投稿者「及川 健二」のアーカイブ

及川 健二 について

ジャーナリスト/研究者。 それまで一分もフランス語を学んだことがなかったのに、 フランス留学を決断。2002年UCLAエクステンションセンター・ 夏期英会話講座・修了、グランゼコールの一つ、2004年 リール政治学院・夏期特別セミナー修了(European Summer University Program at Institut d’Etudes Politiques de Lille)。 フランス国立パリ第九大学・Dauphine修士課程に2004-05年に在学。 多国籍企業の経営戦略が研究テーマ。大学では”英語”で講義を 受け、語学学校でフランス語を勉強するというチョット変わった留学生活をおくる。2004年7月3日から2006年3月25日までフランスに滞在。リール、トゥール、パリにて生活する。数々の政治家にインタビューする。 共著『オカマは差別か』(ポット出版)、2002年1月。 編集・共著『常識を超えて』(ポット出版)、2002年6月。 単著『ゲイ@パリ 現代フランス同性愛事情』(長崎出版)、2006年10月。 単著『沸騰するフランス 暴動・極右・学生デモ・ジダンの頭突き』(花伝社)、2006年10月。 単著『フランスは最高!』(花伝社)、2007年6月。

『私の家は山の向こう』~「中華人民共和国建国60周年」を迎えて~

 『有田芳生 私の取材ノート』(同時代社)に「さようなら、鄧麗君」というテレサ=テンの死を悼む一文が載っている。私にとっては中学3年生の時分(1995年)に買った思い出深い作品だ。

有田さんは書く。

「最後の出会いにとなってしまった仙台で、彼女は、いつものように左手でVサインを示して微笑んでいた。私は鄧麗君に約束したように、彼女の人生を書くこと、そして彼女の思いを一人でも多くの人たちに伝えることで、時分なりの責任を果たしたい。

 一部の週刊誌などが、鄧麗君の死を興味本位に取りざたすることへの怒りを込めて、私は彼女の内面へと一歩でも歩み寄り、もはや本人自らが語ることがかなわない思いをできるだけ綴っていきたい。さようなら鄧麗君。あなたの澄んだ歌声は、私たちの心の中にいつまでも流れ続けている。もういちど、さようなら鄧麗君……。」(95年5月26日記)

 仙台という地名は魯迅が学んだ地であることから、中国人にとってはよく知られている。
 有田芳生さんは10年後の2005年3月30日に『私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実』(文藝春秋)を上梓した。労作を拝読し、1989念5月27日夜に香港のコンサートでテレサ=テンが歌った『私の家は山の向こう』(*原題は前掲著に刻まれている。CDが付いている)を拝聴して、「我愛民主」「民主萬歳」という故人の御意志が叶う日を切に念じ上げる。(つづく)

追伸1:天安門事件で学生には法国・国歌「La Marseillaise」を歌う者もいたという。たしかに、多くの国の民主革命で同曲が歌われた歴史がある。血なまぐさい「革命歌」よりも、美しい歌詞・旋律の『私の家は山の向こう』のほうが民主化を求める象徴に相応しい。

追記2:リヨネル=ジョスパン内閣(1997-2002)に外務相を務めたユベール=ヴェドリーヌ氏の来日講演を今年拝聴した。同氏は民主化を「内的なポテンシャル」に求められた。

平成の大塩平八郎に「連帯保証人」制度の廃止を望む

亀井静香・金融相の地元秘書と電話で話したが、抗議の電話が多く来ているという。
いわゆる「亀井モラトリアム」「平成の徳政令」に反発は強いようだ。

昨朝のテレビ朝日系列『サンデープロジェクト』でも出演した亀井大臣は財部・榊原英資・田原総一朗から総批判を受けた。不況になると拝顔するリチャード=クーさんのみが擁護された。しかし、袋だたきにあいながらも、一歩も譲らず、まことに心強い。

