野口勝三vs沢辺均ロング対談・第一話

『プライベート・ゲイ・ライフ』の時代
──伏見憲明の出発点をふりかえる

野口●『欲望問題』では、処女作の『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房、1991)の問い直しを始めとした、これまで伏見さんがつくってきた言説や考え方、また自身の倫理主義的感覚の総ざらいがなされているわけですが、この本を語るにあたってまず、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』を発表した90年代はじめの頃の、カミングアウトしたゲイがほとんどいなかった時代状況を理解しておく必要があると思います。当時、芸能人の中には、おすぎとピーコのような人たちはいましたけど、一般のゲイで社会的にカミングアウトしていた人は皆無に近かった。雑誌『ADON』を主宰していた南定四郎さんなど、カミングアウトしていたのはほんの少数だったと思います。

伏見さんがよく言うのですが、『プライベート・ゲイ・ライフ』を出したときに、担当者から「言葉をしゃべるゲイをはじめてみた」と言われたそうです。それは単にゲイに出会ったことがないということではなく、社会的状況などゲイに関することを論理的に組み立てて話せるゲイと初めて出会ったということを意味していて、当時ゲイは社会において目に見える存在ではなかった。ゲイに関する言説は「変態」か「禁じられた美学」のようなものしかなく、ゲイが置かれている状況がどんなもので、等身大のゲイがどのようなものか全く知られていませんでした。カミングアウトしているゲイも珍しくなくなり、ゲイに関する書籍、評論、学問も数多く見られるようになった現在からは、想像するのが難しいほど15年前ぐらい前は、取り巻く環境が厳しく、同性愛は理解されていませんでした。また同性愛者自身も自らを語る言葉を持たなかったんですね。

そうした状況の下で、普通の感覚の人はカミングアウトなんかとてもできない。普通の人間ならあきらめたり、我慢するようなことをどうしても我慢できない、強い実存的衝動を持った人間だけにカミングアウトが可能だった。しかも伏見さんの場合、ゲイであることを身近の人に「告白」しただけではなく、ゲイ、つまり自分というものをどのように社会的に位置づけたらよいかについて、一から言説を作ろうとした人でもあった。何としても「自分たち」が置かれている状況を改善したいという、ゲイというカテゴリーに課せられた問題を背負おうとした数少ない巨大な情念の持ち主の一人だったんですね。既存のゲイに関する言説に手がかりが全くない中で、自分を理解するための言説を、また他者がゲイのことを理解できる言説を組み立てようとした。

当時、性に関する言説は、フェミニズムによるジェンダーという言葉を使用した知の枠組みが存在し、その枠組みはゲイ差別がなぜ生じるのかを理解できる参照点となるものだった。その意味で伏見さんが自らの言説をフェミニズムの知的遺産から継承したのは必然的だったと考えることができます。『プライベート・ゲイ・ライフ』において、フェミニズムから引き継ぎながらさらに発展させた議論は、異性愛の男女も同性愛の男女も性別二元制に基づく性愛の制度という点において等価な存在であり、同性愛であることにより、同性愛差別を再生産する性別二元制を支えてしまうこと、それゆえ差別の克服のためには同性愛という枠組みから解放される必要があるということですね。この考え方を『欲望問題』では再検討されています。これは形式的に見れば単なる論理的再検討になるわけですが、その内実は単なる作り直しではなく、非常の厳しい状況における実存的な強い動機に基づいて作り上げた、または自身の生の可能性を見出すことになった世界像の「問い直し」を意味しているわけです。

ここでもう一つ押さえておかなければならないことは、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』で展開した議論やその後の様々な活動が、自身の私的な考えの表明ではなく、当時の時代状況下では不可避的にゲイの置かれている差別的状況の改善のための実践というものを引き受けざるをえないものだったということです。つまり当時作り上げた世界像は自分の実存上必要だったというだけではなく、ゲイ差別の問題を提起するフロントランナーとしての役割を担わざるを得ない存在として背負う世界像だったわけです。そういう役割を担うことになる人間は、自分の感情で好き勝手に自由に発言すればよいというわけにはいかなくなる。その発言自体が受け手にとっては個人の意見としてではなく、ゲイを代表するものとして受け取るという側面を持ってしまうわけですから。その結果、ゲイの置かれている状況を改善するという非常に大きな問題を引き受けざるをえなかった。また当時のゲイが置かれていた厳しい時代状況を考えると、その世界像が反社会的・倫理主義的性格を持つのは不可避的なことだったといえる。とはいえ『プライベート・ゲイ・ライフ』を読むと、反社会的・倫理主義的側面が希薄なんですね。これは驚くべきことです。反差別論の創業者の言説は通常、この社会がいかに間違っているのかという強烈な怒りや告発に満ち、マジョリティに対して自分達の立場に立つことを要請するものですから。

