジェンダーフリー問題、アイデンティティへの懐疑(クィア理論というのかな?)に議論を投げかけているようです。しかし、僕が最初に本書を読み終えたときの感想は

「ふぅむ」

というもので、それほど大きな驚きもなく、かといって、すごくツマラナイというわけでもなく、伏見氏の主張も納得出来るモノだし…てな、無感動なものでした。それは、伏見氏が言っているように、利害が対立する場所としての社会で、それらを互いに尊重し合いながら妥当な線引きを見極めるという発想自体は「しごく当たり前のこと」だと感じてしまったからだと思います。

もちろん、伏見氏のように明瞭に言語化しながら暮らしている人はそう多くないとは思いますが、生活感覚として非常に納得のいく論理を「欲望問題」は提示してくれていると感じます。また、「自由の相互承認」や「リベラリズム」という考え方にも通じるのかなーと僕は感じました。うんうん、そうだよね。なるほどなるほど。伏見さんやっぱり分かりやすくて読みやすいなぁ。すごいなぁ。と。

しかし、せっかく感想文を頼まれたのにそんな内容じゃちょっと送れないなぁと思って、本書を何度か読み返してみました。そこで、僕はようやく分かったんですが、伏見氏は「正しさ」の根拠を疑うことをしているんですね。そのことに気が付いてから、自分の頭のなかでウマく連結されていなかった各章がすごく有機的な一貫性をもった構成になっているんだとだいぶ分かってきました。

反差別運動を支える「正しさ」、ジェンダーフリー運動を支える「正しさ」、アイデンティティ懐疑を支える「正しさ」。でも、それらの「正しさ」に普遍性を与えるような明瞭な根拠はなく、むしろ「正しさ」ですらなく、そこにはただ「欲望」があるだけなのだ。そう伏見氏は異論を唱え、そして、新しい枠組みを提出したということなんでしょう。社会はさまざまな欲望が共存した場所であり、事後的にしか「正しさ」を規定できないという主張に従えば、いまこの瞬間を生きている僕たちがリアルタイムに「正しさ」を受け取ることはできません。つまり、先見的に「正しさ」を設定した上での運動、行動、考え方…それらに根拠なんてなく、かつ、そのような先見的な正義を設定するやり方はいずれ実生活と乖離し、下手すれば生活を脅かす存在にもなりうるということです。

さらに、おそらく意識的にでしょうが、「過去の自分」をもきちんと批判対象として、人間の陥りやすい優しさや正しさといったものに、徹底的に決別しようとしています。かつての自分を奮い立たせてくれた根拠、存在や行動に理由を与えてくれた正義を、いま再び、自らの意志で問い直す。自分で自分の爪を剥ぐような強い苦痛を伴った作業なんじゃないかと思います。楽なほうへ流れていく僕みたいな人間には、もう尊敬の一言しかありません。

そして、これら伏見氏の主張・行動も1つの「欲望」と捉えてみると、実生活から乖離した言説や当事者の痛みに根拠を求める差別運動といった「欲望」よりもずっと懐が深くて、少なくとも僕には、世の中をよりよい方向へ動かしていくのに有用な議論だと感じます。

せっかくなので、最近僕が出くわした「カミングアウト原理主義問題」について欲望問題の枠組みで考えてみます。カミングアウト原理主義問題というのは、このごろのネット界隈でゲイの可視化を促進するにはどうするか?ということが話題になってきたことから始まります。リブ志向のゲイブロガーなど(僕もそちらに分類されると思います)は「ゲイの可視化はカミングアウトからしか始まらないんじゃないか」という立場を大なり小なり持っているわけですが、そのような主張がこの1年くらいでわずかばかりですが勢いを見せつつあります。僕自身も「個人の私的な動機によるカミングアウトが、結果的に社会を少しずつ変えていく」とブログで書いたこともあります。

するとそれらへの反論として「カミングアウトできない人たちも世間にはたくさんいる。カミングアウトできる人間はまるで自分たちがエリートかのような視点で、上からものを言っている」という主張が見られるようになりました。「カミングアウト原理主義」だとして、ゲイブロガーたちの主張に批判が入った格好です。