この際だ。

民衆を苦しめる「連帯保証人」制度を廃止してはどうか!?
民衆は歓喜するであろう。

ドミニク=ド=ヴィルパン前首相の悲劇

イラク戦争の開戦にフランス共和国外務相として反対して、国際連合や国際連合安全保障理事会などで活躍して、
「フランスの貴公子」として脚光を浴びたドミニク=ド=ヴィルパン前首相&元外務相はニコラ=サルコジ現大統領を
内務相時代に職権を濫用して失脚を謀ったことが主な理由で、刑事被告人の身にある。
わたしは事件当初から「ドヴィルパン冤罪説」「国策捜査説」を旗手鮮明に打ち出している。

歴史家・詩人としても評価されている教養と智性の貴公子・ド=ヴィルパンが不遇の身にあることには
心より同情を禁じ得ない。日本国が亡命先として名乗りをあげ、「外交顧問」に就いてもらっては
どうか……とふと夢想する。

ドミニク=ド=ヴィルパン首相が誕生したとき、当時肩書きのなかった
コリン=パウエル元国務大臣から

「真の友人であり、畏敬するドミニクが首相に就いたことを心から祝福いたします。おめでとう、ドミニク。」

という趣旨の祝電が届き、イラク戦争で二人が烈しくやりことを知っていたので、わたしは
正直、驚いた。ヴィルパン元首相を日本でも応援していけないか、在日フランス人の仲間と
相談している。

HES(同性愛と社会主義)

フランス社会党系列のLGBT団体『HES』(同性愛と社会主義)に
6月に入会した。洗礼を受けていないものの、教会に通い、
キリスト教プロテスタントのカルヴァン派から受けた影響は
否定できないため、イギリスを拠点とする組織だが、
キリスト教徒によるLGBTの団体にも加入した。
背教者と指弾されるかもしれない。

HESの年次総会が9月26日にあり、出席できない
ことと、新執行部を支持する書簡を送った。

ことあるごとに政治家としての手腕を高く評価してきたニコラ=サルコジ・フランス共和国第五共和制第六代大統領は公約で、同性愛者の権利を向上させるため、PACS制度を改正した『Super PACS』の導入を約束した。また、『同性愛者は人類の敵』と国会で演説した国民議会議員を2007年総選挙でサルコジ与党・UMPは公認しないと約束した。

しかし、公認はしないが、対立候補も立てず、地元議員が応援するなど、本質においては公認候補と大差なかった。
同議員が楽勝だったのは御承知の通りだ。
Super PACSも忘却の彼方へ……。

法国に滞在中、サルコジ氏と接する機会を何度か持ったが、同氏からはアジア系に対する嫌悪感とHomophobieを感じられた。

未曾有(みぞう)の経済危機をフランス・ドイツは脱したというのが多くのエコノミストの見方だ。
サルコジ大統領は優秀だ。しかし、“危うさ”も持ちあわせており、私はその点を指摘した。
大統領になってからも、同氏の体質は変わっていない。

新自由主義者だった同氏がリーマンブラザーズ破綻後、ネオ保護主義者に転向したのには驚かされた。
大英王国においては、opportunistと冠されるのか、pragmatistと冠されるのか。
経済政策においては、サルコジ氏は180度、転換したのに、初期から改革者として
変わらずに礼讃している人もいる。

全否定・全肯定でなく、部分否定・部分肯定をモノカキは心せねばならぬと
心に留めながらも、その戒を護れているか問われれば、答えに窮する。

「梶山静六&亀井静香」と非戦の誓い

ウィキペディアの「梶山静六」元・衆議院議員の項に次のような話が載っている。

【梶山の長兄は太平洋戦争で戦死。長兄の「名誉の戦死」の報が伝えられた時、母は地元の人々とともに万歳三唱。梶山は母の行動を不可思議に感じたが、その後自宅土蔵の陰で号泣する母の姿を見つけ、母の心情を理解する。このような悲劇が二度と起こらぬようにと政治家を志したという。生前折に触れて「長兄の戦死を陰で嘆き悲しむ母の姿が私の政治の原点」と語っていた。この話を梶山から直接聞いた田中康夫は感銘を受け、「東京ペログリ日記」等でたびたび紹介している。】

