2009-07-06

名刺を作ればライターというけれど [下関マグロ 第3回]

1983年の年末から1984年の正月。僕はひとりで中野坂上のフレンドマンションにいた。スーさんは年末から栃木の実家に帰っていたが、僕は山口の実家には帰省しなかった。理由は、単純に金がなく、電車賃が払えなかったからだ。

部屋にはスーさんがクリスマスに買ったファミコンがあった。正式名称はファミリーコンピュータで、その年の夏に出たヒット商品であった。まだソフトはドンキーコングくらいしかなかったけれど、年末年始の間ずっとそれをひとりでやっていたのだ。

年が明けて帰ってきたスーさんにそのことを言うと、彼は苦笑いをしていた。そんなことより、僕らはそのころ、会社を辞め、自分たちで仕事をやろうという話で盛り上がっていた。写真集を作るような編集プロダクションをやろうというのだ。

僕は編集作業などまるでやったことがなかったので、大丈夫かなぁとも思ったが、スーさんは、勝算ありそうな口ぶりである。しかも、編集プロダクションの名前も「BIG HEAD」という名前にしようとスーさんが言う。日本語では頭でっかちかと僕は思ったが、スーさんは

「アメリカのスラングではお馬鹿さんというような意味があるんだよ」

と言う。ほっほー。なんだかピッタリの名前のように思えた。なにより感激したのは、スーさんが「BIG HEAD」というロゴの入った僕の名刺を作ってくれたことだ。住所はフレンドマンションになっている。

会社に居ながらにして、少しずつ「BIG HEAD」の仕事もやっていこうと言っていたのだが、いっこうに仕事は始まらなかった。編集についてまったく素人だった僕は何をどうやっていいのかわからなかったのだ。しかし、会社は3月に辞めることにした。

本当は年末にでも辞めたかったのだが、1年いると退職金が出るというので、ちょうど1年である3月の末日まで勤務したのだ。

しかし、退職金が出たとはいえ、それ以降の収入のメドはつかなかった。「BIG HEAD」のほうもまったく仕事らしい仕事はなく、僕はたちまち家賃の5万円が支払えなくなってしまった。仕方ないので、スーさんにそのことを話し、マンションを出て、近くの3畳の部屋を借りることにした。家賃は約半分になった。もちろんスーさんも家賃全額は払えないので、フレンドマンションを出ることとなる。

さて、家賃は約半分になったが、とにかく収入はない。

そんなときに、ふと思い出したのが、衣浦(仮名)氏である。当時、飛鳥新社の発行する『ぺるむ』という雑誌があった。今からではちょっと想像しがたいのかもしれないが、80年代というのは、リサイクル雑誌というジャンルがあり、小さなブームでもあった。今ならヤフオクなのだろう。不要になったものを時には写真入りでリサイクル雑誌に投稿する。投稿して掲載されるまでけっこう時間がかかるわけだが、それを読者が見て、直接電話したり、手紙を出すというようなもので、今から考えると膨大な時間がかかるシステムだったが、当時としては画期的な試みであったと思う。

調べてみたら、飛鳥新社から昭和58年(1983年)の5月に創刊されている。僕が見たのは夏頃の号だったと思う。

当時はこういったリサイクル専門の雑誌もあったし、タウン誌などにもこういう情報が載っていた。大学時代を過ごした大阪でも、地元のアルバイト情報誌なんかにこういった、「あげます、ください」みたいなコーナーがあってよく利用した経験がある。

考えてみれば、当時の雑誌というのは、今、インターネットで行われているものの、元のようなものがいくつかあった。『ぴあ』なんていう情報誌もそのひとつだったし、『シティロード』というのもあった。で、情報交換から、こういった不要品の売買なども雑誌が担っていた。中には文通コーナーのようなものもあり、ここも出会いの場であった。

同じく、僕は大阪にいた頃は、やはりアルバイト情報誌の文通欄で知り合った女の子とつきあっていたりした。

話はそれたが、『ぺるむ』という雑誌に仲間募集というような投稿があり、電話番号が出ていたので、電話したことから、衣浦氏とのつきあいが始まった。事務所はお茶の水にあり、行ってみるとそこは、会社というよりも学生のサークルのような場所であった。

一応、オナハマ(仮称)という会社組織になっており、社長であり、編集プロダクションのようなことをやっていた。

衣浦氏に電話すると、とにかく仕事を斡旋してくれるとのこと。半信半疑で会社に行くと、衣浦氏の運転するジープに乗せられた。夜の7時くらいだったろうか。3月のことで、まだ寒かったことを覚えている。車の中で衣浦氏は、

「増田くんのこと、経験者だって言ってあるから、そのつもりでね」

と言った。これは困ったことになったなぁと思った。実は僕には編集やライター経験のようなものは一切なかったからだ。しかし、まあ、なんとかなるだろうとも思っていた。

ジープはイシノマキのあるビルの前で止まる。実はこのとき僕といっしょにイラストレーターだという僕より少し若い男もいっしょだった。

今から考えればこれが面接だったのだと思う。

オフィスの出口に近い席に姫路(仮名)という男がいた。背は低く、年はひとまわりくらい上であろうか。社員はパラパラといて、空いている席が目立っていた。しかし、この男がここのボスであることはなんとなくわかる。少し尊大なかんじであったが、どういうわけかその時、僕はここの社長と話がはずんだ。

「先にジープに乗ってて」

と衣浦氏は言う。僕とイラストレーターくんは、下に降りて、ジープに乗った。幌のスキマから風が入ってきて寒かった。しばらくして戻ってきた衣浦氏の口ぶりでは、僕が合格し、イラストレーター氏は不合格というようなことを言っていた。

といっても僕は、そのままイシノマキに入るのではなく、衣浦氏の会社であるオナハマから出向ということであった。このあたりのいきさつは他の本に詳しく書いたので、ここでは簡単に説明するが、とにかく僕はオナハマから給料をもらいながら、編集プロダクションのイシノマキへ出向という形になったのだ。たぶん、ババを引いたのは衣浦氏だと思う。僕は15万円の給料をもらったが、たぶん衣浦氏側にはそんなに金は入っていないと思う。なぜなら、僕はほとんど仕事ができなかったからだ。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった