月別アーカイブ: 2007年2月
前足のせ
2月16日
北原みのり[LOVE PIECE CLUB代表]●読後、もやもやした気分が続いている。
「欲望問題」、むちゃくちゃ「絶妙」なタイミングで手にした。というのも、私、ちょうど、「差別問題って、ものすごーくめんどーだー!」な事態に直面していたものだったから。
ラブピースクラブ(私が運営しているマンコ持ちのバイブ屋)が出しているメルマガに、一通のクレームメールが来たのだ。「男との同居」を書いているスタッフの連載エッセーに対してで、内容を手短にするとこういう感じ。
「私はバイセクシュアルだが、あなたの男との話は、つまんない、うざい」
スタッフはそれはそれは衝撃を受けた。やっぱり傷つくよね。うざい、だなんて・・・。悲しむスタッフには「めげないで続きを書くのよ!」 と励ましたのだけれど、私にとっての問題は、ここから、始まった。というのも、そのスタッフが、次のメルマガでの同居話の全面撤回&謝罪しちゃったのだ。
「この異性愛社会の中で、ヘテロの話はありふれてつまらんどころか、抑圧になるのかもしれません。申し訳なかったです」
あれ? と思った。読者からのメールを読み返しても、「あんたの話は抑圧的じゃ、差別じゃ」とは書いていない。「つまんない、うざい」である。だったら「つまんなくてゴメンナサイ」だろ、とスタッフに聞いた。「なんで謝ったの?」 こういう答えが返ってきた。
「だって。前にも、レズビアンの友だちに言われたから。この異性愛社会でヘテロ話は抑圧的だって・・・」
セクシュアルマイノリティの運動が間違っていた、単なる言葉狩りになってしまった、と言いたいのではない。この場合、完璧に受け手の問題だ。そしてこれは、そのスタッフ特有の問題ではないように思う。被差別者が一転、差別者として糾弾された時の反応の過剰さ。リベラルであるほど「マイノリティの痛みは正義」と思考停止してしまう鈍感さ。それは特にものめずらしいことではない。差別者になる自分は許せない、という自分への誠実な姿勢が、もっと複雑な「差別」を生み出すという差別スパイラルみたいに。
そのスタッフは「差別問題」にセンシティブでありたいと生きてきたマンコ持ち、私の信頼するフェミ友、反差別運動に長く関わってきた市民派だ。なんでそんな風に謝っちゃったの? 私の中で、「差別問題、なんでコンナコトになる?」というような、ジリジリした気分が募った。
そんな時に本書が届いた。だからなのか。おお! そうよそうよそうなのよぉとうなづき、リアルに理解できる箇所、たくさんあった。反差別運動が持つ硬直した感じが、伏見さんの体験からよく伝わった。もちろんそれはフェミとしての私自身の中にもある硬直感かもしれなく、ああ分かる分かる、と思う一方、あちゃ、と首をすくめる箇所もあった。そして、今回の「メルマガ事件」の意味づけから、差別問題への違和感・共感など、私の中で「整理」できたような爽快感があった。
一方、フェミの「正しさ」への伏見さんの「嫌悪」(に感じた)に共鳴しながら呼んでいると、うっかりフェミを、フェミとしての自分も嫌いになりそうになった。伏見さんはフェミがお嫌なのね・・・と、80年代のフェミ本を取り出して読み返して、あの頃は良かったなぁ、と慰めたくもなった。オヤジは敵! と拳をあげる70年代リブの手記を探しだし溜飲を下げたくなった。そういう意味で、私にとっての「フェミ」、私の「痛み」は、私自身の「癒し」であり「欲望」であるというのは、伏見さん、確かにその通りです、とうなだれたくもなる。
・・・と、ごちゃごちゃと、いろんな感情を揺り動かしながら一気に読んだ。
それでも。読後、もやもやとした気分が続いている。「欲望問題」 それでいきましょう! と、伏見さんの言う「パンクロック」のビートにあわせてイエェーイとは言えない(それを私に期待されているわけじゃないでしょうが)複雑な気分でいっぱいだ。どの箇所に? と言えば、それは「だからフェミはだめなんだ」というような調子のところではなく、「保守的に読める」かもしれない調子の点ではなく、伏見さんが繰り返し語る「社会」ってものに対する視線の「高さ」に、最後までついていけなかったからだと思う。
「(他者の欲望をできるだけ可能にする議論、そして)その結果が社会の成り立ちと維持に矛盾しないように、いっしょに考えていく、それが大切だと思います。そういう場として、ぼくはこの国を他の人々と共有していきたいと思います」