「今は亡き茨城出身の政治家・梶山静六氏が幾度も僕に語ってくれた」話とことわって紹介するのだが、

「と記すと美談に過ぎぬ、と氏が田中角栄氏の懐刀だった事を知る向きは冷笑するやも知れぬ。
 だが、定見無き日本は、有視界飛行のグライダーであるべき。にも拘らず、数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ近時の若手政治家は、計器飛行のジャンボジェットに似て危うい。と語った氏の警鐘を、今こそ拳々服膺すべきではないのかな。」

と梶山先生の現在的意味を問う(http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/ent_573.php)。

「戦士は死ぬ。しかし、思想は生きる」

カストロ議長はそういったが、梶山静六先生の思想を正統に継承されているのが、国会では田中康夫・参院議員だけなのが哀しく、やるせなく、しかし、さすが、ヤッシーだと感心させられる。

康夫さんの意見にまったく賛同である。

亀井静香先生の「戦争の記憶」を伺った時、梶山静六先生の戦争体験と共に、記録されなければなるまい……と思えた。
「戦争を二度と起こさない」。
その誓いは相通じる。梶山先生は「智性・勘性・温性」を持つ康夫さんの真っ当な感覚を信じて、語り手に選んだのだろう。戦争で体験・不条理を康夫さんには頻繁に語られたと聞く。康夫さんは梶山先生の意志を受け継ぎ、現在も、次世代への「遺言」を伝えている。

1945年8月6日、静香先生は7歳で、原爆の閃光を目にした。「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

美談に過ぎぬ、しょせん、『保身を優先する警察庁長官だよ』と亀井先生を揶揄する人もいる。数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ赤松広隆・衆院議員が「民主党」選対委員長を務めておられる。野中広務「私は闘う」(文藝春秋)では非情の人として刻印するためだろうか、1995年末の社会党の新党結成プレ集会で、赤松広隆・衆院議員が「お前が委員長でいるから新党ができないんだ」と大声でヤジったと記されている(単行本・172頁)。 温厚な村山富市首相が「やれるもんならあんたがやったらいいじゃないか」と赤松を怒鳴りつけた。村山トンチャンが日本社会党委員長であり、赤松は役職もないいサラ議員だった。道理からすれば、赤松が「新党結成のために離党すればよかった」話だ。

亀井先生が赤松選対委員長と会談したエピソードは笑える。

【(8月半ばに)赤松が俺にさ、民主党と国民新党との選挙協力を提案してきたよ。料亭の座敷で交えてね、2人で話をした。あいつはいうんだよ。
「亀井先生、富山と広島ではウチは候補者を立てないから、全面的な御協力をよろしく御願いいたします」
私はこう応えてね。
「富山と広島ならば、どうぞ、おたくから全選挙区で、候補者を立ててみなさいよ。喜んで受けて立ちます。」
キョトンとしていたよ。話にならないと見限って、私は

「女将さん、決して、料理が不味いから箸をつけないのではありません。女将さん、どうか誤解なさらないでください。話が不味いんですよ」

といって、すぐに席を去った。赤松は終始、オロオロしていたよ。
まあ、選挙区調整は俺と小沢一郎で直接交渉することにしたよ。昨日も二人で一時間ばかり会って話をしたんだけれども、とにかくね、軽い気持ちでやったら、政権はとれないという点で一致している。「自公政権」をブッ倒すんです。自民党だけを問うているわけではないということ。国民新党にもね、公明党がすり寄ってきていますよ。よほど、焦っているのかね?民主党と国民新党の協力は俺と小沢でやるからさ。(笑)。まあ、見ていてくれ。】

亀井先生は現在の心中を、自身の短歌に託す。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

「静香」という名は女児につけられる。

「生まれたときに荒川静香さんみたいにさ、かわいくてきれいだったのよ(笑)」
「お袋が『静枝』だからね、その『静』をとって『香』をくっつけちゃったんじゃない」

と口にする(http://www.kamei-shizuka.net/media/2006/060510.html)。
その記事の小見出しには

【静香という美しい名前、好きです
美少女「静香」に会える!期待した兄の友達は駅で私を見て絶句した】

とある。

御本人に取材したからだろう。
「美しい名前」は「おふくろさん」からの最高のプレゼントだ……という夢想が強くなった。

山本モナさんと原爆 ~愛に雪、恋を白~

亀井静香・衆院議員と山本モナさんの共通点は、広島県出身ということだ。
静香先生を被曝1世とするならば、モナさんは被曝3世にあたる。

フランソワ=ミッテラン師の最晩年について以前、書いた(http://www.pot.co.jp/oikenparis/mitterrand-2.html/)。

女性が愛に生きることを何で咎められようか……。

「亀井静香&保坂展人」の絆 ~原爆と死刑廃止~

社民党・公認、国民新党・推薦。異色の組み合わせである。保革共存だ。

保坂のぶと(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/)さんの応援者として6人が写真入りで名を連ねている。

・小沢一郎(民主党・代表)
・土井たか子(社民党・名誉党首)
・菅直人(民主党・代表代行)
・亀井静香(国民新党・代表代行)
・福島みずほ(社民党・党首)
・山口文江(東京・生活者ネットワーク・代表)

亀井先生が名を連ねているので目を引いた。

保坂さんは次の総選挙では杉並区(東京8区)から出馬する。
対立候補は現職の石原伸晃「自民党」幹事長代理だ。
石原慎太郎・都知事が御寵愛する御長男である。
自分でも「親バカ」とおっしゃるほどだ。

慎太郎知事と亀井先生は入会に血判が必要とされた「青嵐会」以来の親友・同志である。慎太郎知事が自民党総裁選に出馬した時には清和会(三塚派)の決定に反して亀井先生は助太刀した。その結果、派閥を除名された。派閥より友情を大切にしたのだろう。

慎太郎知事が1995年に衆院議員在職25年を記念した演説で引退表明するのを事前に知っていたから、用があって退席しようとした野中広務先生を

「おい、ちょっと待ってくれ。彼の演説を聴いてやってからにしてくれ」

と亀井先生は引き留めたそうな。野中先生「私は闘う」に載っている逸話だ。

慎太郎知事の演説は実に見事だ。下野した自民党の政策提言『二十一世紀への橋』のほとんどを、慎太郎知事が1人で執筆されたんだとか。(同氏の御著書として『わが人生の時の時』 (新潮社)を私は推薦したい。)

都知事に就任された後、3人は定期的に料亭で会食するようになった。

大切に護ってきた御長男の対抗馬を推せば、御父上はお怒りになろう。

保坂さんと亀井先生は「死刑廃止を推進する議員連盟」を通じて知り合った。議連会長を亀井先生に要請したのがはじまりと聞く。

「死刑廃止を推進する議員連盟」では亀井先生が会長を務めて、保坂氏が事務局長として支えている。バリバリの改憲派と頑固な護憲派。ミスマッチに思える組み合わせだ。だが、2人は密かに敬い、絆を固くしてきた。

会長が自民党を追われても、亀井派から誰もついてこなかった。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

そんなやるせなさを抱いたのではないか。

「志帥会」会長の座にあった亀井先生は、「死刑廃止議連の会長が前面に立っているように思えますが……」という質問へ応答して、体育会系のノリで呼び捨てなのだろう、

「俺1人の力じゃないよ。保坂は真面目なヤツで、熱心に活動しているよ」

と語られた。2003年総選挙で保坂さんが落選する憂き目にあった折、
「次は亀井派から自由民主党公認で出ましょう」
と勝連太郎さんは笑い飛ばした。最高のユーモアだった。

亀井先生は事務所で油絵を描くことに時間を費やす。どちらかといえば、論理よりも、情の人だろう。ユーモアに溢れる親分だ。

保坂さんは資料マニアと呼ばれるほどに書類や本を多く読む。どちらかといえば、論理の人だ。真面目だ。真剣すぎる。実直の方だ。

亀井先生から今夏、お話を伺う機会を得られた。

師の根底には「人間へのやさしさ」がある。永遠のヒューマニストだ。

1945年8月6日が原点にあるように思えてならない。
静香先生は7歳で、広島にて原爆の閃光を見た。

「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

亀井先生はこう語る。次の総選挙を「最後の決戦」と位置づける。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

現在の心中を自身の短歌に託す。

「キューバ革命」の指導者・チェ=ゲバラを「心の師」として仰ぎ、事務所に肖像写真を飾り、東京大学経済学部生の頃は「マルクスの亀井」と呼ばれることもあった静香先生が、ガチンコで「革命」を起こそうとしている。

次の衆議院解散を「亀井静香なる解散」と呼びたい。

イラク戦争ってそういうことだったのか会議(1)

これを読んだ方の中でご存知の方にはお知恵を拝借したく存じます。

イラク戦争の開戦前後に、アメリカ合州国で当時与党だったブッシュ政権のトップや閣僚が戦争を正当化するために公にした演説や声明、記者会見を、文字・動画問わず、記録したものをお持ちの方はいらっしゃいませんか?米国本国の地上波に流れてきた当時の映像を記録・保存している人々は教えて欲しいです。感謝の意を申し上げることぐらいしかできませんが、それでもよろしいのでしたら、御連絡いただければ幸甚です。

さて、これから、イラク戦争について、色々と回顧いたします。

『国連安全保障理事会:ドミニク=ドウィルパン外務相による演説』(http://www.ambafrance-jp.org/article.php3?id_article=339)の邦訳版を御覧くださいませ。仏語は仏外務省ホームページで探せば、見つかるといわれています。見つからなければ、私も探すのに加勢します。

☆☆☆☆☆☆☆

国連安全保障理事会:ヴィルパン外相の演説

ニューヨーク、2003年2月14日

議長、
事務総長、
閣僚の皆様、
各国大使の皆様、

ブリックス委員長とエル・バラダイ事務局長、イラクでの査察継続に関する情報に御礼申し上げる。また、フランスはその任務遂行を信頼し全面的な支援を惜しまない旨、改めて申し上げる。

フランスはイラク危機発生当初より、安保理の一体性を重視している。この一体性は今日、二つの主要な要素にかかっている。

我々の共通の目的はイラクの完全な武装解除である。この件に関しては、成果を挙げる義務がある。我々の共通の約束に疑念を差し挟んではいけない。我々は集団でこの重大な責任を全うする。そこには下心や意図の勘ぐりなどがあってはならない。はっきりさせておこう。我々の中に、サダム・フセインとイラク体制に対し弱腰になっている者などいない。
安保理決議1441を全会一致で採択することにより、我々は、フランスが提唱した二段階方式に合意した。それは査察による武装解除の道であり、この戦略が失敗に終わった場合は、武力行使を含むあらゆる選択肢を安保理が検討する、というものである。したがって第二の決議が正当化されるのは、査察失敗に終わった場合のみである。
現在提示されている問題は簡潔だ。査察による武装解除はもはや行き詰まっていると我々は認識しているのか。それとも、安保理決議1441により与えられた査察という可能性はまだ完遂されていないと考えているのか。

この質問への解答として、フランスには以下の二つの確信がある。

第一に、査察という選択肢は完了しておらず、イラクの武装解除に効果的な回答をもたらす、ということ。
第二に、武力行使は人類、地域、国際社会の安定に与える影響があまりにも大きく、最後の手段としてしか考えられない、ということ。
では、先ほどのブリックス委員長とエル・バラダイ事務局長の報告から我々は何を学んだだろう。査察は結果を出していると学んだのだ。我々は当然今以上の結果を求めており、それを引き出すためにイラク政府に対し共に圧力を掛け続ける。しかし査察は結果をもたらすのである。

1月27日の安保理での報告で、UNMOVIC委員長とIAEA事務局長は、進捗が期待される分野を正確に指摘していた。そのうちの複数の点において、顕著な進展が見られた。

生物化学兵器分野では、イラクは査察団に新たな書類を提出した。また、ブリックス委員長の要請により、元軍事設備計画責任者が率いる調査委員会の設立が発表された。
弾道ミサイルの分野でも、イラクの情報提供により査察は進展した。我々はアルサムード・ミサイルの能力を正確に把握している。現在は、ブリックス委員長の見解に基づき、無認可計画の放棄に着手する段階にある。
核兵器の分野では、1月27日にエル・バラダイ事務局長により言及された重要な点についての有益な情報がIAEAに提供された。すなわち、ウラン濃縮用のマグネットの入手、および、ウランを提供したと推定される国とイラクとの接触リストである。
これこそ、禁止計画の正確な把握とその廃棄により、査察の効果を確保するという、安保理決議1441の論理の中核である。

イラクの完全かつ全面的な協力こそが、査察の成功の前提であるということは我々全員が承知している。フランスはこれを要請し続けてきた。以下の通り前進が見られ始めた。

イラクは偵察機による領土上空の飛行に同意した。
査察団が、イラク当局者の立ち会いなしでイラク人科学者から聴取することを認めた。
査察団の以前の要請に基づき、大量破壊兵器計画に関わるあらゆる行動を禁止する法案が採択手続き中である。
イラクは1991年に軍事計画の廃棄に参加した専門家の詳細なリストを提出しなければならない。
フランスは当然、これらの約束が守られることを待ち望んでいる。さらに、イラクがより一層協力するよう、我々は強く圧力をかけ続けていく。

これらの進展は我々に、査察という道は効果的であり得るという確信を持たせてくれる。しかしまだ残されている仕事の膨大さから目をそらしてはならない。解明すべき疑問点や進めるべき確認作業は数多く、破壊すべき施設や設備もまだ残っているだろう。

そのために、我々は査察団に成功のためのすべての機会を与えなければならない。
2月5日、私は安保理にいくつかの提案をした。その後、その内容をブリックス委員長とエル・バラダイ事務局長に手交した資料に記載し、安保理理事国に伝えた。
提案を貫く精神とは次のようなことである。これは実務的かつ具体的、即時実行に移せ、査察の効率向上を目的とする提案である。安保理決議1441に則し、したがって新たな決議の採択を要しない。ブリックス委員長、エル・バラダイ事務局長の努力を支援するものである。当然ながら、査察の効率向上のために採用したい提案は、彼ら自身が最も良く知っている。彼らは報告の中で、我々に有用かつ実務的なコメントをして下さった。
既に発表した通り、フランスは両氏のために、ミラージュ4偵察機を始めとする追加的な手段を提供する用意がある。

批判があるのは承知の上だ。
査察はまったく効果をあげないと考える人もいる。しかし再度申し上げるが、査察は安保理決議1441の基盤そのものであり、結果を出しているのだ。不十分かもしれないが、査察は行われている。
査察の継続は、武力行使を妨げるための時間稼ぎだと考える人もいる。そこで当然イラクに与えられる時間の問題が浮上する。これが議論の核心だ。我々の信頼性と責任感が問題となる。解決する勇気を持とう。
選択肢は二つある。
一見、戦争は最も手っ取り早い選択肢のように思われる。しかし忘れてならないのは、勝利しても、その後は平和の構築が必要だということだ。現実から目をそらしてはならない。イラクの一体性を維持しつつ、力の侵攻によって深刻な打撃を被った国・地域に持続的な安定を回復させるのは、長い道のりで、困難を極めるだろう。
これに対し、査察という代替案がある。査察によってこそイラクの効率的 かつ平和的な武装解除に向けて日々前進することができるのだ。結局のとこ ろこの選択肢が最も確実かつ効果があるのではないか。
現時点では、戦争という道が査察という道よりも短いとは誰も主張できない。また、戦争が終わった暁には、より安全で公正かつ安定した世界に到達できるとは誰も主張できない。戦争は常に失敗に終わった場合の制裁手段なのである。数多くの問題を抱える現在、これが我々にとって唯一の解決策だろうか。国連の査察団が成功裡に任務を完遂できるよう、時間を与えよう。その一方で警戒をとかず、ブリックス委員長とエル・バラダイ事務局長に、理事会での定期的な報告を要請しよう。フランスは3月14日に査察評価のための閣僚級会合の開催を提案する。その時点で、どのような進展があり、どのような課題が残ったか評価ができる。

