2010-01-18

いきなり単行本の著者になった [北尾トロ 第16回]

パインの仕切りで、夏の終わりに総勢10名数名で長野県の野尻湖へ遊びに出かけた。車なんてシャレたものはないから電車である。大半が普段フリーで活動しているライターやデザイナーなので、大勢でどこかへ行くというだけでむやみに盛り上がる。30歳を超えているパイン以外は全員20代の、明日をも知れぬ生活をしている業界人たちだが、先行きの不安などないかのようにはしゃいでいた。みんなの気持ちはわかる。ぼくも、乏しい銀行残高をやりくりして参加したひとり。遠くまできてしみったれた話をするくらいなら最初から参加しない。1泊して、翌日にはレンタサイクルで湖を一周。テンションが下がることなく東京に引き上げた。

きっと、同じように貧乏で、同じようにヒマだった駆け出し仲間だったから盛り上がった小旅行だったのだろう。また旅行に行こうと誓い合ったものの、みんな忙しくなってそれぞれの道を歩き始めると、誘い合って大勢で出かけることは困難になってゆく。そればかりか、何人かとはやがて連絡も途切れ、ニ度とそんな機会が訪れることはなかった。

この夏はもうひとついいことがあった。前から好きだった女の子とつき合い始めたのだ。もしかしたら運勢が上向きになってきたんだろうか。長らく底打ち状態にあるサイフ事情も上向きになるのだろうか。根拠のない希望がわいてくる。

「伊藤ちゃん、本書かない? 確率は高くないけど、企画が通れば出せるよ」

アートサプライ内のパイン事務所、オールウェイでうだうだしていると、打合せから戻ってきたパインが突然言った。本って何だ。書店で売ってる本のことか。

「そう。いまナツメ社ってところと単行本の企画について打合せしてきたんだけど、先方はいろいろやりたがっててさ。ぼくはパソコン関係の企画なら出せるけど、もうひとつふたつ欲しい。何かあったらプッシュするよ」

そう言われても、自分には即座に対応できるほどの引き出しがない。詳しい分野なんて競馬くらいのもので……。

「いいじゃない競馬。それで行こうよ。実用的な企画を求められているからちょっと違うかもしれないけど、たとえば入門書とかさ。競馬界ってどうなの、入門書は出尽くしてるわけ?」

そうでもない。数だけは出ているが、面白みのある入門書は皆無だ。最近、競馬は盛り上がっていて若い連中にもファンが増えているはずだけど、その層に十分応えているとは思えない。個人的にはこれから女性ファンが増える気がするので、競馬場へ行く気にさせる入門書があってもいい。でも……。

「あまり気乗りしてない感じだな。伊藤ちゃんは自分の本を出したくないのか」

戸惑っていた。目の前の仕事をこなすのにもヒーヒー言ってる現状なのに、パインはなぜこんなことを言い出すのか。こっちはいまだかつて本を出すなんて考えたこともないのだ。いずれは本を書きたいという目的があってライターになったのでもない。

「でも、作家になろうって話じゃないからさ。いつまでも雑誌だけで食っていくのは大変だよ。オレたちみたいなライターは常に先行き不安定じゃない。伊藤ちゃんもだいぶ原稿がこなれてきたけど、オレが持ってくるパソコン関係の仕事をやってても、詳しくなろうとか努力しようとはしない。かといって他に連載があるわけでもないじゃん。著書があれば名刺代わりにもなる。そうやって抜け目なく営業してかなくちゃダメだよ」

単行本を書けっていうのは、ぼくを心配してくれてのことなのか。内心、少し嬉しくなっているとパインが先を進めた。

「有限会社オールウェイとしては営業マンがオレひとりじゃキツい。みんな自分のことしか考えてないし、広告営業マンとして期待した増田君もさっぱり契約を取ってこない。だから伊藤ちゃんには、パソコン以外のお客さんを開拓して仕事を取ってきてもらいたいんだよ」

なんだ、そういうことかよ。まあ、パインを当てにしている面があるのは事実だが、だからといって社員でもないぼくに仕事を取って来いと言われてもなあ。だいたい、本を書くのが営業に役立つと言われても、この先どんな仕事をしたいのか、自分自身でわかっていないのである。自信もまるでないから積極性にも欠ける。競馬の本を書いて競馬雑誌から仕事を頼まれたら困るとさえ思う。

「そうか。本を書いたらまとまった金が入るけどな」

「えっ、単行本ってお金貰えるんですか? 何万円くらい?」

「何万ってことはないよ。そうだな、今度の企画は原稿買い切りだから50万ってとこだろう」

そんなに。名もない著者が書いても金がもらえるってことだけで驚きなのに、50万円とは。知らなかった。反省します。やりますとも。ぜひ書かせてもらいましょう。

「……伊藤ちゃん、無知すぎる。単行本のギャラには印税と買い切りの2種類があってさ……」

大急ぎで企画書を書き、おおまかな構成案を作った。そしたら、タイミングが良かったらしく通ってしまった。いまいちピンとこないが、このぼくが著者になるわけである。うむむ、どうやって書けばいいのだろうか。

「楽しい入門書であればいいんだから、イラストや写真をうまく使って、コラム集みたくするか。伊藤ちゃんは各項目3千字くらい、ちょっと笑えて役に立つ文章書いてよ。言ってみりゃ競馬版の『見栄講座』のイメージだな。あれみたいに太文字でキーワードを目立たせよう」

パインが主導権を握っているのは、オールウェイがちゃっかりと、編集やデザインまで含めてこの仕事を受けたからだ。そのアイデアはどうか。『見栄講座』は独特なので真似すればミエミエになる。個人的には普通のデザインでいきたいものだが、その意見は通らなかった。

発売予定日まで3ヵ月を切っている。パインの指示はできれば半月、長くても3週間で書き上げること。競馬関係の資料を買い揃え、ラフレイアウト上がっておよその文字数が決まると、すぐにゲートが開く。この日から、ぼくは馬車馬になって働いた。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった