近く「『欲望問題』の感想への感想」という趣旨の対談をメルマガに掲載する予定なのですが(サイトではその一部を公開の予定)、その前に、パブもかねて本文を「ちょっとだけよ」公開することにしました。「何を書いている本なのかわかりにくい」という風評もあったので、本書でいちばん論争的な第二章のあたりをここでチラ見していただこう、と。
*ただし、強調点などが変換によってとんでしまったりしているので、正確な表記を知りたい方、どこかで引用しようという人は必ず単行本をあたってみてください。くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
ポット出版の通信販売はこちらから→『欲望問題』
● 注5(P175-180)
注5…… 上野千鶴子氏もインタビューの中でこのように発言しています。
《……「ジェンダーフリー教育」がとりあげたセクシュアル・マイノリティの人びとが、ジェンダー秩序、すなわち性別二元制から解放された自由な人びとだと、私はまったく思わないということです。ヘテロセクシズムも、ホモセクシュアリティも、トランスジェンダーも、性別二元制のさまざまな効果にすぎません。ジェンダー秩序がなければ、同性愛も存在しないし、トランスジェンダーも存在しない。だからこそ、ジェンダー秩序の解体が、共通の目標になりえます。それを日本語で「男女平等」と呼ぶことがどうしていけないのでしょうか。》(『バックラッシュ』2006)
上野氏の言う通り、同性愛者もトランスジェンダーも性別二元制の中で生まれた欲望です。同様に、その構造の中で生み出されたセクシュアリティには、レズビアンや、女性の異性愛者も含まれます。つまり、フェミニズムが解放しようとしている女性も、その構造の中で、自らの欲望をもって差別構造を支えているわけです。氏は差別を解消するためには性別二元制を解体することが目標になると主張しますが、しかし、共通の目標とするかどうかは、それらの人びとが自分のセクシュアリティを否定し、それを解体することに同意しなければなりません。上野氏自身は、その矛盾をいかに考え、言説的実践以外どのような実践を行っているのか。そこまでを射程に入れて考えていなければ、この議論は論理的に不徹底です。 続きを読む →