ただ薄められていたにせよ存在していた反社会的・倫理主義的性格が『欲望問題』では根本から考え直されています。これは相当大変なことだったと推測します。ゲイ差別というものが全くなくなったわけではない現在、これをフロントランナーとして背負ってきた人間が、反差別論における倫理主義的性格を一から作り直すというのは簡単にできることではないと思います。差別問題というのは取り扱うのが非常に難しくて、マジョリティにとってもマイノリティのとっても扱いづらい性格を持っているんですね。差別というものは社会でゼロになることはありませんから、差別を受けるマイノリティ側からすると、たとえ改善されてきたとしても倫理的主張を引っ込めにくい。日常的に常に差別にさらされることがなくなったということは、いつも辛い思いをしているわけではないということを意味しますが、だからといって差別的な行為にさらされることが全くなくなったわけではない以上、こういう差別がまだまだあるんだと主張して、マジョリティの差別的感情を糾弾せざるをえない側面がある。ところが改善されてきた状況下でこんなに差別があるんだと主張し続けることは、マイノリティにとってもどこかリアリティを欠いた行為になってしまう。差別に晒されるという生活の一部の中での経験を生活の全域を覆っているかのような主張は、自分たちの現実感覚を正確に反映したものではなくなってしまいますから。

差別問題にはこのような両義性があり、自分たちの内的な感覚と現在の状況を適切に表現することが難しいわけです。まして、伏見さんはゲイに関する問題のフロントランナーですから、その発言の影響力を考えると簡単には、差別が改善してきているといいにくい。もう差別問題として考える必要がないという誤解を与えかねない主張はなかなかしにくいんですね。伏見さんは、こうした難しい状況と立場にあったにもかかわらず、自分たちの現実感覚に基づいた、同時にマジョリティに届く可能性を持った論理と言葉を一から作り直そうと試みられたのだと思います。後続の人は、今回の『欲望問題』を、簡単に伏見さんの変化というふうに取るかもしれません。けれど、厳しい現実の状況を引き受けて、悲壮感すら抱えて考えた世界像や考え方を、もう一度最初から構築し直すというのは、ただ単に生活のなかで考え方が変わったというレベルではとらえられない重みがある。そこを理解する必要があると思います。

沢辺●伏見さんは、オピニオンリーダーとしてすでに立っていたにもかかわらず、今回あえて自分の変容を明らかにしたわけですが、言論人はそういうことはなかなかしないですよね。普通の人の生活感覚、社会のリアリティに照らして自分の考えてきたことを問い直すというのは、思想に対して真摯だと思うんですよ。そしてリアルだからこそ自分の変化も引き受けられたし、物事に真摯に向き合ったからこそできたとも言える。すでにオピニオンリーダーとして発言していたことについて、改めてそれを見直すなんてよほどの根性しかない。だからストレスからあんなに太っちゃうのかなと思うんですけどね(笑)。

ぼくね、リアルであるということはすごく大事だと思っているんです。自分の話で申し訳ないんですけど、僕自身は30歳で、左翼をパチッとやめたんですよ。どこでそこまで行き着いたのかを考えると、出発点は、20歳のときのできごとにあるんです。その頃、組合運動をやっていて「労働者階級解放」といった概念を掲げて「資本主義はよくない」というようなことをやっていたわけです(笑)。

そのときにある人が、「沢辺、お前、資本家っていってるけど、それ誰? 名前は?」って聞いてきたんですよ。そのときに何にも答えられなかった。頭の中では「松下幸之助かな」とかよぎったんですけど(笑)、そんなこといままで考えたこともないのに下手にその場限りのことを答えたら、またさらに揚げ足をとられるかなと思ったら、びびって何も答えられなかった。この出来事は、十年後にやっぱり左翼はだめだと思うことにつながるんだけど、その出発点になったんです。やっぱり、そこで足りなかったのはリアルということなの。みんなにオルグしていた主張では、労働者階級が抑圧されているのは資本主義がだめだからなんだ。これは打倒しなければならない。しかし打倒って抽象的にいってるけど、要は財産を剥奪するか牢屋にいれるか、殺すかじゃないですか。

野口●理論に基づいた実践を具体的に貫徹すればそうなってしまうんですね。

沢辺●そうすると、要はそれを誰をやるのかということですよ。そんなこといっこも考えたことないのにオレは、資本家打倒だといってたわけ。それがね、顔が真っ赤になるくらいはずかしくて、資本家っていったい誰だろうと考え始めて、それが自分の左翼性を疑う出発点になったわけです。そういうことを原体験に持っている僕からみると、例えばこの本に出てくるミスコン問題だって、一部のフェミニズムがミスコンを女性差別だと言っても、いったいそう思っている女性はどこにどれだけいるのか。現にミスコンに出ているのは女性たちだし、それって運動のほうからしたら、彼女たちは仲間を裏切って、差別に加担しているということになるわけだよね。そんなことでフェミニズムの論理は通用するのか、ってリアリティを疑うのね。

そういったことをほんとに真摯に考え続けたのが、この労作『欲望問題』だなと思う。ぼくはね、そのきちっと自分を検証する姿勢するに惹かれました。そしてその背景にあるリアリティ、思想に対する真摯さに。それがこの本をポット出版で出したいと思った「欲望」の出発なんですよね。

キャムプという感覚
 ──伏見憲明のわかりにくさ

野口●今回の結論に至った理由は、伏見さんの言説にもともと含まれていた両義性に目を向けるとわかりやすいかもしれない。一般に、社会問題を議論するときには、その利害をどうやって政策決定のなかで調整し実現していくかというプラグマティックな要素、現実主義的な要素を考慮することが必要になるわけなんだけど、いわゆる市民運動では、現実主義的な要素を排し、正しさが純化されて現れてくる傾向が強くなる。反差別運動ではとりわけこの傾向が強い。差別の解決に関して、どういう具体的なステップをとればよいのか、あるいはそれを克服するための現実的条件は何かを考えるより、まずいかに自分たちが理不尽な目にあっているかを情念とともに訴え、マジョリティに自分たちの立場に立つコトを要請することになる。そういう「純化された正義」が当事者の痛みゆえに濃厚に出てくるのが、反差別論の特徴といえる。

ところが伏見さんの思想や行動には、当初から、「純化された正義」に対する違和感が織り込まれていた。反差別論にキャムプといったゲイ的な笑いのノリをパッケージする表現を作っていたのがその典型的な表れで、その始発点から単純な正義の主張ではなく、両義的表現がなされていた。

しかし、「笑い」と「純化された正義」というのは非常に折り合いが悪い(笑)。社会問題を扱うお笑い芸人が、ビートたけしや爆笑問題の太田光などごく少数にとどまっているように、極端に真面目な志向と笑いをうまく融合させていくのは難しい。それを伏見さんは運動のなかで先んじてやろうとした。一方で差別的状況に対して正義の主張を訴え、一方で笑いの芸を見せる。この二つの極を常に往復してやってこられたわけですが、これは端からからみると、非常にわかりにくいんですね。もともと伏見さんの考えや行動がよくわからないという人がゲイの活動家の中でも非常に多いんですが、厳しい時代状況の中ではとりわけ理解されがたい。「正統的」な解放運動のノリで社会正義を実現したいという人からみれば、何をふざけたことをやっているんだ、となる。一方、エロとか笑いのようなゲイ的文脈だけでゲイをとらえたい側からすると、社会正義を背景にしている伏見さんは自分たちとは違うという違和感が拭えないことになる。

しかしながら、笑いの視点を持っていたということは、一種生活感覚を持っているともいえて、それが正義の純化を防ぐ防波堤になったのではないでしょうか。そして、長い活動の中で、生活感覚によって正義の主張を検討し続けることで、最終的に、両者を融合させることが出来たのだと思う。もちろんこれは簡単なことではなかったと思いますが。

沢辺●僕はノンケだからあまりはっきりとはわからないけれど、キャムプという感覚は、ゲイにはもれなくついているという感じがする。部落差別や朝鮮人差別の運動にも笑いの要素はあったんだと思うけど、ゲイと笑いは比較的結びつきやすい何かの条件があるような気がするんだよね。それはどう? ない?

野口●これはまだ僕もうまく整理できてないんだけれども、ゲイというカテゴリーが性という領域に関わっていることと関係があるように思う。ある種の性的「逸脱性」は奇異に見えるところがありますよね。ゲイ・セックスのある種のありようは、ゲイ以外の人たちから奇異に見えるだけでなく、自分たちにとっても「この逸脱性ってどうよ?」っていう笑いの感覚が出てくることがある。これはゲイ・セックスに限らず、性一般に言えることですよね。

沢辺●僕ね、セックスしていてふっと恥ずかしくなることがある。やっている当人同士は、笑いもせずやってるんだけど、「どうだい、感じるのかい?」なんてやってるときに(笑)、そこに第三者を想定して例えばオレが横から見てたら、「おいおい沢辺、何恥ずかしいこと言ってるんだよ」と笑って突っ込んじゃうよなと、しらけてしまうことがあるの。性ってそうやってまぬけなところがあって、やっている本人と客観視して見たときの視線の感覚の間に、可笑しさが生じる。一方で、ヘンな例だけど、子供に「おまえ部落民と結婚するのか、許さん!」なんて言ってるオヤジがいたとしても、それを自分で客観的にふっと振り返ってみても「プッ」と笑う感覚にはなかなかなりづらい。だからゲイとキャムプな笑いとの相性のよさって、性やセックスに関係してくるものだという気がする。

野口●たぶんその通りだと思うんです。そういうことが性というものに普遍的に現れるんですね。それは男女間でも同じで、自分たちの性の様相が、引いて見ると「なんて可笑しいことをやっているんだ」、「ヘンなことやっているんだ」というふうに感じるときがある。フェティッシュな要素なんかだと、それにノレる人には違和感がなくても、その趣味嗜好を共有しない人から見ると、「なにこれは?」となる(笑)。その部分に自覚的なゲイたちは、キャムプな笑いを生み出してきたのではないでしょうか。