僕自身の私的な感想として「カミングアウトしてからのほうがラクだし楽しいし、周りの人たちは僕をきっかけにしてフォビックな状態から簡単に抜け出しているし、怖がらずにもっとカミングアウトすればいいのにー」という、すごくバカっぽい私的感覚を表明しているだけなのですが、それが「エリート気取りで、カミングアウトできない人を見下したような言い方だ。俺達の気持ちも考えろ」という反論をされることをどう考えればいいんだろうと思っていました。だって、カミングアウトしたくなければしなきゃいいだけじゃないですか。こちらとしては個人の意見としてオススメはするけれど、それを強制する気なんてさらさらないんです。(この対立って、「欲望問題」のジェンダーフリーとジェンダーレスの境界はどこか?という決着の付かない論争構造と似てますよね)

でも、「欲望問題」の枠組みを借りてしまえば、「カミングアウトできない→つまりカミングアウトできる人よりも社会的弱者→俺達の気持ちを考えないなんてサイテーだ!」となってるだけなんですよね。当事者の痛みを「正しさ」として、カミングアウトするかしないかを権力関係の図式に落とし込んでしまってるんですね。一方、僕自身も「好きでカミングアウトしてるし、それでいーじゃん。結果的に社会の役にも立ってるし」と当事者の快楽やある政治的立場を「正しさ」としてエクスキューズしている節がありました。そんな両者はきっと分かり合えないだろうなぁと思います。

そもそもカミングアウトをするかしないかを「正しさ」で測ることは不可能です。まさに、さまざまな環境におかれたさまざまな個人のカミングアウトに対する「欲望」があるだけで、その視点においてカミングアウトする人と、カミングアウトしない人は等価な存在になります。カミングアウトすることが偉いわけでも、カミングアウトしない痛みが優先されるわけでもない。不毛な議論を繰り返すのではなく、おのおのの欲望が最大公約数として実現されるような道を探っていければいいのだろうと思います。そしてそれは、カミングアウトを強要しないことであるとか、殊更にカミングアウトという行為を非難しない立場であるとか、そういう当たり前の結論になるわけです。

近年、とくに若年世代でカミングアウトをするゲイが増えていますが、これはきっと、「より多くの人たちがカミングアウトするという欲望を選択できる社会になりつつある」という意味で歓迎すべき変化かなと考えればいいんでしょうね。そして一方で、カミングアウトしていない人たちへの配慮、例え07.2.27ば「もう少し社会が優しくなったらカミングアウトしたい」とか「とにかく私はカミングアウトするつもりはない」とか、そういう様々な欲望を持った他者を考えることを忘れてはいけないのだろうと思います。

伏見氏が『魔女の息子』で書こうとしていた「あちら側とこちら側」。その意味が、本書を通じて少しだけ理解できたような気がします。

【プロフィール】
ぼせ●1980年生まれ。第15回バディ小説大賞受賞。研修医。

おかべよしひろ[東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長]●自分と重ね合わせてみて

 大阪生まれで大阪育ちの自分が、仕事の都合で東京に移り住んだのが1992年の春。あれからもう15年になりますが、その間に我々同性愛者をとりまく状況は大きく様変わりをしました。東京に来た頃は、まだゲイムーブメントとかゲイリブといった動きが身近ではなく、一般社会に向けてメッセージを発信する、などということは思いもよらなかったし、また、もしそういうことがあったとしても、自分がそれに参加するだなんてとてもじゃないけど考えられませんでした。
 
 二丁目の片隅で(よく通ったバーは厳密には三丁目でしたが)、週末にひっそりと(うそ。結構にぎやかに)お酒を飲む、普通の「ホモ」だったのです(ほんの15年前の当時、まだ「ゲイ」という呼称すら今ほど一般的ではなかったなんて、今の若い人たちには想像できるでしょうか?)。
 
 それがどうしたことか、そんなクロゼットな自分が、こともあろうに東京のど真ん中である渋谷の街を3000人もの「同志」が歩く、東京レズビアン&ゲイパレードの実行委員長を務めることに。しかも2回も。「一公務員の自分がこんなことしちゃって大丈夫なわけ?」「一体自分、どうなっちゃてるの?」「でももう後には引けないし・・・」、と半ば捨て鉢(笑)になってここ数年走ってきました。とはいえ、全方位的にカミングアウトしてオープンリーゲイとして活動しているわけでもなく、「これくらいまでなら大丈夫かな・・・」などと薄氷を踏む思い(大袈裟)で姑息にというか中途半端にというか(笑)、ともかく「今、自分のできること」をやってきた、という感じでしょうか。

 こういった自分のあり方の「変容」を振り返ったとき、たとえば、伏見さんが若いときに大きな悩みや苦しみを抱え、それを解消するためにまず問題を立て、それに立ち向かい続けてきた、というあり方と自分のそれとはずいぶん違うということを感じます。自分は、ゲイであるという自認を持った思春期のころから、ゲイであることで理不尽さや不自由を感じたりしてきたはずなのに、それが「問題だ!」などと思う回路を持っていなかったのです。「お、自分はフツーとは違うみたいだぞ! バレないようにしなきゃ・・・。」(実際は大阪弁)と思っただけで、「それをなんとかしたい!」などと建設的な方向に意識が向くことなどなかったのでした。
 
 しかし、ちょうど東京に来た頃から、徐々にゲイムーブメントが起こり始め、時代が動き出すことになりました。時代の声に接するなかで、自分のなかで潜在的にあった(と思われる)混沌として言葉にもならなかった思い(つまりゲイであることで受けざるを得ない理不尽さや不自由さなど)が徐々に整理されて、自分の言葉となり、そしてその言葉を表現する場が与えられたり、行動する場が与えられたりするようになってきたわけです。ようするに、時代の動きに導かれてというか、影響されてというか、揉み解されてというか、その時々に必要だった(もしくは、やりたかった、やりたくなった、やらされた(笑)、などの)小さなアクションを徐々に徐々に積み重ねていくうちに、いつのまにかこんなふう(どんなふう!?)になってしまったわけです。
 
 このように、自分のあり方の「変容」を振り返ったとき(『欲望問題』のなかで、伏見さんは私のこういった「変容」についても鋭く分析してくれています。ナルホド!)、常に私は「時代」に導かれてきたということができるのですが、一方伏見さんは、「時代がどうだから」などということに突き動かされてきたわけではなく、自分自身で問題意識を明確にし、問いを立て、それに立ち向かってきたわけです。つまり、伏見さんは私が導かれてきた「時代」というものを切り拓き、創ってきた張本人(もちろん彼一人の功績ではないのでしょうが、その中心的存在であったことは確かです)だといえます。

 この『欲望問題』は、その「時代のフロントランナー伏見憲明」の思想の軌跡を知るうえで恰好の書です。後代になって第三者がある人物の思想の変遷を整理する、ということはよくおこなわれるのですが、本人が、しかもまだ第一線で活躍しているさなかにこのような仕事をしたということに私は非常に興味を覚えました。ジェンダーやセクシュアリティの問題やそれらを取り巻く状況は、それほど短時間でいろんなことが変化していくのだ、といえばそれまででしょうが、それを自分自身の手で整理したというところに、伏見さんの研究に対する誠実さを感じます。そしてその視線はつねに未来へと向けられており、彼の問題意識に対する視座は、私にもいろんな示唆を与えてくれました。

 冒頭に書いたように、私が東京に来たのが1992年。そして、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』でデビューしたのが1991年。彼がリードしてきた「時代」を、新宿二丁目という街で感じ続けることができたのは、とても幸運なことだったと思います。同世代(というか同い年)としても、今後の活躍に期待しています。

【プロフィール】
おかべよしひろ●1963年大阪市生まれ。高校教員。東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長。東京プライド理事。セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク事務局長。