欲望問題出版記念プロジェクト

加藤 司◎柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が二十一歳の僕の胸をじくりと刺す

2007-02-15 ポット出版

 二十一の私は、同性愛者による社会運動が活発だった九十年代を知らない。
 ゲイであると自覚した頃には、周囲の抑圧から苦しんでいる姿をそう見ることはなかった。例え過去の文献に触れ、当時を生きてきた人から話を聞いても、どこか遠い国のお伽噺としか思えずにいた。

 己の性的指向のために大した実害を被った訳ではないので、時々胸に小さな疼きを覚えるようなことがあっても、そ知らぬ顔をしてやり過ごしてきた。社会人として働き、週に何度かジムで汗を流し、数少ない友人と他愛の無い話で花を咲かせ、時々誰かとセックスをして生きている。コミュニティへ属すことはせず、せいぜいインターネットを使って華やかなイベントを楽しむ彼らを傍観するだけだ。社会へは関心を持たずに、こちらから背を向けていた。
 
 「同性愛者が生きやすい世の中になった」と言われてもう何年経過したのだろうか。世間での印象はそこそこ良くなり、露骨に迫害されることは少なくなった。だが、レズビアン&ゲイパレードやHIV感染、同姓婚制度を巡っての議論等に対しての課題が残っているのに、どこか宙に浮いたままである。

 幾ら活動家やボランティアの人々が頑張っても、何故かその声が遠くから発せられているようで、ただ聞き流していた。同じゲイとは言え、彼らの活動への興味はあっても参加しようとは全く考えていなかった。時間を犠牲にしてまで協力するための理由が存在しない。面倒だと思ったことさえある。それに、どこか敷居が高くて、内輪だけで固まっていそうだというイメージが付きまとっていた。今思えばこれだって一つの偏見である。私は別のコミュニティを直接的ではないにせよ、差別していたと非難されても当然だ。

 全ての問題を他人にたらい回しして、自分だけ楽をするのも一つの選択肢であり、とても魅力的だ。ただ、そうやって何か出来るかもしれないのに、見てみぬ振りをするのにはもう飽きた。そう言っている割には、社会を傍観しているだけで何の行動も起こそうとしない。そんなジレンマを抱えて、時々息苦しく思いながら生きている。

 伏見氏はそんな鬱屈を丁寧に、かつ論理的な文章で導いてくれた。
 お互いの欲望を満たすためにはどうすればいいか模索するためにまずは話し合おう、ということだけである。相手を知らないから、「何となく」という感情で判断し、場合によってはそれが悪い方向へ捻じ曲がってしまう。全てを読み終えた頃にはそんな間違ったイメージという概念が取り払われ、憑き物が落ちたように身体が軽くなっていた。
 
 この著作は、冒頭で少数派の人間だって他者を差別するというという“現実”を突きつけた上で、この社会を“理想”へ近づける可能性を提示している。執筆するには相当な気力を注いだのだろうと想像させられる。不勉強な私でも彼が構築した論理を順に追えば、理解するのは難しくないように練られているが、柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が、胸に突き刺さってじくりと痛むことすらあった。時として名の知れた論者を批判し、“寝た子を起こすな”と反発されかねない発言も含まれている。彼は社会に対して誠実に向き合っているのか、それとも根っからのマゾヒストなのか判断に困る。
 
 「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という彼の言葉に応えられたと言えば嘘になるが、多少なりとも真面目に読んでみたつもりである。この本によって、今まで無視していた“社会”に対して、時間が掛かったとしても理解しようと考えさせてくれたからだ。
 新たな選択肢を掲示した伏見氏の動向をこれからも追って行きたい。

伊藤菜子[フリーライター]●細くなくったって若くなくったってパンクスなのだ

2007-02-15 ポット出版

伏見憲明さんが自身をパンクスだと表明した本だと思いました。「中野サンプラザまでクラッシュのコンサートに行ったこともあるのよー」と、以前聞いたことがあったので、へえ、伏見さんはパンクロックも好きなのねえと、漠然と思ってはいたけれど、「リアルであることこそが、ぼくのパンクです」なんて、キッチリ言っちゃうなんてカッコいいっス!! 私もこの言葉、どこかで使わせていただきたい。勝手に拝借してもいいですか?
 
あと、どこかで伏見さんの姿を見て、「ちっともパンクスなんかじゃないじゃん」と言ってる人よ。パンクっぽいファッションで身を包んで、バンド活動するだけがパンクスじゃないんだからね。細くなくたって(ゴメン)、年が若くなくたって(さらにゴメン)、生き方や思想がパンクスだということです。

そして『欲望問題』という本自体、パンクミュージックのように、伏見さんの言葉がストレートに響いて、頭に入ってきました。語られていることは平易ではないのだけれど、ホントにわかりやすく、スルリと入ってくるのです。

最初の章に登場する、少年愛者である鈴木太郎さん(仮名)の悩みについては、「自分は犯罪に引っかかるような性的欲望を持ってるわけじゃないから関係ない」という人にとっても、自分の欲望問題と重ね合わせて、または延長線上として考えられるのではないでしょうか。私の欲望対象だって、たまたま犯罪には引っかからないだけであって、もしかしたら線引きされた向こう側にいたかもしれないわけですし。異常だと言うのは簡単だけど、異常と言う前に、自分の欲望問題と照らし合わす人が増えたら、世の中も少しは変わるかなあ。

伏見さんは「ぼくは、この社会は自分の理想に近づく可能性を残しているのではないか、と直感しています」と言っています。「理想の社会だなんて楽観的」だと「ノー」を言うのは簡単なこと。でも「あえてイエスと言いたい」と。「イエス、バットというのが立場です」に、私も1票入れたいです。バット以下はそれぞれが考えて、理想に近づけていこうよと、なんだか前向きな気持ちにさせてくれました。

伏見さんて、ご自身でも言っておられるけど腹グロだし、黒い血がドクドク流れているような人間です(私もそうなんだけど)。でも根底では愛のあふれる優しい人だっていうのが、私の実感。『欲望問題』を読んだ後も、なんとなく温かい気持ちになりました。なので多くの人に読んでもらえるといいなあと本気(マジ)で思います。「欲望問題」という言葉も、「恍惚の人」(古い?)とか「失楽園」「愛ルケ」のように流行語になって、大ベストセラーになってくれたら、とてもうれしいです。

いとうななこ●1969年、東京都生まれ。フリーのライター&編集。

池田清彦[生物学者]●他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。

2007-02-14 ポット出版

最近、中島義道の『醜い日本の私』(新潮選書)と題する本を読んだ。中島は明大前や秋葉原の商店街が限りなく醜いと感じ、これに腹を立てない大半の日本人をなじっている。本のカバーには<この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ! 「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、押し付けがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論>とあるが、この本は実は差別論の本なのではないかと私は思う。

中島は明大前の商店街を醜いと感じ、私は別に何とも思っていない。中島はこの醜さを撤去したいと思い、私はどうでもよいと思い、別のある人はこの風景を心地良いと感じて守りたいと思っている。ここには感性と嗜好(指向)の違いがある。社会的な生物であるヒトは、マジョリティーの感性と嗜好を当然だと思い込み易い一般的性質を持っているのではないか、と私は思う。そこでマジョリティーがマイノリティーの感性と嗜好を抑圧すると、そこに差別が発生する。

だから、中島が頭に来ている問題と、伏見がもがいている問題は、構造的には同型である。違いがあるとすれば、性的な感性や嗜好は強く人々を縛っているのに対し、騒音や景観に対して中島のように過度にセンシティブな人は稀で、多くの人はどうでもよいと思っている所にある。たとえば、私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。

この私の立場からすると、反・性差別運動というのはかなり迷走しているのではないかと思う。私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。

性的なマイノリティーに対する歴史的な差別が余りにもきつかったのが原因だと思うが、一部のフェミニストたちは、性差そのものを否定することを最終目的にしていたような時があったように思う(今もそういう人がいるかも知れないが)。しかし、生物学的な性は、社会的に構築されたわけではないので、この戦術が破綻するのは原理的に自明である。さらには、強く差別されていると感じているマイノリティーに比較的共通の感性として、自分の痛みも理解してくれとマジョリティーに要求する傾向があったようにも思う。これもまた、マジョリティーが自分たちの感性をマイノリティーに強制するのを反転しただけの話だから、原理的には間違っていると思う。

この二つの隘路に陥っている限り、性差別の問題はうまく解決しない。今回の伏見の本は、これを乗り越えようとする意欲的な試みだと思う。たとえば、<ぼくが今日、性という現場での「欲望問題」を考えるときに大切にしたいのは、自分の「痛み」に特化してビジョンを立てるのではなく、そこに同様に存在する他の「欲望」に対する配慮や尊重です>(124頁)との文章には、その意欲を強く感じる。しかし他方で、本の帯にもある<命がけで書いたから命がけで読んでほしい>という文書を見ると、やっぱりよく分かってないのかなあとも思ってしまう。人は他人が命がけで書いた本を鼻唄を歌いながら読む自由がある。

人間は自分の欲望を解放するために生きているのだと私も思う。どんな欲望であれ、他人の恣意性の権利に抵触しない限り許されるべきであろう。レイプをしたいという欲望を抱くことは自由であるが、実行することは許されない。前者は他人の恣意性の権利を侵害しないが後者は侵害するからだ。性的な欲望は、他人の恣意性の権利擁護とバッティングすることも多く、当人にとっては切実な問題であろうが、一般的な解はない。

最後に文句をひとつ。伏見は<チンパンジーと人間の遺伝子は数パーセントしか違わないそうですが、それにわざわざ切断線を入れて、自分たちをホモサピエンスに分類している時点で、ぼくらがすでに共同性の中に位置する存在であることを示しています。>(148頁)と述べているが、チンパンジーとヒトの形態や行動の差異には存在論的(生物学的)な根拠があって、共同性とは関係ない。ヒトのオスとメスの生物学的差異もまた存在論的根拠をもち、共同性や社会構築主義が出る幕はないのだ。もちろん、性の文化的側面は社会的に構築されたものであることは間違いないと思うが、この二つを混同するとロクなことはないことは確かである。性差を廃絶したいのであれば、女の人のみからクローン人間を作ればよいのであって、そうなれば、男などというやっかいな存在物はこの世界からなくなるわけで、その時点で性をめぐるやっかいな問題もすべて消失する。当然、性差別反対運動などというものもなくなるわけで、フェミニズムで商売している連中はおまんまの喰い上げになるけどね。

【プロフィール】
いけだきよひこ●1947年、東京都生まれ。生物学者、早稲田大学教授。

【著書】
科学とオカルト/講談社学術文庫/2007.1/¥760
科学はどこまでいくのか/ちくま文庫/2006.11/¥640
外来生物辞典(監修)/東京書籍/2006.9/¥2,800
脳死臓器移植は正しいか/角川ソフィア文庫/2006.6/¥552
遺伝子「不平等」社会(小川真理子、正高信男、立岩真也、計見一雄との共著)/岩波書店/2006.5/¥2,100
すこしの努力で「できる子」をつくる/講談社/2006.5/¥1,400
他人と深く関わらずに生きるには/新潮文庫/2006.5/¥362
科学の剣 哲学の魔法(西条剛央との共著)/2006.3/¥1,600
環境問題のウソ/ちくまプリマー新書/2006.2/¥760
遺伝子神話の崩壊(訳)/徳間書店/2005.10/¥2,200
底抜けブラックバス大騒動/つり人社/2005.5/¥1,200
やがて消えゆく我が身なら/角川書店/2005.2/¥1,300
生きる力、死ぬ能力/弘文堂/2005.1/¥1,600
新しい生物学の教科書/新潮文庫/2004.8/¥514
やぶにらみ科学論/ちくま新書/2003.11/¥700
初歩から学ぶ生物学/角川選書/2003.9/¥1,400
天皇の戦争責任・再考(小浜逸郎、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.7/¥720
他人と深く関わらず生きるには/新潮社/2002.11/¥1,300
生命の形式/哲学書房/2002.7/¥1,900
新しい生物学の教科書/新潮社/2001.10/¥1,400
正しく生きるとはどういうことか/新潮OH!文庫/2001.8/¥505
三人寄れば虫の知恵(養老孟司、奥本大三郎との共著)/新潮文庫/2001.7/¥514
アリはなぜ、ちゃんと働くのか(訳)/新潮OH!文庫/2001.5/¥600
遺伝子改造社会 あなたはどうする/洋泉社新書y/2001.4/¥680
自由に生きることは幸福か/文春ネスコ/2000.7/¥1,600
昆虫のパンセ/青土社/2000.6/¥1,800
臓器移植 我、せずされず/小学館文庫/2000.4/¥495
生命という物語/洋泉社/1999.12/¥1,600
楽しく生きるのに努力はいらない/サンマーク出版/1999.11/¥1,600
科学とオカルト/PHP新書/1999.1/¥660
オークの木の自然誌(訳)/メディアファクトリー/1998.9/¥2,400
生命(中村雄二郎との共著)/岩波書店/1998.9/¥1,500
構造主義科学論の冒険/講談社学術文庫/1998.6/¥960
正しく生きるとはどういうことか/新潮社/1998.5/¥1,300
さよならダーウィニズム/講談社選書メチエ/1997.12/¥1,600
虫の思想誌/講談社学術文庫/1997.6/¥660
生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった/実業之日本社/1997.4/¥1,200
なぜオスとメスがあるのか/新潮社/1997.1/¥1,500
科学教の迷信/洋泉社/1996.5/¥1,845
科学は錯覚である/洋泉社/1996.1/¥1,942
科学はどこまでいくのか/ちくまプリマーブックス/1995.3/¥1,100
擬態生物の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
「生きた化石」の世界(訳)/新潮社/1994.11/¥4,660
思考するクワガタ/宝島社/1994.10/¥1,748
科学は錯覚である/宝島社/1993.6/¥1,796
分類という思想/新潮選書/1992.11/¥1,100
差別という言葉(柴谷篤弘との共著)/1992.9/¥2,233
昆虫のパンセ/青土社/1992.2/¥1,748
構造主義科学論の冒険/毎日新聞社/1990.4/¥1,262
構造主義と進化論/海鳴社/1989.9/¥2,200
構造主義生物学とは何か/海鳴社/1988.3/¥2,500
教養の生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000
ナースの生物学(池田正子との共著)/パワー社/1987/¥1,000

菅沼勝彦[メルボルン大学大学院生]●コミュニティと学問言説構築の架け橋となる

2007-02-13 ポット出版

 一読し終えてのぼくの感想は、エキサイティングなほどにリアルな、そして現場からの響きを直接感じ取れるほどのプラクティカルな声を発する書ということであった。90年代初頭より日本ゲイ文化(またはクィア文化)の言説形成の担い手の一人であり続けてきた伏見氏が、安着なアイデンティティ懐疑の遂行への危惧を示唆した近年のコメントに注目していたぼくにとって、『欲望問題』はそれらのコメントの背後にある彼の中での思考の変化や転換を丁寧に紐解いてくれるものでもあった。

