月別アーカイブ: 2007年2月

来週のゲイバァはお色気勝負?

HI350003.JPG2/10(土)の「昭和のゲイバァ」はそれなりに盛況で、ママとしてはホッとしました。知っている方から知らない方まで、若い方から熟女まで、女装からおレズまで、金持ちから貧乏留学生まで……バラエティに富んだ面々のご来店で、ママも楽しく一晩過ごせました。ちょっと風邪気味で早めに店じまいをしてしまいましたが、気持ちはとてもハイでいられました。お越しいただいた皆様、ありがとうございます。
で、来週なんですが、お色気路線でいきたいと考えております! 最終日(2/24)が松沢呉一先生、沢辺均社長を招いたインテリゲンツィア路線なので、今度(2/17)くらいはセクシー路線で営業したい。ということで、21歳のピチピチゲイくん(写真)を助っ人に頼みました(セクシーってそれだけのことなんだけど)。もちろん寒いので彼が脱いで接客するわけではありませんが、「乳首くらい見せろよー」と欲望する方は、個人的に交渉してみてください(でも脱がなくてもとてもかわいい「目指せマッチョくん」ですよ)。
HI350006.JPG「昭和のゲイバァ」
日時:2/17、2/24 20:00〜03:00(くらいまで)
場所:新宿3丁目ゲイバー、アイランド、パーティルーム4F
料金:3000円ポッキリ(焼酎、ソフト飲み放題)
03−3359−0540
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/islands/
*先着順で古いエロビデオをプレゼント!
「欲望問題プロジェクト」のほうでは毎日ガンガン書評が上がってきていて、伏見も先週くらいからやっと拝読するようになりました(だって勇気がなかったんだもーん)。でもみなさん、とても誠実に書いてくださっていてちょっと感動! 意見の違いはいいのですよ、そういう部分を共有していれば。
まだまだ錚々たる方々の書評が上がっていくはずですが、伏見が批判というか疑問を呈した方面からは、依頼してもお断りいただいたり、お返事がいただけないケースが少なくないようです。まあ、みなさん超多忙な人たちですし、志麻子姐さんがおっしゃるように普通の水準からは逸脱した稿料なので(笑)、まったくもって仕方ないのですが……。伏見が尊敬する、また友人としても信頼する加藤秀一さんはさすがにお引き受けくださいましたが、もっと他の方にも激しくご批判いただきたいっス。お願いしますよー!(マゾなんで) もちろんプロジェクトでないところでも取り上げてもらえたら嬉しいです。
それから広く一般の方々からの感想、書評の募集もはじまりました。掲載にあたっては編集部がセレクトするようですが、もの申したい!という方はとりあえず、ご投稿してみてはいかがでしょうか?

山元大輔[生物学者]●欲望の価値

伏見憲明は、日本のゲイ・コミュニティーを代表する評論家・作家である。そして『欲望問題』。とくれば、ゲイ・レズビアン=被差別者・マイノリティーからの社会批判ないし告発、しかもどことなく爆笑問題を連想させるタイトルからは、伏見流のちょっと“おちゃらけ”の隠し味が効いた軟着陸路線の本だろうとの予断を呼ぶ。この予断が油断となり、軽い気持ちで一ページ目を開くと、にわかに緊張を強いられることになる。

その文章はいきなりシリアスなのである。しかも、小児愛者を許容できるか否かの論議で始まる冒頭部分。常識的には、小児性愛ほど忌まわしいものはない。それは無条件に排斥すべきものであり、小児愛者=異常者である。しかし、伏見憲明がこの問題を取り上げる時、私は不安に駆られた。おそらくその不安は、私の“常識的感覚”を伏見とは共有できないのではないか、という不安なのである。私が伏見を“あちら側の人間”として、どこか心の深層で感じていることをそれは意味する。

むき出しの表現を敢えてとるなら、伏見は同性愛者であり、世の中の多数を占める異性愛者=マジョリティーとは区別される集団の一員であるのに対して、私は“普通の集団”に属している、という私の中の潜在的差別感に根ざしていると言える。実は、これがまず伏見が摘出したかったポイントなのではないだろうか。伏見を基準としたとき、自分が「こちら側」の人間か、「あちら側」の人間かを読者自身に否応なく答えさせる、そういう展開になっている。

「こちら側」と感じるのか、「あちら側」と感じるのか。本書が問う問題の本質がある。そして意外にも(?)、伏見は小児性愛を忌むべきものとして彼岸に、つまり伏見自身の属さない「あちら側」へと追いやる。こうして「こちら側」へと“越境してきた”伏見に、私は安堵し、信頼感を持つことになるのだ。しかし伏見のこの越境は、“命がけ”だった。

小児愛者が子供に性的に欲情するのは(しかもおそらく彼らは性欲のはけ口としてのみ子供をみているのではなく、本気で恋したりもすると私は推察する)、伏見が自然に男性に恋し、私が自然に女性に恋をするのと同じであり、それ自体が犯罪的ではあり得ないだろう。にもかかわらず、同性愛者であることによって差別と抑圧を受けてきたものが、小児愛者を差別し抑圧する。

ここに、うっかりすると見逃してしまうポイントがある。それは、“自然に”恋する、という点である。初恋を思い返してみればよい。あなたの心に決して消えることのない鮮烈な思いを残したその相手は、女性だったか、男性だったか。そこに選択の余地はなかったはずだ。稲妻のごとく押し寄せるその情感には、思考の介在する余地など微塵もない。その“感覚”こそ、自然な恋愛である。それは本能であり、脳に組み込まれた無意識の神経装置が機能した結果なのである。それは、育つ環境や教育によってほとんど左右されることのない、脳のハードウェアの性質によるのである。小児性愛にも同様の堅固な土台があるに違いない。となると、それは矯正など容易に出来るものではないのだ。こう問うてみるとよい。矯正によって、自分の異性愛(同性愛)は揺らぐだろうかと。

恋愛に動機など必要ない。恋愛だけではない。ヒトの多くの行動には「動機=意識される理由」など存在しないのである。人を殺すこと−自殺を含めて−にすら、多くの場合、動機などない。しかし社会は理由を求める。脳の配線のわずかのたわみが、“想定の範囲外”のことを人にさせるものなのだ。

自動装置としての脳は、進化の所産である。それは、動物、そして人の、欲求行動を支えるマシンとして、何億年もの歳月を費やして築かれた。科学的発見による知的興奮も、経済的充足も、セックスの快感を生み出す神経回路そのものによって生み出される。神経回路にとって、高級も低級もなく、それは単に欲望として存在するに過ぎない。

そう考えるとき、一見、あやふやな「欲望」と言うくくりで「痛み」も「正義」も一緒に束ね、そのいわば駆け引きを通じて多様な価値に折り合いをつけるという伏見の主張に、実はきわめて合理的な基盤があることに気づかされる。

例えば、小児愛者の欲望は、社会を平和に健康に維持しようとするもう一つの欲望により、抑圧される。この場合、両者が折り合いをつけるための「線引き」は小児愛者の欲望の大半を切り取る場所に設けざるを得ない。その線とは、結局、「あちら側」と「こちら側」を隔てる欲望の境界線である。

マルクスは労働が商品となり、労働量(時間)があらゆる生産物の共通の通貨として機能することを示した。その中で等価交換の成立しない労働力搾取の構造を暴きだした。しかし、我々には、労働時間よりももっと身近な共通の通貨があったのである。それは、「欲望」である。

自らはさんざん女性としての生活を享受しながら、空想の世界以外にはありえない性差の抹消を主張する不誠実なフェミニストたちの残骸の上に、伏見は新しい価値の塞を築いた。そこには生々しく、生き生きと、欲望を抱え、そして差別をつねに内にはらんだ人間の本当の姿がある。

やまもとだいすけ●
1954年東京都生まれ。東京農工大学大学院農学研究科修士課程修了。早稲田大学教授などを経て、東北大学大学院生命科学研究科教授。行動遺伝学専攻。

【著書】
心と遺伝子/中公新書クラレ/2006.4/¥780
睡眠リズムと体内時計のはなし/日刊工業新聞社/2005.5/¥1,200
男と女はなぜ惹きあうのか/中公新書クラレ/2004.12/¥760
記憶力/ナツメ社/2003.6/¥1.300
超図説 目からウロコの遺伝・DNA学入門(訳)/講談社/2003.2/¥1,900
恋愛遺伝子/光文社/2001.10/¥1,500
3日でわかる脳(監修)/ダイヤモンド社/2001.9/¥1,400
遺伝子の神秘 男の脳・女の脳/講談社+α新書/2001.7/¥840
「神」に迫るサイエンス(瀬名秀明、沢口俊之らとの共著)/角川文庫/2000.12/¥619
行動の分子生物学/シュブリンガー・フェアラーク東京/2000.12/¥4,000
脳が変わる!? 環境と遺伝子をめぐる驚きの事実/羊土社/1999.1/¥1,500
行動を操る遺伝子たち/岩波科学ライブラリー/1997.5/¥1,200
脳と記憶の謎/講談社現代新書/1997.4/¥660
本能の分子遺伝学/羊土社/1994.6/¥2,621
ニューロバイオロジー(訳)/学会出版センター/1990.7/¥9.708
神経行動学(訳)/培風館/1982.5/¥4,900

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第四話

対話から問いを立て直していく
━━『欲望問題』の面白さ

野口●今言われたように、反権力をスローガンにした社会運動はよく普通の生活者の中に生きている「常識」や「普通」に対して、過剰に反応して「常識」って一体なんだ、「普通」ってなんだと攻撃的な態度に出ることが多いんだけど、当然のことながら「常識」の中にも良い部分と悪い部分が必ずある。「常識」というものが、人が共同的な社会を生きていく中で醸成されるものである以上、そこには異なる価値観をもつ人々が一緒に生きていく上で必要になる作法、合理性も当然含まれる。「常識」には、そうした人の倫理の普遍性と、一方的に何かを排除しようとするような、近代的な人間観に抵触したものが存在している。つまり、「常識」の中の正当化できないものと正当化できるものを区分けする必要がありますね。

これもさっきの議論と同じで、自分たちの価値観、意見、共同性と違う人たちからの意見に対して、それはマジョリティの常識的な意見だと十把一絡げで否定するのではなく、その意見を区分けして核を取り出していき、正当な意見かどうか検討しなければならないわけです。

さっきの沢辺さんの地下と地上の話でいうと、役職や地位というものは、人間が一緒に集まってひとつの組織を運営していく上で不可避的に生じるものです。全員が平等な立場で同じ決定権を持って運営するのは、組織が大きくなればなるほど不可能なわけです。だから地位が生じること自体には普遍性があるということを認め、よりよい地位関係はどのようなものかとか、それはどうやって作っていけばよいのかなどの具体的な方法論を考えていくことが重要だと思います。

この『欲望問題』にも、多くの人が枝葉の部分でいろいろ言ってくるかもしれない。例えば、伏見さんはフェミニズム、ジェンダー論が性差解体を主張していると言っているが、こういう議論もあるし、ああいう議論もあるというような反論が必ずあるでしょう。また、なぜジェンダーフリーを主張する側への批判ばかりで保守派への批判があまりされていないのかという意見もあるでしょう。でもそれは読み方としてはまったく正当な読み方ではない。

議論に耳を傾ける場合、核心をまずつかむ必要があり、それをつかんだ上で、この掴まえ方にはこういう問題があると言う必要がある。今回の場合、例えばジェンダーフリーに関する部分では、ジェンダー論が性別というものをどう扱うのかについての原理を提出しないまま、性別が悪いものだというイメージを流し続けていることを批判しているわけです。

