野口勝三vs沢辺均ロング対談・第三話

先祖の祟りだというのと同じ!?
━━近年のジェンダー論を批判する

野口●僕もかつて、伏見さんの本を最初に読んだとき、ゲイの反差別運動と理論は性別二元制の解体というものに定位していく必要があるという結論を、なるほどその通りだと思っていました。でもだんだんその議論が本当に正しいのだろうかという疑問を持つようになった。その理論を自分の生に引き付けてとことんまで考えてみると、自分がゲイだということ、男であるということ、それ自体を悪いとはどうしても思えないという違和感が残った。そこで初めて、もしかするとこの議論自体がどこかがおかしいのではないかと思えてきた。それはいったい何なんだろう、というのが僕自身が思想や理論を一から考え直そうとした動機なんです。そこで僕がぶつかった問題は、一言で言えばルール批判の、または社会批判の正当性の根拠は何かという問いだったわけです。

多分伏見さんも同じだったのではないかと思う。理論というものは具体的現実を基点にして、それを抽象化することで作り上げられるわけですが、そこで作った理論は再び具体的現実によって検証する必要がある。理論は具体性と抽象性の間を何度も往復することで初めて普遍的なものとなっていく。そのときに重要なのは、理論にとって都合が悪い具体的事実が出てきた場合、それを正面から受け止める必要があるということです。具体性による検証によって都合の悪い事実をもう一度繰り込むことで、理論を新しい形に編み上げ直さなければならないんですね。

その意味で、特に理論を作るような人々、典型的にはアカデミズムの人々は現実のありように謙虚である必要がある。自分たちの作り上げている理論が現実の人々の中でキチンと生きているか検証しなければならない。自分たちの理論というものが現実世界によって試される一つの考えに過ぎないんだという謙虚な姿勢を持たなければならない。自分たちが特定のイデオロギーを再生産する制度になっていないかを現実世界の中につねに内省していくことが大切です。これは実は、現代社会における「知」の役割は何かという問題を考えることでもあるんです。しかし都合が悪い事実が出てきたときに、例えば「あなたはそう言うけれども、実はそれは背後にある〜に言わされているんだよ」というようなロジックを組み立てると、都合の悪い事実が都合が悪いという形で処理されないんですね。理論に当てはまらない現実の矛盾を無視するということになってしまう。これは実は「他者」に全く向き合っていないということを意味しているんですよ。こうしたロジックは現在のジェンダー論に広く見られると思います。

沢辺●それは失礼なことだよね。お前はだまされてる、バカだっていうことでしょ?

野口●例えば、たとえ好きな人とセックスをしていてもそれは強姦なんだということを平気で言えるようになる。こうした物言いは、あなたはおかしいと思っていないかもしれないが、実は先祖に祟られているんだ、と言うのと論理的には一緒ですね。

沢辺●「僕はあなたが嫌いだ」というのは個人的な好みだからいいけど、「あなたは真実を見てませんよ、だまされてますよ」と言うっていうのはものすごく失礼だと思う。

野口●もちろん、「だまされていますよ」っていうとき、なるほど確かにだまされてるなって思える説得力のあるロジックが組み立てられているのならいい。例えば、何らかの政治課題について、〜のように思っているかもしれないが、実際の政策決定の現場ではこういうことが行われているんだよという確かめられる情報を提示されたときに、ああ、なるほど、先の考えが自分の思い込みだったと気づくこともある。そういうふうに相手を説得することができる論理を組み立てることができるか、また組み立てようとする意志があるかどうかが重要なんですよ。

沢辺●相手がだまされていると思ったときに、きちっと説得できるだけのロジックを獲得している者と、ただ単に信仰として信じていないから間違っている、だまされているという理屈は根本的に違うということですよね。僕はそれはその通りだと思うんだけれども、それともうひとつ違う判断基軸が実はあるような気がしている。それって本人に正面から間違っているって言っているかどうかという問題。多くはそういう場合、本人にはだまされてるって直接言わないんですよ。

