月別アーカイブ: 2007年2月
ポットでの定位置
鉄のポットでの定位置のひとつ、マッサージ機。
会社が社員の福利厚生のために購入した、当時の最新機種だが
いまや、労働にひとつも貢献しない犬のくつろぎの場所となってしまった。
下の映像のタイトルは、「マッサージ機に寝ている犬」。
長いわりには山場もなく、オチもありません。
川西由樹子[ライター]●絶妙なパラフレーズに、汁まみれの感謝を
《どうしよう……あたし、すっかり熱くなってる。このままなにもかも、溶けて流れていっちゃいそう……》
『欲望問題』のプルーフ版を握り締めたわたしの手は、絶頂を迎える直前のように強張り、震えきっておりました。全身の汗腺という汗腺から、あるいは鼻孔やら唇から、さらには下半身の敏感な箇所にいたるまで、熱くじっとりと、はしたないほど分泌物にまみれていくのを感じたんです。
《どうして……こんなに巧みに、あたしのいちばん敏感な部分を……》
真っ赤に熱せられた鉄板の上のバターも同然に、肉体が、理性が溶解していくのを感じます。わたしは『欲望問題』を胸に抱いたまま、法悦の境地で大地へと溶け崩れていったのでした。
*
いきなり自分語りに入ってしまって恐縮ですが、わたしが本書から受けた衝撃を表現するためには、どうしても己の過去にさかのぼる必要があります。
わたしの半生のいたるところで出会い、反面教師的な意味も含めて人生に強い影響をもたらしてくれたのは、ある種の「正義の味方」のかたたちでした。
最初のそれは、わたしが幼稚園児のころにはじまった、宗教という名の「正義」でした。家族全員が某新興宗教の信徒となってしまったため、特殊な価値観を連日連夜、コレでもかとばかりに注入されたのです。そこでは、「正義」という表現の代わりに「真理」などの用語がつかわれてはいたものの、「絶対的に正しい概念」を信仰するよう全身全霊で求められたという意味では、まさに「正義」に四方八方を包囲された状況だった、と言えましょう。
次にわたしが接した「正義の味方」たちは、反体制的なイデオロギーを信奉するかたがたでした。小学校の低学年から登校拒否をはじめる、という非常識な生き方をしてきたおかげさまで、わたしは思想的に左のベクトルをお持ちの種族に偏愛されるカラダになってしまったのです。
とりわけ難儀な思いをしたのは、中学生(相当の年代)のころに出会った、児童精神科のお医者さまの対応でした。その先生は「登校拒否という生き方は、素晴らしい!」と、しつこいほど熱く激しく狂おしく、わたしに説いて聞かせたのです。彼の論拠は「現代の社会は間違っている。登校拒否とは、その病んだ社会が生み出した学校という機関に反旗を翻す行為だから、素晴らしいのだ」とのことでした。
いいトシをされた斯界の権威に面と向かって礼賛された思春期のわたしは、正直言ってアタマをかかえてしまいました。ほかの登校拒否児の事情は知りませんが、おそらく学校に行かなくなった理由は千差万別でしょう。なかには、「イデオロギー的な正義を体現して」そのような人生を選択したキャラがいても不思議はないのかもしれませんけど、わたしに限って言えば、どう考えても「学校が悪いんじゃなくて、あたし個人の問題(内因性)」としか思えないのです(長じて以降、メンタル系に詳しい人物にわたしの経歴を話したところ「え、あなたの場合はADHDだから不登校になったんじゃないの? それ以外の理由はありえないと思ってた」と指摘されたことがありましたっけ。その分析の正誤はわかりませんが、「正義の具現として、登校拒否児に!」なんてトンデモ系にしか思えないロジックよりも、ADなんとやらのほうが、はるかに説得力があるような。少なくともその場合は、わたしの「内因性なんじゃん?」という実感と符合しますしね)。
さらにわたしの場合、生まれついてのヘンタイ(性的少数者)という属性も、正義の民との接触の機会を、いやがうえにも激増してくれやがりました。十代も終盤のころには新宿二丁目などの性的少数者のコミュニティに出入りするようになったのですけど、当時はレズコミュニティといえばフェミニズムがもれなくセットで付いてくる、といった時代だったもので、それこそ無数の「正義の味方」とソデ摺りあうハメに陥ったのです。やがて90年代初期の、セクシュアルマイノリティ当事者がマスメディアに台頭する時代になっても、わが「同族」の主張する言説は、やはり「正義」に基づいたプロパガンダが大半でした。本当に、ごくごく一部の例外——このたび、ポット出版から新著を刊行された作家など——を除いて。
宗教、反体制的なイデオロギー、そして性的少数者のコミュニティ。わたしがかつて身を置いてきた共同体は、クローンされた薄気味の悪い生き物ではないかと本気で疑いたくなるほど、似通いまくっていたものです。自分の信じる「正義」が絶対だと信じて疑わない体質をしている、という意味で。
人生のいたるところで出会ってきた、「正義の味方」たち。そのたびにわたしは筆舌につくしがたい違和感を覚えて、彼らのプロパガンダを蹴散らし、あるいは全速力で逃亡しては、こんにちに至るのでした。
まず、自分以外の家族全員がハマってしまった宗教については
「ハア? 『自分たちの祈りが世界を平和に保ってる♪』? ——あの〜、世界にはそれこそ命を懸けて反戦活動に邁進されるかたがたもいらっしゃるっていうのに、自分の好きな時間に好きなだけやる『祈り』でこの世を平和に保ってるだなんて……どこまで増長しまくりの選民意識に凝り固まったオナニー信者どもよ、アンタらってば!!」
そんな具合に矛盾を覚え、距離を置くことに成功しました。
一方、中学生時分に浴びせられ倒した反体制的プロパガンダには
「先生は『子供の自主性を重んじる』ことをモットーにしたお医者さまでしょ? あたしは本気で考えたすえに『自分の登校拒否はあくまでも内因性のもので、学校、ひいては社会の側に問題があるとは思えない』と実感してるんです!」
といったフレーズを盾に、なんとか逃げ切りました。
この精神科医とのやり取りは、もうひとつの大きな疑問、後年振り返ってみると「一生モノの財産」としか言いようのない概念をも、わたしにもたらしてくれました。それは
《登校拒否児だろうと年端もいかない中学生だろうと、この社会を構成する一分子だって事実に変わりはないじゃん。なのに、「みんな現在の社会システムが悪い!」で片付けちゃっていいわけ? ひとつひとつの分子には、なんの責任もナシなの?》
という思いです。この疑問は「学校に行けないカワイソウなお子ちゃまのしたことだから」という理由で、被害者側に一生の傷を残しかねない犯罪の常習者を野放しにしたりしていた、精神科医をはじめとする「立派な大人」への不信感から生まれた気がします。
その後もサヨクなかたたちと血みどろバトルを繰り広げたりといろいろあったものの、幼児期や思春期に出会ったひとびとの攻略は、さほどの難易度ではなかったのかもしれません。なぜなら、人間は一生思春期の多感な少女のままでいるわけではありませんし、ある程度の年代に達すれば、生まれ育った家庭から自力で離脱することも可能なのですから。
問題は、「ヘンタイ」という要素です。「元登校拒否児」というアイデンティティはありえても、「ヘンタイ」は一生つきまといます。とりわけわたしの場合、かつては「べつに男が苦手ってわけじゃないし、いままで異性相手に恋愛したことがないだけで、あたしってばきっとバイセクシュアル♪」などと漠然と思っていたのが、二十歳ちょい過ぎくらいに骨のズイから信頼できる男性との結婚話が進んだ結果、さあ式の日取りを決めなきゃね、という段階に至ってはじめて
「あたし……やっぱ無理みたい。どんなに人間的に信頼できても、人生のパートナーと股間を濡らす相手は、女のヒトじゃないと……関係者のみなさま、ごめんなさい!!」
と、ヘンタイとしてのアイデンティティを、このうえなく堅固に確立してしまったのですから。
わたしが二十歳そこそこのころ、軽い気持ちで在籍したゲイとレズビアンのサークルやその周辺でも、「強制異性愛社会撲滅!」「アンチ・ヘテロセクシズム!!」みたいな「正義」のプロパガンダがさかんに飛びかっていました。
ここでもまた、「正義の味方」が自分の理想を突きつけてくる——幼いころのパターンの繰り返しです。
子供のころのわたしを苛烈にバインドした、宗教という名の「正義」。思春期のわたしに不信感を抱かせた、反体制的イデオロギーという「正義」。さらに、一生ついてまわるだろうセクシュアリティの関連コミュニティで出会った、この世界の大半を占める異性愛者(をスタンダードとする振る舞い)へのアンチテーゼとしての「正義」。それらの「正しい、とされること」にことごとく反発を覚えずにいられない自分は、どこか根本的に間違っているのではないか? 問題は、相手の主張ではなく、病的なまでにアマノジャクなわたし自身の側にあるのでは……?
