月別アーカイブ: 2009年10月

ポット出版社長・沢辺均の日記-40[2009.10.01〜04]

●2009.10.01木
昼から出版会議
夜、新宿ゴールデン街劇場で、武田浩介の落語ライブ、前半を見てから、竹田青嗣さんと打ち合わせ。
「竹田ライブ」を来年2月にやるのだ。完全に遊んでるね(笑)。
ほかにも、「談話室沢辺」でのインタビューのお願いと、新企画。
新企画は来年には実現したい。

●2009.10.02金
年に一度のビラセレーナ祭り
あいにくの雨。ちょっぴり萎える。
がそれなりに盛況。
17時に終了して、ただちに、飲み会。
「チラシを見て来ました」というフランス人(夫)と日本人(妻)夫妻が、向かいのマンションから参加。
折り畳んだチラシをポケットからとりだしたときには、嬉しかったな。
チラシってものに、力があるのだ、今も。
途中で、4階シンク・ビットの若者がギターを弾けるってんで、
自慢のギブソンJ45を持ち出す。若者はビートルズ。私も、スタンドバイミーなどをヤラセてもらいました。
ハモニカで一緒にやったり。

●2009.10.03土
夕方、ちょっと根回し+相談ごとで出かけました。

●2009.10.04日
昼前に、鉄とすすと一緒に代々木公園・ドックランへ。
帰りに千駄ヶ谷小学校横のフレッシュネスバーガーでメシくって、
バンドの練習に。
「タイムマシンにお願い」を録音しようぜ、ってことで、パートごとに取り分けたりとか。
うん、なかなか楽しい。

四谷の間借り事務所に通い始めた [北尾トロ 第9回]

そうか、下関マグロ(増田剛己)は失業保険をもらっていたのか。前回の原稿を読むまで、そんなことはすっかり忘れていた。いまどうやって食いつないでいるかというのは切実なことではあるのだが、会社員経験がないぼくには関係のない話だったので、聞き流してしまったのだろう。

引っ越しして電話が復活したため、八重洲出版という会社で働く大学時代の友人から連絡がきた。

「ライターになったんだってな。仕事はあるのか」

「ない。毎日ぶらぶらしてる」

「そうか、じゃあオレんとこで仕事しろよ」

持つべきものは友である。『ドライバー』の編集をしているヤツは、すぐに仕事を与えてくれた。 続きを読む

新連載●談話室沢辺

ポット出版サイト内「マガジンポット」で、新連載「談話室沢辺」をスタートしました。

「談話室沢辺」は、ポット出版社長の沢辺均が最近気になる人に会って、あるテーマについてざっくばらんに対談するコーナーです。

第1回は、『本の現場』の著者永江朗氏との対談です。
ゲスト:永江朗 第1回「重要なのは再販制度、じゃない」

ゲスト:永江朗 第1回「重要なのは再販制度、じゃない」

●再販制は、あってもなくてもどっちでもいい

沢辺 今回の「談話室沢辺」は『本の現場』の販促も兼ねているので、再販のことについて話そうと思うんですよ。

永江 やっぱり、再販のことになりますか。

沢辺 出版業界の人も、新聞やテレビも、再販のことになると来るんだよね。

永江 最初から話をひっくり返すようだけど、それが不思議なんだよね。再販についてはさんざん議論され尽くしたじゃん、っていう気分があって。まだ出てない論点ってないだろう、という気もするんだけど。

沢辺 でも、再販必要論は山ほど出てるけど、「再販はいらない」論がない。永江さんはどうかわからないけど、俺は「再販いらない」論じゃなくて、「再販絶対必要論がよくわからん」という立場なんです。
 もうちょっと手前から言えば、俺は、完全な市場原理は基本的には成り立たなくて、経済に対する一定程度の介入は必要だと思ってる。だから、再販も市場をコントロールする制度として選択することがあってもいいとは思う。存在そのものが悪なんじゃなくてね。だけど現状、再販制度が出版活動に何か良い作用を与えているかというと、現実的、具体的には何も感じない。だから「絶対必要」という人に対しては「何で?」って聞きたいんです。
 一方で、わざわざ再販を壊そうとは全く思ってなくて、正直なところ「どっちでもいいや」が俺の考えなんです。永江さんの基本スタンスはどうですか?

永江 僕も「どうでもいい」なんですよ。どうでもいいし、再販を選択してもしなくても、それは出版社と書店が自由に決めれば良いんじゃないか、ということですよね。再販というよりも「定価制度」と言った方が良いかもしれないけど、再販じゃない定価制度のやり方はありますよ。
 たとえば本当の委託。「エンドユーザーに渡るまでは、所有権は出版社のもの」ということにすれば、売れた後に清算するまで、書店はお金を払わなくて済む。だから書店の負担もうんと軽くなるし、出版社も売価のコントロールができるわけです。デパートなんかでは、そういう本当の委託、「消化仕入」という形態でやっていて、商品が売れるまで、そのデパートにとって在庫はゼロなんですよ。売れた瞬間に仕入れと売上が同時に立つという感覚。出版界は今まで50年くらい再販制でやってきたけど、例えば「消化仕入れ」というやり方もある。
 とにかく「再販制はあってもなくてもどっちでもいい」というのが私のスタンス。でも、「永江朗が取材するような書店」という限定が付くけれど、これまで会ってきた書店の経営者の多くが「再販制はなくてもいいんだよね。大きい声で言えないけど」って言うんです。特に異業種から参入して来た人は「ない方がいい」とまで言います。だけど取次は「再販制守れ」って言うし、日書連も「再販制守れ」が公式見解だから「大きい声では言えないんですけどね」って言うわけですよ。
 「それは何でかな」って考えた時に、再販制が委託とくっついて運用されていることによって、けっこう弊害があるからじゃないかな。 一番大きな弊害は、このままいくとネット書店と大型店、ナショナルチェーンとローカルチェーンだけが残り、あとはインディペンデント系の書店が大都市部でちょぼちょぼ、という状況になるであろう、ということ。そんな状況になって楽しいのだろうか?
 もうひとつの弊害は、この10年くらいメガストア化が進んで来た中で、ランキング依存と言われるような状況がどんどん酷くなってきていること。チェーン店を取材して「どういう風に仕入れしてるんですか?」と聞くと「本部からの指令で、トップ50のタイトルは欠かさないようにしています」と言うんです。ランキングの上位だけ置いておけば良いとまでは言わないけど、「それだけは欠かさないように」と言うわけですよ。10年後20年後に全国のチェーン書店がそうなってしまったら、やっぱりつまらないんじゃないの?
 もちろんランキング下位の本でもAmazonで買えるんだけど、小売店がもう少し「遊べる」要素を作るには、今と違う流通の仕方も考えていかなきゃいけない。再販制を守っていこうという人の論拠はわかるけど、「じゃあ現状このままでいいの?」「このまま行ってどうなるの?」と聞きたい。

●書店の自由のつくりかた

沢辺 『本の現場』を出したことで、新聞記者やテレビ局に取材されたんですけど、やっぱり「何で非再販の本を出したんですか?」って聞かれるんですよね。自分なりに理由を考えてみたけど、正直に言えば「ノリでやった」で、理屈をつけるとしたら「書店に自由を増やしたい。その自由を色々行使して、永江さんの言葉でいえば『遊べる書店』が増えていって欲しい」ということ。
 メーカーである出版社として、どんな「書店の自由」が提供出来るかというと、ひとつは、「販売価格を縛っていることをやめて、自由に設定できるようにする」ということ。もうひとつは、35ブックスでやっているように、書店の取り分を増やすことで値引き原資を作ることですよ。

永江 35ブックスに関していうと、商品を自分たちに選ばせて欲しかったって、書店は言ってますけどね。

沢辺 確かに、35ブックスが完璧じゃないのは十二分にわかってますよ。ラインナップに不満があるということもね。ただ、35ブックスに対する一部の書店の反応に対して、腹が立つこともある。書店が「たった35%じゃん」という言い方なんだよね。「35%のマージンで歩安入帳なんてやってられません」っていう意見があった。書店はいつも正味が高すぎて利益幅がないって言っていて、それに対して、35ブックスは何かをしようとしたのに、「全体の中のこれだけじゃ意味ない」とか「もっと利幅を上げろ」とか、マイナスを先に見つけて言ってもしょうがない。

永江 それは流対協(出版流通対策協議会)の『本の定価を考える』という本の論調でもそうだけど、こういうことをしたら、こういう悪いこともあります、ああいう悪いこともあります、って先回りして悪いことばかり並べて「このままで行きましょう」っていうやり方だよね。自民党が民主党のマニフェストにいちゃもん付けてたのとそっくりで、「じゃあ変わらずこのまま沈没すれば?」っていう感じですよね。

沢辺 そんな中で積極的なのは大手チェーン店なのよ。色々考えて、現状に何か風穴空けなきゃな、と思ってるのは、むしろ大手チェーン店なんじゃないですか? 日書連からは、「試しにやってみよう」とか「こう変更したらどうだ」といった声が聞こえてこない。
 Googleのブック検索に対する出版社の対応もそうでさ。確かにいきなり「合意しないならオプトアウトしろ」とか言われたのは乱暴と言えば乱暴だけど、結果、本を検索出来るようになって読者に利益があるんだからさ。それで本がいちじるしく売れなくなるような可能性が滅茶苦茶高いかというと、そんなこともないと思うし。

永江 電子本の状況を見ていると、アメリカは本当にダイナミックだな、と思いますよね。方やハードカバーで30ドルくらいの本が、電子本だと9.95ドルで売ってたりする。ソニーのリブリエは日本では撤退したのに、アメリカではニューバージョン出すでしょ? それはつまり、ソニーとしては「日本人はバカだからもうつき合わない。日本人にはプレステだけ与えておけばいいよ」みたいなもんじゃない。経営者がアメリカ人だからかもしれないけどね。
 日本でも紙の本と電子本を同時発売して、しかも電子本は紙の本の半額とか3分の1くらいの値段でやっていくくらいのダイナミックさがあればね。現行の色々な取引の枠の中では、書店がやれることはすごく少ないから。大げさな言い方をすると、中小零細の書店に「発注する自由」とか、「発注する自由を成り立たせる諸条件」が整っていない。
例えば、計画的な発注をしていくためには、事前の出版情報が必要ですよ。再販制がなくて、委託制もないアメリカでは、本のビジネスもアパレル業界と同じようにツーシーズン制がベースになってるんです。具体的に言うと、あらかじめカタログを作って事前情報を書店に行き渡らせたうえで、版元の営業やセールスレップ(Sales Representative:営業代行)が回って「我が社は今度こういう企画の本をやります」と説明をしながら注文を取っていく。実際はもっと複雑だけど、少なくとも理想としてはそうなっている。
 日本の場合、その仕組みを取次が代行してきましたよね。極端なことを言うと、来週自分の店に入ってくる商品を知らないでもやれるのが日本の書店です。少数の、パターン配本を使わずに全部自分で仕入れるという店は別ですけども。その状況が読者として楽しいのか。

沢辺 でも俺、本でそれをやるのは無理だと思うんだよね。たとえばレヴィ・ストロースの幻の原稿が発見されたのなら、「翌年の春に発行しますよ」でいいと思うんだけど、Googleのブック検索問題があったので、アメリカの「フェアユース」って何なのかとか、知的財産ってそもそも何なのかとか、アメリカと日本の著作権法の違いを扱った本を1ヶ月か2ヶ月で仕上げて出すということだって、あると思うんですよ。むしろどっちかというと、そういう本のほうが多くなっているんじゃないですか?
 ハリー・ポッターとか村上春樹のレベルになれば、「来年の春」でもいいだろうけど、それ以外の、例えば携帯小説だって、流れが来ている時に即出そうよ、というほうが多いのだろうし、「半年後じゃなければ出来ない」としちゃうと、逆に出版がつまらなくなっちゃうんじゃないかな。

永江 それはもちろん、ガチガチの制度は要らないという前提の上でね。それから、実は日本だって老舗でかための出版社を中心にして、ちゃんと事前情報を出して計画的にやっているとこもあるんです。例えば新潮社は「来期の主力企画発表会」として、業界の人を集めるパーティーを定期的にやってるんですよ。みすず書房や岩波書店も、年末になると「来年度の我が社の出版計画」を出してるし。

●悪いのは出版界の制度?

永江 実を言うと、再販制と委託制も、スタートしてから四半世紀くらいは上手くいっていたと思うんですよ。それが高度経済成長期を終えるくらいの段階、つまり1970年代半ばから80年代頭くらいの段階で、最初の想定と条件が大きく変わったんだと思う。
 変わった点のひとつは「出版点数の増大」で、もうひとつは、講談社文庫の市場参入がきっかけと言われているけど、「フリー入帳にした」こと。もともと新刊だけ委託配本という形だったのは「サンプル」だったからですよね。アメリカのように前もって出版計画を作ってセールスレップが全国の書店を回るわけにいかないから、取次経由でサンプルを配って、見てよかったら追加発注してください、ということだから。それを全品委託配本・フリー入帳にした。そのときに「本のニセ金化」が始まって、本とお金が同じように売れるようになってしまった。
 制度を作る時に想定していなかった事態が色々生まれたのだから、制度も少しくらいいじってもいいんじゃないの、と思うんですけど。

沢辺 結局、書店員が選書をする必要があるっていうことじゃないのかなあ。

永江 うん。でも、それが何故難しくなっているのかというと、ひとつは取次が良く出来すぎているから。

沢辺 でもそれはしょうがないよね。「子どもたちに主体性がなくなった。教育システムが完備されて、通信教育から塾から何まで全部あるから、自分で図書館に通って勉強する奴がいなくなっちゃった」って言っても、意味がないと思うんだよね。「もっと自覚的に、何もかも与えられるんじゃなくて、やらせるべきだ」という「べき論」は出来ると思うんだけど、そのときに、便利なシステムを提供しているところが悪いと言っても、意味がないでしょう。つまり、取次が出来過ぎだと言っても意味がない。そこで甘えてた書店に自主性がなくなったって、それは書店自身に奮起を促す以外にはないんじゃないかな。

永江 小泉純一郎みたいな言い方に聞こえるかもしれないけど、委託配本・フリー入帳であることによって、頑張りたい書店が足を引っ張られる状況があるじゃないですか。たとえば、注文しても本が取れないとか。さっきも言ったように、特に新規参入のところから「買切りでいいのになんで本を売ってくれないのか」という意見が出る。買切りで100部欲しいと言ってるのに、「これは行き先が決まってますから」となるのは、硬直ですよ。
つまり「米は一粒たりとも輸入しません」みたいに「非再販は認めません」となる空気は気持ち悪いね、と思う。実用書なんかだと、出版する段階で「これは一年後には陳腐化して、市場で価値ないよな」っていう本もあるんだから、そういう本は時限再販でいいじゃないですか。時限再販にする必要すらないかもしれない。「その辺りをもう少し緩くやっていけばいいんじゃないの?」という程度のことです。
 もうひとつは、別に諸外国が上手くいっているとは言わないけど、再販制のある国って、先進国では珍しいくらいになっているわけですけど、たとえばフランスなんかは再販制があってももう少し緩いですよね。例えば一定枠内での値引きは認めていたり、基本は時限再販だったり。公取みたいな言葉だけど、もう少し柔軟性のあるやり方をしないと、息苦しくて窒息しちゃうんじゃないかな。

沢辺 でも、やる気のある書店は本当に足を引っ張られてるのかな? たとえば神宮前にあるJ−STYLE BOOKの大久保さんという書店員が『本の現場』を読んで思ったことを書いてくれたんだけど「現状のシステムの中でも努力して頑張れるノリシロはある」と彼がいうのは、今の永江さんの言葉で言えば、「僕は足引っ張られてるって感じはしませんよ」っていうことですよ。
 大久保さんみたいな人が増えていくことが、「チェーン店ばかりになってしまう」という危惧に対する、ひとつの対抗になるんじゃないかな。大久保さんの売りたい本とポットの出す本って微妙に違うので直接には役には立たないんだけど、大久保さんとか、そういう固有名詞をめがけて、その人に「沢辺さん、それグッドだよ」って言ってもらえるようなことをしたいな、と思うんだけど。

永江 それはいろいろなんじゃない? 「足を引っ張られてる」っていう人もいれば「そうじゃない」という人もいる。僕が取材をしていて中小の書店から言われるのは、「なんでウチにはベストセラー送ってこないの? 隣のチェーン店にはあんなに積んであるのに」ということですよ。それは取次が悪い。日書連の議論を見ていても、取次の不公平な取引条件の改善を申し入れる、という話ばかり30年間くらい、ずーっと同じことを言ってる。

沢辺 日書連みたいな人がいて、ずっと同じことを言いつづけている、っていうのは分かりますよ。おっしゃるとおりだと思うし。『本の現場』に関しても、「いきなり最初から非再販にするのではなくて、時限再販じゃない。いきなり非再販にして、Amazonに値引きされちゃったら敵わない」って感じ。そういう人がいる一方で、かたや大久保さんみたいな人もいて、スムーズだとまでは言わないけど「不公平は感じていませんよ」という人もいるわけよね。

●本が読者に届くなら、今の制度はなくなってもいい

永江 再販含めて本についての色んな制度を考える時に、何を優先して考えるかってなると思うんですけど、従来の「再販制を守っていこう」という話は、「出版社や書店をどうやったら生き残らせるか」というのが多いじゃないですか。
 私は出版社や書店がなくなろうがどうでもよくて、まずは「本が生き延びること」が大元にあるんです。次に、読者にとって本を読む機会が沢山あること。それに付随して出版社があったり著者があったり、取次や書店があると思う。
だって、本の五千年の歴史を考えたら、最初は書店も出版社もなかったわけですよ。プロの書き手が出て来てそれで食えるようになったのは遡ってもせいぜい200年ぐらい。それも、日本でも何人かいるか、くらいの規模ですよ。紫式部は原稿料もらってなかったですからね。
 そう考えると、本があって読者がいるっていうことがまず大事なんだけど、それが今の出版流通の中でどうなっているかというと、本の圧倒的な短命化ですよ。作ってもすぐ消えて、読者に届かない。平均返品率が40%ですから、新刊だけで考えたら60%を超えていますよ。この前学生に「需給バランスっていう概念は出版界にはないんですか?」って言われましたけど、少なくとも、作った本があっという間に市場から消えて読者に届かないとか、手に入らないとか、そういう本が存在したことすら知らない間になくなっていくという状況は、あまりよくないでしょう。
 「じゃあ、なんでそういう風になっているの?」って考えた時に、出版大洪水の状況があり、なんで出版大洪水の状況になるのっていうと、本のニセ金化があるからであり、本のニセ金化がなんで起こるのかというと、委託制と再販制が一体化して、本がお金と同じようになっていて、その要に取次の存在があるからだ、と考えてるんですけど。

沢辺 永江さんはちょっと断定的すぎるんじゃないかなあ。「出版社や書店が生き延びることよりも、本が生き延びることが大事」というところまでは大賛成なんですよ。いまはもう、近所に山ほどあった写植屋はなくなっちゃった。出版界はデザイナーに写植屋や製版屋の代わりをやらせることで、そういう職業をつぶしてきたわけだから。それをセンチメンタリズムでいえば物悲しい感じもするんだけど、でも技術や環境が変わった結果だから、しょうがないとしか言いようがない気がする。
 その写植屋を出版社に置き換えても同じで、「技術や環境が変化したから、お前のとこ、もう要らないんだよ」と言われたら退場する以外にないし、それを生き延びさせるのは価値が逆転しちゃってる。永江さんみたいに、本そのものとして良いものを作っていくとか、それを読者に届けていくというところに価値を置いた時、結果的に生き延びていく出版社は生まれると思うけれど、「生き延びる」の方に価値を置いたら、上手くいかないと思いますよ。ここまでは永江さんと同じ。でも、「本の存在を知らない」という点に関しては、ネットが補完していると思うんだよね。それは極論?

永江 うーん。それは大都市の、それなりの環境のある人だけだよね。

沢辺 でもネットなら、大都市に限らず全国平等ですよ。

永江 僕、この前田舎に帰ったんですけど、地方と東京の環境の格差、それから年齢や所属している環境による格差っていうのは結構凄いんだなと思って。70歳以上でネットを使いこなす人は少ないじゃないですか? 彼らにとっては、たまに行く地方のチェーン店に並んでいるのが、新刊書の全てなんですよ。「本読みたいんだったらパソコン買って使い方を覚えろ!」というのも正論かもしれないけど、70歳超えた人には言えないよね。だからと言って、私は別にネットをなくせと言っているわけじゃなくて、ネットは本の存在を知らしめる、もの凄く役に立つ道具であることは事実だと思ってますよ。でもまだまだ十分とは言いがたい。
 その上で書店の店頭での話に絞ると、書店に並んでいる時間が1週間が良いのか、1ヶ月がいいのか、3ヶ月がいいのか、ということですよ。今だと、否応無しに1週間になっちゃってるところがある。それは制度的な原因が色々あって、個々の書店がそう選択せざるを得ない状況があるんだと思います。じゃあ例えば、それをもう少し辛抱して3ヶ月ずつくらい並べるにはどうしたらいいだろうかって考えた時に、全国1万6千の書店がみんな同じ品揃えにしようとすると1週間しか並ばないかもしれないけど、その地域にあるA、B、Cの各書店がそれぞれ違う本の並べ方をしようとすれば、頑張れば1ヶ月半ぐらいずつは並ぶかもしれないよね、という組み替えをやっていけると思うんですよ。そのためだったら制度をいじってもいいんじゃないのかな。

沢辺 その辺が、永江さんと俺との温度差なのかな……。制度をいじるという結論には賛成なんだけど、どっちかというと俺は、今の制度の中にあっても大久保さんをどれだけ増やせるか、というところに興味があるんだよね。大久保さんは多分、3ヶ月くらい並べている本の方が多いと思う。

永江 でもそれは一部のとてもやる気のある書店の話で、このままじゃチェーン店ばっかりになっちゃいますよ。

●次回へ続く

第2回「今の出版界でも出来ること」は、こちら

●プロフィール

永江朗(ながえ・あきら)
フリーライター。1958年、北海道生まれ。法政大学文学部卒。
1981年〜1988年、洋書輸入販売会社・ニューアート西武勤務。
83年ごろからライターの仕事を始める。
88年からフリーランスのライター兼編集者に。
1989年から93年まで「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。
93年からライター専業に。ライフワークは書店ルポ。
現在、『週刊朝日』、『アサヒ芸能』、『週刊エコノミスト』、『週刊SPA!』、『漫画ナックルズ』、『あうる』、『書店経営』、『商工にっぽん』、『この本読んで!』などで連載中。

●本の現場─本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場
著者●永江朗
希望小売価格●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0129-3 C0000
四六判 / 228ページ / 並製

目次など、詳しくはこちら

お部屋1956/電波大戦の裏で

昨日の「池袋電波大戦」は、リアルタイムには見てなかったのですが、−86対-86でどっちも負けというところでしょうか。ルール無用に見えながら、互いに使用する武器はブーメランに制限されているので、やればやるほどどっちも負けていきます。

すでに期待するところは何もないのですが、リチャード・コシミズなる人物には距離を置きつつ、この件に関して、期待するところが少しはありました。個人がバラバラにやっているに過ぎない私らと違い、彼は独立党なる団体をやっていて、経済的にも少しは余裕があるでしょうし、なにより使える人材が豊富にありそうです。

だとすると、私らが調べきれないことを調べることも可能ではないか。そう期待していたわけですが、どうもそんな力はなさそうです。それどころか、丁寧に根拠を調べ上げていくという発想さえなさそうです。また、ガードが甘過ぎで、本気で闘う気があるとは思えない。
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バカ親がまたひとり

版元ドットコムの仕事をしているKさんが犬を飼うことになった。
Kさんも最初は、ナースや私のように里親募集をしている犬らちから探していたのだけど
●仔犬から飼いたい
●成犬になったときに10キロ以下(マンションの規約で決まっているそうだ)
という条件を満たす犬を見つけられず、ブリーダーから買うことにした。

今週末に引き取りに行くそうだ。

その仔は、ジャジャーン! こんな仔です。
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名前は「はな」。豆柴の女の子。7月生まれです……、ん? 7月生まれ?
すずと同じですねー。

Kさんは今からバカ親になっています(笑)。
はなちゃんを見に、10月中旬にKさんちに遊びに行くので、その時に写真をいっぱい
撮ってきてここで紹介します。

自我作古「彼を知り己を知らば……」 ~中華人民共和国・建国60周年を迎えてⅡ~

 一九九三年11月5日から夏期バカンスを除く毎週末に筑紫哲也さんが欠かさず発表したコラム『自我作古』(『風速計』の場合もあり)を読み返す日々が続く。
 中華人民共和国の民主化について考えるヒントは第371回「彼を知り己を知らば……」にあるように思う。引用する。

☆☆☆☆☆☆

 世界初の大学が建てた平和博物館とされる「立命館大学国際ミュージアム」(京都)がリニューアルされたのを機会に、そこを再訪した。

 もともとよくできた博物館だが、初心者に興味が持てるような工夫(「きっかけ展示」)や、展示だけでなく、さらに詳しく知りたいと思う者への情報を辿る回路を設けるなど、さらに改善が加えられている。

 世界中には、互いに連絡を取り合っている平和博物館がおよそ一〇〇あるが、その半分は日本に在るという。これは誇っていいことだと思うが、「平和ボケ」とか「一国平和主義」とかの罵りことばで「日本特殊」を咎める風潮が強まっている昨今では、「平和」を展示することは容易ではなく、展示の仕方にも工夫が要る。世界中を覆っているのは、兵器を陳列したり、「われ戦えり」と勝ちいくさを強調する戦争博物館や記念建造物(モニュメント)の類である。

 工夫が要るのは、博物館の展示方法だけではない。

 もともと、戦争と平和は表裏一体を成しており、「平和のため」を掲げて行われなかった戦争は滅多にない。しかも博物館や記念碑で象徴されるように、平時においても「戦争文化」は「平和文化」に対して圧倒的に優勢なのである。さらに皮肉なことに、このせめぎ合いのなかでは、「平和(文化)」を守る側も、そのために「戦う」ことが求められる。もちろん、平和的な方法によって、ではあるが---。

 ではどう戦うか。その場合、もっとも心すべきことは何か。

 表題のことばは、戦争文化が全盛のころの日本人ならばだれでも知っていた、孫子のことばで、「百戦殆(あや)うからず」と続く。敵と味方の状況をよく知り、把握して戦うならば、いくら戦っても負けることはない、という意味である。ナポレオンも今の中国を創った毛沢東も「孫子の兵法」の愛読者だったが、彼らはこの有名なことばの次に続くのが何だったかも知っていただろう。

「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」---敵側の実情がわからず、自分の方だけ知って戦う場合は勝敗の確率は五分五分。

「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆(あや)うし」---敵の様子も、自分たちの能力もつかんでいないで戦う場合は勝てる見込みはない全くない。