例えば、フェミニストの批判する美人コンテストの話で言えば、社会が悪いと遠回しに言っているんだけれども、要はそう思わない女はバカだって言っているわけでしょ。もちろんそういうひどい言葉では言わなくても「あなたはだまされているから気づきなさいよ、なぜならこうこうこうですよ」ということを、真っ正面から言わずに遠回しにしか言わないじゃないですか。僕は、そういうのは思想的に真摯じゃないと思う。人民がだまされているとか、女性がだまされているって本当に思うんだったら、すべての女性はだまされているってちゃんと言った上で、野口さんがいうようにそれはなぜなのかというロジックできちんと説得していく。それがどんなにボロボロになっても袋だたきにあっても私はそう思うんだと最後まで説得しようとする態度があれば、ひとつの有り様として許容できるんです。しかし、そうではなくシンポジウムとか、結果的に自分に共感する女の人たちだけが集まるような場、そういうところでしか言わない。だいたいシンポジウムなんて論者に共感している人しか来ないじゃない? ふだんの現場、たとえば正月に親戚一同が集まり女の人が半分いるような場で、勝負していないっていう気がする。それはやっぱり真摯さに欠ける。

野口●なるほどね。それはさっき言ったあるひとつの信念を強固に信じた共同体っていうのができると、その外に対する感度が悪くなり、それ以外の考え方をキチンと開こうという意識が希薄になってくるという問題と通じますね。そうした態度は「他者」と向き合うという姿勢から最も遠いものですね。 「他者」に向き合うとは、自分の信念はもしかしたら間違っているかもしれない、それはさまざまな信念のうちの一つとして相対化されうるものだという意識を持つこと、異なる意見を言っている人々の議論を適切に受け止めて、批判の核を捕らえるという事を意味しているんです。批判をしている人たちを十把一絡げにするのではなく、批判を分節化して、この人の批判には理がない、この人の批判についてはきちんと自分たちが考えなければいけないという区分けをして、相手の言葉をつかまえるような努力をするということなんですね。「他者」に向き合うことを要請する議論には、実際にはこうした視線を欠いたものが数多く見られます。それは結局鏡像的自己像を確認しているだけなんですね。

沢辺●この『欲望問題』は、僕にとっては自分が左翼をやめたことと非常にオーバーラップしてしまう本です。僕、実は20代の頃は地方自治体の中の労働組合運動を中心に左翼をやっていたんですよ。組合事務所が地下1階にあって、そこで組合の役員たちが活動家として議論するわけですよ。しかしそこで議論していることと、昼間は机を並べて一緒に仕事している人とは全然噛み合ないわけ。例えば、係長試験というのがあったんだけど、それは出世競争をえさにして労働者を競い合わせる悪い制度だ、と地下1階では議論していたし、そういうふうにビラにして巻く。でもその時に同じ机を並べていた僕より10歳くらい年上の人に、「お前にはね、なんだかんだ言っても、組合の青年部長っていう「長」っていうのがついてんじゃねーかよ。出世に背を向けて僕はみんなのために労働活動をやっていましたという理屈が立つだろ。しかし俺たちただの庶民は係長の長でもなければ、ただの父親でしかないよ。俺たち何にもないのに、なんで俺たちから長のチャンスを奪うんだ」って言われたんですよ。地下1階で自分たちだけが信仰している宗教のなかで議論していたときと、上の仕事場に行ったときの乖離(笑)。ノックダウンなんですよ。でもそのときはまだわかってない奴を俺たちが啓蒙して教えてやるんだということで、かろうじてその乖離を納得させてたわけ。

今振り返って考えれば、一般の人が考えたことは必ず正しいということではないが、しかし庶民が考えたことの感覚のなかにもそりゃそうだなというところもいっぱいある。無条件に受け入れるのも間違いだし、無条件にだまされているバカどもだというのも違うなと。僕には労働組合の仲間もいたし、議論の場もあったが、しかしこの『欲望問題』を読むと、伏見さんはたった一人でリアリティをつかまえてきて、それはすごいなと思いますね。