 伏見氏によるゲイ・リベレーションは日本においてその黎明期に開始されたものだったが、その戦略や思想は一般にマイノリティ解放運動が頼りがちな本質主義的方法論とは一線を引いた、実にポストモダンな性格の濃い内容を持っていた。処女作である『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)において彼は、同性愛者と異性愛者のあいだには決定的なエロスの構造、あるいはそれの作用の仕方に違いがあるという固定観念にチャレンジしている。それは社会の中において、たとえゲイ、レズビアンまたはストレートであれ、それぞれが自らのエロスの発情装置を「ヘテロ・システム」というフォーミュラでお品書きされたジェンダー・イメージ(おもに男性性イメージと女性性イメージ)を駆使して製造しているという意味においては同じ穴の狢であるという主張でもあった。これについて伏見氏は『欲望問題』のなかで、90年代の自分の仕事は「自明であるとされた性を相対化することに力点」を置き、ジェンダー又はセクシュアリティ概念における「脱本質化」を図っていたと回想する(p78)。そしてアイデンティティやカテゴリーの相対化を意識的に繰り返すことによって、性的マイノリティにとって抑圧的なカテゴリー自体の解体が起こる状況を目標としていたとも(p117)。しかし彼は『欲望問題』で、果たして「ゲイ・アイデンティティ」や「おとこ」、「おんな」といったカテゴリーが解体されること自体が、またはそれに向かって一辺倒に突き進むゲイ・リベレーションのあり方が本当に性的マイノリティ(または彼らと社会に共生する人々)にとって生産的且つ幸福をもたらす結果を導くのだろうかと問いただすことになる。

 野口勝三氏との対談を通して多くを気付かされたと告白する伏見氏は、カテゴリーの構築性への気付きを繰り返すことや、アイデンティティの脱構築のみを続行していくことの先にいったいどんな意味があるのだろうと警笛を鳴らす。すべてのカテゴリーが構築されたものならば、それを眺めるわれわれにとって、何が本質的に「正義」だとか、「正しくはこうであるべき」という倫理を絶対化することが難しくなってくる。あるいは、たとえ「弱者至上主義」的な観点から、弱者が「正義」であるという概念を一般化していったとしても、それは新たな抑圧を逆転的に生むことに他ならない。そこで伏見氏は『欲望問題』での論題でもある、性的マイノリティや同性愛者の運動を「正義」の概念にのみ基づいて遂行していくのではなく、まさに「欲望実現のための営為」としても認識していくことが大切であると訴える。そしてその欲望のあり方をつかさどるジェンダーのイメージやアイデンティティの利用価値を批判的であれ認め、有効利用するべきであると。

 無論、カテゴリーの有用性を認めること、あるいは伏見氏の言葉で「アイデンティティへの自由」を訴えることにより、既存のジェンダー構造を手放しで肯定しているわけではないことを再確認しておかねばならないだろう。むしろ、彼は既存構造で不利益をこうむっている性的又はジェンダー・マイノリティがいかに生活しやすい空間を自ら形成していく過程において、注目すべきは己への差別を生産しているのは既存構造であると同時に、それを改善していくヒントもその既存構造のなかに含まれているということに気付くべきであると訴えているのである。まさに、敵対的な運動論ではなく、敵対的に見える既存構造を「包み込む」ヴィジョンを示唆しているのだ。

 クリティカルな視野の基、探求されるべき生産的「妥協」とでも称せる彼のあらたなテーゼは、『欲望問題』のなかで机上の空論にとどまることなく日本の現代社会を取り巻く多くの問題(小児愛問題、「ジェンダー・フリー・バッシング」論争など他)に絡めて展開されている。そのような端的な右派vs革新派というバイナリーに集約されがちなトピックにコメントを寄せることにより、『欲望問題』での彼の訴えが「伝統への帰り」或いは「保守的な実践論」と消化される可能性があることを本人も十二分に認識している(p182)。ただそこで敢えて、日本のゲイ文化(又はクィア文化)の変容を90年代初頭から鋭く観察してきた彼が既存構造との「歩み寄り」を提言しているのには、現代の性的マイノリティにとってリベレーションのパラダイムを「抑圧からの解放」というものから「欲望への自由」へと転換していく必要性を、複雑変化してゆく現代社会のなかで性的マイノリティが自由を模索していくために、彼がひしひしと感じているという現実があるのであろう。ゲイ・リベレーションにアカデミアとして一定の距離をすえて関わってきた者とは違い、雑誌などの編集・出版活動により常にコミュニティと学問言説構築の架け橋を築いてきた伏見氏の、まさに現場からの声(或いは素直なまでの欲望)を十二分に組み込んだ末のプラクティカルな訴えに聞き入る必要性を疑うことはできないだろう。

【プロフィール】
すがぬまかつひこ●
1979年、岡山県生まれ。メルボルン大学大学院カルチュアル・スタディーズ博士後期課程在学。

【著作】
論考
Enduring Voices: Fushimi Noriaki and Kakefuda Hiroko’s Continuing Relevance to Japanese Lesbian and Gay Studies and Activism/in 『Intersections』 no.14/2006
共編翻訳著書(with Mark McLelland and James Welker)
Queer Voices from Japan: First-Person Narratives from Japan’s Sexual Minorities/Lexington Books社/2007年出版予定

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第五話

2007-02-13 ポット出版

相互の「自由」を実現させるには?
━━『欲望問題』のその先にあるもの

沢辺●それ、大変だよね。相互の自由をうまく調和させましょう、折り合わせましょうというところに立つこと自体がけっこう大変だよね。

野口●具体的に政治の決定システムの中に入っていくのはなかなか難しいところは確かにあるとは思うんだけど、例えば現在同性愛者に対し、その存在を全否定して、殺してしまえばいいと主張する政治家はいない。一般の人でもそんな人はほとんどいないわけですよね。そうすると、普通の感覚で生きている人を説得できるプランを実現していく可能性はあると思う。

沢辺●ただね、僕は会社をつくって仕事をしているわけですけど、そこにはもれなく不測の事態というのは年がら年中おこるわけです(笑)。

例えば今日6時から彼女とデートを設定していても、トラブルが起こってどうしても仕事を残ってやらなければならないということがおこる。だけどみんな自由だよね、ということを前提にすると、まだ「僕の自由だからトラブル放っておいて帰ります。それが僕の自由でしょ」そういう程度の自由観が多数なんじゃないかな、と。

野口●そういう意味か(笑)。公共性を作り上げていく志向性があんまりないんじゃないかということですね。各自の自由に対する感度はあがってきたけれども一緒にコストを払っていくという感覚が。

沢辺●ひとたび仕事で稼ぐということであればそのトラブルに対処しなければいけないわけだよね。例えば担当者が僕と野口さんの二人だったとします。「じゃあ野口さん、今日の彼女はどうしても落としたいから今日は頼むよ。今度は僕がやるからさ」と僕がいう。野口さんは野口さんで誰かと飲む約束していたりして、そうやってお互いの自由がぶつかるわけだよね。

そうやって二人の自由は両立しえないということがある。もちろんそこには原因であるトラブルを減らすという解決策もあるけれども、それは明日からのことで今からはできないよね。あるいはその仕事を断念する。客には売らなくてもいいとする。それも自由ではあるよね。

野口●自由についていえば、最初から絶対的な自由というものがあるわけでなく、各人がお互いを認め合うことではじめて自由な存在になることができるわけで。

沢辺●そうそう。ところがその自由という感覚はお互いの自由を調和させてうまく実現させていかない限り、自分の自由すら実現できない。そういうところまでは自由がみんなのものになっていない。

ただそのことを後ろ向きにまだまだだよね、と評論家的に言っていてもしょうがなくて、それをさまざまな形で「昼飯をおごるから」とか「今度は俺がやるからさ」とか、あるいは「なんで沢辺おまえだけしらんぷりするんだ」と文句言ったりして対話するとか、さまざまな組み合わせのなかで、じゃあそういうトラブルがあったとき交替で対処するくらいはしょうがない、ということを了解し合う。

そうやって徐々に具体的な解決策が出来てくるんだけど、今の我々は、その解決策を山ほどつくっていく鳥羽口、いや2合目くらいにいるのかなという感じなのね。………………つづく

山元大輔[生物学者]●欲望の価値

2007-02-12 ポット出版

伏見憲明は、日本のゲイ・コミュニティーを代表する評論家・作家である。そして『欲望問題』。とくれば、ゲイ・レズビアン=被差別者・マイノリティーからの社会批判ないし告発、しかもどことなく爆笑問題を連想させるタイトルからは、伏見流のちょっと“おちゃらけ”の隠し味が効いた軟着陸路線の本だろうとの予断を呼ぶ。この予断が油断となり、軽い気持ちで一ページ目を開くと、にわかに緊張を強いられることになる。

その文章はいきなりシリアスなのである。しかも、小児愛者を許容できるか否かの論議で始まる冒頭部分。常識的には、小児性愛ほど忌まわしいものはない。それは無条件に排斥すべきものであり、小児愛者=異常者である。しかし、伏見憲明がこの問題を取り上げる時、私は不安に駆られた。おそらくその不安は、私の“常識的感覚”を伏見とは共有できないのではないか、という不安なのである。私が伏見を“あちら側の人間”として、どこか心の深層で感じていることをそれは意味する。

むき出しの表現を敢えてとるなら、伏見は同性愛者であり、世の中の多数を占める異性愛者=マジョリティーとは区別される集団の一員であるのに対して、私は“普通の集団”に属している、という私の中の潜在的差別感に根ざしていると言える。実は、これがまず伏見が摘出したかったポイントなのではないだろうか。伏見を基準としたとき、自分が「こちら側」の人間か、「あちら側」の人間かを読者自身に否応なく答えさせる、そういう展開になっている。

「こちら側」と感じるのか、「あちら側」と感じるのか。本書が問う問題の本質がある。そして意外にも(?)、伏見は小児性愛を忌むべきものとして彼岸に、つまり伏見自身の属さない「あちら側」へと追いやる。こうして「こちら側」へと“越境してきた”伏見に、私は安堵し、信頼感を持つことになるのだ。しかし伏見のこの越境は、“命がけ”だった。

小児愛者が子供に性的に欲情するのは(しかもおそらく彼らは性欲のはけ口としてのみ子供をみているのではなく、本気で恋したりもすると私は推察する)、伏見が自然に男性に恋し、私が自然に女性に恋をするのと同じであり、それ自体が犯罪的ではあり得ないだろう。にもかかわらず、同性愛者であることによって差別と抑圧を受けてきたものが、小児愛者を差別し抑圧する。

ここに、うっかりすると見逃してしまうポイントがある。それは、“自然に”恋する、という点である。初恋を思い返してみればよい。あなたの心に決して消えることのない鮮烈な思いを残したその相手は、女性だったか、男性だったか。そこに選択の余地はなかったはずだ。稲妻のごとく押し寄せるその情感には、思考の介在する余地など微塵もない。その“感覚”こそ、自然な恋愛である。それは本能であり、脳に組み込まれた無意識の神経装置が機能した結果なのである。それは、育つ環境や教育によってほとんど左右されることのない、脳のハードウェアの性質によるのである。小児性愛にも同様の堅固な土台があるに違いない。となると、それは矯正など容易に出来るものではないのだ。こう問うてみるとよい。矯正によって、自分の異性愛(同性愛)は揺らぐだろうかと。

恋愛に動機など必要ない。恋愛だけではない。ヒトの多くの行動には「動機=意識される理由」など存在しないのである。人を殺すこと−自殺を含めて−にすら、多くの場合、動機などない。しかし社会は理由を求める。脳の配線のわずかのたわみが、“想定の範囲外”のことを人にさせるものなのだ。

自動装置としての脳は、進化の所産である。それは、動物、そして人の、欲求行動を支えるマシンとして、何億年もの歳月を費やして築かれた。科学的発見による知的興奮も、経済的充足も、セックスの快感を生み出す神経回路そのものによって生み出される。神経回路にとって、高級も低級もなく、それは単に欲望として存在するに過ぎない。

そう考えるとき、一見、あやふやな「欲望」と言うくくりで「痛み」も「正義」も一緒に束ね、そのいわば駆け引きを通じて多様な価値に折り合いをつけるという伏見の主張に、実はきわめて合理的な基盤があることに気づかされる。

例えば、小児愛者の欲望は、社会を平和に健康に維持しようとするもう一つの欲望により、抑圧される。この場合、両者が折り合いをつけるための「線引き」は小児愛者の欲望の大半を切り取る場所に設けざるを得ない。その線とは、結局、「あちら側」と「こちら側」を隔てる欲望の境界線である。

マルクスは労働が商品となり、労働量(時間)があらゆる生産物の共通の通貨として機能することを示した。その中で等価交換の成立しない労働力搾取の構造を暴きだした。しかし、我々には、労働時間よりももっと身近な共通の通貨があったのである。それは、「欲望」である。

自らはさんざん女性としての生活を享受しながら、空想の世界以外にはありえない性差の抹消を主張する不誠実なフェミニストたちの残骸の上に、伏見は新しい価値の塞を築いた。そこには生々しく、生き生きと、欲望を抱え、そして差別をつねに内にはらんだ人間の本当の姿がある。

やまもとだいすけ●
1954年東京都生まれ。東京農工大学大学院農学研究科修士課程修了。早稲田大学教授などを経て、東北大学大学院生命科学研究科教授。行動遺伝学専攻。

【著書】
心と遺伝子/中公新書クラレ/2006.4/¥780
睡眠リズムと体内時計のはなし/日刊工業新聞社/2005.5/¥1,200
男と女はなぜ惹きあうのか/中公新書クラレ/2004.12/¥760
記憶力/ナツメ社/2003.6/¥1.300
超図説 目からウロコの遺伝・DNA学入門(訳)/講談社/2003.2/¥1,900
恋愛遺伝子/光文社/2001.10/¥1,500
3日でわかる脳(監修)/ダイヤモンド社/2001.9/¥1,400
遺伝子の神秘 男の脳・女の脳/講談社+α新書/2001.7/¥840
「神」に迫るサイエンス(瀬名秀明、沢口俊之らとの共著)/角川文庫/2000.12/¥619
行動の分子生物学/シュブリンガー・フェアラーク東京/2000.12/¥4,000
脳が変わる!? 環境と遺伝子をめぐる驚きの事実/羊土社/1999.1/¥1,500
行動を操る遺伝子たち/岩波科学ライブラリー/1997.5/¥1,200
脳と記憶の謎/講談社現代新書/1997.4/¥660
本能の分子遺伝学/羊土社/1994.6/¥2,621
ニューロバイオロジー(訳)/学会出版センター/1990.7/¥9.708
神経行動学(訳)/培風館/1982.5/¥4,900

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第四話

2007-02-12 ポット出版

対話から問いを立て直していく
━━『欲望問題』の面白さ

野口●今言われたように、反権力をスローガンにした社会運動はよく普通の生活者の中に生きている「常識」や「普通」に対して、過剰に反応して「常識」って一体なんだ、「普通」ってなんだと攻撃的な態度に出ることが多いんだけど、当然のことながら「常識」の中にも良い部分と悪い部分が必ずある。「常識」というものが、人が共同的な社会を生きていく中で醸成されるものである以上、そこには異なる価値観をもつ人々が一緒に生きていく上で必要になる作法、合理性も当然含まれる。「常識」には、そうした人の倫理の普遍性と、一方的に何かを排除しようとするような、近代的な人間観に抵触したものが存在している。つまり、「常識」の中の正当化できないものと正当化できるものを区分けする必要がありますね。

これもさっきの議論と同じで、自分たちの価値観、意見、共同性と違う人たちからの意見に対して、それはマジョリティの常識的な意見だと十把一絡げで否定するのではなく、その意見を区分けして核を取り出していき、正当な意見かどうか検討しなければならないわけです。

さっきの沢辺さんの地下と地上の話でいうと、役職や地位というものは、人間が一緒に集まってひとつの組織を運営していく上で不可避的に生じるものです。全員が平等な立場で同じ決定権を持って運営するのは、組織が大きくなればなるほど不可能なわけです。だから地位が生じること自体には普遍性があるということを認め、よりよい地位関係はどのようなものかとか、それはどうやって作っていけばよいのかなどの具体的な方法論を考えていくことが重要だと思います。

この『欲望問題』にも、多くの人が枝葉の部分でいろいろ言ってくるかもしれない。例えば、伏見さんはフェミニズム、ジェンダー論が性差解体を主張していると言っているが、こういう議論もあるし、ああいう議論もあるというような反論が必ずあるでしょう。また、なぜジェンダーフリーを主張する側への批判ばかりで保守派への批判があまりされていないのかという意見もあるでしょう。でもそれは読み方としてはまったく正当な読み方ではない。

議論に耳を傾ける場合、核心をまずつかむ必要があり、それをつかんだ上で、この掴まえ方にはこういう問題があると言う必要がある。今回の場合、例えばジェンダーフリーに関する部分では、ジェンダー論が性別というものをどう扱うのかについての原理を提出しないまま、性別が悪いものだというイメージを流し続けていることを批判しているわけです。

一方ではジェンダーを政治的な概念だといい、一方で中立的な概念だということを主張して、学問の世界以外の人に理解できるような論理をキチンと提示していないことを批判しているわけです。もっとも学問の世界の人間が正確に理解しているのかどうかもあやしいのですが。そして、学問の世界のこうした誠実でないやり方が、ジェンダー・フリーバッシングの動きを背後で支えているのではないかという疑問を提出しているんですね。つまりジェンダーフリーへの反発の根本原因は、ジェンダーフリーを推進する側や、ジェンダー論の研究者にあるのではないかという疑問を提出しているわけで、問われているのは自分たちです。ですから批判をするなら、保守派に対する批判をなぜもっとしないのだ、などのような問いをずらす反論ではなく、こうした論点に直接向けた反論をする必要があると思います。

もし批判を相手の議論の核心をつかんだ上でなさずに、自分に都合のよい点だけで行うなら、議論が自己の信念を補強するだけの、単なる闘いのための言語ゲームになってしまい、議論を深めていく対話のための言語ゲームでなくなってしまう。でも本当は、闘いのための言語ゲームなんて自己意識を強化するだけの作業で、たいしたことじゃないんですよ。

僕はいま学生と一緒に文章を作る仕事をやっていて、学生は自分の経験の中の出来事やそのとき感じたことを捉え返して、なぜその出来事のそういう感情を持ったのかを考えて文章を書いてくるんだけれども、僕のアドバイスと同じことを同じ言葉で書いてきたのを読んでもまったく面白くないんですね。僕がアドバイスした内容と同じ意味であっても、彼ら固有の表現で書かれているとやっぱり面白い。また、僕が思いもよらなかったような理由を彼ら自身が取り出して書いてくると、やっぱり面白いんですね。実は言論の本質はそこにある。

闘いの言語ゲームで勝つというのは、いわば自分の言葉で相手との違いを全部埋めることになるわけですよね。でもそれは本当はつまらないことで、言論の本質は、自分が投げかけた言葉を相手が受け止め、さらに返してくるやり取りの過程で、自分が触発され、考えを深めることができるというキャッチボール、対話性の中にある。言説の世界で、言論の持つそうした面白さに対する感度がどんどんなくなってきている気がする。自分の信念で全部埋め尽くして、批判されると排除しようとする傾向がある。それは結局自意識に負けていることを意味しているんですね。そういう形で言論という言語ゲームが闘いの言語ゲームに還元されてしまう貧しさを感じていて、とても残念に思います。

しかし伏見さんの『欲望問題』はそうではなくて、ある議論に感じたことを内省して、その感覚が一体どこからくるのかということを、相手の議論の核を受け止めた上で、自分の経験や自分のありようとすりあわせをしながらもう一度初めから考えている。さまざまな立場の人々との対話が『欲望問題』のいちばん中心にあるんですね。結論も重要なんだけど、それ以上に相手の意見を受け止めようとする態度や内省のプロセス──それは生き方とも言えると思うんだけど──がこの『欲望問題』の一番の面白さだと思う。

沢辺●その通りだよね。具体的に言えば、少年愛の指向を持っている人から手紙が来たという話が書いてあるんだけれど、その少年愛の指向を持っている人と自分は居る場所が違うだけ、自分と相手との間には大きな川があって、相手は犯罪者で自分は正常だと分けているのでなく、自分と相手が居る場所は地続きの中にあると位置づけている。僕はこれもすごいなと感心したことのひとつなんです。

ほとんどさまざまな問題に自分を重ねているでしょう。少年愛を指向している人を自分と無関係なこととしてどう評価するのかではなく、例えば自分が少年愛という指向をもっていたらどうだったのかとか、自分が持つ可能性はあったのだろうかとか、ほとんどの事象に対して、自分を重ねている。これはまったくすごいよね。

野口●うん。たまたま自分はゲイであり、少年愛ではなかったという自分自身の性の指向性をさまざまな性の指向性との連続性の中で捉えるということは、今言われたように問題に自分を重ね合わせるということなんですね。またさらにすぐれているのは、自分の問題として捉えてそれを全部正当化するのではなく、その指向性を社会の中に置き直したときに、どのレベルで認められる問題なのかということを、もう一度捉え直している点ですね。少年愛の場合は内面の問題としては仕方のないことだが、社会的なルールとしては認められないだろう。何らかの線引きは社会にとっては必要だろうと、痛みに満ちた結論を引き受けているわけです。

これは、別に少年愛者だから裁断しているわけではなく、ゲイに関しても同じなんですね。ゲイだからということでゲイの利害が全部通るわけではないということを引き受けている。ゲイは再生産を核にした家族中心の社会において、抑圧を受けてきたといえるわけだけど、だからって、家族、子供を作る人たちは自分の利害に反する存在だ、家族を再生産していく社会システム全体が間違っている、とは言わない。ゲイである自分は子供をつくらない。子供を中心とした家族を営むわけではない。しかしながら社会の存続可能性にとって子供が必要である以上、ゲイも同じ社会を生きる人間として、社会を維持するコストを払う必要がある。子供を作るという形でのコストを払うことができないけれども、それに代わりうるコストを払っていく必要がある。このように自分を常に他者と重ね合わせながら、社会の中に置きなおして普遍化して検証する態度を一貫して持ち続けているんですね。

ゲイリブの中には「反家族」という理念を打ち出す人もいる。しかし同じ社会のメンバーである以上、それを維持するためのコストは、どのレベルでどの程度払う必要があるのかは議論によって決定されていくのでしょうが、互いに負担しなければならない。異なる利害を持っている人が同じ空間のなかで存在する以上、維持するコストはお互いに払っていく必要があるという意識を持つこと。公共性というのはそういうものですね。

家族を自分たちを抑圧する共同性だからと否定するのではなく、家族を持ちたいという利害を持った人たちも社会の中にいて、われわれもそうした人々も等価なものとして社会の中に存在している。自分の利害は絶対的なものでなく、他者によって相対化されうるものであり、そういう人間同士が一緒に社会を作っていくならば、誰がどのようなコストを支払うのかは、対等な権利をもったメンバー同士で決定されうるものだ、と。ところが、特殊なイデオロギーを持つと、このような見方がなかなかできないんですね。

そこから抜け出すのは難しいと沢辺さんがおっしゃったんだけど、全くその通りで、イデオロギーは世界を見る認識枠組み、フィルターのようなものの一種だと考えることができる。図式化して言うと、世界はいわばカオスであって、人は何らかのフィルターを通してカオスとしての世界を、再整理して認識していくわけです。そのときのフィルターにマルクス主義があったり、フェミニズムがあったり、クィア理論があったりする。そして、このフィルターを信じていればいるほど、そのフィルターを通した世界像から抜け出すのが困難になるんですね。

大切なのはこのフィルター自体を検証する回路を持っておくことです。その認識枠組みを共有しない人が、さまざまな現象をどのように意味づけているかを不断に検証しておく必要があるんです。自分たちはある現象にAという意味づけを行っている。しかしながら同じ現象を別の人はそのように意味づけていない。だとすればもしかしたら自分の認識枠組みが間違っているかもしれない、それが本当に正しいかどうか検証してみよう、というように自身を内省する回路を作っておかなければならない。この認識を共有する人たちだけにしか通用しない議論をするのではなく、その認識枠組みを知らない人に対しても理解可能な議論をしていく中で、互いの認識を深めていく過程をたどらなければならない。

そういう姿勢を持つことが今後の反差別運動では特に求められていると思います。現在、先進国では各人の自由がだんだんと実現されてきた。日本もそうですね。もちろん全ての自由がかなえられているわけではないが、自由の水準が上昇した社会になって来た。このようなときに、ある特定の利害に基づいた見方をみんなが共有すべきだという議論は、その利害を持たない人には全く通用しないんですね。そのイデオロギーを信仰してしない人から見ると、何を言っているんだろうこの人たちは、となる。

だいたい「普通」に生きている人たちは、強固な一つの利害に基づいて生活をしているわけではないので、議論を俯瞰して冷静に見られる人が社会に大勢いることを認識しておかなければならない。そのような現実に謙虚であり続けなければならないんです。

異なる価値観を持った人同士で生きていく社会である以上は、差別の克服というのは非常に重要で、アメリカなんかが典型ですけど、他民族国家の社会においては差別を克服できないと社会の存続自体が危うくなる。現在の日本では異なる民族の人たちの共生の問題はそれほどクローズアップされていないけれども、今後だんだん問題になっていく可能性がある。

それは民族だけでなく、ゲイや障害者、いろんなマイノリティもそう同様です。そのときに多くの人が納得しうるような論理を立てないと、結局差別の克服は実現できない。マイノリティ側にとっても自分たちの言葉が全然通用しないという現実を、反権力、反社会的な信条だけで目をつぶってやり過ごしていくことになる。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第三話

2007-02-11 ポット出版

先祖の祟りだというのと同じ!?
━━近年のジェンダー論を批判する

野口●僕もかつて、伏見さんの本を最初に読んだとき、ゲイの反差別運動と理論は性別二元制の解体というものに定位していく必要があるという結論を、なるほどその通りだと思っていました。でもだんだんその議論が本当に正しいのだろうかという疑問を持つようになった。その理論を自分の生に引き付けてとことんまで考えてみると、自分がゲイだということ、男であるということ、それ自体を悪いとはどうしても思えないという違和感が残った。そこで初めて、もしかするとこの議論自体がどこかがおかしいのではないかと思えてきた。それはいったい何なんだろう、というのが僕自身が思想や理論を一から考え直そうとした動機なんです。そこで僕がぶつかった問題は、一言で言えばルール批判の、または社会批判の正当性の根拠は何かという問いだったわけです。

多分伏見さんも同じだったのではないかと思う。理論というものは具体的現実を基点にして、それを抽象化することで作り上げられるわけですが、そこで作った理論は再び具体的現実によって検証する必要がある。理論は具体性と抽象性の間を何度も往復することで初めて普遍的なものとなっていく。そのときに重要なのは、理論にとって都合が悪い具体的事実が出てきた場合、それを正面から受け止める必要があるということです。具体性による検証によって都合の悪い事実をもう一度繰り込むことで、理論を新しい形に編み上げ直さなければならないんですね。

その意味で、特に理論を作るような人々、典型的にはアカデミズムの人々は現実のありように謙虚である必要がある。自分たちの作り上げている理論が現実の人々の中でキチンと生きているか検証しなければならない。自分たちの理論というものが現実世界によって試される一つの考えに過ぎないんだという謙虚な姿勢を持たなければならない。自分たちが特定のイデオロギーを再生産する制度になっていないかを現実世界の中につねに内省していくことが大切です。これは実は、現代社会における「知」の役割は何かという問題を考えることでもあるんです。しかし都合が悪い事実が出てきたときに、例えば「あなたはそう言うけれども、実はそれは背後にある〜に言わされているんだよ」というようなロジックを組み立てると、都合の悪い事実が都合が悪いという形で処理されないんですね。理論に当てはまらない現実の矛盾を無視するということになってしまう。これは実は「他者」に全く向き合っていないということを意味しているんですよ。こうしたロジックは現在のジェンダー論に広く見られると思います。

沢辺●それは失礼なことだよね。お前はだまされてる、バカだっていうことでしょ?

野口●例えば、たとえ好きな人とセックスをしていてもそれは強姦なんだということを平気で言えるようになる。こうした物言いは、あなたはおかしいと思っていないかもしれないが、実は先祖に祟られているんだ、と言うのと論理的には一緒ですね。

沢辺●「僕はあなたが嫌いだ」というのは個人的な好みだからいいけど、「あなたは真実を見てませんよ、だまされてますよ」と言うっていうのはものすごく失礼だと思う。

野口●もちろん、「だまされていますよ」っていうとき、なるほど確かにだまされてるなって思える説得力のあるロジックが組み立てられているのならいい。例えば、何らかの政治課題について、〜のように思っているかもしれないが、実際の政策決定の現場ではこういうことが行われているんだよという確かめられる情報を提示されたときに、ああ、なるほど、先の考えが自分の思い込みだったと気づくこともある。そういうふうに相手を説得することができる論理を組み立てることができるか、また組み立てようとする意志があるかどうかが重要なんですよ。

沢辺●相手がだまされていると思ったときに、きちっと説得できるだけのロジックを獲得している者と、ただ単に信仰として信じていないから間違っている、だまされているという理屈は根本的に違うということですよね。僕はそれはその通りだと思うんだけれども、それともうひとつ違う判断基軸が実はあるような気がしている。それって本人に正面から間違っているって言っているかどうかという問題。多くはそういう場合、本人にはだまされてるって直接言わないんですよ。

例えば、フェミニストの批判する美人コンテストの話で言えば、社会が悪いと遠回しに言っているんだけれども、要はそう思わない女はバカだって言っているわけでしょ。もちろんそういうひどい言葉では言わなくても「あなたはだまされているから気づきなさいよ、なぜならこうこうこうですよ」ということを、真っ正面から言わずに遠回しにしか言わないじゃないですか。僕は、そういうのは思想的に真摯じゃないと思う。人民がだまされているとか、女性がだまされているって本当に思うんだったら、すべての女性はだまされているってちゃんと言った上で、野口さんがいうようにそれはなぜなのかというロジックできちんと説得していく。それがどんなにボロボロになっても袋だたきにあっても私はそう思うんだと最後まで説得しようとする態度があれば、ひとつの有り様として許容できるんです。しかし、そうではなくシンポジウムとか、結果的に自分に共感する女の人たちだけが集まるような場、そういうところでしか言わない。だいたいシンポジウムなんて論者に共感している人しか来ないじゃない? ふだんの現場、たとえば正月に親戚一同が集まり女の人が半分いるような場で、勝負していないっていう気がする。それはやっぱり真摯さに欠ける。

野口●なるほどね。それはさっき言ったあるひとつの信念を強固に信じた共同体っていうのができると、その外に対する感度が悪くなり、それ以外の考え方をキチンと開こうという意識が希薄になってくるという問題と通じますね。そうした態度は「他者」と向き合うという姿勢から最も遠いものですね。 「他者」に向き合うとは、自分の信念はもしかしたら間違っているかもしれない、それはさまざまな信念のうちの一つとして相対化されうるものだという意識を持つこと、異なる意見を言っている人々の議論を適切に受け止めて、批判の核を捕らえるという事を意味しているんです。批判をしている人たちを十把一絡げにするのではなく、批判を分節化して、この人の批判には理がない、この人の批判についてはきちんと自分たちが考えなければいけないという区分けをして、相手の言葉をつかまえるような努力をするということなんですね。「他者」に向き合うことを要請する議論には、実際にはこうした視線を欠いたものが数多く見られます。それは結局鏡像的自己像を確認しているだけなんですね。

沢辺●この『欲望問題』は、僕にとっては自分が左翼をやめたことと非常にオーバーラップしてしまう本です。僕、実は20代の頃は地方自治体の中の労働組合運動を中心に左翼をやっていたんですよ。組合事務所が地下1階にあって、そこで組合の役員たちが活動家として議論するわけですよ。しかしそこで議論していることと、昼間は机を並べて一緒に仕事している人とは全然噛み合ないわけ。例えば、係長試験というのがあったんだけど、それは出世競争をえさにして労働者を競い合わせる悪い制度だ、と地下1階では議論していたし、そういうふうにビラにして巻く。でもその時に同じ机を並べていた僕より10歳くらい年上の人に、「お前にはね、なんだかんだ言っても、組合の青年部長っていう「長」っていうのがついてんじゃねーかよ。出世に背を向けて僕はみんなのために労働活動をやっていましたという理屈が立つだろ。しかし俺たちただの庶民は係長の長でもなければ、ただの父親でしかないよ。俺たち何にもないのに、なんで俺たちから長のチャンスを奪うんだ」って言われたんですよ。地下1階で自分たちだけが信仰している宗教のなかで議論していたときと、上の仕事場に行ったときの乖離(笑)。ノックダウンなんですよ。でもそのときはまだわかってない奴を俺たちが啓蒙して教えてやるんだということで、かろうじてその乖離を納得させてたわけ。

今振り返って考えれば、一般の人が考えたことは必ず正しいということではないが、しかし庶民が考えたことの感覚のなかにもそりゃそうだなというところもいっぱいある。無条件に受け入れるのも間違いだし、無条件にだまされているバカどもだというのも違うなと。僕には労働組合の仲間もいたし、議論の場もあったが、しかしこの『欲望問題』を読むと、伏見さんはたった一人でリアリティをつかまえてきて、それはすごいなと思いますね。

玉野真路[科学技術批評家]●イデオロギーからゲームへ、そして免罪の拒絶へ……

2007-02-11 ポット出版

わたしたちは、日々、ゲームをしている。ゲームというのは、いわゆる遊びとしてのゲームとは限らず、日々の生活の中で自分の利得を最大に、損失を最小にするにはどうすればよいかを考えて、戦略的な行動をしているということだ。

たとえば、同性愛者がある場面でカミングアウトをする戦略と、しない戦略のどちらを採用するか。カミングアウトをするという戦略を採用するには、カミングアウトの利得をコストとリスクの和と比較し、それぞれの場面の中で利得が勝ると考えればカミングアウトをするし、コストとリスクの和の方が大きいと判断すればカミングアウト戦略を採用しない。

つぎに、ある一人のゲイを見ると、その人はあるところではカミングアウトしていて、あるところではカミングアウトしていないことがほとんどだろう。その人は、カミングアウトをする戦略と、しない戦略の混合戦略を採用しているということになる。そうすることによって、自分の人生から得られるうま味を最大化しようとする。カミングアウトの利得を多めに勘定する傾向のある人はカミングアウトをする頻度は高く、コストとリスクを高く算定する傾向のある人はカミングアウトの頻度は下がる。

さらに社会の中でのゲイの集団を考えてみよう。学生などカミングアウトの敷居の低い(つまりコストのかからない)層ではカミングアウトが行われる傾向が強くなるだろう。旧態依然たる会社などリスクが大きい社会ではカミングアウトが起こる確率が減るだろう。そうしてカミングアウトが社会全体でどの程度の頻度で起こるかについて、一定の均衡状態を得るだろう。

この均衡は歴史的に変遷する。近年起こったように、社会の中でカミングアウトをする人が増えてくればカミングアウトの敷居は下がり、均衡はよりカミングアウトをする側に傾くだろう。一方で、保守化が進めばカミングアウトの均衡はカミングアウトしない側に傾くことが予想される。

ジェンダーの境界も、カテゴリーやコミュニティを維持するか放棄するかといった選択の戦略もほぼ同様に考えられるだろう。ジェンダーの差異を温存する利得と捨てる利得を天秤にかける。そこでうま味を多くの人が得られると判断するならば、一部のアカデミズムがジェンダーの差異をなくすことが「正しい」と唱えても、人びとは簡単には応じない。ゲイというカテゴリー、ゲイ・コミュニティについても、最終的にはそれがなくなることが「正しい」といっても、多くの人がそこからうま味を得ていると実感できれば人びとは手放さないだろう。逆に、多くの人びとにとってうま味を提供できなければ、コミュニティは役割を終えて次第に縮小していくだろう。

こうして、利得とコスト+リスクを天秤にかけ、どういう戦略を採用すると、人生のうま味が最大になるかを考えながら、私たちはさまざまな行動選択をしている。このときに理屈として「正しい」ことがいつでも採用されるわけではない。たとえば、「ゲイというカテゴリーがなければ、ゲイ差別もなくなる」というのも理屈としては正しいだろう。しかし、たとえば「ゲイというカテゴリーがあったほうが出会いの機会が増える」など、ゲイというカテゴリーから多くの人が利得を得ている場合には、ゲイというカテゴリーが捨てられることはないだろう。論理としての究極の形を提示すれば、そこに結論が行き着くわけではなく、人びとがお互いの欲望をせめぎ合わせながらフロントラインが決まっていく。

しかし、こんなに「言われてみれば当たり前」のことが、なぜ「命をかけて」書かれなければならないのか?

これまでジェンダーやセクシュアリティに関する反差別論の領域では、カミングアウトしない戦略、性差別に抗わない戦略、ゲイというカテゴリーをゲイであっても嫌悪し近寄らない戦略をとる人びとが圧倒的に多い中で、ごく少数の人間によって担われてきた。そうした人びとからすると、利得の幻想を信じ込む必要があった。そういうときには幻想としてのイデオロギーは有効だったし、これから新しいムーブメントにはある種のイデオロギーは必要とされ続けるにちがいない。

カミングアウトは絶対的に正しいという幻想、差別の解消のためにはゲイというカテゴリーやジェンダーの差異がなくなることが正しいという幻想……それらの幻想が「正義」だとする価値観。わたしを含めて、反差別論の分野で言説を弄してきた人間たちは、そういった幻想を見て、その価値を信奉しながら闘ってきた。多くのアクティビストたちはしばしば単純な損得には還元できない行動選択もしてきただろう。損得勘定を越えた言動が人に現れるところに“愛”を見るとすると、そこには確かに愛もあっただろう。

しかし、この幻想はいつしか絶対的ないし規範的な「正しさ」「正義」と考えられるようになり、原理主義的に突き詰められていく。たとえば「カミングアウトをすることは正義であり、その正義を行えない人間は差別に屈している」という風にして、カミングアウトをする人間が一段上に立ったりするようなことが起こる。そうなると運動の外部から見ると、その運動にリアリティがないと思われるようになってくる。つまりゲームの均衡点から、イデオロギー的な主張が大きく離れていくのだ。そうなると、多くの人から飽きられていくことになる。ときとしては攻撃されることにもなるだろう。

さて、こうした暴走を止める手段は何か?

伏見はまず冒頭で、少年愛者ではないという自己規定をしてマジョリティの側から、少年愛者というマイノリティを見て、彼らの自分との連続性を確認する。ところが、そこで「みんな欲望において少年愛者と地続きだから、少年愛者の気持ちも考えましょう」といった耳あたりのいいヒューマニスティックな結論に落ち着くことはない。社会を営む以上、線引きをせざるを得ない場合がある。自分たちの利害だけではなく、多くの人がゲームを行い、欲望がせめぎあう場として社会を構想するからだ。それでも、彼は言う。

「この社会を営んでいく過程で、善し悪しの線引きをしていくことの割り切れなさや、「痛み」は、それぞれが心の中で引き受けていくしかありません。この社会自体にノーを言い立てることでその責任を免れるわけではないし、そんなことは頭の中での罪悪感の打ち消し、自己慰撫でしかないでしょう」(p65)

線引きで向こう側に追いやった人びとに、われわれは痛みを与えているのであり、現行の社会の中での正しさを唱えることで免責されるわけではない。そこへの想像力を堅持しなければならない。与えた痛みを忘却する「免罪」は許されない。

さらに第3章では、『X-men』に出てくる、人間にはない能力を持った「ミュータント」というマイノリティの立場に立ってつぎのようにいう。

「人間社会には人間社会の、それまで積み重ねてきた合理性も意味もあるのだから、「ミュータント」の利益からしたらそれは自らを抑圧することに思えても、それを全否定する権利は一方的にはない。」(p161〜162)

マイノリティの側も、マイノリティであるというだけでどんな要求でも通るわけではない。マイノリティであるというだけで、無限に権利を要求し、マイノリティが反転した特権を持つという事態を避けるためにも、「免罪」によって痛みのない社会を構想するのではなく、これを拒絶する思想が必要だということだろう。

社会の中で対等な決定権をもつ人びとが、共同性を維持するためには、こうしたゲームをうまく機能させることが鍵となる。そのためには、マジョリティが線引きをして正しさに酔うことで免罪されることも、マイノリティがマイノリティの立場で免罪されて反転した強者になることも拒否することだ。

免罪を拒否して、合理的な思考へと進むこと。本書は、現代ジェンダー・セクシュアリティ論の「宗教改革」の書といえるだろう。

【プロフィール】
たまのしんじ●予備校講師、科学技術批評家。名城大学非常勤講師。セクシュアリティの科学などを専門とし、科学や医療の問題を、科学的データを踏まえたうえで社会的な視点でとらえていこうとしている。

【著書】
新しい高校生物の教科書(共著)/講談社ブルーバックス/2006.1/¥1,200
新しい科学の教科書/文一総合出版/2004.5/¥1,800
同性愛入門(伏見憲明らとの共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
クィア・サイエンス(訳、サイモン・ルベイ著)/勁草書房/¥4,500

◎All aboutで書評されました [『欲望問題』の評判]

2007-02-10 ポット出版

◎All aboutで書評されました
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20070210A/

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第二話

2007-02-10 ポット出版

初発の動機を生かし、自身を問い直す勇気
──『欲望問題』の普遍性

沢辺●今度伏見さんが書いたものは、ゲイ解放運動を先頭切ってやってきた伏見さんの大元にあった「ゲイとして、より生きやすい状況を作ろう」とか「人としていやな気分を減らそう」という根幹をがっちりと守りながら、その実現的な道筋について真摯に考えた結果、方法論をより深めたということですよね。その変容の過程を真摯にオープンにした、ここがけっこう大切なことだと思うんですよ。

全共闘運動の話でいうと、当時ベトナム戦争に反対するということは、やはり根拠があったと思う。強大なアメリカにあんなちっこい国が攻め込まれて、人々がふざけるなアメリカ、という気持ちをもったのは当たり前だと思う。70年安保闘争には、そういう感覚もあったわけです。広く人間に対する共感とかね。橋爪大三郎さんなどはそこは大切にしたまま、そういうことがおきないために、あるいは人間がよりよく生きるためにどうしたらいいか、ということの方法論として、その背景にあったマルクス主義の方法論を疑った。その初心が守られている変化というのは大切だと思うのね。

野口●自分の初発の動機をより生かすということですね。伏見さんも差別的状況の解決という初発のモチーフをよりよく生かしていく道を正当に探求されたわけですね。

沢辺●そう。そこに思想的な真摯さがある。自分がこう言ってきたからということよりも、初発の動機を優先させた、というのが真摯さのいちばんの根本で、そういう意味で今回の本がすごいと思うわけです。

野口●社会条件は時代とともに変化していくんですが、そういう中で伏見さんは、現実のありようを自分の内在感覚に繰り込んできたんだと思う。一般的に差別問題では、差別的状況を理論のかたちで抽象化していくことで、この社会全体の基盤となっているある構造に根本的な欠陥があるために差別が生じている、という論理を作っていくんですね。差別が厳しいとき理論的抽象化が行われると、とりわけその傾向は強くなる。ゲイ差別も同様で、性別二元制を解体しなければならないという理論を作り上げ、反社会的論理を作らざるをえなかった。しかし社会が変化して、だんだん差別が緩んできて、現実にカミングアウトしている人が少しずつ増えてくるようになり、日常的に蔑視されることも少しずつ減っているということが私だけではなく、多くのゲイに実感されてくる。そのときに伏見さんは、現実の変化をもう一回繰り込みながら、よりよく生きやすくなるためには最初の理論ではうまくいかないんじゃないかと考えるようになった。我々を完全に抑圧する対象でしかなかった社会が、どうもそうではない。我々の自己実現をはかるというツールが社会の中で用意されている。だったら自分が作ってきた道をもう一回捉え返して変えていくしかない、という内省のプロセスをたどられたのだと思う。それが沢辺さんがいま言ったように、最初のモチーフをちゃんと生かした方法だったのだと思う。

沢辺さんはこの議論に自分の左翼運動の経験を重ね合わせて共振して、興奮され、感動されたわけですが、そのわけは、自分の生の可能性の総体を規定した世界像を、たとえ痛みを伴っても一から作り直さなければならないときが人にはあるということを、そうすることで始めて新しい生の可能性が拓かれる、という人の経験の普遍性を感じ取るからだと思う。彼が困難をどのようにして乗り越えようとしたのかについての経験が、自らを捉え返すことで困難を乗り越えようとするときに持たざるをえない葛藤や苦しみ寂しさという感情を、またそれを乗り越えようとする勇気をそこに見出すからだと思います。もちろん普通に生きている人は、私なども伏見さんのようにゲイというカテゴリーの「代表」という重荷を背負うことはないわけですが、誰もが自分は間違えていたな、おかしかったなと考え直し、苦しくとも自らを作り直すということを、小さな生活の現場で行って生きているわけです。自分自身をもう一回問い直して、変えなければならないということを大なり小なりみんなやっている。伏見さんは非常に大きな振幅の中でそれをやっているわけですが、経験の普遍性という点では同じであり、沢辺さんもそういう部分に普遍性を感じられたんじゃないかと思う。生きていくときに、自分を捉えたひとつの観念がある。しかし、その観念がどうも現実の中でよく生きない、そう感じたときに人はその観念を処理するためにどういう道筋をたどるのか、自分をよりよく生かし、他者とともに生きることを、他者とともに問題を共有していくための地平に達することができるのか、そういう普遍的な問題を見いだしてるんじゃないかと思う。

リアリティをもって現実を見ることは簡単なようでむずかしい
──『欲望問題』に根ざすリアリティ

沢辺●ゲイがよりよく生きるために何をすればいいのかを考えるときに、伏見さんはものすごくリアリティを持って現実を見ている感じがするのね。そのことが、方法論の作り直しを可能にしている。しかし、多くの知識人がリアリティをもって書いているかと考えるととてもそういうふうには思えないわけです。一般人もけっこう同様で、それがないことがかなり問題じゃないかとも思ったりするんですよ。

例えば、ポット出版はどういう会社だろうと社員はいろいろ思うわけですね。そのときにどうもステロタイプなのは、会社の社長はどうやらこういうふうに考えているだろう、という一般通念にはめて理解しようとすること。しかし、ものごとって一様じゃない。一般通念とずれているところもあるし、合っているところもある。その両方をみるということは、なかなかできていない。自分も含めてね(笑)。それってすごく難しいことではないかと思うんです。

それを伏見さんはなんでできるのだろう、あるいは僕ができるようになるためには、どういう訓練をするばいいんだろう、そういうことにすごい興味があるんだけど(笑)。野口さんどうですか。野口さんもけっこうリアリティをもって見るわけでしょ。

野口●僕にはリアリティがけっこうあるんじゃないかな(笑)。

なぜリアリティを失うのかについての典型的な例を考えると、一つの共同性ができた場合、空気みたいなものができて、共同性の外からみたらおかしいと感じられるような特定の物の見方が成立していくときがあるわけですね。ゲイの差別運動の言説にもそういうことがあるかもしれないし、ゲイだけでなくさまざまな反差別運動の言説やある種の社会運動や宗教集団なんかにもそういう傾向が出て来るときがある。共同性のなかで常識となった物の見方が空気のように存在しているために、その共同性に入るとなんとなくそれが正しいと思わなければならないことになる。この問題は実は相当大きな問題を含んでいて、原理的に言えば、もし強固な一つの見方が出来上がってしまうと、その枠組みでものを見てしまうために、どんな現象を見てもそのように見えるようになるんですね。

例えば、この世に神の意志があまねく行き渡っているという信仰を強く持った人がいるとすれば、雷が落ちても神の試練だし、幸せなことがあると神の恩恵だし、石ころにぶつかっても神の心を感じるわけです。信仰ということを拡張すると何らかの理論の体系となるわけですが、例えば、この社会が家父長制社会であるという理論を強固に信じた場合、売春は男性支配の現れだし、専業主婦は家父長制の犠牲者であるというように、男女間のあらゆる関係性は家父長制支配の現われに見えてくる。その理論の体系を強固に信じれば信じるほどその世界像は、本人にとっては絶対的なものになり、そのフィルターを通してしか社会を見れなくなっていく。

しかも、その理論を信じている共同性ができて、その理論を共有しているメンバーとともに生きることのうちに、自分の生の根拠を見出すようになると、その強固な世界像がますます本人にとっては絶対的で疑いようのないものになってくる。そうすると所属する共同性の外の人から見れば、明らかにおかしい、リアリティのない信念を全く正しいこととして主張するようになってしまうんですね。実存的不安が非常に強く、その理論が生の根拠になっている人ほどその世界像を問い直すことが難しいわけです。

もちろんその世界像が絶対的なものとして存在していない場合もある。世界像がそれほど強固なものではない場合、それは絶対的理念というかたちで存在するのではなく、一般通念のようなものとして存在していることになる。何となくそのことを信じているという状態ですね。

実は絶対的世界像にしろ、一般通念にしろ、そうした自明な世界像を疑う契機となるのは、原理的には「他者」との「対話」と自身の「捉え返し」なんですね。自分の信念を相対化してくれる「他者」との「対話」によって初めて自分たちの考えが間違っているかもしれないという疑問が初めて生じてくることになる。そのためにも自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないようにしておくことが大切なんです。自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないということは、自分の不安を打ち消すための、所属する集団以外には通用しない大きな物語を必要としないということを意味しますから、普通の生活感覚の中での対話的やり取りによって、問い直される可能性があると思います。何らかの共同性に強く拘束されているわけではなく、実体的根拠のない一般通念を何となく信じている場合も対話的関係によって変わっていく可能性が高いといえます。その相手は具体的な人の場合もあるし、本とかメディアの場合もあるでしょう。  

沢辺●僕は橋爪さんの論を適当に密輸入しているだけなんだけど(笑)、十年以上前に話していたときのことですが、彼が<革命なんてないほうがいいんです。つまりいままでの枠組みを変えるということは大変なコストがかかる。革命よりも緩く変更させていければ全然コストはかからない>というようなことを言っていたんです。それまで自分はアプリオリに革命は正しくて、それにロマンを感じていたんだけど、リアルに考えると確かにそうだなとハッとした。その革命と社会通念を単純に重ねているだけなんですけど、人間って通念が揺らぐと不安になりますよね。

野口●それが自分を支えていればいるほど不安になる。

沢辺●この『欲望問題』のなかでも伏見さんが橋爪さんの話を引いているわけですが、要は差別をなくすために結婚とか家族とかをぶちこわすことは非常にコストがかかる。あらかじめ男、女と外見上わかっていればお約束でそこまでは確認終了でコストはかからない。でもそういう根本から社会を作り直さなければならないとしたら、みんなそのコストを払うだろうか? そんなことを言っているわけです。そういうことを含めて言うと、通念というのは両面性があって、通念が人をしばっていて飛躍できない面と、心安らかに日々を生きられるという二面性がある。

野口●この場合の通念というのは二種類あって、自分の生を規定している動かしがたいルールといえるものと、交換可能なルールとがある。いまおっしゃられたのは後者のルールですが、例えば性別は多くの人にとって、自分自身を規定しているルールといえます。通常、自分が「男」であるとか「女」であるというのは、本人にとっては疑いようのないものですね。もちろん世の中には自分の性別がよくわからないという人もいるわけですが、多くの人にとっては内省しても疑いないようなかたちで存在している。ゲイという自己意識も同じですね。疑っても疑いようのないものとして取り出される。多くのゲイにとって自分がゲイだという確信は向こうからやってくるわけです。異性愛だと思っていたけれど、よくよく考えると自分は違うなと気づく人もいるけれど、多くのゲイや異性愛者では、同性愛や異性愛というルールやコードは自分にとって疑いようのないもの、問い直して疑ってみても確信として向こうからやってくるものなんですね。その場合自分を規定しているゲイであるとか、女性であるとか、男性であるということ「自体」が、他者を直接侵害していたり、自身の生の可能性に抑圧的だと思えない限り、そのことを変えようという契機は生じないんですね。

広瀬桂子[編集者]●かくも長き時間、かくも劇的な変化。

2007-02-10 ポット出版

<もし私が二十代の頃、モテていなかったら、セクシュアリティの問題に関心を持つようにはならなかったかもしれません>。第2章『ジェンダーフリーの不可解』の冒頭をパクらせていただけば、こうなります。

なぜモテていたのかといえば、話は簡単、私は<背が低くて、色が白くて、顔が丸い>という、(ひと昔前には)男ウケする外観をしていたのです。もっとも本人は、怪しいミニコミ誌づくりにかまけ、恋愛にまったく興味がなく、特定の彼氏も持たず、もちろん処女のまま、大学生活を終了。24歳になったばかりで<いちばん強引に結婚を迫ってきた>6歳年上の男と結婚します。「仕事はずっと続ける」と宣言していたにもかかわらず、結婚相手が求めていたのは「完璧な主婦」。破局はあっという間にやってきました。

もし私がモテていず、必死にモテる努力をし、真摯に相手を探していれば、何もこんなにズレた相手と結婚することはなかったのではないか。あまりにもイージーな環境が、冷静な判断を鈍らせる原因だったのか?

バツイチなどという言葉もない、80年代末期、それなりに厳しい世間の目の中、27歳にしてゼロ地点に放り出された私は、めちゃくちゃに悩み始めました。時は、バブルのまっただ中、均等法以降、社会に出た年下の女性たちは、「仕事か結婚か」などという選択とは無縁のように華やかです。私はどこで間違ったのか……。

そんなとき出会ったのが、伏見さんの「プライベート・ゲイ・ライフ」。ここに描かれた図式は、私のすべての疑問をぬぐい去ってくれました。失敗した結婚の相手は<ランボー>で、<三つ指女>を求めていたにもかかわらず、私は<オスカル>だったので、これは無理です。でも外見が<三つ指>だったので、彼は間違えた。こんなはずじゃなかった! と思って荒れたのも無理はない。目からウロコが落ちました。「私が悪いのではない、悪いのは組み合わせだ!」という免罪符は、実に心強いものでした。

その後、幸運にも伏見さんと邂逅し、『スーパーラヴ!』を編集した私は、その出版パーティで現在の結婚相手(伏見さんの大学の同級生)と出会います。会って数時間で、完全に意気投合してしまったのですが、それは<男制に疲れていた(けっこうオンナな)彼>と<女制に疲れていた(けっこうオトコな)私>の組み合わせで、今思えば実にわかりやすい。この絶妙な関係性は、結婚9年になる今もまったく崩れていません。そのせいなのかなんなのか、非常に快適な結婚生活。

でもこの関係、『プライベート・ゲイ・ライフ』の図式には、もはや当てはまらないのです。見た目でいうと<ランボー×三つ指>、男制女制でいうと<お公家さん×オスカル>(本書の中では、「どうわかちあったらいいのかわからない二人??」となっています)。そして、このような、よくわからない、説明のつかないカップルが、20代から50代まで、さまざまに複雑にからみあっているのが現代です。こういう人々がメジャーとまではいいませんが、少なくとも、違和感はないし、世間的に認知もされている。

『欲望問題』を読んで思ったのは、「かくも長き時間が経ち、こんなにも世の中は変わった」ということです。20年前に思いもかけなかったようなことが、今は当たり前になっている。どの時代にも、そういうことはあったのでしょうが、ことセクシュアリティ、ジェンダーの問題に関しては劇的な変化です。そして、どんどん変化し続けている。

私なりに、20代から40代を生きてきて、今もっとも関心があるのは、「生殖」についてです。『ジェンダーフリーの不可解』には出てこないですが、これこそが、セクシュアリティーやジェンダーの束縛から自由になった、今の30代から40代の女性たちが直面している問題なのではないかと思います。言い換えれば、それは新たな<欲望>の表出です。

既に約束された自由の中で、自分らしい生き方を見つけなければならない困難、それに掛け合わされてくる<生殖>に対する欲望、もしくは迷い。事態はどんどん複雑かつ細分化していきます。いったい私たちはどこに行こうとしているのだろう(行ってしまうのだろう)ということを、考えざるを得ない今日この頃です。

【プロフィール】
ひろせけいこ●
1962年、東京生まれ。マガジンハウス編集者。

永江朗[ライター]●簡単に語ることをためらわせる本である

2007-02-09 ポット出版

 この本のプルーフを読み終えたあと、「まいったなあ。レビューを引き受けるんじゃなかったなあ」と一瞬だけ思った。内容がつまらなかったからではない。伏見憲明が投げかける問題があまりに重く大きくて、軽い気持ちで語ることをためらわせるからだ。とりわけストレート(異性愛者)である評者にとっては。

 伏見がこの本で扱っている問題は大きく3つにまとめられる。欲望、ジェンダー、アイデンティティである。どれも簡単に答えが出る問いではない。

 第1ページめからガツンとやられ、ノックアウトされてしまった。伏見に寄せられた少年愛者の悩みからこの本は始まる。相談者は男性同性愛者であり、なおかつ「大人になる前の少年が好きなのです」と打ち明ける。

 同性を愛することはかまわない。少年が好きなのも、まあいいだろう。だが、現実に少年と性行為をすることは許されない。たとえ相手と合意の上であっても、現実には難しい。同性愛者だからではない。相手が少年だからだ。

 異性愛で考えればよく分る。いくら少女が好きだからといって、少女と性行為をすることは許されない。それどころか、最近は児童ポルノ法によって、少年少女を性的対象として扱っている写真集やビデオ、DVDのたぐいは、所持しているだけで罰せられることになった。少女を好む異性愛者の男性は「ロリコン」と呼ばれて世間から排除される。児童ポルノ法の適用対象を漫画やアニメにまで広げようという動きもある。犯罪は個人や組織などの財産や生活権益が侵害されたり危険にさらされたときにのみ成立すべきものだと考えているので私は反対だが、しかし禁止領域の拡大が世論の一定の支持を得ているのは事実だ。いまや欲望すら禁じられる時代になったのである。

 だが、欲望において正常と異常の境界線を明確に引くことは可能だろうか。近代の同性愛の歴史は、この境界線をめぐる闘いの歴史だった。境界線をずらしたり曖昧にしたり、あるいは境界線そのものをなくすことで、同性愛者は存在領域を獲得してきた。同性愛に限らず、あらゆる差別との闘いは境界線をめぐる闘いだった。境界線は幻想にすぎない、常識や正常/異常なんてものはマジョリティの偏見のたまものにすぎない、という考え方は、いまや現代人の「常識」といってもいいだろう。