 「孫子の兵法」は、「戦争文化」が生んだ作品、それも傑作のひとつと呼んでいいものだろう。「平和文化」の側に身を置きたいと願う者がそれを援用する場合には、よほどの用心と咀嚼(そしゃく)力とを備えなくてはいけない。「平和のために戦うぞ」というシュプレヒコールに何の矛盾も感じないような鈍感さであってはならない。

 「戦争文化」の常として、孫子は「敵」(彼)と「見方」(己)を峻別するのだが、それを超えて大事なのは「知る」ということの意味だと思う。「戦争文化」を「彼」、「平和文化」を「己」とする場合、相手の心理過程と実力を「知る」ことも大事だが、「彼」と「己」との距離、相違を「己」のなかで「知る」(確認する)ことはもっと大事だ。貪欲、無知、無関心、強がり、自己陶酔、既成観念や大義への安易な寄りかかり---相手と同じものが「己」のなかにないか。立命館大学で、「平和」に関心のある聴衆を前に、私はあえて「あなた(私たち)の心が戦争を起こす」という話(講演)をした。
【2005.6.3】

☆☆☆☆☆☆

 中国に限った話だけではない。
 官僚(彼)を知らず自分の能力(己)を知らないで戦う場合は、「勝てる見込みは全くない」。前原誠司・国交相や岡田克也・外務相の動向を追いながら「殆(あや)さ」を覚える。
 しかし、「君子(くんし)危うきに近寄らず」という故事に倣って(君子と自分は程遠いが)、静観しよう。いずれは書く。

 最後に、田中康夫「新党日本」代表と筑紫哲也さんのいざこざをあげ、故人を攻撃する文が散見しているので、もの申したい。

 田中康夫さんが「筑紫哲也のNEWS23」をボイコットしていた折にも、筑紫さんはそれを承知で、コラムで康夫さんを応援した。2002年夏のことだ。

 2006年春、フランス共和国から帰国したばかりのころに参加したあるパーティーで、田中康夫・長野県知事(当時)が筑紫さんに丁重にご挨拶され、談笑する二人を見て、微笑ましさとともに、安堵感を覚えた。康夫さんはいまでは、故人の遺志を継ぐ“筑紫ジャーナル”門下生の一人ではあるまいか。ちなみに、康夫さんが加藤周一さんと最後にお会いしたのもその会だ。

 康夫さんが帰られた後の光景が今も目に浮かぶ。

 パーティー会場外にある庭園の椅子に加藤さんと筑紫さんが座られ、春にしては強い陽射しのなかでお二人が話し合う。筑紫さんも加藤さんも真剣な雰囲気だった。談笑とはとても似つかわしくない雰囲気だった。そんな時間が長く続き、筑紫さんが席を立ち、帰途についた。

 筑紫さんと加藤さんが天に召されて以来、わたしはその光景を時折、思い返す。あの日、何を議論(論議)していたのだろうか。

 お二人が亡くなられてもうすぐ一年が経つ。
 そんな意識がわたしには芽生えている。
 上田耕一郎さんの死も忘れてはいない。

 今は身を 水にまかすや 秋の鮎

                        合掌

『私の家は山の向こう』~「中華人民共和国建国60周年」を迎えて~

 『有田芳生 私の取材ノート』(同時代社)に「さようなら、鄧麗君」というテレサ=テンの死を悼む一文が載っている。私にとっては中学3年生の時分(1995年)に買った思い出深い作品だ。

有田さんは書く。

「最後の出会いにとなってしまった仙台で、彼女は、いつものように左手でVサインを示して微笑んでいた。私は鄧麗君に約束したように、彼女の人生を書くこと、そして彼女の思いを一人でも多くの人たちに伝えることで、時分なりの責任を果たしたい。

 一部の週刊誌などが、鄧麗君の死を興味本位に取りざたすることへの怒りを込めて、私は彼女の内面へと一歩でも歩み寄り、もはや本人自らが語ることがかなわない思いをできるだけ綴っていきたい。さようなら鄧麗君。あなたの澄んだ歌声は、私たちの心の中にいつまでも流れ続けている。もういちど、さようなら鄧麗君……。」(95年5月26日記)

 仙台という地名は魯迅が学んだ地であることから、中国人にとってはよく知られている。
 有田芳生さんは10年後の2005年3月30日に『私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実』(文藝春秋)を上梓した。労作を拝読し、1989念5月27日夜に香港のコンサートでテレサ=テンが歌った『私の家は山の向こう』(*原題は前掲著に刻まれている。CDが付いている)を拝聴して、「我愛民主」「民主萬歳」という故人の御意志が叶う日を切に念じ上げる。(つづく)

追伸1:天安門事件で学生には法国・国歌「La Marseillaise」を歌う者もいたという。たしかに、多くの国の民主革命で同曲が歌われた歴史がある。血なまぐさい「革命歌」よりも、美しい歌詞・旋律の『私の家は山の向こう』のほうが民主化を求める象徴に相応しい。

追記2:リヨネル=ジョスパン内閣(1997-2002)に外務相を務めたユベール=ヴェドリーヌ氏の来日講演を今年拝聴した。同氏は民主化を「内的なポテンシャル」に求められた。

ポット出版社長・沢辺均の日記-39[2009.09.28〜30]

ついに9連休終了。

●2009.09.28月
 スリープトラッカーというレム睡眠の時に目覚ましならしてくれる腕時計、も買った。
 早速腕にはめてみたんだけど、23時ころにWOWOW録画映画を見ながら寝ちゃって、
 なんと3時半ころ目覚めた。本を読んでたんだけどぜんぜん眠れないんで、
 開き直って6時半ころに散歩をかねてコンビニ。サンドイッチとヨーグルトを買って
 事務所に行って仕事っぽいことを始めた。(←だから28日の話)。
というのの続き。
今日は手帳にスケジュールなにもなし。
片っ端から雑用片付け。
請求書書いたり、スタッフ五十音名簿つくったり、ビラセレーナ祭の連絡したり、ず・ぼん15の準備したり、
説教したり、、、、。
で、19時過ぎに退社。
23時ころ眠ったんだけど、夜中に目が覚めたり、、、。

●2009.09.29火
午前中、このマンションの管理組合総会。理事しか出席せず。
ほかの理事は嘆くけど、おいらは「いいんじゃないの?」って感じ。
だって、いやいや出席したってしょうがない。複数議決権持ってる理事も結構いて、8/25は実際に出席。
他に委任状はほとんど届いてるんだし。また、みんなの関心のあるテーマなら出て来ると思う。
「本の現場」をボイジャーで、ドットブックにして販売するために、ドットブック化の作業が始まってる。
山田が中心、ボイジャーとの窓口は大田。山田が日誌技術的なこと書いてます
夜は、げんきな図書館の理事会。
代々木図書館の人員体制を議論。
あいかわらず、「声」の大きなオレ。

●2009.09.30水
今日もスケジュールなしで、事務所で作業。
なんだけど、なんと50分も遅刻。これじゃスタッフの遅刻をしかれないか?
いや、自分のことを少し棚上げにしないと、そもそも何も言えなくなる、、、、。
でも棚上げすることと、しないことのバランスがむずかしい。
読売新聞に「国会図書館の本、ネット配信へ」の記事
この間人任せにしていたジャパニーズブックダムのことで半日くらいバタバタ。
連絡のメールや電話、それからちょっと新しい進め方のための原稿書くとか。
デザイナー、出版チームに、本の制作費(主に印刷代部分)の考え方を説教。
いいもんにすることと、コストを落とすことの両面を見ろ、と。
「こんな紙にした〜い」って夢みたいな言い方で考えるんじゃなくて、
「こんな紙にしたいから、●万円よけいに使いたい」って言い方で考えろ、って。
ついでに、9月発行の本、「低炭素革命と地球の未来」と「溜息に似た言葉」の
シナノ印刷の請求書2つを見比べる「課題」をメールでスタッフみんなに出す。
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ポットのみなさま

お勉強の課題です。
●炭素と溜め息のシナノの印刷請求をみて、四六版で192ページと同じなので、
なぜ費用が2倍以上の開きがあるのか、を箇条書きでかけ。
・プリントは各自の机に置く
・参加は自由/提出後参加者には解説をします
・箇条下記には、その数字的な根拠を示せ
(例)──────────
○本文、炭素はモノクロ、溜め息はオール4色だから
 ・色校の有無 0円/96000円
 ・刷版 (1/1×3)=6版/(4/4×3)=24
     単価はかわらず2500円
     額で、15000円/60000円で45000の差
 ・印刷 (1/1×3)2000s=6版/(4/4×3)2000s=24
     単価は 5000円/5500円
     額で、30000円/132000円で102000の差
──────────
・閉め切り10/5月13時 沢辺まで
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これ、課題提出は自由、ってことのした。
結局勉強するのって、その気がないヤツに無理矢理させてもしょうがない、と思う今日この頃。
小中高校生は別だけど。まして、給料払ってる時間なんだからな。
その気のないやつは見捨てていくのがいいんじゃないか?
こんな考えは語研・高島さんに批判されそうだけど、ね。
さらにさらに、版元ドットコムの新サービス企画までメール提案したぞ、。
よく書いた一日でした。