月別アーカイブ: 2007年2月
ドジです・・・
野口勝三vs沢辺均ロング対談・第三話
先祖の祟りだというのと同じ!?
━━近年のジェンダー論を批判する
野口●僕もかつて、伏見さんの本を最初に読んだとき、ゲイの反差別運動と理論は性別二元制の解体というものに定位していく必要があるという結論を、なるほどその通りだと思っていました。でもだんだんその議論が本当に正しいのだろうかという疑問を持つようになった。その理論を自分の生に引き付けてとことんまで考えてみると、自分がゲイだということ、男であるということ、それ自体を悪いとはどうしても思えないという違和感が残った。そこで初めて、もしかするとこの議論自体がどこかがおかしいのではないかと思えてきた。それはいったい何なんだろう、というのが僕自身が思想や理論を一から考え直そうとした動機なんです。そこで僕がぶつかった問題は、一言で言えばルール批判の、または社会批判の正当性の根拠は何かという問いだったわけです。
多分伏見さんも同じだったのではないかと思う。理論というものは具体的現実を基点にして、それを抽象化することで作り上げられるわけですが、そこで作った理論は再び具体的現実によって検証する必要がある。理論は具体性と抽象性の間を何度も往復することで初めて普遍的なものとなっていく。そのときに重要なのは、理論にとって都合が悪い具体的事実が出てきた場合、それを正面から受け止める必要があるということです。具体性による検証によって都合の悪い事実をもう一度繰り込むことで、理論を新しい形に編み上げ直さなければならないんですね。
その意味で、特に理論を作るような人々、典型的にはアカデミズムの人々は現実のありように謙虚である必要がある。自分たちの作り上げている理論が現実の人々の中でキチンと生きているか検証しなければならない。自分たちの理論というものが現実世界によって試される一つの考えに過ぎないんだという謙虚な姿勢を持たなければならない。自分たちが特定のイデオロギーを再生産する制度になっていないかを現実世界の中につねに内省していくことが大切です。これは実は、現代社会における「知」の役割は何かという問題を考えることでもあるんです。しかし都合が悪い事実が出てきたときに、例えば「あなたはそう言うけれども、実はそれは背後にある〜に言わされているんだよ」というようなロジックを組み立てると、都合の悪い事実が都合が悪いという形で処理されないんですね。理論に当てはまらない現実の矛盾を無視するということになってしまう。これは実は「他者」に全く向き合っていないということを意味しているんですよ。こうしたロジックは現在のジェンダー論に広く見られると思います。
沢辺●それは失礼なことだよね。お前はだまされてる、バカだっていうことでしょ?
野口●例えば、たとえ好きな人とセックスをしていてもそれは強姦なんだということを平気で言えるようになる。こうした物言いは、あなたはおかしいと思っていないかもしれないが、実は先祖に祟られているんだ、と言うのと論理的には一緒ですね。
沢辺●「僕はあなたが嫌いだ」というのは個人的な好みだからいいけど、「あなたは真実を見てませんよ、だまされてますよ」と言うっていうのはものすごく失礼だと思う。
野口●もちろん、「だまされていますよ」っていうとき、なるほど確かにだまされてるなって思える説得力のあるロジックが組み立てられているのならいい。例えば、何らかの政治課題について、〜のように思っているかもしれないが、実際の政策決定の現場ではこういうことが行われているんだよという確かめられる情報を提示されたときに、ああ、なるほど、先の考えが自分の思い込みだったと気づくこともある。そういうふうに相手を説得することができる論理を組み立てることができるか、また組み立てようとする意志があるかどうかが重要なんですよ。
