月別アーカイブ: 2007年2月

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第二話

初発の動機を生かし、自身を問い直す勇気
──『欲望問題』の普遍性

沢辺●今度伏見さんが書いたものは、ゲイ解放運動を先頭切ってやってきた伏見さんの大元にあった「ゲイとして、より生きやすい状況を作ろう」とか「人としていやな気分を減らそう」という根幹をがっちりと守りながら、その実現的な道筋について真摯に考えた結果、方法論をより深めたということですよね。その変容の過程を真摯にオープンにした、ここがけっこう大切なことだと思うんですよ。

全共闘運動の話でいうと、当時ベトナム戦争に反対するということは、やはり根拠があったと思う。強大なアメリカにあんなちっこい国が攻め込まれて、人々がふざけるなアメリカ、という気持ちをもったのは当たり前だと思う。70年安保闘争には、そういう感覚もあったわけです。広く人間に対する共感とかね。橋爪大三郎さんなどはそこは大切にしたまま、そういうことがおきないために、あるいは人間がよりよく生きるためにどうしたらいいか、ということの方法論として、その背景にあったマルクス主義の方法論を疑った。その初心が守られている変化というのは大切だと思うのね。

野口●自分の初発の動機をより生かすということですね。伏見さんも差別的状況の解決という初発のモチーフをよりよく生かしていく道を正当に探求されたわけですね。

沢辺●そう。そこに思想的な真摯さがある。自分がこう言ってきたからということよりも、初発の動機を優先させた、というのが真摯さのいちばんの根本で、そういう意味で今回の本がすごいと思うわけです。

野口●社会条件は時代とともに変化していくんですが、そういう中で伏見さんは、現実のありようを自分の内在感覚に繰り込んできたんだと思う。一般的に差別問題では、差別的状況を理論のかたちで抽象化していくことで、この社会全体の基盤となっているある構造に根本的な欠陥があるために差別が生じている、という論理を作っていくんですね。差別が厳しいとき理論的抽象化が行われると、とりわけその傾向は強くなる。ゲイ差別も同様で、性別二元制を解体しなければならないという理論を作り上げ、反社会的論理を作らざるをえなかった。しかし社会が変化して、だんだん差別が緩んできて、現実にカミングアウトしている人が少しずつ増えてくるようになり、日常的に蔑視されることも少しずつ減っているということが私だけではなく、多くのゲイに実感されてくる。そのときに伏見さんは、現実の変化をもう一回繰り込みながら、よりよく生きやすくなるためには最初の理論ではうまくいかないんじゃないかと考えるようになった。我々を完全に抑圧する対象でしかなかった社会が、どうもそうではない。我々の自己実現をはかるというツールが社会の中で用意されている。だったら自分が作ってきた道をもう一回捉え返して変えていくしかない、という内省のプロセスをたどられたのだと思う。それが沢辺さんがいま言ったように、最初のモチーフをちゃんと生かした方法だったのだと思う。

沢辺さんはこの議論に自分の左翼運動の経験を重ね合わせて共振して、興奮され、感動されたわけですが、そのわけは、自分の生の可能性の総体を規定した世界像を、たとえ痛みを伴っても一から作り直さなければならないときが人にはあるということを、そうすることで始めて新しい生の可能性が拓かれる、という人の経験の普遍性を感じ取るからだと思う。彼が困難をどのようにして乗り越えようとしたのかについての経験が、自らを捉え返すことで困難を乗り越えようとするときに持たざるをえない葛藤や苦しみ寂しさという感情を、またそれを乗り越えようとする勇気をそこに見出すからだと思います。もちろん普通に生きている人は、私なども伏見さんのようにゲイというカテゴリーの「代表」という重荷を背負うことはないわけですが、誰もが自分は間違えていたな、おかしかったなと考え直し、苦しくとも自らを作り直すということを、小さな生活の現場で行って生きているわけです。自分自身をもう一回問い直して、変えなければならないということを大なり小なりみんなやっている。伏見さんは非常に大きな振幅の中でそれをやっているわけですが、経験の普遍性という点では同じであり、沢辺さんもそういう部分に普遍性を感じられたんじゃないかと思う。生きていくときに、自分を捉えたひとつの観念がある。しかし、その観念がどうも現実の中でよく生きない、そう感じたときに人はその観念を処理するためにどういう道筋をたどるのか、自分をよりよく生かし、他者とともに生きることを、他者とともに問題を共有していくための地平に達することができるのか、そういう普遍的な問題を見いだしてるんじゃないかと思う。

リアリティをもって現実を見ることは簡単なようでむずかしい
──『欲望問題』に根ざすリアリティ

沢辺●ゲイがよりよく生きるために何をすればいいのかを考えるときに、伏見さんはものすごくリアリティを持って現実を見ている感じがするのね。そのことが、方法論の作り直しを可能にしている。しかし、多くの知識人がリアリティをもって書いているかと考えるととてもそういうふうには思えないわけです。一般人もけっこう同様で、それがないことがかなり問題じゃないかとも思ったりするんですよ。

