投稿者「伏見 憲明」のアーカイブ

伏見 憲明 について

作家。 1963年生まれ。 著書に『魔女の息子』(第40回文藝賞受賞/河出書房新社)、『さびしさの授業』(理論社)、『ゲイという[経験]増補版』(ポット出版)ほか多数。 編集長として『クィア・ジャパン vol.1〜5』(勁草書房)、『クィア・ジャパン・リターンズ』(ポット出版)を刊行。 詳細なプロフィールへ→

梁石白・高村薫『快楽と救済』

kairaku.jpg● 梁石白・高村薫『快楽と救済』(NHK出版)

 本書は、『血と骨』の梁石白と、『レディ・ジョーカー』の高村薫という当代のエンタテイメント作家による対話。と言うより、現代という時代をもっとも鮮烈に描く二人の作家による時代批評、と言うのがふさわしいかもしれない。

 対話の中でも「彼らが選びだす言葉や、言葉によってつむぎ出される世界の姿は、私にはどうも手の届かないものになっている」(高村)と疑問を呈された純文学にかわって、高村や梁の作品はいまや時代を映し出す鏡になっている。文壇に自閉した純文学が大衆に見捨てられつつある一方で、時代とシンクロする物語はエンタテイメントの分野に確実に育っている。 続きを読む

四方田犬彦『狼が来るぞ!』

ookami.jpg● 四方田犬彦『狼が来るぞ!』(平凡社)

 本書は雑誌で連載されていたコラムを再構成して一冊にまとめたものである。が、読者に散漫な印象を与えないところは、著者の卓抜な文章力と、ふところの深い世界観によるのだろう。とくに紀行文での鋭い筆致は、読者に新しい世界像を提示する。

 例えば、イランでは女性が外出時にかぶるチャドルについて語る。それは大方の日本人にとってはイスラムの宗教的な敬虔さの象徴に見えるわけだが、四方田はイランの女子大生のこんな言葉を紹介する。 続きを読む

高橋源一郎『あ・だ・る・と』

ada.jpg● 高橋源一郎『あ・だ・る・と』(集英社文庫)

 人々がAVビデオに求めるものは、「本物」なのか、「本物っぽさ」なのか。

 一般的には「女子高校生もの」を消費するユーザーは、その作品に「本物の女子高校生」の登場を求めていると考えるのが妥当だろう。しかし、いまどきのユーザーには、AVに登場する「女子高校生」のすべてが「本物」ではなく、ほとんどが「本物っぽい女子高校生」であることくらい周知の事実だ。そのことが折り込み済みで、「女子高校生もの」が消費されている、としたら、すでに「本物の女子高校生」の向こう側に、それとは異なる「女子高校生」への欲望が胚胎してるとは言えまいか。 続きを読む

本日、参議院議員選挙

とりあえずまだ雨は降っていません。しっかり投票所に行って、自分たちの思いを候補者に託しましょう。なんだか明日未明までドキドキしそうですね。あとは祈るばかりです。一票で負けることもありますから、悔いの残らない選択を!

「私」から「私たち」から「私」へ

右を見左を見、周囲を気にしてゲイバーに入店した時代をおぼえているひとは、
もはや少なくなった。
ゲイ同士知り合ってもふつうに名字を名乗り合うことがなかった過去に、
現在リアリティを感じる者は多数ではないかもしれない。
でも、たかが十数年前、ぼくらは新宿御苑でゲイの集団で花見をするのに、
差別の恐怖と闘わなければならなかった。
ついこの間、90年代でさえ、同性愛者のイベントをするのに、
会場に警備員を置かなければならないこともあった。
友だちに性的少数者であると告げることすら許されなかったのは、
遠い昔のことではない。(いや、いまでもそれは続いている)
そうした状況が変化していったのは、
それを変えようと思ったひとたちが、少しずつの勇気を持ち寄ったからだった。
目の前の困難を「私」として乗り越えるだけでなく、
「私たち」として向き合う「政治」をはじめたからだ。
「私」の状況は「私」の力で実現したと思いがちだが、
それを背後で支えたものへの想像力を持たないひとは多い。
それどころか、「大きなお世話だ」と思っているひとも珍しくない。
悲しいことに、寝た子を起こさないでくれ、
という「苦情」も相変わらず耳にする。
けれど、そのひとたちの「自由」でさえ、勝手に出来上がったものではない。
もしそう思っているのだとすれば、それは傲慢だ。
時代は変えようとしないかぎり変わらない。
「私たち」の問題として解決すべき事柄は、「私たち」とともにある。
そのことと、「私」がどう生きるのか、という課題はつねに同時平行してある。
「私たち」を「政治」とするのなら、「私」は「文学」かもしれない。
そのふたつは不可分であり、生きるための両軸だ。
「私」をしっかり生きることも、「私たち」の課題と向き合うことも、
どちらも人生には必要なことだろう。
「私たち」としての「私」を考えることは、「私」をよりよく生きるために、
不可避な機会に相違ない。
捨て身で「私たち」であろうとしているそのひとに、花束を。
不器用に「私たち」であろうとしているそのひとに、万雷の拍手を。

参議院選挙比例区って!?

特定の候補者を当選させたい人は、党名ではなく、個人名を書かないとそれが反映されないんだそうです。意外とそのことが知られていないようで、伏見もつい最近まで分かっていませんでした(人のこと言えない)。だから投票場では●●●○○○とフルネームでちゃんと書きましょうね。
選挙もいよいよ大詰めですが、さまざま巻き返しもあり、メディアでそれなりに取り上げられた候補者もそのことだけでは票につながらず、奮闘努力しているようです。人々の投票行動に影響を与えるって難しいですね。有権者の一人として、他人任せでは自分たちの思いを国政に反映させることはできないんだと真摯に受け止め、しっかりと投票に行きたいものです。最後までがんばれ!

小山内美智子『車椅子で夜明けのコーヒー』

● 小山内美智子『車椅子で夜明けのコーヒー』(ネスコ発行/文藝春秋発売)

 そもそも「障害者の性」といったことが問題にされること自体、へんな話だ。なぜなら障害者というのは特別な人ではなく、ハンデキャップを抱えた「ふつう」の人のことなのだから。そこに性の営みがあって然るべきであり、それが語られてこなかったという事実に、彼らが置かれている状況の厳しさが現れている。そういう中で、『車椅子で夜明けのコーヒー』は、障害者が自らの性に対する率直な思いを綴った希有な本だ。 続きを読む

藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』

fujimo.jpg● 藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』(学陽書房)

 藤本由香里著『私の居場所はどこにあるの?』は、「少女マンガが映す心のかたち」と副題にあるように、少女マンガを通じて、現代の女性たちがどのような心の問題を抱え、その欲望を変容させてきたかをたどる女性史になっている。

 著者はフェミニズム関連の書籍を作ってきた編集者だけに、フェミニズム批評とも言えるスタンスで、それを分析、解釈している。 続きを読む

小田切明徳/橋本秀雄『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』

● 小田切明徳/橋本秀雄『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』(かもがわ出版)

 90年代に入り、ゲイ→レズビアン→バイセクシュアル→トランスセクシュアルと、性的少数者たちのカミングアウトが拡大してきた。皆、それまで隠蔽されてきた差別の問題を訴え、自己の存在を肯定的に取り戻そうと、力強く宣言した。

 そうした流れの中から、これまで決して世間で語られることのなかった性的存在、インターセクシュアルの人たちも「叫び」をあげるに至ったのが、『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』である。 続きを読む

バーバラ・マクドナルド/シンシア・リッチ『私の目を見て』

● バーバラ・マクドナルド/シンシア・リッチ『私の目を見てーーレズビアンが語るエイジズム』(原柳社発行/ウィメンズブックストア松香堂発売)

 僕には86歳になるゲイのボーイフレンドがいる。彼は新宿のど真ん中で独り暮らしをしていて。いまも元気に町を闊歩している。幸いなことにいたって健康で、その歳になるまで風邪ひとつ引いたこともないというから驚きだ。

 彼と知り合ってから僕はいろいろなことを発見した。例えば、彼の頭の回転は僕などよりもよほど速く、少々口が回らないということはあるが、知力にはまったく衰えがない。物事を見る目が聡明で、様々な分野の情報に通じている。86歳という年齢のイメージからは想像もできないほど知的なのだ。それは僕の、老いることはボケること、というステレオタイプを見事なまでに壊してくれた。 続きを読む