一方ではジェンダーを政治的な概念だといい、一方で中立的な概念だということを主張して、学問の世界以外の人に理解できるような論理をキチンと提示していないことを批判しているわけです。もっとも学問の世界の人間が正確に理解しているのかどうかもあやしいのですが。そして、学問の世界のこうした誠実でないやり方が、ジェンダー・フリーバッシングの動きを背後で支えているのではないかという疑問を提出しているんですね。つまりジェンダーフリーへの反発の根本原因は、ジェンダーフリーを推進する側や、ジェンダー論の研究者にあるのではないかという疑問を提出しているわけで、問われているのは自分たちです。ですから批判をするなら、保守派に対する批判をなぜもっとしないのだ、などのような問いをずらす反論ではなく、こうした論点に直接向けた反論をする必要があると思います。

もし批判を相手の議論の核心をつかんだ上でなさずに、自分に都合のよい点だけで行うなら、議論が自己の信念を補強するだけの、単なる闘いのための言語ゲームになってしまい、議論を深めていく対話のための言語ゲームでなくなってしまう。でも本当は、闘いのための言語ゲームなんて自己意識を強化するだけの作業で、たいしたことじゃないんですよ。

僕はいま学生と一緒に文章を作る仕事をやっていて、学生は自分の経験の中の出来事やそのとき感じたことを捉え返して、なぜその出来事のそういう感情を持ったのかを考えて文章を書いてくるんだけれども、僕のアドバイスと同じことを同じ言葉で書いてきたのを読んでもまったく面白くないんですね。僕がアドバイスした内容と同じ意味であっても、彼ら固有の表現で書かれているとやっぱり面白い。また、僕が思いもよらなかったような理由を彼ら自身が取り出して書いてくると、やっぱり面白いんですね。実は言論の本質はそこにある。

闘いの言語ゲームで勝つというのは、いわば自分の言葉で相手との違いを全部埋めることになるわけですよね。でもそれは本当はつまらないことで、言論の本質は、自分が投げかけた言葉を相手が受け止め、さらに返してくるやり取りの過程で、自分が触発され、考えを深めることができるというキャッチボール、対話性の中にある。言説の世界で、言論の持つそうした面白さに対する感度がどんどんなくなってきている気がする。自分の信念で全部埋め尽くして、批判されると排除しようとする傾向がある。それは結局自意識に負けていることを意味しているんですね。そういう形で言論という言語ゲームが闘いの言語ゲームに還元されてしまう貧しさを感じていて、とても残念に思います。

しかし伏見さんの『欲望問題』はそうではなくて、ある議論に感じたことを内省して、その感覚が一体どこからくるのかということを、相手の議論の核を受け止めた上で、自分の経験や自分のありようとすりあわせをしながらもう一度初めから考えている。さまざまな立場の人々との対話が『欲望問題』のいちばん中心にあるんですね。結論も重要なんだけど、それ以上に相手の意見を受け止めようとする態度や内省のプロセス──それは生き方とも言えると思うんだけど──がこの『欲望問題』の一番の面白さだと思う。

沢辺●その通りだよね。具体的に言えば、少年愛の指向を持っている人から手紙が来たという話が書いてあるんだけれど、その少年愛の指向を持っている人と自分は居る場所が違うだけ、自分と相手との間には大きな川があって、相手は犯罪者で自分は正常だと分けているのでなく、自分と相手が居る場所は地続きの中にあると位置づけている。僕はこれもすごいなと感心したことのひとつなんです。

ほとんどさまざまな問題に自分を重ねているでしょう。少年愛を指向している人を自分と無関係なこととしてどう評価するのかではなく、例えば自分が少年愛という指向をもっていたらどうだったのかとか、自分が持つ可能性はあったのだろうかとか、ほとんどの事象に対して、自分を重ねている。これはまったくすごいよね。

野口●うん。たまたま自分はゲイであり、少年愛ではなかったという自分自身の性の指向性をさまざまな性の指向性との連続性の中で捉えるということは、今言われたように問題に自分を重ね合わせるということなんですね。またさらにすぐれているのは、自分の問題として捉えてそれを全部正当化するのではなく、その指向性を社会の中に置き直したときに、どのレベルで認められる問題なのかということを、もう一度捉え直している点ですね。少年愛の場合は内面の問題としては仕方のないことだが、社会的なルールとしては認められないだろう。何らかの線引きは社会にとっては必要だろうと、痛みに満ちた結論を引き受けているわけです。

これは、別に少年愛者だから裁断しているわけではなく、ゲイに関しても同じなんですね。ゲイだからということでゲイの利害が全部通るわけではないということを引き受けている。ゲイは再生産を核にした家族中心の社会において、抑圧を受けてきたといえるわけだけど、だからって、家族、子供を作る人たちは自分の利害に反する存在だ、家族を再生産していく社会システム全体が間違っている、とは言わない。ゲイである自分は子供をつくらない。子供を中心とした家族を営むわけではない。しかしながら社会の存続可能性にとって子供が必要である以上、ゲイも同じ社会を生きる人間として、社会を維持するコストを払う必要がある。子供を作るという形でのコストを払うことができないけれども、それに代わりうるコストを払っていく必要がある。このように自分を常に他者と重ね合わせながら、社会の中に置きなおして普遍化して検証する態度を一貫して持ち続けているんですね。

ゲイリブの中には「反家族」という理念を打ち出す人もいる。しかし同じ社会のメンバーである以上、それを維持するためのコストは、どのレベルでどの程度払う必要があるのかは議論によって決定されていくのでしょうが、互いに負担しなければならない。異なる利害を持っている人が同じ空間のなかで存在する以上、維持するコストはお互いに払っていく必要があるという意識を持つこと。公共性というのはそういうものですね。

家族を自分たちを抑圧する共同性だからと否定するのではなく、家族を持ちたいという利害を持った人たちも社会の中にいて、われわれもそうした人々も等価なものとして社会の中に存在している。自分の利害は絶対的なものでなく、他者によって相対化されうるものであり、そういう人間同士が一緒に社会を作っていくならば、誰がどのようなコストを支払うのかは、対等な権利をもったメンバー同士で決定されうるものだ、と。ところが、特殊なイデオロギーを持つと、このような見方がなかなかできないんですね。

そこから抜け出すのは難しいと沢辺さんがおっしゃったんだけど、全くその通りで、イデオロギーは世界を見る認識枠組み、フィルターのようなものの一種だと考えることができる。図式化して言うと、世界はいわばカオスであって、人は何らかのフィルターを通してカオスとしての世界を、再整理して認識していくわけです。そのときのフィルターにマルクス主義があったり、フェミニズムがあったり、クィア理論があったりする。そして、このフィルターを信じていればいるほど、そのフィルターを通した世界像から抜け出すのが困難になるんですね。

大切なのはこのフィルター自体を検証する回路を持っておくことです。その認識枠組みを共有しない人が、さまざまな現象をどのように意味づけているかを不断に検証しておく必要があるんです。自分たちはある現象にAという意味づけを行っている。しかしながら同じ現象を別の人はそのように意味づけていない。だとすればもしかしたら自分の認識枠組みが間違っているかもしれない、それが本当に正しいかどうか検証してみよう、というように自身を内省する回路を作っておかなければならない。この認識を共有する人たちだけにしか通用しない議論をするのではなく、その認識枠組みを知らない人に対しても理解可能な議論をしていく中で、互いの認識を深めていく過程をたどらなければならない。

そういう姿勢を持つことが今後の反差別運動では特に求められていると思います。現在、先進国では各人の自由がだんだんと実現されてきた。日本もそうですね。もちろん全ての自由がかなえられているわけではないが、自由の水準が上昇した社会になって来た。このようなときに、ある特定の利害に基づいた見方をみんなが共有すべきだという議論は、その利害を持たない人には全く通用しないんですね。そのイデオロギーを信仰してしない人から見ると、何を言っているんだろうこの人たちは、となる。

だいたい「普通」に生きている人たちは、強固な一つの利害に基づいて生活をしているわけではないので、議論を俯瞰して冷静に見られる人が社会に大勢いることを認識しておかなければならない。そのような現実に謙虚であり続けなければならないんです。