例えば、ポット出版はどういう会社だろうと社員はいろいろ思うわけですね。そのときにどうもステロタイプなのは、会社の社長はどうやらこういうふうに考えているだろう、という一般通念にはめて理解しようとすること。しかし、ものごとって一様じゃない。一般通念とずれているところもあるし、合っているところもある。その両方をみるということは、なかなかできていない。自分も含めてね(笑)。それってすごく難しいことではないかと思うんです。

それを伏見さんはなんでできるのだろう、あるいは僕ができるようになるためには、どういう訓練をするばいいんだろう、そういうことにすごい興味があるんだけど(笑)。野口さんどうですか。野口さんもけっこうリアリティをもって見るわけでしょ。

野口●僕にはリアリティがけっこうあるんじゃないかな(笑)。

なぜリアリティを失うのかについての典型的な例を考えると、一つの共同性ができた場合、空気みたいなものができて、共同性の外からみたらおかしいと感じられるような特定の物の見方が成立していくときがあるわけですね。ゲイの差別運動の言説にもそういうことがあるかもしれないし、ゲイだけでなくさまざまな反差別運動の言説やある種の社会運動や宗教集団なんかにもそういう傾向が出て来るときがある。共同性のなかで常識となった物の見方が空気のように存在しているために、その共同性に入るとなんとなくそれが正しいと思わなければならないことになる。この問題は実は相当大きな問題を含んでいて、原理的に言えば、もし強固な一つの見方が出来上がってしまうと、その枠組みでものを見てしまうために、どんな現象を見てもそのように見えるようになるんですね。

例えば、この世に神の意志があまねく行き渡っているという信仰を強く持った人がいるとすれば、雷が落ちても神の試練だし、幸せなことがあると神の恩恵だし、石ころにぶつかっても神の心を感じるわけです。信仰ということを拡張すると何らかの理論の体系となるわけですが、例えば、この社会が家父長制社会であるという理論を強固に信じた場合、売春は男性支配の現れだし、専業主婦は家父長制の犠牲者であるというように、男女間のあらゆる関係性は家父長制支配の現われに見えてくる。その理論の体系を強固に信じれば信じるほどその世界像は、本人にとっては絶対的なものになり、そのフィルターを通してしか社会を見れなくなっていく。

しかも、その理論を信じている共同性ができて、その理論を共有しているメンバーとともに生きることのうちに、自分の生の根拠を見出すようになると、その強固な世界像がますます本人にとっては絶対的で疑いようのないものになってくる。そうすると所属する共同性の外の人から見れば、明らかにおかしい、リアリティのない信念を全く正しいこととして主張するようになってしまうんですね。実存的不安が非常に強く、その理論が生の根拠になっている人ほどその世界像を問い直すことが難しいわけです。

もちろんその世界像が絶対的なものとして存在していない場合もある。世界像がそれほど強固なものではない場合、それは絶対的理念というかたちで存在するのではなく、一般通念のようなものとして存在していることになる。何となくそのことを信じているという状態ですね。

実は絶対的世界像にしろ、一般通念にしろ、そうした自明な世界像を疑う契機となるのは、原理的には「他者」との「対話」と自身の「捉え返し」なんですね。自分の信念を相対化してくれる「他者」との「対話」によって初めて自分たちの考えが間違っているかもしれないという疑問が初めて生じてくることになる。そのためにも自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないようにしておくことが大切なんです。自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないということは、自分の不安を打ち消すための、所属する集団以外には通用しない大きな物語を必要としないということを意味しますから、普通の生活感覚の中での対話的やり取りによって、問い直される可能性があると思います。何らかの共同性に強く拘束されているわけではなく、実体的根拠のない一般通念を何となく信じている場合も対話的関係によって変わっていく可能性が高いといえます。その相手は具体的な人の場合もあるし、本とかメディアの場合もあるでしょう。  

沢辺●僕は橋爪さんの論を適当に密輸入しているだけなんだけど(笑)、十年以上前に話していたときのことですが、彼が<革命なんてないほうがいいんです。つまりいままでの枠組みを変えるということは大変なコストがかかる。革命よりも緩く変更させていければ全然コストはかからない>というようなことを言っていたんです。それまで自分はアプリオリに革命は正しくて、それにロマンを感じていたんだけど、リアルに考えると確かにそうだなとハッとした。その革命と社会通念を単純に重ねているだけなんですけど、人間って通念が揺らぐと不安になりますよね。

野口●それが自分を支えていればいるほど不安になる。

沢辺●この『欲望問題』のなかでも伏見さんが橋爪さんの話を引いているわけですが、要は差別をなくすために結婚とか家族とかをぶちこわすことは非常にコストがかかる。あらかじめ男、女と外見上わかっていればお約束でそこまでは確認終了でコストはかからない。でもそういう根本から社会を作り直さなければならないとしたら、みんなそのコストを払うだろうか? そんなことを言っているわけです。そういうことを含めて言うと、通念というのは両面性があって、通念が人をしばっていて飛躍できない面と、心安らかに日々を生きられるという二面性がある。

野口●この場合の通念というのは二種類あって、自分の生を規定している動かしがたいルールといえるものと、交換可能なルールとがある。いまおっしゃられたのは後者のルールですが、例えば性別は多くの人にとって、自分自身を規定しているルールといえます。通常、自分が「男」であるとか「女」であるというのは、本人にとっては疑いようのないものですね。もちろん世の中には自分の性別がよくわからないという人もいるわけですが、多くの人にとっては内省しても疑いないようなかたちで存在している。ゲイという自己意識も同じですね。疑っても疑いようのないものとして取り出される。多くのゲイにとって自分がゲイだという確信は向こうからやってくるわけです。異性愛だと思っていたけれど、よくよく考えると自分は違うなと気づく人もいるけれど、多くのゲイや異性愛者では、同性愛や異性愛というルールやコードは自分にとって疑いようのないもの、問い直して疑ってみても確信として向こうからやってくるものなんですね。その場合自分を規定しているゲイであるとか、女性であるとか、男性であるということ「自体」が、他者を直接侵害していたり、自身の生の可能性に抑圧的だと思えない限り、そのことを変えようという契機は生じないんですね。

広瀬桂子[編集者]●かくも長き時間、かくも劇的な変化。

<もし私が二十代の頃、モテていなかったら、セクシュアリティの問題に関心を持つようにはならなかったかもしれません>。第2章『ジェンダーフリーの不可解』の冒頭をパクらせていただけば、こうなります。

なぜモテていたのかといえば、話は簡単、私は<背が低くて、色が白くて、顔が丸い>という、(ひと昔前には)男ウケする外観をしていたのです。もっとも本人は、怪しいミニコミ誌づくりにかまけ、恋愛にまったく興味がなく、特定の彼氏も持たず、もちろん処女のまま、大学生活を終了。24歳になったばかりで<いちばん強引に結婚を迫ってきた>6歳年上の男と結婚します。「仕事はずっと続ける」と宣言していたにもかかわらず、結婚相手が求めていたのは「完璧な主婦」。破局はあっという間にやってきました。

もし私がモテていず、必死にモテる努力をし、真摯に相手を探していれば、何もこんなにズレた相手と結婚することはなかったのではないか。あまりにもイージーな環境が、冷静な判断を鈍らせる原因だったのか?

バツイチなどという言葉もない、80年代末期、それなりに厳しい世間の目の中、27歳にしてゼロ地点に放り出された私は、めちゃくちゃに悩み始めました。時は、バブルのまっただ中、均等法以降、社会に出た年下の女性たちは、「仕事か結婚か」などという選択とは無縁のように華やかです。私はどこで間違ったのか……。

そんなとき出会ったのが、伏見さんの「プライベート・ゲイ・ライフ」。ここに描かれた図式は、私のすべての疑問をぬぐい去ってくれました。失敗した結婚の相手は<ランボー>で、<三つ指女>を求めていたにもかかわらず、私は<オスカル>だったので、これは無理です。でも外見が<三つ指>だったので、彼は間違えた。こんなはずじゃなかった! と思って荒れたのも無理はない。目からウロコが落ちました。「私が悪いのではない、悪いのは組み合わせだ!」という免罪符は、実に心強いものでした。

その後、幸運にも伏見さんと邂逅し、『スーパーラヴ!』を編集した私は、その出版パーティで現在の結婚相手(伏見さんの大学の同級生)と出会います。会って数時間で、完全に意気投合してしまったのですが、それは<男制に疲れていた(けっこうオンナな)彼>と<女制に疲れていた(けっこうオトコな)私>の組み合わせで、今思えば実にわかりやすい。この絶妙な関係性は、結婚9年になる今もまったく崩れていません。そのせいなのかなんなのか、非常に快適な結婚生活。

でもこの関係、『プライベート・ゲイ・ライフ』の図式には、もはや当てはまらないのです。見た目でいうと<ランボー×三つ指>、男制女制でいうと<お公家さん×オスカル>(本書の中では、「どうわかちあったらいいのかわからない二人??」となっています)。そして、このような、よくわからない、説明のつかないカップルが、20代から50代まで、さまざまに複雑にからみあっているのが現代です。こういう人々がメジャーとまではいいませんが、少なくとも、違和感はないし、世間的に認知もされている。

『欲望問題』を読んで思ったのは、「かくも長き時間が経ち、こんなにも世の中は変わった」ということです。20年前に思いもかけなかったようなことが、今は当たり前になっている。どの時代にも、そういうことはあったのでしょうが、ことセクシュアリティ、ジェンダーの問題に関しては劇的な変化です。そして、どんどん変化し続けている。

私なりに、20代から40代を生きてきて、今もっとも関心があるのは、「生殖」についてです。『ジェンダーフリーの不可解』には出てこないですが、これこそが、セクシュアリティーやジェンダーの束縛から自由になった、今の30代から40代の女性たちが直面している問題なのではないかと思います。言い換えれば、それは新たな<欲望>の表出です。

既に約束された自由の中で、自分らしい生き方を見つけなければならない困難、それに掛け合わされてくる<生殖>に対する欲望、もしくは迷い。事態はどんどん複雑かつ細分化していきます。いったい私たちはどこに行こうとしているのだろう(行ってしまうのだろう)ということを、考えざるを得ない今日この頃です。

【プロフィール】
ひろせけいこ●
1962年、東京生まれ。マガジンハウス編集者。

そうなんです!