政権放送のように、本書の伏見さんの言葉はキラキラと眩しい。「責任」を持つ大人、とはこういう感じなのだろうなぁ、と私は遠い目になる。私自身は「社会は敵だーころせー」とか、そんなすてきな言葉を吐きたいわけじゃないけれど、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という本書の副題を借りるならば、「人は社会を維持するためだけに生きているのではない」とやはり言いたくなる。
「社会を維持する」とか「社会に責任を負う」とか「社会を営む」という伏見さんの言葉の数々の「主語」に、私はいるのか、いるんだろうなぁ、いるんだろうけどなぁ・・・・というモヤモヤが、読後、消えないで残っている。そのモヤモヤの正体を、私も伏見さんみたいに「誠実に考えよう」と思う。
●きたはらみのり
1970年、神奈川県生まれ。1996年、日本で初めて女性が経営するセックスグッズショップ
LOVE PIECE CLUB(http://www.lovepiececlub.com/)を立ちあげる。同代表。
【著書】
ブスの開き直り/新水社/2004.9/¥1,400
ガールズセックス(小田洋美、早乙女智子、宗像道子との共著)/共同通信社/2003.10/¥1,300
オンナ泣き/晶文社/2001.4/¥1,600
フェミの嫌われ方/新水社/2000.8/¥1,400
男はときどきいればいい/祥伝社文庫/1999.6/¥533
はちみつバイブレーション/河出書房新社/¥1,200
野口勝三vs沢辺均ロング対談・第七話
共同性の意味をもう一度再考してみよう
━━『欲望問題』第三章「X-men」のエピソードから
沢辺●振り返って考えると僕はいま50歳だけど、10歳代から「家族帝国主義」という言葉も含めて、家族や共同性にからめとられるのにすごく反発してきた。しかしもう一回戻って、いまや配偶者がうちにいないと、俺一人に成ったらどうなるんだろうという不安感を如実に感じると、人がいてほしい、自分以外の他者といっしょに何かをしたいという欲求はかなり強烈にある。やはり共同体は必要なんですよ。
ただ、従来の共同体の負の面、いやなところをできるだけ薄めて共同体のよさを生かすという視点が、この年齢になって出てきた。共同体そのものを否定するのではなく、その在り方を改善したほうがいいんだというふうに気持ちが変わった。その自分の気持ちと、伏見さんが『欲望問題』の第3章で取り上げた「x-men」のエピソードが深くリンクして感動したんですね。
野口●いま言われた共同性の意味をもう一度再考することが重要ではないかという指摘は重要だと思います。近代社会は個人の自由がだんだんと確保されていく社会ですが、その自由は、経済的な自由、財産権や私的所有権を確保するということからはじまり、貧しさからの解放や政治的自由の獲得、生き方の自由の確保という方向へと向かっていきます。
つまり与えられた役割にしたがって生きなければならない社会から、多様な生き方を選べるような社会を少しずつ作っていくようになる。
そのときに自分にとって重要だと考える共同性を生きる場として選ぶことが当然ある。そうすると、沢辺さんがいうように、どういう共同性なら正当化されうるのか、またよりよい共同性の形とはどういうものかを考える必要が出てくるんですね。家族という共同性もそうだし、ゲイという共同性もそうした選択した共同性だといえます。
ゲイに関しては、自分がゲイだという確信は、向こうから疑いようのないかたちでやってくるという点では、非選択的なものですが、それを生き方として選ぶかどうかというのは本人次第ですから、その意味ではゲイも選択的な共同性なんですね。さまざまな共同性は、人々の生きる意味を供給するという形で社会の中に存在しており、さまざまな共同性の意味をもう一度考えなければならないのだと思います。
一方、共同性があるから対立や争いが生じる。だから共同性自体を解体していかなければならない、という論議がある。クィア理論なんかもその一つですね。同性愛というカテゴリーは近代の産物で、近代ヨーロッパという特殊な歴史的・社会的条件のなかで生まれたものであり、異性愛/同性愛という対立枠組みができることで同性愛者差別が生じてきた。
だから同性愛者として異性愛中心の社会に異議を唱えるということは必要なことだけれども、同時に同性愛/異性愛の二項対立的枠組みを作り上げている社会システム自体を解体しないと差別はなくならないというわけです。この考え方は理路としては、性別二元制が男女差別の源泉だというのと同じですね。男女というカテゴリーを作り上げる性別二元制という土台を解体しないと男女差別はなくならないというのと同じ論理構成といえる。このような理路は「論理的」には「正しい」。