プチサイズの脳をフル稼働させて、当時のわたしは考えに考え抜きました。そうした末に、ようやく違和感の正体の片鱗らしきものに、指先が届くのを感じたのです。
「正義」の主張の一部には、うなずける部分もなくはない(唯一、宗教に関しては、一片の正当性をも感じられませんでしたが)。けれど、この生身の「カラダ」が、どうしてもそれを受け入れられないのだ——これが自問自答した結果に得た回答でした。
似たような現象を、そう遠くない時期に経験していることにも気づきました。なんのことはない、異性と性的関係を結んでいたころのわたしの生理的反応(人間的にはそれなりに信頼できるんだけど、実際にハダを合わせてみると、やっぱ無理みたい)は、「正義」に対して抱くそれの、みごとなアナロジーになっているではないですか。
「そっか。これって理屈がどうのこうの、じゃなくて、ほとんど生理的な問題なんじゃない?」この考えに行き着いたときにはじめてわたしは、長年覚えてきた「正義」への反感を、わかりやすい言葉で表現する方法に気づいたのです。
《ごたいそうな主張も、けっきょくのところは、それを唱える個人の「好き嫌いの問題」にすぎないんだ……》
つまり、社会、あるいは世界全体に向かって声高に唱えられる正義も、しょせんは当人に都合のよいロジック、個人的な事情を投影した主張にすぎないのではないか?と。
しかし、この「個人的な好き嫌いの問題」というフレーズは、なんともスワリが悪いといいますか、急所を貫く槍の鋭さに欠けています。なにかもっとましな言い回しは、見つからないものでしょうか。
あたしのアタマじゃ、いくら考えても、理想的な表現なんてヒネリ出せないのかも……そんな具合に、ほとんど諦めの境地を漂っていたわたしの前に突如として差し出されたのが、伏見憲明著の『欲望問題』なのでした。
*
自分語りが長くなりすぎて、まことに失礼いたしました。とにかく、わたしが本書について言えることは
《あたしの長年のワダカマリを、よくもまあみごとに、簡潔かつ適切な表現に換言してくれたもんだわ……!》
これにつきます。それこそアナタ、いちばん敏感な箇所を、絶妙なテクで刺激されちゃったんですアタシ、とでも言いますか。
熱せられたバターの勢いで、心もカラダも長年の疑問も、心地よく溶解していくのを感じます。汗だか血だか涙だかヨダレだか鼻水だか、あるいはもっと不穏なワケのわからぬ汁で全身全霊をずぶ濡れにしたわたしは、『欲望問題』を前に、ただただ感服するばかりなのでした。
【プロフィール】
川西由樹子(かわにし・ゆきこ)●1967年、東京生まれ。最終学歴は小学校低学年中退という、類例をみない低学歴ライター。これまでに手がけた仕事は、スタンダードなライター業務のほかに、RPGゲームソフトのシナリオ、FM放送やネットの音声番組の構成台本、エロ小説や漫画の原作など、ムダに守備範囲が広い。エンタメ系小説書き志望で、かつて一度だけミステリー系文学賞の最終候補に残ったことがあるものの、その後の経過は笑うしかない、という。めげずに今後も、とりあえず応募の努力だけは続けるつもりらしい。
ブログ:『虹色坩堝(にじいろ・るつぼ)』
http://yukiko-k.jugem.jp/
【著書】
『Q式サバイバー』/七つ森書館/1999.10/¥1,575
【共著】
『女の子と女の子のためのエロチックブックCarmilla(カーミラ)』全10巻/ポット出版/2002.7〜2005.12/各¥1,890
『H大作戦! キスから羞恥プレイまで』/徳間文庫/2001.9/¥599
『カサブランカ帝国—百合小説の魅惑』/イースト・プレス/2000.7/¥1,365
『Hの革命』/太田出版/1998.2/¥1,365
犬のアレルギー その1
さすがに・・・
田辺貴久[ライター]●強く生きる自分を応援する優しい本
いつだったか、運動会の徒競走で、順位を付けるのをやめて、みんなで手を繋ぎ合って一斉にゴールする映像を見たことがありました。かけっこが苦手な児童への配慮ということなのですが、なんだかその光景が妙に気持ち悪く映ったことをよく覚えています。徒競走って、競争なんだから、順位つけなくちゃどうしようもないんじゃ…と。でも、足の遅い子への配慮という「優しさ」のようなものを盾にされると、違和感を覚える自分がまるで心ない人のようにも思えてしまい、いったいどう考えるべきなのか、はっきりと答えが出せずにいました。いま思えば、そういう違和感も、本書で語られる「差別問題」や「ジェンダーフリー議論」が内包している「弱者至上主義」というものと根を同じくするものでした。
世にあふれる様々な問題を「欲望問題」として読み解き直したとき、どういう世界が待っているのか、きっといい方向にいくと信じたいけれど、もしそうでなかったらどうなるのだろう。この社会の「胆力」の真価が問われますね。「痛み」をかざせば顔パス状態だった世の中を、「痛み」も「楽しみ」と等価として天秤にかけるように組み替えるとき、社会のみならず僕たちが考えなければならないことは、「痛み」を訴えること、それから「痛み」を受け止めることに対して、もっと真剣になるということだと思います。
いままでは、おもちゃ売り場でだだをこねるように「痛い痛い」と繰り返せば、聞いてくれる人がいたけれど、ただ「痛い」と言うだけでは、誰も聞いてくれなくなるわけで、多くの共感を得て、認められる「痛み」とするには、それだけの説得力が必要だし、そもそも自分の多くの共感を得るべき「痛み」かどうか、まずは自分の中で真剣に考えなければなりません。
「痛み」を訴えられた方としても、やすやすとそれを受け入れていいものなのか慎重に考えなければなりません。本当にその「痛み」は聞くべきものなのか、それを受け入れることで自分たちが不当に損することはないのか。それを考えた上で耳を傾けるというセンスが必要です。さらには、たとえそれが耳を傾けるに値する悲痛な「痛み」であっても、それを却下せざるを得ない場合もあることを自覚しなければなりません。その判断によって「痛み」の主にはそれを飲み込んでもらわなければならない。そういう判断を、自分たちに委ねられているということを忘れてはならないのです。
筆者は「線引きすることの暴力」という言葉を使っていますが、それを自覚した上で、「欲望問題」というものさしを取り入れ、より正当に多様性が認められる社会を目指そうとするのか、それともいまのまま、どんな「痛み」にも「優しい」自分でありつづけるのか、本書は僕らにどちらを求めるのかを問うているのだと思います。
さあ、どうしよう。僕は、だれかに「痛み」を強いることになったとしても「欲望問題」に賛成したいです。真剣に向き合って考え抜いて出した答えなら、「痛み」を強いることになっても、自信をもってその判断を下せるはず。それならきっと納得できるはずです。社会の中で生きる以上、そうでなくてはならないと思います。
自分の周りを見渡してみると、自分を煩わせているいろいろな問題が、実はいろんな「痛み」を内包したものだと気付きます。その中で、知らず知らずのうちに、より「痛い」ほうに視点を合わせて、そこに優しくすることで、自分にはね返ってくるだろう別の「痛み」から逃げていたように思います。もちろん、常に利己的である必要はないし、自分が損をしたって「痛み」を受け入れることだって大切です。それを受け入れないことがかえって自分の「痛み」になることもあるわけですから。
でも、どんな「痛み」や「欲望」が自分に向かってきても、絶対に譲るわけにはいかない「痛み」や「欲望」については、常に意識していたい。僕はそのことに少し鈍感でした。そういうものをきちんと意識しておくことが、自分にとっても他人にとっても真剣に「痛み」それから「欲望」と向き合うことになると思うし、それはつまり真剣に「生きる」ことだとも思います。そう考えると、本書からは生きるための「勁さ」も貰ったのかも知れない、なんて思います。
たなべたかひさ●
1982年、千葉県生まれ。専門出版社勤務。『Queer Japan Returns』(ポット出版発行)では、0号から参加し、原稿を書いている。