そうなんです!
なにがそうかと言うと、ポットのお出迎え犬・鉄のコーナーをつくったんです。
しかし……、見れくれそうな人は、社内の人間をはずせば
青弓社の矢野さん
鉄の一時預かりをしてくれていた富士重機の江浪さん
鉄のことをソックスちゃんと呼んでくれている伏見憲明さんのお母様
以上、3名くらい。
……少ない。
しかも伏見家にはフクちゃんという猫がやってきたので、
お母様の愛情はすべてフクちゃんにいってしまった可能性がある。
すると、2名か……。
弟を勧誘(?)しておこう。

永江朗[ライター]●簡単に語ることをためらわせる本である

 この本のプルーフを読み終えたあと、「まいったなあ。レビューを引き受けるんじゃなかったなあ」と一瞬だけ思った。内容がつまらなかったからではない。伏見憲明が投げかける問題があまりに重く大きくて、軽い気持ちで語ることをためらわせるからだ。とりわけストレート(異性愛者)である評者にとっては。

 伏見がこの本で扱っている問題は大きく3つにまとめられる。欲望、ジェンダー、アイデンティティである。どれも簡単に答えが出る問いではない。

 第1ページめからガツンとやられ、ノックアウトされてしまった。伏見に寄せられた少年愛者の悩みからこの本は始まる。相談者は男性同性愛者であり、なおかつ「大人になる前の少年が好きなのです」と打ち明ける。

 同性を愛することはかまわない。少年が好きなのも、まあいいだろう。だが、現実に少年と性行為をすることは許されない。たとえ相手と合意の上であっても、現実には難しい。同性愛者だからではない。相手が少年だからだ。

 異性愛で考えればよく分る。いくら少女が好きだからといって、少女と性行為をすることは許されない。それどころか、最近は児童ポルノ法によって、少年少女を性的対象として扱っている写真集やビデオ、DVDのたぐいは、所持しているだけで罰せられることになった。少女を好む異性愛者の男性は「ロリコン」と呼ばれて世間から排除される。児童ポルノ法の適用対象を漫画やアニメにまで広げようという動きもある。犯罪は個人や組織などの財産や生活権益が侵害されたり危険にさらされたときにのみ成立すべきものだと考えているので私は反対だが、しかし禁止領域の拡大が世論の一定の支持を得ているのは事実だ。いまや欲望すら禁じられる時代になったのである。

 だが、欲望において正常と異常の境界線を明確に引くことは可能だろうか。近代の同性愛の歴史は、この境界線をめぐる闘いの歴史だった。境界線をずらしたり曖昧にしたり、あるいは境界線そのものをなくすことで、同性愛者は存在領域を獲得してきた。同性愛に限らず、あらゆる差別との闘いは境界線をめぐる闘いだった。境界線は幻想にすぎない、常識や正常/異常なんてものはマジョリティの偏見のたまものにすぎない、という考え方は、いまや現代人の「常識」といってもいいだろう。

 一方で、近年の欧米で、幼児性愛など犯罪を起こした異常性愛者に「治療」をほどこすようになっている事実を伏見は紹介する。異常性愛は「病気」であり、「治療」の対象としてカテゴライズされているのだ。同性愛もかつては病気とされ、治療の対象と考えられた時代があった。同性愛の歴史は脱「病気」化の歴史でもあった。

 それでは、少年愛者と幼児性愛者の間に明確な線を引くことは可能だろうか。あるいは、少年愛者と(非少年愛の)同性愛者との間に線は引けるのだろうか。

 性的嗜好の切実度を客観的に測ることは難しい。私はこれまでポルノ誌などでの仕事を通じて、SM愛好者をはじめ「異常」な性的嗜好の持ち主の何人かに会ってきた。彼らのなかには、たんなる嗜好のレベルではなく「そうしないではいられないのだ」と切実な心情を打ち明ける人も少なくない。のちに逮捕されることになったロリコン男性にも会ったことがある(逮捕を伝えるニュース映像のなかで、顔を隠すことなく罪を認めている姿が印象的だった)。異性愛と同性愛の間に線を引けないのなら、同性愛と彼らの性的指向(嗜好)の間にも線は引けない。

 実際問題としては結局のところ、個人のふるまいは他者の権利を侵犯しない限りにおいて自由である、という原則に忠実であるしかない。少年との性行為は許されない。ならば他者の権利を侵犯せずにはいられない「異常者」は、どうすれば幸福に生きられるのか。「治療」か、それとも隔離か。「許されない」と言ったところで、問題が根本的に解決されるわけではない。

 第二章「ジェンダーフリーの不可解」も難しい問題だ。性差別をなくすことと、社会的性差をなくすことの間に境界線を引くことは可能なのかどうか。さらに、社会的性差が完全に消失した社会は楽しい社会なのかどうか。少なくとも、現在の私たちのエロス的快楽は、かなりの部分が社会的性差に由来するものなのだから、社会的性差からの解放はいまある快楽の放棄を意味するだろう。もちろん快楽を放棄した社会が平板でつまらないものとは限らないし、社会的性差なんてなければないで、新たな快楽を見つけだせばいいのだからという態度もありだけれども、欲望は(たとえそれが常に他人の欲望であったとしても)そう簡単には変えられない。

 伏見憲明の『欲望問題』を読み終えて、私は途方に暮れるしかない。唯一確かなのは、欲望もジェンダーもアイデンティティも、同性愛者(だけ)の問題ではなく、異性愛者も含めて私たちすべてにあてはまる問題であるということだ。しかも、「私たち全員の問題だ」などと言って分ったような気になるのが最も悪質な態度である類いの問題なのである。どうする? オレ。
 

【プロフィール】
ながえあきら●
1958年、北海道生まれ。ライター。風俗業界から出版業界まで、取材するテーマは幅広い。とくに元洋書店員というキャリアから、「出版」にまつわる著作が多い。

【著作】
ブックショップはワンダーランド/六耀社/2006.6/¥1,600
あたらしい教科書2・本(監修)/プチグラパブリッシング/2006.3/¥1,500
話を聞く技術!/新潮社/2005.10/¥1,300
メディア異人列伝/晶文社/2005.3/¥2,200
恥ずかしい読書/ポプラ社/2004.12/¥1,300
作家になるには/ぺりかん社/2004.12/¥1,170
いまどきの新書/原書房/2004.12/¥1,200
狭くて小さいたのしい家(アトリエ・ワンとの共著)/原書房/2004.9/¥1,800
批評の事情/ちくま文庫/2004.9/¥820
〈不良〉のための文章術/日本放送出版協会/2004.6/¥1,160
平らな時代/原書房/2003.10/¥1,900
ぢょしえっち(岡山らくだとの共著)/ワイレア出版/2003.7/¥1,300
ベストセラーだけが本である/筑摩書房/2003.3/¥1,600
インタビュー術!/講談社現代新書/2002.10/¥740
批評の事情/原書房/2001.9/¥1,600
アダルト系/ちくま文庫/2001.9/¥740
消える本、残る本/編書房/2001.2/¥1,600
出版クラッシュ!?(安藤哲也、小田光雄との共著)/編書房/2000.8/¥1,500
不良のための読書術/ちくま書房/2000.5/¥620
ブンガクだJ!/イーハトーヴ/1999.12/¥1,500
「出版」に未来はあるのか?(井家上隆幸、安原顕との共著)/編書房/1999.6/¥1,500
アダルト系/アスキー/1998.4/¥1,500
不良のための読書術/筑摩書房/1997.5/¥1,600
菊地君の本屋 ヴィレッジバンガード物語/アルメディア/1994.1/¥2,200

賑やかな日々

先週末は伏見さんの「昭和のゲイバァ」のお手伝いを。最後のほうはほとんど飲みっぱなしでしたがね…。伏見さんより「おしげ」という源氏名をちょうだいし、お酒を作る(と言っても焼酎割りのみでしたが)役回り。久々に元・飲食店勤務の経験が活かせた日でした。

話変わって、ポット出版『新世紀書店」にてさまざまご協力いただいた北尾トロさん、西荻窪の古書店、ハートランドの斉木さんが中心となった「藤野・本の町」というプロジェクトが動き始めています。「藤野・本の町」ブログの一番最初のエントリーにて斉木さんの『新世紀書店」のご紹介の中で「始まりはこの本から」とのお言葉、本当にありがとうございます(『新世紀書店」が出た時には私はまだポットに入社していませんでしたが)。

『欲望問題プロジェクト」『藤野・本の町」とポット界隈が騒がしい毎日です。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第一話

『プライベート・ゲイ・ライフ』の時代
──伏見憲明の出発点をふりかえる

野口●『欲望問題』では、処女作の『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房、1991)の問い直しを始めとした、これまで伏見さんがつくってきた言説や考え方、また自身の倫理主義的感覚の総ざらいがなされているわけですが、この本を語るにあたってまず、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』を発表した90年代はじめの頃の、カミングアウトしたゲイがほとんどいなかった時代状況を理解しておく必要があると思います。当時、芸能人の中には、おすぎとピーコのような人たちはいましたけど、一般のゲイで社会的にカミングアウトしていた人は皆無に近かった。雑誌『ADON』を主宰していた南定四郎さんなど、カミングアウトしていたのはほんの少数だったと思います。

伏見さんがよく言うのですが、『プライベート・ゲイ・ライフ』を出したときに、担当者から「言葉をしゃべるゲイをはじめてみた」と言われたそうです。それは単にゲイに出会ったことがないということではなく、社会的状況などゲイに関することを論理的に組み立てて話せるゲイと初めて出会ったということを意味していて、当時ゲイは社会において目に見える存在ではなかった。ゲイに関する言説は「変態」か「禁じられた美学」のようなものしかなく、ゲイが置かれている状況がどんなもので、等身大のゲイがどのようなものか全く知られていませんでした。カミングアウトしているゲイも珍しくなくなり、ゲイに関する書籍、評論、学問も数多く見られるようになった現在からは、想像するのが難しいほど15年前ぐらい前は、取り巻く環境が厳しく、同性愛は理解されていませんでした。また同性愛者自身も自らを語る言葉を持たなかったんですね。

そうした状況の下で、普通の感覚の人はカミングアウトなんかとてもできない。普通の人間ならあきらめたり、我慢するようなことをどうしても我慢できない、強い実存的衝動を持った人間だけにカミングアウトが可能だった。しかも伏見さんの場合、ゲイであることを身近の人に「告白」しただけではなく、ゲイ、つまり自分というものをどのように社会的に位置づけたらよいかについて、一から言説を作ろうとした人でもあった。何としても「自分たち」が置かれている状況を改善したいという、ゲイというカテゴリーに課せられた問題を背負おうとした数少ない巨大な情念の持ち主の一人だったんですね。既存のゲイに関する言説に手がかりが全くない中で、自分を理解するための言説を、また他者がゲイのことを理解できる言説を組み立てようとした。

当時、性に関する言説は、フェミニズムによるジェンダーという言葉を使用した知の枠組みが存在し、その枠組みはゲイ差別がなぜ生じるのかを理解できる参照点となるものだった。その意味で伏見さんが自らの言説をフェミニズムの知的遺産から継承したのは必然的だったと考えることができます。『プライベート・ゲイ・ライフ』において、フェミニズムから引き継ぎながらさらに発展させた議論は、異性愛の男女も同性愛の男女も性別二元制に基づく性愛の制度という点において等価な存在であり、同性愛であることにより、同性愛差別を再生産する性別二元制を支えてしまうこと、それゆえ差別の克服のためには同性愛という枠組みから解放される必要があるということですね。この考え方を『欲望問題』では再検討されています。これは形式的に見れば単なる論理的再検討になるわけですが、その内実は単なる作り直しではなく、非常の厳しい状況における実存的な強い動機に基づいて作り上げた、または自身の生の可能性を見出すことになった世界像の「問い直し」を意味しているわけです。

ここでもう一つ押さえておかなければならないことは、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』で展開した議論やその後の様々な活動が、自身の私的な考えの表明ではなく、当時の時代状況下では不可避的にゲイの置かれている差別的状況の改善のための実践というものを引き受けざるをえないものだったということです。つまり当時作り上げた世界像は自分の実存上必要だったというだけではなく、ゲイ差別の問題を提起するフロントランナーとしての役割を担わざるを得ない存在として背負う世界像だったわけです。そういう役割を担うことになる人間は、自分の感情で好き勝手に自由に発言すればよいというわけにはいかなくなる。その発言自体が受け手にとっては個人の意見としてではなく、ゲイを代表するものとして受け取るという側面を持ってしまうわけですから。その結果、ゲイの置かれている状況を改善するという非常に大きな問題を引き受けざるをえなかった。また当時のゲイが置かれていた厳しい時代状況を考えると、その世界像が反社会的・倫理主義的性格を持つのは不可避的なことだったといえる。とはいえ『プライベート・ゲイ・ライフ』を読むと、反社会的・倫理主義的側面が希薄なんですね。これは驚くべきことです。反差別論の創業者の言説は通常、この社会がいかに間違っているのかという強烈な怒りや告発に満ち、マジョリティに対して自分達の立場に立つことを要請するものですから。

ただ薄められていたにせよ存在していた反社会的・倫理主義的性格が『欲望問題』では根本から考え直されています。これは相当大変なことだったと推測します。ゲイ差別というものが全くなくなったわけではない現在、これをフロントランナーとして背負ってきた人間が、反差別論における倫理主義的性格を一から作り直すというのは簡単にできることではないと思います。差別問題というのは取り扱うのが非常に難しくて、マジョリティにとってもマイノリティのとっても扱いづらい性格を持っているんですね。差別というものは社会でゼロになることはありませんから、差別を受けるマイノリティ側からすると、たとえ改善されてきたとしても倫理的主張を引っ込めにくい。日常的に常に差別にさらされることがなくなったということは、いつも辛い思いをしているわけではないということを意味しますが、だからといって差別的な行為にさらされることが全くなくなったわけではない以上、こういう差別がまだまだあるんだと主張して、マジョリティの差別的感情を糾弾せざるをえない側面がある。ところが改善されてきた状況下でこんなに差別があるんだと主張し続けることは、マイノリティにとってもどこかリアリティを欠いた行為になってしまう。差別に晒されるという生活の一部の中での経験を生活の全域を覆っているかのような主張は、自分たちの現実感覚を正確に反映したものではなくなってしまいますから。