以上に鑑み、現時点では武力行使は正当化できない。戦争には代替案がある。それが査察を通じたイラクの武装解除である。早まった武力行使は深刻な結果をもたらすリスクがある。

我々の行動の正当性は、国際社会の結束にかかっている。早まった軍事介入はこの結束に疑いをもたらし、ひいては介入の正当性、いずれはその効果をも失わせる。
かかる軍事介入は、すでに傷つき脆弱なこの地域の安定に、計り知れない深刻な結果をもたらすだろう。不正義に対する感情を増幅し、緊張を深刻化させ、さらなる紛争の引き金になりかねない。
我々は皆、テロリズムの情け容赦ない撲滅を優先事項としている。必要なのは断固たる決意である。9月11日の惨劇以来、テロ撲滅は我々の国民に対する一義的な責任だ。テロという恐ろしい災禍により何度も大打撃を被ってきたフランスは、この闘いに一丸となって挑んでいる。これは人類全体の問題であり、共に闘っていかねばならない。これこそ、フランスのイニシアティブにより1月20日に行われた安保理会合の意義である。
10日前、アメリカのパウエル国務長官はアルカイダとイラクの間にあるとされる関係について言及された。我々の同盟国との調査や情報交換によると、現時点でこのような結びつきは立証されていない。しかしながら、現在異論が唱えられている軍事行動の有用性を、この点を考慮して判断すべきである。軍事介入こそ、テロを醸成する社会、文化、民族の間の対立を悪化させかねない。

査察団が査察を続行不可能と判断した場合には、武力行使の必要性は排除しないとフランスは常に言ってきた。この場合、安保理は態度を明らかにし、理事国はその責任を全うすることとなる。このような仮説のもと、2月4日の討議の場で私が主張し、回答を出さねばならない問題をここに改めて示そう。

即時の武力行使を正当化するような脅威の性質と規模とはどのようなものか
かかる軍事介入がはらむ多大なリスクをいかに確実に克服するか
いずれにせよ、このような事態に至れば、国際社会の一体性こそが効果を保証する。同様に、国連こそが、何が起ころうとも、構築すべき平和の中心的存在であり続ける。

議長、
いつ、どのようにして我々が戦争という道に進むのかと恐れている人たちに、私は申し上げたい。安保理は何事についても、そしていかなる時も、性急に、無理解のうちに、疑念や恐怖に屈したりはしない、と。

国連という殿堂において、我々は理想と良心の守護者である。我々の担う重い責任と多大な名誉が、我々に平和的な武装解除を優先させるはずである。

これが、戦争と占領と蛮行を経験したヨーロッパという「古い大陸」の「古い国」、フランスのメッセージだ。アメリカや他の国々からやってきた解放の戦士たちの恩を忘れない国のメッセージだ。フランスは常に歴史を見据え、人類のために立ち上がってきた。自らの価値観に忠実に、国際社会全体と、果敢に行動を起こしていきたいと願っている。我々は共により良い世界を作っていくことができると確信している。

ご静聴に感謝申し上げる。

(以上、仮訳。フランス語版のみを正本とする。)

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亀井静香首相待望論

8月4日の夕刻、16:30頃でありましょうか、亀井静香・衆院議員ご本人と四谷警察署の隣のビル9Fにある亀井静香・私設事務所で面会することができまして、25分もの間、お話を聴く機会を得られました。15:15に来るように指定され、10分前に事務所にツレと行きましたら、1時間以上、お待ち申し上げておりましたら、「いやあ、本当にお待たせしてしまい、悪かった」と亀井先生が謝られるので、「亀井先生にお会いし、お話を聞けることだけでもたいへんに貴重な体験ですし、歓喜しております」という気持ちを伝えるべく発言しました。