沢辺●相手がだまされていると思ったときに、きちっと説得できるだけのロジックを獲得している者と、ただ単に信仰として信じていないから間違っている、だまされているという理屈は根本的に違うということですよね。僕はそれはその通りだと思うんだけれども、それともうひとつ違う判断基軸が実はあるような気がしている。それって本人に正面から間違っているって言っているかどうかという問題。多くはそういう場合、本人にはだまされてるって直接言わないんですよ。
例えば、フェミニストの批判する美人コンテストの話で言えば、社会が悪いと遠回しに言っているんだけれども、要はそう思わない女はバカだって言っているわけでしょ。もちろんそういうひどい言葉では言わなくても「あなたはだまされているから気づきなさいよ、なぜならこうこうこうですよ」ということを、真っ正面から言わずに遠回しにしか言わないじゃないですか。僕は、そういうのは思想的に真摯じゃないと思う。人民がだまされているとか、女性がだまされているって本当に思うんだったら、すべての女性はだまされているってちゃんと言った上で、野口さんがいうようにそれはなぜなのかというロジックできちんと説得していく。それがどんなにボロボロになっても袋だたきにあっても私はそう思うんだと最後まで説得しようとする態度があれば、ひとつの有り様として許容できるんです。しかし、そうではなくシンポジウムとか、結果的に自分に共感する女の人たちだけが集まるような場、そういうところでしか言わない。だいたいシンポジウムなんて論者に共感している人しか来ないじゃない? ふだんの現場、たとえば正月に親戚一同が集まり女の人が半分いるような場で、勝負していないっていう気がする。それはやっぱり真摯さに欠ける。
野口●なるほどね。それはさっき言ったあるひとつの信念を強固に信じた共同体っていうのができると、その外に対する感度が悪くなり、それ以外の考え方をキチンと開こうという意識が希薄になってくるという問題と通じますね。そうした態度は「他者」と向き合うという姿勢から最も遠いものですね。 「他者」に向き合うとは、自分の信念はもしかしたら間違っているかもしれない、それはさまざまな信念のうちの一つとして相対化されうるものだという意識を持つこと、異なる意見を言っている人々の議論を適切に受け止めて、批判の核を捕らえるという事を意味しているんです。批判をしている人たちを十把一絡げにするのではなく、批判を分節化して、この人の批判には理がない、この人の批判についてはきちんと自分たちが考えなければいけないという区分けをして、相手の言葉をつかまえるような努力をするということなんですね。「他者」に向き合うことを要請する議論には、実際にはこうした視線を欠いたものが数多く見られます。それは結局鏡像的自己像を確認しているだけなんですね。
沢辺●この『欲望問題』は、僕にとっては自分が左翼をやめたことと非常にオーバーラップしてしまう本です。僕、実は20代の頃は地方自治体の中の労働組合運動を中心に左翼をやっていたんですよ。組合事務所が地下1階にあって、そこで組合の役員たちが活動家として議論するわけですよ。しかしそこで議論していることと、昼間は机を並べて一緒に仕事している人とは全然噛み合ないわけ。例えば、係長試験というのがあったんだけど、それは出世競争をえさにして労働者を競い合わせる悪い制度だ、と地下1階では議論していたし、そういうふうにビラにして巻く。でもその時に同じ机を並べていた僕より10歳くらい年上の人に、「お前にはね、なんだかんだ言っても、組合の青年部長っていう「長」っていうのがついてんじゃねーかよ。出世に背を向けて僕はみんなのために労働活動をやっていましたという理屈が立つだろ。しかし俺たちただの庶民は係長の長でもなければ、ただの父親でしかないよ。俺たち何にもないのに、なんで俺たちから長のチャンスを奪うんだ」って言われたんですよ。地下1階で自分たちだけが信仰している宗教のなかで議論していたときと、上の仕事場に行ったときの乖離(笑)。ノックダウンなんですよ。でもそのときはまだわかってない奴を俺たちが啓蒙して教えてやるんだということで、かろうじてその乖離を納得させてたわけ。
今振り返って考えれば、一般の人が考えたことは必ず正しいということではないが、しかし庶民が考えたことの感覚のなかにもそりゃそうだなというところもいっぱいある。無条件に受け入れるのも間違いだし、無条件にだまされているバカどもだというのも違うなと。僕には労働組合の仲間もいたし、議論の場もあったが、しかしこの『欲望問題』を読むと、伏見さんはたった一人でリアリティをつかまえてきて、それはすごいなと思いますね。
玉野真路[科学技術批評家]●イデオロギーからゲームへ、そして免罪の拒絶へ……
わたしたちは、日々、ゲームをしている。ゲームというのは、いわゆる遊びとしてのゲームとは限らず、日々の生活の中で自分の利得を最大に、損失を最小にするにはどうすればよいかを考えて、戦略的な行動をしているということだ。
たとえば、同性愛者がある場面でカミングアウトをする戦略と、しない戦略のどちらを採用するか。カミングアウトをするという戦略を採用するには、カミングアウトの利得をコストとリスクの和と比較し、それぞれの場面の中で利得が勝ると考えればカミングアウトをするし、コストとリスクの和の方が大きいと判断すればカミングアウト戦略を採用しない。
つぎに、ある一人のゲイを見ると、その人はあるところではカミングアウトしていて、あるところではカミングアウトしていないことがほとんどだろう。その人は、カミングアウトをする戦略と、しない戦略の混合戦略を採用しているということになる。そうすることによって、自分の人生から得られるうま味を最大化しようとする。カミングアウトの利得を多めに勘定する傾向のある人はカミングアウトをする頻度は高く、コストとリスクを高く算定する傾向のある人はカミングアウトの頻度は下がる。
さらに社会の中でのゲイの集団を考えてみよう。学生などカミングアウトの敷居の低い(つまりコストのかからない)層ではカミングアウトが行われる傾向が強くなるだろう。旧態依然たる会社などリスクが大きい社会ではカミングアウトが起こる確率が減るだろう。そうしてカミングアウトが社会全体でどの程度の頻度で起こるかについて、一定の均衡状態を得るだろう。
この均衡は歴史的に変遷する。近年起こったように、社会の中でカミングアウトをする人が増えてくればカミングアウトの敷居は下がり、均衡はよりカミングアウトをする側に傾くだろう。一方で、保守化が進めばカミングアウトの均衡はカミングアウトしない側に傾くことが予想される。
ジェンダーの境界も、カテゴリーやコミュニティを維持するか放棄するかといった選択の戦略もほぼ同様に考えられるだろう。ジェンダーの差異を温存する利得と捨てる利得を天秤にかける。そこでうま味を多くの人が得られると判断するならば、一部のアカデミズムがジェンダーの差異をなくすことが「正しい」と唱えても、人びとは簡単には応じない。ゲイというカテゴリー、ゲイ・コミュニティについても、最終的にはそれがなくなることが「正しい」といっても、多くの人がそこからうま味を得ていると実感できれば人びとは手放さないだろう。逆に、多くの人びとにとってうま味を提供できなければ、コミュニティは役割を終えて次第に縮小していくだろう。
こうして、利得とコスト+リスクを天秤にかけ、どういう戦略を採用すると、人生のうま味が最大になるかを考えながら、私たちはさまざまな行動選択をしている。このときに理屈として「正しい」ことがいつでも採用されるわけではない。たとえば、「ゲイというカテゴリーがなければ、ゲイ差別もなくなる」というのも理屈としては正しいだろう。しかし、たとえば「ゲイというカテゴリーがあったほうが出会いの機会が増える」など、ゲイというカテゴリーから多くの人が利得を得ている場合には、ゲイというカテゴリーが捨てられることはないだろう。論理としての究極の形を提示すれば、そこに結論が行き着くわけではなく、人びとがお互いの欲望をせめぎ合わせながらフロントラインが決まっていく。
しかし、こんなに「言われてみれば当たり前」のことが、なぜ「命をかけて」書かれなければならないのか?