差別問題にはこのような両義性があり、自分たちの内的な感覚と現在の状況を適切に表現することが難しいわけです。まして、伏見さんはゲイに関する問題のフロントランナーですから、その発言の影響力を考えると簡単には、差別が改善してきているといいにくい。もう差別問題として考える必要がないという誤解を与えかねない主張はなかなかしにくいんですね。伏見さんは、こうした難しい状況と立場にあったにもかかわらず、自分たちの現実感覚に基づいた、同時にマジョリティに届く可能性を持った論理と言葉を一から作り直そうと試みられたのだと思います。後続の人は、今回の『欲望問題』を、簡単に伏見さんの変化というふうに取るかもしれません。けれど、厳しい現実の状況を引き受けて、悲壮感すら抱えて考えた世界像や考え方を、もう一度最初から構築し直すというのは、ただ単に生活のなかで考え方が変わったというレベルではとらえられない重みがある。そこを理解する必要があると思います。

沢辺●伏見さんは、オピニオンリーダーとしてすでに立っていたにもかかわらず、今回あえて自分の変容を明らかにしたわけですが、言論人はそういうことはなかなかしないですよね。普通の人の生活感覚、社会のリアリティに照らして自分の考えてきたことを問い直すというのは、思想に対して真摯だと思うんですよ。そしてリアルだからこそ自分の変化も引き受けられたし、物事に真摯に向き合ったからこそできたとも言える。すでにオピニオンリーダーとして発言していたことについて、改めてそれを見直すなんてよほどの根性しかない。だからストレスからあんなに太っちゃうのかなと思うんですけどね(笑)。

ぼくね、リアルであるということはすごく大事だと思っているんです。自分の話で申し訳ないんですけど、僕自身は30歳で、左翼をパチッとやめたんですよ。どこでそこまで行き着いたのかを考えると、出発点は、20歳のときのできごとにあるんです。その頃、組合運動をやっていて「労働者階級解放」といった概念を掲げて「資本主義はよくない」というようなことをやっていたわけです(笑)。

そのときにある人が、「沢辺、お前、資本家っていってるけど、それ誰? 名前は?」って聞いてきたんですよ。そのときに何にも答えられなかった。頭の中では「松下幸之助かな」とかよぎったんですけど(笑)、そんなこといままで考えたこともないのに下手にその場限りのことを答えたら、またさらに揚げ足をとられるかなと思ったら、びびって何も答えられなかった。この出来事は、十年後にやっぱり左翼はだめだと思うことにつながるんだけど、その出発点になったんです。やっぱり、そこで足りなかったのはリアルということなの。みんなにオルグしていた主張では、労働者階級が抑圧されているのは資本主義がだめだからなんだ。これは打倒しなければならない。しかし打倒って抽象的にいってるけど、要は財産を剥奪するか牢屋にいれるか、殺すかじゃないですか。

野口●理論に基づいた実践を具体的に貫徹すればそうなってしまうんですね。

沢辺●そうすると、要はそれを誰をやるのかということですよ。そんなこといっこも考えたことないのにオレは、資本家打倒だといってたわけ。それがね、顔が真っ赤になるくらいはずかしくて、資本家っていったい誰だろうと考え始めて、それが自分の左翼性を疑う出発点になったわけです。そういうことを原体験に持っている僕からみると、例えばこの本に出てくるミスコン問題だって、一部のフェミニズムがミスコンを女性差別だと言っても、いったいそう思っている女性はどこにどれだけいるのか。現にミスコンに出ているのは女性たちだし、それって運動のほうからしたら、彼女たちは仲間を裏切って、差別に加担しているということになるわけだよね。そんなことでフェミニズムの論理は通用するのか、ってリアリティを疑うのね。

そういったことをほんとに真摯に考え続けたのが、この労作『欲望問題』だなと思う。ぼくはね、そのきちっと自分を検証する姿勢するに惹かれました。そしてその背景にあるリアリティ、思想に対する真摯さに。それがこの本をポット出版で出したいと思った「欲望」の出発なんですよね。

キャムプという感覚
 ──伏見憲明のわかりにくさ

野口●今回の結論に至った理由は、伏見さんの言説にもともと含まれていた両義性に目を向けるとわかりやすいかもしれない。一般に、社会問題を議論するときには、その利害をどうやって政策決定のなかで調整し実現していくかというプラグマティックな要素、現実主義的な要素を考慮することが必要になるわけなんだけど、いわゆる市民運動では、現実主義的な要素を排し、正しさが純化されて現れてくる傾向が強くなる。反差別運動ではとりわけこの傾向が強い。差別の解決に関して、どういう具体的なステップをとればよいのか、あるいはそれを克服するための現実的条件は何かを考えるより、まずいかに自分たちが理不尽な目にあっているかを情念とともに訴え、マジョリティに自分たちの立場に立つコトを要請することになる。そういう「純化された正義」が当事者の痛みゆえに濃厚に出てくるのが、反差別論の特徴といえる。