死刑制度について憲法論的アプローチから考えてきた私のようなものですら、亀井先生から死刑制度の廃止という自身の強い信念・信条について懇切丁寧な解説を受けると、実に分かりやすく心地よさすら覚えて理解できしました。親鸞やキリスト教の考えに接している私には亀井先生の説法は親鸞の悪人正機説やイエス=キリストの原罪論と重なって聞こえてしまいました。

「亀井先生は悟りの境地に達しているとしかいいようがありませんね」

と御本人に思ったことをそのまま発声して、お伝えしました。

亀井先生から別れ際に握手されて激励を受けましたので、亀井静香首相待望論が実現する日を待っています……と私は応答しました。亀井首相が実現する日は実に恋しいし愛おしい。でも、その日は来ない、実現しないと御本人が何よりも御承知されています。願望が夢に終わる現実を私はうら哀しく覚えます。とても切なく寂しく、もの哀しく思えます。

……こんな気持ちに共感を覚える人がもしもいらっしゃれば、私はありったけの感謝を申し上げます。御丁寧にも御連絡があったときには、必ず御返信申し上げる意志を表明いたします。

いつあるのか知りませんが、次期衆議院選挙で政権交代が起きて、民主党・国民新党・社民党・新党日本・平沼新党が連立政権をつくって、菅直人・衆院議員が首相に就任するのが、現実的な話として私が了解し最良な選択だと思っている構想です。さらに理想をいえば、亀井先生が副首相として法務相に就き、死刑制度を廃止して欲しい。その未来において日本は確実に改革されているでしょう。とりあえず、政権交代せよ!国民新党と民主党による連立政権が誕生しますように……と願っています。

亀井先生は「大丈夫、次の選挙で必ず政権交代するから」と自信をもって断言されました。

夢のように思えるそんな日が来ることを心の底から願ってやみません。

信じられる日本へ、さあ。

及川健二   拝

英雄の宿命~ジョン=マケインの足跡~

共和党大統領候補2008のジョン=マケイン上院議員はベトナム戦争に参加した帰還兵である。
社会主義のソビエト連邦の傀儡だった北ベトナム政府に身柄を拘束されて、強制収容所へ監禁された。
そこは地獄だった。日常として拷問・虐待が続けられた。
マケインは逃げられることができた。釈放するヨ……とも告げられた。
それでも、自分の美学を貫き、彼は釈放を拒んだ。
「私よりも他の仲間を釈放してください」と。
拷問で受けた傷は彼の体に残っている。
彼は右肩を上げることができない。

ニクソン大統領が1969年1月29日にベトナム戦争の終結を宣言する。
アメリカ軍は1969年3月29日に南ベトナムから撤退完了した。
1973年1月27日、パリにてベトナム民主共和国、ベトナム共和国、南ベトナム共和国、アメリカ合衆国の間でベトナム戦争終結を約したパリ和平協定が調印された。
捕虜になって、5年6ヶ月後……。米軍がベトナム撤退した後も存続していた収容所もついに解体されることになり、1973年3月15日にマケインは釈放された。
自由の国である祖国に戻ったとき、マケインのことなど覚えている人はいなかった。むしろ、冷笑によって迎えられることが多かったという。
国のために戦った米兵が温かく迎えられるどころか、戦争は過去になり、忘れられ、時に冷たくされる事態に直面し、マケインは何を思ったろうか?深い絶望を覚えずに、それでも現実を受容した……のだろう。

時代は変わり、マケインは上院議員となって、いつしか、「ベトナム帰還兵の英雄」と呼ばれるようになった。
しかし、悲劇としかいえない捕虜収容所における体験が英雄伝として語られていたのに、肉体的犠牲が「彼は発狂している」理由として語られ、マケインの正気が問われ、彼は葬り去られそうになった。ジョージ=ブッシュ現大統領(当時はテキサス州知事)の選挙戦略によってだった。

それでも、マケインは生き返った。実に強靱だ。

マケイン大統領が誕生することはあるのだろうか?