同性愛差別にしろ女性差別にしろ、同性愛/異性愛や男/女のような対立する土台自体を解体すればなくなるのはまちがいない。カテゴリー自体がなくなるわけですから、カテゴリーを前提にして初めて存在することになる差別という現象は当然なくなる。
しかし「論理的」に「正しい」ことが、人間にとって「正しい」とは必ずしもいえない。なぜなら、先に述べたように共同性は人に生きる意味を供給するための不可欠なアイテムだからです。人間は実存の基底に不安を抱えているために、さまざまなかたちで何らかの共同性を必要としています。人類の歴史から共同性がなくなったことがないのはそのためです。
ですから、人が差別をなくすために共同性自体の解体を選択するかといえば、そんなことはしないんですね。自身の欲望の条件のなかから差別の解決をはかっていくというのが、人間の一般的なありようですから。人がそうした共同性を必要としなくなって初めて、その共同性を解体する条件が整うわけです。先の二項対立の土台自体を解体するという理路は、人の欲望の条件を満たさない場合、問題を「論理的」に「解消」しているだけで、「解決」するものでないんですね。
沢辺●本質的なものごとのとらえ方として異論はないんだけど、一方で、僕は懐疑的なところがあって、気分として共同性に対する嫌悪感って意外にない?
野口●共同性を嫌だと思っている人があんまりいないということ?
沢辺●いやいやいっぱいいるということ。現実にはゲイという共同性がベースにあるからこそ、ハッテン場とか含めて十二分に楽しんでる面はあるんだけど、同時に家族や会社、組織に縛られたくないっていう気分が多くの人に同居しているような気もする。
マルクス主義的なものの見方の残像みたいなものも結構あって、雇われている人だと、会社にうまく利用されないよう気をつけたりと、会社も共同体の一つとすれば利用もするし利用されることもあって、自分の自由と折り合いをつけていくための問題解決の場として考えていかないと決してその場をうまく生きられない感じがするんだけど、なんか突然アプリオリに空気として共同体嫌悪があるような気もする。
ただしそのことは徐々に減っていくのかなという気もしていて、そんなに心配もしていないところもあるんだけどね。もちろん本質的には、野口さんがいったようにみんな共同性をそこそこ楽しんでいるわけですよね。親の嫌なところはあるにしても、切り捨てるなんていうピュアな生き方なんかしないで、いい歳こいても親に金出してもらって利用もする。僕はそれを悪いことだと思っているわけじゃないんです。
野口●なるほど、何らかの共同性による拘束を嫌がる人が増えてきているのではないのかということですね。それについては僕はこんなふうに考えています。
人間は実存上不安を抱えた存在なので何らかの共同性を必要としてきたのですが、一方で近代社会は人間の自由を推し進めることで共同性からの解放を実現してきたわけです。その結果、現在の人間は、共同性の希求と共同性からの解放という相反する欲望を抱え込まざるをえなくなっているんですね。
特に日本は独身でも生きやすい社会的条件が整ってきている社会だと思います。夜の一人歩きも大きな危険が伴うわけではなく、24時間開店しているコンビニのネットワークが整備されてきているように、独身者でも不自由を感じない社会になってきた。
すると不安や不自由を強く感じるようになるまでは、できるだけひとりで生活したいという気持ちを持つ人が増えてくるんですね。ですから不安や不自由を感じなくなるような社会的条件が整えば、さらに一人で生きたいという人も増えてくるかもしれない。
ですが、これは年齢とも相関性があるでしょうね。年を経て自分だけの欲望の追及よりも、我慢するコストを払っても関係の欲望を選択するかもしれない。
雇用に関して言えば単位時間当たりの労働者一人の生産性が非常に高くなり、組織に所属しなくても安定的な収入を得ることができるようになれば、一人でやっていけるようになるかもしれない。ただこれは今のところ一部の特殊な職業でしか実現していませんね。
いずれにせよ共同性の拘束と自由の希求をどのように調停するか、その社会的条件が何なのかをさまざまな共同性にクラス分けして考えていく必要があると思います。
行ってきます!