ところが伏見さんの思想や行動には、当初から、「純化された正義」に対する違和感が織り込まれていた。反差別論にキャムプといったゲイ的な笑いのノリをパッケージする表現を作っていたのがその典型的な表れで、その始発点から単純な正義の主張ではなく、両義的表現がなされていた。

しかし、「笑い」と「純化された正義」というのは非常に折り合いが悪い(笑)。社会問題を扱うお笑い芸人が、ビートたけしや爆笑問題の太田光などごく少数にとどまっているように、極端に真面目な志向と笑いをうまく融合させていくのは難しい。それを伏見さんは運動のなかで先んじてやろうとした。一方で差別的状況に対して正義の主張を訴え、一方で笑いの芸を見せる。この二つの極を常に往復してやってこられたわけですが、これは端からからみると、非常にわかりにくいんですね。もともと伏見さんの考えや行動がよくわからないという人がゲイの活動家の中でも非常に多いんですが、厳しい時代状況の中ではとりわけ理解されがたい。「正統的」な解放運動のノリで社会正義を実現したいという人からみれば、何をふざけたことをやっているんだ、となる。一方、エロとか笑いのようなゲイ的文脈だけでゲイをとらえたい側からすると、社会正義を背景にしている伏見さんは自分たちとは違うという違和感が拭えないことになる。

しかしながら、笑いの視点を持っていたということは、一種生活感覚を持っているともいえて、それが正義の純化を防ぐ防波堤になったのではないでしょうか。そして、長い活動の中で、生活感覚によって正義の主張を検討し続けることで、最終的に、両者を融合させることが出来たのだと思う。もちろんこれは簡単なことではなかったと思いますが。

沢辺●僕はノンケだからあまりはっきりとはわからないけれど、キャムプという感覚は、ゲイにはもれなくついているという感じがする。部落差別や朝鮮人差別の運動にも笑いの要素はあったんだと思うけど、ゲイと笑いは比較的結びつきやすい何かの条件があるような気がするんだよね。それはどう? ない?

野口●これはまだ僕もうまく整理できてないんだけれども、ゲイというカテゴリーが性という領域に関わっていることと関係があるように思う。ある種の性的「逸脱性」は奇異に見えるところがありますよね。ゲイ・セックスのある種のありようは、ゲイ以外の人たちから奇異に見えるだけでなく、自分たちにとっても「この逸脱性ってどうよ?」っていう笑いの感覚が出てくることがある。これはゲイ・セックスに限らず、性一般に言えることですよね。

沢辺●僕ね、セックスしていてふっと恥ずかしくなることがある。やっている当人同士は、笑いもせずやってるんだけど、「どうだい、感じるのかい?」なんてやってるときに(笑)、そこに第三者を想定して例えばオレが横から見てたら、「おいおい沢辺、何恥ずかしいこと言ってるんだよ」と笑って突っ込んじゃうよなと、しらけてしまうことがあるの。性ってそうやってまぬけなところがあって、やっている本人と客観視して見たときの視線の感覚の間に、可笑しさが生じる。一方で、ヘンな例だけど、子供に「おまえ部落民と結婚するのか、許さん!」なんて言ってるオヤジがいたとしても、それを自分で客観的にふっと振り返ってみても「プッ」と笑う感覚にはなかなかなりづらい。だからゲイとキャムプな笑いとの相性のよさって、性やセックスに関係してくるものだという気がする。

野口●たぶんその通りだと思うんです。そういうことが性というものに普遍的に現れるんですね。それは男女間でも同じで、自分たちの性の様相が、引いて見ると「なんて可笑しいことをやっているんだ」、「ヘンなことやっているんだ」というふうに感じるときがある。フェティッシュな要素なんかだと、それにノレる人には違和感がなくても、その趣味嗜好を共有しない人から見ると、「なにこれは?」となる(笑)。その部分に自覚的なゲイたちは、キャムプな笑いを生み出してきたのではないでしょうか。

鉄コーナー スタートします!

鉄をもらってからもう1年が経った。

初めて見たときは、ヌボーとしておやじくさい奴だと思ったが
日が経つにつれ
「あれっ、意外にかわいい奴かも?」と鉄を見る目に変化が。

エサを前に「待て」と言われれば、よだれをダラダラダラダラたらしながら
「よし」の声をいくらでも待てる。

お菓子を食べている人を見ると、おこぼれに預かれないかと
おめめキラキラ、一番かわいい顔をつくってじーっとその人の顔をみつめる。

5時間以上の留守番をさせると、食べ物を見つけるために
ゴミ箱やテーブルの上のものを部屋一面にひっくりかえして
ビニールまで食ってしまう。(かわいくはない)

その後、散歩に行って、
道路に食べたものを全部吐きまくる。(かわいくはない)

鉄の特長を書くはずだったのに、すべて食べ物関係、
しかもかわいくない。
「鉄コーナー」を続けていれば、
そのうち、かわいいネタを書ける日もくるだろう。

というわけで、今日から「鉄コーナー」スタートします。
鉄の詳しいプロフィールはこちらからどうぞ。
(たかが犬に、詳しいもなにもないもんだ)