月別アーカイブ: 2005年12月

「同性愛入門」執筆者プロフィール(アップデート版)

●編・著者プロフィール

伏見憲明(ふしみ・のりあき)
1963年生まれ。慶応義塾大学法学部卒。作家。91年、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)を発表し、文筆活動に。以後、著作に講演に、ゲイ・ムーブメントの牽引役を務める。2003年、初の本格小説『魔女の息子』で第40回文藝賞を受賞。著書に『ゲイという[経験]』(ポット出版)ほか多数。責任編集に『クィア・ジャパン』vol.1〜5(勁草書房)、『クィア・ジャパン・リターンズ』vol.0,1(ポット出版)などがある。
http://www.pot.co.jp/fushimi/
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朝のかっこいい私

編プロの仕事で、園児向け食育クイズのコーナーをやっています。月刊誌のレギュラーコーナーなので、(締切が近づくと憂鬱と言うか)毎月毎月大変です。園児向けのレベルにあわせて…とかいう時点ではなく、自分も何も知らないんですよね。イラストレーターさんに指示をするのも一苦労です(間違っていることも多々)。
毎月のこのコーナーを通して新しく知ることがたくさんあるし、世間は最近「食育」ブームなので、いろいろなメディアで食に関する情報を目にすることもあるのですが、いまいち、実生活に活かしきれない自分を感じます。そこで、(私より元気な)祖母の「とにかく何でもいいから野菜をたくさん入れて煮て、毎日食べちょき」という言葉だけでも実行しようと、最近は朝作ってからポットに来ています。祖母には本当に本当に本当に負けるんですが、心なしか体調がいい近頃です。(今年のクリスマスも未亡人チームでオールナイトかな、おばあちゃん…)

いただいたご本『いわずにおれない』

__________________.jpgいつもお世話になっているフリーライターの細貝さやかさんから、本を送ってもらった。彼女が制作に関わったまど・みちおさんの『いわずにおれない』。まどさんの詩や絵画、インタビューが収録された文庫本だ。

伏見は寡聞にして存じ上げなかったのだが、まど・みちおさんは日本人で初めて国際アンデルセン賞に輝いた詩人。96歳で現役! これまで2000篇を超える詩を発表してきて、日本人なら誰でも知っている歌の詞もそこに含まれている。〈ぞうさん/ぞうさん/おはながながいのね〉とか〈ポケットの なかには/ビスケットが ひとつ〉といった愛唱歌だ。

あぁ、あの詞の作者か!と思ってページをめくっていたら、もう胸がキュンとなるような言葉がいっぱいで、感動がこみ上げてくる。いままで詩集なんていいと思ったことはなかったのだが、この本は言葉の宝石箱だ。インタビューでも、こんなことをお話しされている。

「……『ぞうさん』でしたら、ぞうさん/ぞうさん/おはながながいのね〉と言われた子ゾウは、からかいや悪口と受け取るのが当然ではないかと思うんです。この世の中にはあんなに鼻の長い生きものはほかにいませんから。……われわれ情けない人間だったら、きっと『おまえはヘンだ』と言われたように感じるでしょう。ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないというふうに〈そうよ/かあさんもながいのよ〉と答える。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです」

泣けた。もうやられた。そのようにこの詞を理解はしてなかったけど、あの行間に流れる温かさは、まどさんの深い人間愛を背景にしていたのだ。

●まど・みちお『いわずにおれない』(集英社be文庫)680円

書評『女王様と私』

jyoou_1.jpg以下、時事通信の配信で琉球新報、陸奥新報、福井新聞、神奈川新聞などに掲載された書評原稿です。

●歌野晶午著『女王様と私』(角川書店) 1680円

『葉桜の季節に君を想うということ』でミステリーの枠を超えて広く支持を集めた歌野晶午の新作である。今回も極上のエンターテイメントを提供しながらも、現代社会のよどみに深くメスを入れている。

とにかく登場人物たちのキャラクターが面白い。主人公はひきこもりの中年男性。四十四歳にしていまだ童貞で、人形を妹にして会話をするいわゆるオタクだ。タイトルの「女王様」は十二歳の美少女で、中年男を奴隷のようにあつかい翻弄する知能犯。その他にも、娘のわがままを許す身勝手な母親、小児性愛の学校教師……など現在を象徴するかのような人々が物語を織りなす。

とりわけオタクの心理や嗜好に関しての描写はリアルで鋭い。著者は主人公の男に少女の服装をしばしば描写させる。「黒地に熱帯の花がでかでかとプリントされたチューブトップ、その上に前開きを全開にした黒いノースリーブパーカ、下はわざと汚してあるデニムのミニスカート……」。ディテールにこだわるオタクの性格が見事に表現されている。

純文学の感性からすれば、人物像に関しては類型的にすぎる、という批評もありうるかもしれない。しかしこの時代、類型に向かって生きることにこそリアリティがあるのではないか。個性が求められるほど、人々は「キャラ」として生きることに執着せざるをえない。そのことを著者は直感しているのだろう。

そしてもはや現実とイマジネーションとの間に価値序列をつけることが難しくなった私たち。その実感が、作品の構造自体を用いて皮肉に表される。いったい現実にプライオリティを与えることにどんな根拠があるのか。人を実際に殺すことと、人を殺すことをエンターテイメントとして消費することにいったいどれほどの違いがあるのか、と。

私たちの自我のもろさ、社会の不安定さを、この作家はあざ笑っているかのようだ。そして読み手は、虚実の境界を撹乱される快楽をここでまた得るのである。