これまでジェンダーやセクシュアリティに関する反差別論の領域では、カミングアウトしない戦略、性差別に抗わない戦略、ゲイというカテゴリーをゲイであっても嫌悪し近寄らない戦略をとる人びとが圧倒的に多い中で、ごく少数の人間によって担われてきた。そうした人びとからすると、利得の幻想を信じ込む必要があった。そういうときには幻想としてのイデオロギーは有効だったし、これから新しいムーブメントにはある種のイデオロギーは必要とされ続けるにちがいない。
カミングアウトは絶対的に正しいという幻想、差別の解消のためにはゲイというカテゴリーやジェンダーの差異がなくなることが正しいという幻想……それらの幻想が「正義」だとする価値観。わたしを含めて、反差別論の分野で言説を弄してきた人間たちは、そういった幻想を見て、その価値を信奉しながら闘ってきた。多くのアクティビストたちはしばしば単純な損得には還元できない行動選択もしてきただろう。損得勘定を越えた言動が人に現れるところに“愛”を見るとすると、そこには確かに愛もあっただろう。
しかし、この幻想はいつしか絶対的ないし規範的な「正しさ」「正義」と考えられるようになり、原理主義的に突き詰められていく。たとえば「カミングアウトをすることは正義であり、その正義を行えない人間は差別に屈している」という風にして、カミングアウトをする人間が一段上に立ったりするようなことが起こる。そうなると運動の外部から見ると、その運動にリアリティがないと思われるようになってくる。つまりゲームの均衡点から、イデオロギー的な主張が大きく離れていくのだ。そうなると、多くの人から飽きられていくことになる。ときとしては攻撃されることにもなるだろう。
さて、こうした暴走を止める手段は何か?
伏見はまず冒頭で、少年愛者ではないという自己規定をしてマジョリティの側から、少年愛者というマイノリティを見て、彼らの自分との連続性を確認する。ところが、そこで「みんな欲望において少年愛者と地続きだから、少年愛者の気持ちも考えましょう」といった耳あたりのいいヒューマニスティックな結論に落ち着くことはない。社会を営む以上、線引きをせざるを得ない場合がある。自分たちの利害だけではなく、多くの人がゲームを行い、欲望がせめぎあう場として社会を構想するからだ。それでも、彼は言う。
「この社会を営んでいく過程で、善し悪しの線引きをしていくことの割り切れなさや、「痛み」は、それぞれが心の中で引き受けていくしかありません。この社会自体にノーを言い立てることでその責任を免れるわけではないし、そんなことは頭の中での罪悪感の打ち消し、自己慰撫でしかないでしょう」(p65)
線引きで向こう側に追いやった人びとに、われわれは痛みを与えているのであり、現行の社会の中での正しさを唱えることで免責されるわけではない。そこへの想像力を堅持しなければならない。与えた痛みを忘却する「免罪」は許されない。
さらに第3章では、『X-men』に出てくる、人間にはない能力を持った「ミュータント」というマイノリティの立場に立ってつぎのようにいう。
「人間社会には人間社会の、それまで積み重ねてきた合理性も意味もあるのだから、「ミュータント」の利益からしたらそれは自らを抑圧することに思えても、それを全否定する権利は一方的にはない。」(p161〜162)
マイノリティの側も、マイノリティであるというだけでどんな要求でも通るわけではない。マイノリティであるというだけで、無限に権利を要求し、マイノリティが反転した特権を持つという事態を避けるためにも、「免罪」によって痛みのない社会を構想するのではなく、これを拒絶する思想が必要だということだろう。
社会の中で対等な決定権をもつ人びとが、共同性を維持するためには、こうしたゲームをうまく機能させることが鍵となる。そのためには、マジョリティが線引きをして正しさに酔うことで免罪されることも、マイノリティがマイノリティの立場で免罪されて反転した強者になることも拒否することだ。
免罪を拒否して、合理的な思考へと進むこと。本書は、現代ジェンダー・セクシュアリティ論の「宗教改革」の書といえるだろう。
【プロフィール】
たまのしんじ●予備校講師、科学技術批評家。名城大学非常勤講師。セクシュアリティの科学などを専門とし、科学や医療の問題を、科学的データを踏まえたうえで社会的な視点でとらえていこうとしている。
【著書】
新しい高校生物の教科書(共著)/講談社ブルーバックス/2006.1/¥1,200
新しい科学の教科書/文一総合出版/2004.5/¥1,800
同性愛入門(伏見憲明らとの共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
クィア・サイエンス(訳、サイモン・ルベイ著)/勁草書房/¥4,500
ナマでヤル
【写真】君とボクの虹色の世界①
ブースカさんの個展
◎All aboutで書評されました [『欲望問題』の評判]
◎All aboutで書評されました
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20070210A/