異なる価値観を持った人同士で生きていく社会である以上は、差別の克服というのは非常に重要で、アメリカなんかが典型ですけど、他民族国家の社会においては差別を克服できないと社会の存続自体が危うくなる。現在の日本では異なる民族の人たちの共生の問題はそれほどクローズアップされていないけれども、今後だんだん問題になっていく可能性がある。

それは民族だけでなく、ゲイや障害者、いろんなマイノリティもそう同様です。そのときに多くの人が納得しうるような論理を立てないと、結局差別の克服は実現できない。マイノリティ側にとっても自分たちの言葉が全然通用しないという現実を、反権力、反社会的な信条だけで目をつぶってやり過ごしていくことになる。

セゴレーヌ=ロワイヤル氏のマニフェスト

フランス大統領選挙に社会党から出馬するセゴレーヌ=ロワイヤル候補がついに政権公約・マニフェストを発表した。
http://www.desirsdavenir.org/index.php?c=dossier&dossier=13
旦那のフランス=オランド社会党・党首は「今日からが闘いだ」と述べ、勢いにのるニコラ=サルコジ氏に反撃していく構えだ。大統領選挙はますます過熱していく。
ちなみに、緑の党の元スポークスマンで黒人民権運動のアクティビスト・ステファン=ポクラン(Stéphane Pocrain)氏が出馬しようとしている。ポクラン氏が出馬した場合、唯一の黒人候補になる見通しだ。

魂萌え

原作本を超えた爽快感!
魂萌え

桐野夏生の原作本は衝撃的だった。
「夫の浮気」や「財産を狙う子ども」という題材はよくある話だろう。
それが、彼女の手にかかると、ドロドロの怨念の世界へ行くのではなく、
59歳の女性の凄みのある、それでいて一種さわやかな成長物語へと結実する。

夫に10年来の愛人がいた。
そのことを夫の死後知った主人公。
これは、ものすごく残酷なことだと思う。
夫が生きていれば、ののしり、罵声を浴びせ、
自分の感じた裏切りの気持ちを相手にぶつけることができる。
それができない状況では、普通ならどこまでも、どこまでも
深い穴に落ちていくのではないだろうか。
こういう傷は、夫を愛していたからより傷つくとか、
愛していなかったから傷つかないとか、そういう問題ではないと思う。
自尊心の問題なのだ。
主人公は、子どもたちにもその自尊心を踏みにじられるような行為をされるが、
彼女なりのやり方で、最後には踏みにじられた自尊心を取り戻していく。

原作に感動して映画を見ると、多くの場合、失望することが多いが、
阪本順治監督のこの映画は、私の中では数少ない例外となった。

まず、キャラの立ち方がスゴイ!
本を読んでいたときには、60歳間近の主人公、その夫、愛人の色恋が、
リアルに感じられなかった。でも、映像化されることで、
よりリアルに主人公やその周辺の人々の息づかいが伝わってきた。
特に、妻vs愛人の対決場面は見所満載だ。
妻を演じる風吹ジュンと愛人を演じる三田佳子。
とても静かな台詞のやりとりの中にも、火花が飛ぶさまが見えるようだった。

ラストに向かっては、原作をも超えたのでは?と思えるような爽快感だった。
もちろん、現実はそう甘くない。
そう言えるかもしれないが、映画にはやはり、どこかに夢がないと…。
私自身は、その希望あふれる描き方にとても感動した。
特に、ラストに流れる映画「ひまわり」。
多感だった10代のころ、ソフィア・ローレンとマスチェロ・マストロヤンニの
駅での別れのシーンに大泣きした記憶がある。
戦争で行方不明だった夫がロシアで生きていると知り、
会いに出かけた妻。しかし、記憶喪失だった夫にはすでにロシア人の妻と娘がいたと知る。
駅での二人の別れのシーン。妻は涙を隠し、列車に乗る。夫を深く愛しながらも、すがりつくことをせずに、前を向いて歩いていくこのシーンが、見事に「魂萌え」の主人公に重なってくるのだ。