2月15日
鉄の声
きのうの話の続き。
手嶋さんにもらったガムを食べているとき、手をのばした山ちゃんに向ってほえた鉄。
その時の様子です。
『欲望問題』関連記事1
『欲望問題』にからめて、オンラインマガジン「SEXUAL SCIENCE」からインタビューを受けました。
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/index.html
「All about」ではJunchanが書評で大きく取り上げてくれました。
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20070210A/
野口勝三vs沢辺均ロング対談・第六話
それは社会に承認される可能性を持った主張か
━━これからの社会運動の命題
野口●僕の感じでいうと、人が社会性を獲得していくための前提条件は、沢辺さんが言われたように、自分の考えや意見を受け止めてもらえて、違和感も含めて率直に意見をやり取りでき、お互いの考えを鍛えていけるような場面をもてるようになることだと思うんですね。もう一つは、多くの人がある状態をおかしいと思ったときに、例えば、一票を投じたら政治が変わりうるような、自分たちの考えが社会政策として反映されうる条件が実現してくることだと思います。そうすれば、その感度は広がっていくはずなんです。
多くの人は社会を動かしがたいと思っていて、人々がそうした実感をもつのには必然的な理由があるわけなんだけど、思想の課題はその理由をはっきりさせることと、どのような条件が整えば人々が社会とのつながりを実感できるようになるのかを明らかにすることです。
沢辺●そのときに大切なのは、正しさということを先におかないということ。これも竹田青嗣さんのパクリですけどね(笑)。
野口●「これを私は正しいと思う」という投げかけはいいんですね。大切なのは、互いの意見をすり合わせること。批判されたときにキチンと受け止め、納得がいくようなものなら、対話の過程で変えるのをいとわないことです。「正しさ」はそのような形で成立するものなんですね。
ルソーは『社会契約論』で統治権力の正当性の根拠を一般意志とよびます。一般意志とは何かというと、ルソーは変な言い方をするんだけど、要するに各人の共通の利益ということを意味していると考えればよいと思います。共通の利益が実現するように権力が行使されずに、一部の利益だけが確保されるような事態に対して批判を差し向けることができるというんですね。つまり、統治権力において特殊意志が一般意志を僭称するとき、その権力は批判され、一般意志を実現していくときにのみ正当化できるわけです。
ルソーのこの考えは社会批判の正当性の根拠を明らかにしたものだと考えることができます。つまり、近代社会では各人は対等の権利を持って存在しているために、そこでは特定の誰かの利害を先験的に優先することができず、各人の共通の利益のみが「正しさ」の根拠になるということを意味しているわけです。これは非常によく考え抜かれた論理です。
たしかに私たちは社会政策や制度に対する批判を、暗黙の内に想定した万人の共通の利益を基準にして展開しています。その政策や制度が万人の利するものではなく、一部の人間だけの特殊利益になっているという根拠によって批判できると考えているんですね。もちろん一般意志とは実体としては存在しない、概念として想定されるものですが、この想定によって制度批判が可能になるわけです。逆に、このような概念を想定しないと、万人が対等な権利を持った社会において制度批判を行うことはできないんですね。
では一般意志が実現するための条件は何なのか。ルソーはそれを特殊意志をもった強大で巨大な集団が存在しないことだとします。別の言い方をすると、特殊意志が一般意志を僭称するようになる条件は、強大で巨大な特殊利害を持った集団が社会のなかにいくつか存在していることだといってもよいでしょう。これもよく考えられた原理です。
もし特殊意志をもった集団が巨大で強力な力を持っていた場合、その組織の統治権力への影響力が大きくなるので、特殊利害が統治権力の権力行使に強く反映されるようになるわけです。そうなってしまうと一般意志の名を借りて特殊意志が追求されるようになってしまうんですね。
では次にそうした特殊意志を持った巨大で強力な集団が存在しないための条件は何かを考えてみると、これもいくつか取り出せます。統治権力との係わり合いで言えば、政権交代が可能な二つ以上の政党が存在することが重要になります。もし一つの政党だけが統治権力に関わるようになり、特殊意志をもった集団がその政党との結びつきを強めれば、集団の影響力が強まりますから一般意志が実現しにくくなってしまう。
ですから、つねに政権交代が可能になるような二つの政党が存在していることで、政権与党と特殊意志をもった集団の結びつきを緩めたり、特殊意志を持った集団の強大化を防ぐようにしなければならないんです。
例えばアメリカの二大政党制の場合、共和党、民主党の支持母体に強大な力を持った利害集団が存在して、それぞれの政党と密接に結びついているわけですが、日本の場合、政党の思想やイデオロギーと集団の思想が純化した理念で結びつきにくい社会なので、政権が交代すれば特殊意志を持った集団は、今まで支えていた政党を鞍替えして新たな政権与党を支えるようになりやすいと思います。そうすると特殊意志をもった集団の力は相対的に低下するんですね。
このように思想としては一般意志を実現していくための条件を一つずつ確定していくことが重要で、その上に立って個々の具体的な政策内容や手段を決定していく必要があると思います。これからの社会運動も単に反体制・反社会的立場に立てばよいというものではなく、自分たちの主張が社会に承認される可能性を持ったものか、一般意志にかなっているのかを考えて行動していかなければならない。それがまた実践を支える理論を鍛えるための場になるわけです。
沢辺●さっきも言ったけど、かつて公務員をやっていたこともあって、公務員の友達も多いんです。この4、5年、俺がつき合っている数少ない公務員の中にも、「給料さげてもいいよ」という公務員がいるんだよね。不景気なときに公務員の給料がなかなか下がらないから、相対的に突出するわけですよね。僕も「おめえら高いよ」と言うわけで、社会もそういうトーンになるでしょ。こうした例は[公務員である自分の給料は一般意思に適応してるのか]を気にしてるってことだと思う。
また、人間は自分の目に見える直接的な利害だけで生きているわけじゃなくて、他者からの承認も求めちゃうもんだと思うんだよね。例えば医者だからといってともかくいっぱいお金もうけましょう、という人ばかりじゃないよね。承認を得るためにがんばる人がいるんだと思う。
野口●自分たちの利害が政策に直接反映できるようになると、利害の追求に求心化されていくんですね。最近大阪市で明らかになってきた同和行政の問題もその表れだといえますし、医師会や郵政団体のような政権与党を支える集団の問題もその一つですね。
人は自分たちの生活条件を少しでもよくしたいという思いがあるので、もし自分たちの利益が簡単に実現するようになれば、常識を欠いた利益でも保持して手放さないようになる。特殊利益を実現するルートが確保されれば、自分たちの主張が妥当なものかどうか問い直すことがなくなるんです。
重要なのは、そうならないための社会条件は一体何なのかを一つ一つ考えて、一般意志を実現するためのグランドデザインを描いていくことです。