 一方で、近年の欧米で、幼児性愛など犯罪を起こした異常性愛者に「治療」をほどこすようになっている事実を伏見は紹介する。異常性愛は「病気」であり、「治療」の対象としてカテゴライズされているのだ。同性愛もかつては病気とされ、治療の対象と考えられた時代があった。同性愛の歴史は脱「病気」化の歴史でもあった。

 それでは、少年愛者と幼児性愛者の間に明確な線を引くことは可能だろうか。あるいは、少年愛者と(非少年愛の)同性愛者との間に線は引けるのだろうか。

 性的嗜好の切実度を客観的に測ることは難しい。私はこれまでポルノ誌などでの仕事を通じて、SM愛好者をはじめ「異常」な性的嗜好の持ち主の何人かに会ってきた。彼らのなかには、たんなる嗜好のレベルではなく「そうしないではいられないのだ」と切実な心情を打ち明ける人も少なくない。のちに逮捕されることになったロリコン男性にも会ったことがある(逮捕を伝えるニュース映像のなかで、顔を隠すことなく罪を認めている姿が印象的だった)。異性愛と同性愛の間に線を引けないのなら、同性愛と彼らの性的指向(嗜好)の間にも線は引けない。

 実際問題としては結局のところ、個人のふるまいは他者の権利を侵犯しない限りにおいて自由である、という原則に忠実であるしかない。少年との性行為は許されない。ならば他者の権利を侵犯せずにはいられない「異常者」は、どうすれば幸福に生きられるのか。「治療」か、それとも隔離か。「許されない」と言ったところで、問題が根本的に解決されるわけではない。

 第二章「ジェンダーフリーの不可解」も難しい問題だ。性差別をなくすことと、社会的性差をなくすことの間に境界線を引くことは可能なのかどうか。さらに、社会的性差が完全に消失した社会は楽しい社会なのかどうか。少なくとも、現在の私たちのエロス的快楽は、かなりの部分が社会的性差に由来するものなのだから、社会的性差からの解放はいまある快楽の放棄を意味するだろう。もちろん快楽を放棄した社会が平板でつまらないものとは限らないし、社会的性差なんてなければないで、新たな快楽を見つけだせばいいのだからという態度もありだけれども、欲望は(たとえそれが常に他人の欲望であったとしても)そう簡単には変えられない。

 伏見憲明の『欲望問題』を読み終えて、私は途方に暮れるしかない。唯一確かなのは、欲望もジェンダーもアイデンティティも、同性愛者(だけ)の問題ではなく、異性愛者も含めて私たちすべてにあてはまる問題であるということだ。しかも、「私たち全員の問題だ」などと言って分ったような気になるのが最も悪質な態度である類いの問題なのである。どうする? オレ。
 

【プロフィール】
ながえあきら●
1958年、北海道生まれ。ライター。風俗業界から出版業界まで、取材するテーマは幅広い。とくに元洋書店員というキャリアから、「出版」にまつわる著作が多い。

【著作】
ブックショップはワンダーランド/六耀社/2006.6/¥1,600
あたらしい教科書2・本(監修)/プチグラパブリッシング/2006.3/¥1,500
話を聞く技術!/新潮社/2005.10/¥1,300
メディア異人列伝/晶文社/2005.3/¥2,200
恥ずかしい読書/ポプラ社/2004.12/¥1,300
作家になるには/ぺりかん社/2004.12/¥1,170
いまどきの新書/原書房/2004.12/¥1,200
狭くて小さいたのしい家(アトリエ・ワンとの共著)/原書房/2004.9/¥1,800
批評の事情/ちくま文庫/2004.9/¥820
〈不良〉のための文章術/日本放送出版協会/2004.6/¥1,160
平らな時代/原書房/2003.10/¥1,900
ぢょしえっち(岡山らくだとの共著)/ワイレア出版/2003.7/¥1,300
ベストセラーだけが本である/筑摩書房/2003.3/¥1,600
インタビュー術!/講談社現代新書/2002.10/¥740
批評の事情/原書房/2001.9/¥1,600
アダルト系/ちくま文庫/2001.9/¥740
消える本、残る本/編書房/2001.2/¥1,600
出版クラッシュ!?(安藤哲也、小田光雄との共著)/編書房/2000.8/¥1,500
不良のための読書術/ちくま書房/2000.5/¥620
ブンガクだJ!/イーハトーヴ/1999.12/¥1,500
「出版」に未来はあるのか?(井家上隆幸、安原顕との共著)/編書房/1999.6/¥1,500
アダルト系/アスキー/1998.4/¥1,500
不良のための読書術/筑摩書房/1997.5/¥1,600
菊地君の本屋 ヴィレッジバンガード物語/アルメディア/1994.1/¥2,200

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第一話

2007-02-08 ポット出版

『プライベート・ゲイ・ライフ』の時代
──伏見憲明の出発点をふりかえる

野口●『欲望問題』では、処女作の『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房、1991)の問い直しを始めとした、これまで伏見さんがつくってきた言説や考え方、また自身の倫理主義的感覚の総ざらいがなされているわけですが、この本を語るにあたってまず、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』を発表した90年代はじめの頃の、カミングアウトしたゲイがほとんどいなかった時代状況を理解しておく必要があると思います。当時、芸能人の中には、おすぎとピーコのような人たちはいましたけど、一般のゲイで社会的にカミングアウトしていた人は皆無に近かった。雑誌『ADON』を主宰していた南定四郎さんなど、カミングアウトしていたのはほんの少数だったと思います。

伏見さんがよく言うのですが、『プライベート・ゲイ・ライフ』を出したときに、担当者から「言葉をしゃべるゲイをはじめてみた」と言われたそうです。それは単にゲイに出会ったことがないということではなく、社会的状況などゲイに関することを論理的に組み立てて話せるゲイと初めて出会ったということを意味していて、当時ゲイは社会において目に見える存在ではなかった。ゲイに関する言説は「変態」か「禁じられた美学」のようなものしかなく、ゲイが置かれている状況がどんなもので、等身大のゲイがどのようなものか全く知られていませんでした。カミングアウトしているゲイも珍しくなくなり、ゲイに関する書籍、評論、学問も数多く見られるようになった現在からは、想像するのが難しいほど15年前ぐらい前は、取り巻く環境が厳しく、同性愛は理解されていませんでした。また同性愛者自身も自らを語る言葉を持たなかったんですね。

そうした状況の下で、普通の感覚の人はカミングアウトなんかとてもできない。普通の人間ならあきらめたり、我慢するようなことをどうしても我慢できない、強い実存的衝動を持った人間だけにカミングアウトが可能だった。しかも伏見さんの場合、ゲイであることを身近の人に「告白」しただけではなく、ゲイ、つまり自分というものをどのように社会的に位置づけたらよいかについて、一から言説を作ろうとした人でもあった。何としても「自分たち」が置かれている状況を改善したいという、ゲイというカテゴリーに課せられた問題を背負おうとした数少ない巨大な情念の持ち主の一人だったんですね。既存のゲイに関する言説に手がかりが全くない中で、自分を理解するための言説を、また他者がゲイのことを理解できる言説を組み立てようとした。

当時、性に関する言説は、フェミニズムによるジェンダーという言葉を使用した知の枠組みが存在し、その枠組みはゲイ差別がなぜ生じるのかを理解できる参照点となるものだった。その意味で伏見さんが自らの言説をフェミニズムの知的遺産から継承したのは必然的だったと考えることができます。『プライベート・ゲイ・ライフ』において、フェミニズムから引き継ぎながらさらに発展させた議論は、異性愛の男女も同性愛の男女も性別二元制に基づく性愛の制度という点において等価な存在であり、同性愛であることにより、同性愛差別を再生産する性別二元制を支えてしまうこと、それゆえ差別の克服のためには同性愛という枠組みから解放される必要があるということですね。この考え方を『欲望問題』では再検討されています。これは形式的に見れば単なる論理的再検討になるわけですが、その内実は単なる作り直しではなく、非常の厳しい状況における実存的な強い動機に基づいて作り上げた、または自身の生の可能性を見出すことになった世界像の「問い直し」を意味しているわけです。

ここでもう一つ押さえておかなければならないことは、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』で展開した議論やその後の様々な活動が、自身の私的な考えの表明ではなく、当時の時代状況下では不可避的にゲイの置かれている差別的状況の改善のための実践というものを引き受けざるをえないものだったということです。つまり当時作り上げた世界像は自分の実存上必要だったというだけではなく、ゲイ差別の問題を提起するフロントランナーとしての役割を担わざるを得ない存在として背負う世界像だったわけです。そういう役割を担うことになる人間は、自分の感情で好き勝手に自由に発言すればよいというわけにはいかなくなる。その発言自体が受け手にとっては個人の意見としてではなく、ゲイを代表するものとして受け取るという側面を持ってしまうわけですから。その結果、ゲイの置かれている状況を改善するという非常に大きな問題を引き受けざるをえなかった。また当時のゲイが置かれていた厳しい時代状況を考えると、その世界像が反社会的・倫理主義的性格を持つのは不可避的なことだったといえる。とはいえ『プライベート・ゲイ・ライフ』を読むと、反社会的・倫理主義的側面が希薄なんですね。これは驚くべきことです。反差別論の創業者の言説は通常、この社会がいかに間違っているのかという強烈な怒りや告発に満ち、マジョリティに対して自分達の立場に立つことを要請するものですから。

ただ薄められていたにせよ存在していた反社会的・倫理主義的性格が『欲望問題』では根本から考え直されています。これは相当大変なことだったと推測します。ゲイ差別というものが全くなくなったわけではない現在、これをフロントランナーとして背負ってきた人間が、反差別論における倫理主義的性格を一から作り直すというのは簡単にできることではないと思います。差別問題というのは取り扱うのが非常に難しくて、マジョリティにとってもマイノリティのとっても扱いづらい性格を持っているんですね。差別というものは社会でゼロになることはありませんから、差別を受けるマイノリティ側からすると、たとえ改善されてきたとしても倫理的主張を引っ込めにくい。日常的に常に差別にさらされることがなくなったということは、いつも辛い思いをしているわけではないということを意味しますが、だからといって差別的な行為にさらされることが全くなくなったわけではない以上、こういう差別がまだまだあるんだと主張して、マジョリティの差別的感情を糾弾せざるをえない側面がある。ところが改善されてきた状況下でこんなに差別があるんだと主張し続けることは、マイノリティにとってもどこかリアリティを欠いた行為になってしまう。差別に晒されるという生活の一部の中での経験を生活の全域を覆っているかのような主張は、自分たちの現実感覚を正確に反映したものではなくなってしまいますから。

差別問題にはこのような両義性があり、自分たちの内的な感覚と現在の状況を適切に表現することが難しいわけです。まして、伏見さんはゲイに関する問題のフロントランナーですから、その発言の影響力を考えると簡単には、差別が改善してきているといいにくい。もう差別問題として考える必要がないという誤解を与えかねない主張はなかなかしにくいんですね。伏見さんは、こうした難しい状況と立場にあったにもかかわらず、自分たちの現実感覚に基づいた、同時にマジョリティに届く可能性を持った論理と言葉を一から作り直そうと試みられたのだと思います。後続の人は、今回の『欲望問題』を、簡単に伏見さんの変化というふうに取るかもしれません。けれど、厳しい現実の状況を引き受けて、悲壮感すら抱えて考えた世界像や考え方を、もう一度最初から構築し直すというのは、ただ単に生活のなかで考え方が変わったというレベルではとらえられない重みがある。そこを理解する必要があると思います。

沢辺●伏見さんは、オピニオンリーダーとしてすでに立っていたにもかかわらず、今回あえて自分の変容を明らかにしたわけですが、言論人はそういうことはなかなかしないですよね。普通の人の生活感覚、社会のリアリティに照らして自分の考えてきたことを問い直すというのは、思想に対して真摯だと思うんですよ。そしてリアルだからこそ自分の変化も引き受けられたし、物事に真摯に向き合ったからこそできたとも言える。すでにオピニオンリーダーとして発言していたことについて、改めてそれを見直すなんてよほどの根性しかない。だからストレスからあんなに太っちゃうのかなと思うんですけどね(笑)。

ぼくね、リアルであるということはすごく大事だと思っているんです。自分の話で申し訳ないんですけど、僕自身は30歳で、左翼をパチッとやめたんですよ。どこでそこまで行き着いたのかを考えると、出発点は、20歳のときのできごとにあるんです。その頃、組合運動をやっていて「労働者階級解放」といった概念を掲げて「資本主義はよくない」というようなことをやっていたわけです(笑)。

そのときにある人が、「沢辺、お前、資本家っていってるけど、それ誰? 名前は?」って聞いてきたんですよ。そのときに何にも答えられなかった。頭の中では「松下幸之助かな」とかよぎったんですけど(笑)、そんなこといままで考えたこともないのに下手にその場限りのことを答えたら、またさらに揚げ足をとられるかなと思ったら、びびって何も答えられなかった。この出来事は、十年後にやっぱり左翼はだめだと思うことにつながるんだけど、その出発点になったんです。やっぱり、そこで足りなかったのはリアルということなの。みんなにオルグしていた主張では、労働者階級が抑圧されているのは資本主義がだめだからなんだ。これは打倒しなければならない。しかし打倒って抽象的にいってるけど、要は財産を剥奪するか牢屋にいれるか、殺すかじゃないですか。

野口●理論に基づいた実践を具体的に貫徹すればそうなってしまうんですね。

沢辺●そうすると、要はそれを誰をやるのかということですよ。そんなこといっこも考えたことないのにオレは、資本家打倒だといってたわけ。それがね、顔が真っ赤になるくらいはずかしくて、資本家っていったい誰だろうと考え始めて、それが自分の左翼性を疑う出発点になったわけです。そういうことを原体験に持っている僕からみると、例えばこの本に出てくるミスコン問題だって、一部のフェミニズムがミスコンを女性差別だと言っても、いったいそう思っている女性はどこにどれだけいるのか。現にミスコンに出ているのは女性たちだし、それって運動のほうからしたら、彼女たちは仲間を裏切って、差別に加担しているということになるわけだよね。そんなことでフェミニズムの論理は通用するのか、ってリアリティを疑うのね。

そういったことをほんとに真摯に考え続けたのが、この労作『欲望問題』だなと思う。ぼくはね、そのきちっと自分を検証する姿勢するに惹かれました。そしてその背景にあるリアリティ、思想に対する真摯さに。それがこの本をポット出版で出したいと思った「欲望」の出発なんですよね。

キャムプという感覚
 ──伏見憲明のわかりにくさ

野口●今回の結論に至った理由は、伏見さんの言説にもともと含まれていた両義性に目を向けるとわかりやすいかもしれない。一般に、社会問題を議論するときには、その利害をどうやって政策決定のなかで調整し実現していくかというプラグマティックな要素、現実主義的な要素を考慮することが必要になるわけなんだけど、いわゆる市民運動では、現実主義的な要素を排し、正しさが純化されて現れてくる傾向が強くなる。反差別運動ではとりわけこの傾向が強い。差別の解決に関して、どういう具体的なステップをとればよいのか、あるいはそれを克服するための現実的条件は何かを考えるより、まずいかに自分たちが理不尽な目にあっているかを情念とともに訴え、マジョリティに自分たちの立場に立つコトを要請することになる。そういう「純化された正義」が当事者の痛みゆえに濃厚に出てくるのが、反差別論の特徴といえる。

ところが伏見さんの思想や行動には、当初から、「純化された正義」に対する違和感が織り込まれていた。反差別論にキャムプといったゲイ的な笑いのノリをパッケージする表現を作っていたのがその典型的な表れで、その始発点から単純な正義の主張ではなく、両義的表現がなされていた。

しかし、「笑い」と「純化された正義」というのは非常に折り合いが悪い(笑)。社会問題を扱うお笑い芸人が、ビートたけしや爆笑問題の太田光などごく少数にとどまっているように、極端に真面目な志向と笑いをうまく融合させていくのは難しい。それを伏見さんは運動のなかで先んじてやろうとした。一方で差別的状況に対して正義の主張を訴え、一方で笑いの芸を見せる。この二つの極を常に往復してやってこられたわけですが、これは端からからみると、非常にわかりにくいんですね。もともと伏見さんの考えや行動がよくわからないという人がゲイの活動家の中でも非常に多いんですが、厳しい時代状況の中ではとりわけ理解されがたい。「正統的」な解放運動のノリで社会正義を実現したいという人からみれば、何をふざけたことをやっているんだ、となる。一方、エロとか笑いのようなゲイ的文脈だけでゲイをとらえたい側からすると、社会正義を背景にしている伏見さんは自分たちとは違うという違和感が拭えないことになる。

しかしながら、笑いの視点を持っていたということは、一種生活感覚を持っているともいえて、それが正義の純化を防ぐ防波堤になったのではないでしょうか。そして、長い活動の中で、生活感覚によって正義の主張を検討し続けることで、最終的に、両者を融合させることが出来たのだと思う。もちろんこれは簡単なことではなかったと思いますが。

沢辺●僕はノンケだからあまりはっきりとはわからないけれど、キャムプという感覚は、ゲイにはもれなくついているという感じがする。部落差別や朝鮮人差別の運動にも笑いの要素はあったんだと思うけど、ゲイと笑いは比較的結びつきやすい何かの条件があるような気がするんだよね。それはどう? ない?

野口●これはまだ僕もうまく整理できてないんだけれども、ゲイというカテゴリーが性という領域に関わっていることと関係があるように思う。ある種の性的「逸脱性」は奇異に見えるところがありますよね。ゲイ・セックスのある種のありようは、ゲイ以外の人たちから奇異に見えるだけでなく、自分たちにとっても「この逸脱性ってどうよ?」っていう笑いの感覚が出てくることがある。これはゲイ・セックスに限らず、性一般に言えることですよね。

沢辺●僕ね、セックスしていてふっと恥ずかしくなることがある。やっている当人同士は、笑いもせずやってるんだけど、「どうだい、感じるのかい?」なんてやってるときに(笑)、そこに第三者を想定して例えばオレが横から見てたら、「おいおい沢辺、何恥ずかしいこと言ってるんだよ」と笑って突っ込んじゃうよなと、しらけてしまうことがあるの。性ってそうやってまぬけなところがあって、やっている本人と客観視して見たときの視線の感覚の間に、可笑しさが生じる。一方で、ヘンな例だけど、子供に「おまえ部落民と結婚するのか、許さん!」なんて言ってるオヤジがいたとしても、それを自分で客観的にふっと振り返ってみても「プッ」と笑う感覚にはなかなかなりづらい。だからゲイとキャムプな笑いとの相性のよさって、性やセックスに関係してくるものだという気がする。

野口●たぶんその通りだと思うんです。そういうことが性というものに普遍的に現れるんですね。それは男女間でも同じで、自分たちの性の様相が、引いて見ると「なんて可笑しいことをやっているんだ」、「ヘンなことやっているんだ」というふうに感じるときがある。フェティッシュな要素なんかだと、それにノレる人には違和感がなくても、その趣味嗜好を共有しない人から見ると、「なにこれは?」となる(笑)。その部分に自覚的なゲイたちは、キャムプな笑いを生み出してきたのではないでしょうか。

速水由紀子[ジャーナリスト]●性的アイデンティティは危うくて、形も公式もないもの

2007-02-08 ポット出版

 本著を読んでいて、まだ90年代半ば、「AERA」で大学のゲイサークルの活動を取り上げたときのことをふと思い出した。
 インターカレッジで都内のゲイの大学生が集まり、コミュニティを作って積極的に活動している、という内容を「キャンパスに花咲くゲイルネッサンス」というタイトルで紹介したものだ。私としては欧米の動きや本著の著書、伏見氏の活動などにも触発されたこのポジティブな動きに、エールを送りたかった。が、記事に寄せられた手紙にはこんなものがあったのを鮮明に覚えている。
 「ゲイだということを家族や妻子、会社にも隠し続け、50半ばの今までどんなに辛い思いをしたか。それを決してわからないあなたに、そんなお気楽な記事を書いて欲しくない」。ざっとそんな内容で、社会環境に偽装結婚を強いられた世代の痛み、と私には感じられた。
 が、あれから10年以上経ってゲイへの理解は格段に浸透しているはずなのに、ごく最近も、周囲に隠し続けていて辛いというケースを取材した。しかもかなり若い男性である。つまり、これは世代の問題ではないのかもしれない。
 ゲイというテーマは、今の日本社会の中にあると、「自分は同性を愛する人間だ」という事実よりも、「自分はゲイだということをカミングアウトして生きて行く人間」か「ゲイだということを親や職場に隠して生きて行く人間か」という問題の方が大きくなっていく。すると誰を愛するか、というテーマそのものより、自分の社会的スタンス、親の理解の高さ低さ、環境の文化の成熟度などという、裾野の問題の方が主役の座を奪ってしまうのだ。
 伏見氏は本著でこうした構造的な問題を、自身の感慨をこめながら分かりやすい言葉で解き明かしてくれる。そして、ずいぶん前から、『欲望の問題』に関して私が考えている懐疑を、彼は「アイデンティティからの自由 アイデンティティへの自由」の結論ですぱっと言い切ってくれたのだ。
 Xメンのミュータントを普通の人間にする薬「キュア」を例に出して、伏見氏は言う。「・・・・もし同性愛も異性も好きになれる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。今ある自分にさらなる可能性が開けるとしたら、それは挑戦してみていいような気がするのです・・・・アイデンティティは変容するし、させてもいいのです」
 これには深く共感を覚えた。
 私はこれまで「異性愛」「同性愛」を、堅く閉じた輪のコミュニティとして語ることに大きな疑問を感じてきた。たとえば取材で数えきれないほどのストレートの男性が、「ぼくはゲイじゃないけど、この人になら抱かれてもいいと思う」と無数の男性の名前を挙げるのを聞いてきた。たとえばその相手はトニー・レオンやジョニー・ディップや玉木宏や、美形のモデルやミュージシャンだったりする。ではそれが彼女がいるのに、職場の色っぽい同性上司に胸をときめかせている男性だとしたらどうなのだろう? 彼はゲイなのかストレートなのか? 
 日本の職場には「ホモソーシャル」的な同性の交流がさかんだが、これを「男のつきあい」と見なすか「根っこはゲイ的なもの」と見なすかだって、曖昧模糊としている。「女と飲むのは面倒臭いから男同士でしか飲まない」というのだって、見方を変えれば「ブロークバック・マウンテン」的な愛情に見える。
 あるいは結婚していてダンナを大好きだけど、宝塚や「百合系」(腐女子界のソフトレズ系キャラ)のお姉さんに夢中だったりする女性はたくさんいる。その相手がたまたま、職場の同僚だったら? 彼女は同性愛者か異性愛者か? 
 そんな風に、性的アイデンティティは非常に危うい、形も公式もないもので、一生、鉄壁のように揺るぎないものであるはずがない。なぜなら生まれ持った本能以上にパーソナリティで勝負している人は、「男だから」「女だから」恋をするのではなく、人間の個性・特性に心を奪われるのだから。
 だから『欲望問題』を語るのに理想的な会話は、きっと「私はゲイです」「私はストレートです」ではなく、「私は今、7対3の割合で同性に欲情するけど、3の部分では異性の友達の精神性に憧れてる」とか、「ぼくは今、つきあってる彼さえいれば、他の奴はどうでもいい」とか、そういう「個」の感触であるはずだ。事実、若い世代の間では、そういう会話はもう何の抵抗もなく、気楽に交わされている。
 男女の境界が限りなく薄れつつある今、「同性愛」と「異性愛」に二分割する必要性は、どこから生じるのだろう? 私にはそもそも多くの人間がバイセクシュアル的,中性的な要素を持つ中で、たまたま針がどちらかに振り切れた状態、としか思えない。でも次の瞬間、針がどこを指すのか、自分自身にも予測はつかないはずだ。恐らく「結婚」と同じように、社会には恋愛をある種の制度的なシステムに嵌め込むメリットが暗黙に存在し、曖昧な性的アイデンティティはそれを損なう、と考えられているからだ。ここにはアメリカ的な恋愛制度のグローバリズム化を感じてしまう。
 目指すのはむしろヨーロッパの多様な価値の受け入れ方である。恋愛やセックスは法やモラルとは違い、個人の中でたえず揺らぎ変化していく。『オール アバウト マイマザー』や『バッド・エデュケーション』を撮ったペドロ・アルモドバル監督の作品には、その「揺らぎ」を透視する知性がある。誰かの揺らぎを否定することは、自分の中の揺らぎを排除することになるから受容しよう。それが歴史の生んだ知恵のはずだ、カミングアウトに過剰にこだわったり過剰に周囲に隠すのは、先に述べた「テーマの主客逆転」に飲み込まれており、ひいては「2分割のワナ」にハマっているように思えてならない。
 伏見氏はゲイの概念を正しく日本社会に伝え、ゲイの生き方を問うてきたリーダー的存在であり、作家活動で自身の深淵を掘り下げてもいる。
 であるならば、僭越ながら次なる伏見氏の「欲望問題」のテーマは「ゲイであことをカミングアウトして生きてきた人々も、隠し続けている人も、告知の有無の社会的影響から自由になり、ただの個に戻れること」かもしれない。それを受容する、社会の成熟が先決なのだが。
 

【プロフィール】
はやみゆきこ●
ジャーナリスト。新聞記者を経てフリーに。恋愛・家族・学校などの問題について、綿密な取材を基にしたルポや単行本を執筆。

【著書】
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/ちくま文庫/2006.9/¥700
ワン婚 犬を飼うように、男と暮らしたい/メタローグ/2004.11/¥1,300
家族卒業/朝日文庫/2003.11/¥620
恋愛できない男たち/大和書房/2002.11/¥1,600
不純異性交遊マニュアル(宮台真司との共著)/筑摩書房/2002.11/¥1,500
働く私に究極の花道はあるのか?/小学館/2001.11/¥1,400
サイファ覚醒せよ!(宮台真司との共著)/筑摩書房/2000.10/¥1,600
家族卒業/紀伊國屋書店/1999.10/¥1,600
あなたはもう幻想の女しか抱けない/筑摩書房/1998.11/¥1,700
〈性の自己決定〉原論(宮台真司との共著)/紀伊國屋書店/1998.4/¥1,700

斎藤綾子[作家]●股間にズドンと衝撃が。

2007-02-07 ポット出版

 何でも誰かに責任転嫁し、全てをいい加減に済ませて、自己対峙せずに生きてきた私は、差別問題なら「難しいことってわかんな〜い」と済ますこともできた。だが、伏見憲明が命がけで書いたのは、『欲望問題』なのだ。欲の向くまま気の向くまま、好き勝手に生きてきた私が、「わかんな〜い」というわけにはいかない。今までの人生で、これほど真剣になったことはないと断言できるほど、真剣に評を書かねばと思う。
 まず一章の、少年愛の「痛み」、について。
 その前に私事を一つ。私は年下には全く興味がなかった。同い年にも興味がもてず、ゲイ語録で言えば「老け専」と呼ばれてもおかしくないほど、年上の男性と付き合うことに情熱を傾けてきた。ところが、である。四十も半ばを過ぎ、自分自身が老けに突入した途端、信じられないことが起きたのだ。何と、二十三歳も年下の男性に、身も世もなく惚れてしまったんである。生物として卵子が元気な時に妊娠し出産していれば、今頃、その彼ぐらいの年齢の息子(娘)がいたはずだ。今やっと、自分が年上の男性が好きなのではなく、年齢差に欲情するのだと自覚した。
 欲望とは恐ろしい。欲望の対象や量が、予測可能と思っていたら大間違いなのだった。私の場合、もうすぐ五十歳という時に、二十三歳年下に嗜好が急変したから、まだ犯罪にはならないが、三十代で二十三歳年下に欲情したら、それはもうとんでもないことになる。
 この章は、そんな衝撃を、股間にズドンと打ち込まれるところから始まる。
 二章では、私が胸を張って「わかんな〜い」と言える言葉が登場する。ジェンダーフリーとジェンダーレスだ。
 性別というのは、男と女、そのふたつだけだと小学生の時から思わされてきた。しかし私は自分の股間を弄り、大陰唇の中に硬いタマが隠されていないか、触っていたものだった。親が持っていた何かの本に、「フタナリ」という人間がいるというのを見つけたからだ。いくら待っても股間に「チンコ」は生えてこないし、小学四年生になった途端に「初潮」はきちゃうし、胸はどんどんデカくなるし。自分は「男に違いない」と思っていたので、第二次性徴には愕然とした。そんな時に知ったフタナリの存在。マンコのどこかにタマさえ発見できれば救われる。私は必死にタマ探しを続けた。それがいつの間にか恍惚を生み、気づけばオナニーに耽る日々。
 見かけは女でも中身は男。フェミニズムの方たちからもそう非難されたし、私自身、そう思っていた。フリルやレースの付いた服は苦手で、スカートは男を引っ掛ける時だけに穿くものだった。とっても孤独だったけれど、セックスに不自由したことはなく、大好きな女のコたちとは一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠ることが出来た。彼女たちにオーラルセックスしたい衝動さえ我慢できれば、そして男たちと長いこと付き合わなければ、女というジェンダーに感じる違和感をどうにかやり過ごすこともできた。
 自分がバイセクシュアルだと自覚した頃、私は『欲望問題』の著者、伏見憲明と出会う。当時、好きになる相手が、みんな異性愛の女のコということに私は頭を抱えていた。たまに体を開いてくれるヘテロ女性はいたが、彼女にとってそれは「遊び」でしかなく、「本気」で相手はしてくれない。そんな寂しくてシオシオの私に、伏見はヘテロやゲイだけじゃなく様々なセクシュアリティの存在を、活字や実物で具体的に紹介してくれた。
 私は、論理や観念だけの性差別に対する議論には全く興味がもてない。眼に見える、現実的で具体的な話しか記憶に残らない。フェミニズムが縁遠く感じたのも、男から受けた酷い行為だけが執拗に語られ、それに対する明るい対処法にリアリティを全く感じられなかったからだ。
 その点、伏見から受けた情報は、特に性的欲望の多様性は、現実的で具体的だった。それを知ることで、かなり孤独感を拭うことができた。そして、今のままの私でいいじゃん、と思えるようになったのだ。
 三章まで読み進むと、その想いは一層募る。差別問題を掲げて、何が正しくて何が間違っているのかを裁き合い、敵対することよりも、己の欲望を自覚し、欲望の異なるもの同士が共感できるものを探し合って、己の変化も受け入れつつ、共有できる社会をつくる方が絶対に面白い、と。そのためにも『欲望問題』を考えることが大事なのだ、と。
 私は今、年齢差に欲情する私の欲望を、年下の彼に受け入れて欲しいと思う。だが、それがダメなら、彼の欲望に少しでも関われる何かをしたい。
 自分の欲望に添わないからと蔑視したり、無闇に自己嫌悪するのはもうやめよう。『欲望問題』は、愛情いっぱいにそれを伝えてくれている。活動や運動に全く縁のない私にも、それぐらいはちゃんとわかる一冊なんだ。

【プロフィール】
さいとうあやこ●
1958年、東京生まれ。小説家、エッセイスト。雑誌『宝島」連載「性体験時代」(単行本『愛より速く」’81年刊)で作家デビュー。

【著書】
ハッスル、ハッスル、大フィーバー!!/幻冬舎/2006.1/¥1,400
欠陥住宅物語/幻冬舎文庫/2005.2/¥571
良いセックス悪いセックス/幻冬舎文庫/2003.8/¥571
欠陥住宅物語/幻冬舎/2003.3/¥1,400
知らない何かにあえる島/幻冬舎文庫/2002.6/¥533
フォーチュンクッキー/幻冬舎文庫/2001.8/¥495
男と女のためのPの話(監修)/新潮OH!文庫/2001.7/¥752
男を抱くということ(南智子、亀山早苗との共著)/飛鳥新社/2001.5/¥1,400
良いセックス悪いセックス/幻冬舎/2001.1/¥1,400
知らない何かにあえる島/愛育社/2000.7/¥1,300
ヴァージン・ビューティ/新潮文庫/1999.11/¥400
スタミナ!/幻冬舎文庫/1999.8/¥457
愛より速く/新潮文庫/1998.10/¥438
フォーチュンクッキー/幻冬舎/1998.2/¥1,400
Hの革命(松沢呉一、南智子、山口みずからとの共著)/太田出版/1998.2/¥1,300
快楽の技術/河出文庫/1997.11/¥600
結核病棟物語/新潮文庫/1997.6/¥400
ルビーフルーツ/新潮文庫/1996.11/¥400
ヴァージン・ビューティ/新潮社/1996.10/¥1,300
スタミナ!/毎日新聞社/1995.6/¥971
快楽の技術/学陽書房/1993.7/¥1,456
ルビーフルーツ/双葉社/1992.7/¥1,262
愛より速く/思想の科学社/1990.9/¥1,600
結核病棟物語/思想の科学社/1989.11/¥1,553
愛より速く/JICC出版局(宝島ブックス)/1984.8/¥780
愛より速く/JICC出版局/1981/¥780

松江哲明[映画監督]●「欲望肯定」

2007-02-06 ポット出版

 「この本はパンクロック」と伏見さんは書いてるけど、僕も読んでいる間はそんなジャンル分けというかカテゴリーが気になって、思想書というのが一番しっくり来るのだとは思うが、こんなに「(笑い)」が多い(いや、実はそんなに多くはないのだが気になる)のもそうないんじゃないか、と思う。まぁ、この言葉というか記号は自分自身で笑う、もしくはノリツッコミのようなものとして使われる場合が一般だが、この場合はどうも違う。僕は見知らぬ誰かのブログやmixiで使われるとほぼ「面白くもないのに笑うな」と冷たい反応をしてしまうのだが、『欲望問題』に関してはその「(笑い)」さえ巧妙な、それを書いた伏見さんがどこからか僕らを俯瞰してるような、妙な居心地の悪さを感じた。それは「もうここまで書いちゃったんだから笑うしかないでしょ」といった切実さが感じられ、または「ま、それでも私は笑っちゃうんだけど」といった余裕も感じられる。つまり伏見さんは僕らが想像する以上の何かを察した上でこの言葉を使っている。そんな巧妙な罠が仕掛けられた「欲望問題」だが、これだけ作者の主観が剥き出しな本も珍しく、確かに笑わなきゃ書けないわ、とも痛感させれる。初期衝動とはいえ伏見さんはこれまで何冊も本を書いていて(個人的に『性という[饗宴]』は特に好き)、それ故に「初期」とは矛盾をしてるのだが、『欲望問題』を読む限り、これは「初期に還った衝動」ではないかと思う。初期に戻らざるを得ない、というか「一回リセット」みたいな。いや、リセットだと全部なしにしちゃうから、これまでの経験を生かした上でのリセット。つまりは「大人になって始めるパンク」。
 何せテーマが「欲望」だ。この本に書かれてるそれは、もの凄く我がままで傲慢なものだ。それは「あんなこといいな、できたらいいな」程度の欲ではなく、セックスであり、互いのリスクであり、または一方的で合意のないレイプであり、マズイと分かってても止められない少年愛であり、つまりは結局「人間はチンポであり、まんこなんです(バクシーシ山下著『セックス障害者たち』)」のことである。そんな生々しい「欲望」の一例として「一章」の冒頭で書かれる鈴木さん(仮名)からの手紙は最も切実だ。僕はこの本を読んだ時期でもある年始、親族を殺すといった事件がいくつか報道されたせいか、ギリギリな人間関係がプツッと切れる何かを知ってしまったからか、そんなような前兆を勝手に感じてしまったからか、28歳の同性愛者の持つ痛みが切々とに伝わって来てしまった。良かったと思えるのは彼がそのことの危険性を自覚してることぐらい。けれど伏見さんが書くように、少年に手を出してしまう寸前である彼と僕との差なんてこれっぽっちもない。なぜなら人間の持つ欲望に制限はないし、誰にも決められないのだから。そんな彼に対して伏見さんは「我慢してください」としか答えられないが、多分、僕もそうとしか言えない。伏見さんはそんな自分を自覚してるからこそ「(笑い)」しちゃうんだと思う。それってとても正直なことだと思う。
 僕は日本で生まれで日本国籍を持つ、けれども両親共に韓国の血を引く在日韓国人(三世)だが、自分がどのような存在なのか、またどのようにこの日本で生きて行くべきか悩んだことがある。そのことに関しては2本のドキュメンタリー映画を通して考えたが、やはり結論は出なかった。けれど両作共、道筋というか撮影の仕方を意識的に変えている。一本はストレートに自分自身の家族を主題にし、もう一本はAVの職に就く異なる世代の女優、男優を通して、と。その男優が映画のラストで僕のインタビューに対してこう、答えている。「止められないよ、人間の欲望は」。彼は北朝鮮籍で生まれ、朝鮮学校に通い、北の政策を受け入れつつも、挫折。20代後半になって自身のアイデンティティに悩み、韓国籍に変えて現在はAV男優をしている。ハッキリ言って彼のセックスは強く、僕の知る限り最も楽しそうに(気持ち良さそうに)AVでセックスをする男優だ(ちなみに伏見さんは上映時に行ったトークショーで彼のことを非常に気にしていた)。彼は自分の欲望を曝け出し、時にはアイデンティティに悩みつつも、赤裸々に生きている。
 僕はそんな彼が必要とされる社会があることが嬉しい。自身の欲望を表現する場が。「欲望問題」を抱えた全ての人がどれだけそれを解消出来ているのかは分からないが、それを自覚した上で共に生きる、という選択肢を学校や社会では教えてくれない。それは自分自身で見つけるしかないのだ。しかしこの本にはそれを気付かせてくれるヒントがたくさんある。「これって鈴木さんの手紙に対するある種の答えになっているのでは」と思う箇所には涙腺を刺激されたし、何か心をギュッと絞められるような(けど、どこかやさしい)言葉をたくさん見つけた。伏見さんが横でニコニコしながら「欲望」を抱えた僕らを肯定してくれる、ような。
 少年愛に悩む鈴木さん、妹を殺した兄、夫をバラバラにした妻、彼等の窮屈さを思うといたたまれなくなる。プレッシャーを克服するのは自分自身でしかない。僕は22歳の頃、そんな重みに耐えきれず家を出た。あのまま家に居たら、現在は妹とも両親とも会話も出来なかっただろうと思う。僕は映像という手段で自分の欲望を表現している。現実を素材にするドキュメンタリーという手段ゆえに相手を傷つけることもあるが、それぞれの関係性の上で作品を作る。
 それが僕の欲望だ。
 僕は映画や漫画といったサブカルチャー、それと何人かの女性によって欲望をコントロールすることが出来た。あの思い出したくもない22歳の時期に『欲望問題』と出会ったいたらどんな思いで読めたのだろうか。今となってはそれは不可能なのだが、とりあえず25歳の童貞の知人には薦めようと思う。

【プロフィール】
まつえてつあき●1977年、東京都生まれ。ドキュメンタリー監督。日本映画学校の卒業制作にて制作した『あんにょんキムチ』(1999年)で山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波特別賞&NETPAC特別賞受賞。『スタジオ・ボイス』誌にてエッセイ「トーキョー ドリフター」を連載中。
公式BLOG:http://d.hatena.ne.jp/matsue/
★3/15(木)下北沢LA CAMERAにて行われる「第二回ガンダーラ映画祭」にて新作「童貞。をプロデュース ビューティフル・ドリーマー」を上映。
詳細はガンダーラ映画祭公式ブログにてhttp://blog.livedoor.jp/gandhara_eigasai/

【著書】
あんにょんキムチ/汐文社/2000.7/¥1,300
【映画作品】
『セキ☆ララ』(ドイツ・シネアジア映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭上映/2006)
『童貞。をプロデュース』(2006)
『カレーライスの女たち』(ハワイ国際映画祭上映/2003)
『2002年の夏休み ドキュメント沙羅双樹(一般劇場公開)』(2003)
「ほんとにあった! 呪いのビデオ」シリーズ(01〜02)
舞台「ハルモニの夢」では脚本を担当。
『あんにょんキムチ』(1999)
【役者作品】
『花井さちこの華麗な生涯』(2005・女池充監督)
『ばかのハコ船』(2002・山下敦弘監督)
『手錠』(2002・サトウトシキ監督)

岩井志麻子[作家]●ぼっけえ驚いたわ

2007-02-06 ポット出版

封筒開けて本を取り出して、添えられた依頼書を見て。ぼっけえ驚いたわ。

驚き、その1。……とにかく、つまらん! いやー、クソおもしろうない。
こんなつまらん本、久しぶりに読まされたわ。わしがいったい、どんな悪いことをしたというんじゃ。と、泣きたくなるほどにな。
そもそも何を書いてあるか、何がいいたいんか、まるでわからんし。その前に、いっこも興味ない話ばっかしじゃし。
なんで、私なんかにこんなものの書評を書かそうなんて考えたのか。あんたらほんま、私にナニを期待しとるんじゃ。
最初から最後まであまりにもコムツカシイ理屈まみれで、とにかくどうやっても内容が頭に入ってこない。
一応は最後まで読んだけど、内容はいっこも覚えとらんわ。オドレのドタマが悪いんじゃといわれれば、その通りなんだけどよ。
なんかよおわからんが、このひとがコムツカシイことを考えられる、コムツカシイ理屈を文章にでける人だ、というんだけはわかった。

驚き、その2。原稿料が激安! 
最初、1枚が1万円と思った。常識で考えてたら、そうじゃろ。ところがどうも、2千字(つまり原稿用紙5枚)で1万円らしい。
腰が抜けたで。物書きになって結構な年月が過ぎたけどな。1枚2千円なんて提示をされたんは、ほんま初めてじゃ。別に私は、有名出版社のメジャー誌でばかり書いとる訳じゃないよ。そいでもこんな安い、人をバカにした原稿料は見た覚えがない。
なんぼ貧乏マイナー出版社じゃいうても、あんたら人としての常識も思いやりも気配りも、何もないんかい。

驚き、その3。あとがきの傲慢さ。
命がけで書いたから、命がけで読んでほしい。……あんたいったい、何様のつもり。
これは本当に、あごが外れかけたわ。いったいどんな育ち方をしたら、ここまで俺様になれるの。ていうか、これは不幸の手紙か!? 勝手に送りつけてきて、命がけで読めだとぉ!? その言い草はなんなんだ。なんぼ温厚なわしでも、怒るで。
私も職業が物書きじゃ。しかしな。ただの一度も、こんなん考えたことがないで。オドレの書くものがつまらんからじゃろ、いうんは無しじゃで。
ようまあ恥ずかしげもなく、命がけなんて言葉を使えるよな。社会の差別について考える前に、人としての恥じらいについてちょびっと考えてみんか。
わしも一生懸命書きました、くらいは言うけどな。そんなん、職業なんだから当たり前じゃないか? 頑張りでもなんでもないワ。
だいたい銭をもらう以上、それは商品。買うてもろうたからには、読者様のもの。
こっちが命がけで書こうが暇つぶしに書こうが、読者様には関係なかろうが。おもしろかった、つまらんかった、読んでよかった、読まなきゃよかった、それらはもう、書き手にはどうしようもない読者様の自由だ。
あんたひょっとして、差別された差別された騒ぐんは、この本に書かれてある内容によるものではなく、あんたのその傲慢さ故ではないんかい?
そいで、命がけでとか偉そうコく割りには、(笑い)←を散りばめとるよな。
なんなんよ、これは。それこそ、笑うかどうかは読者様が決めることじゃ。
あんたが、「おい愚鈍な大衆どもよ、ここが笑うところだぞ。親切に俺様が指示してやってんだからよ」というとる訳か。
差別について闘う前に、あんたのその傲慢さをどうにかしようや。話はそれからじゃ。

いやはやほんま、内容のつまらなさと原稿料の安さと書き手の傲慢さで、最初から最後までむかむかしっぱなし。
こんだけ不快な目に遭わされたら、せめて文句の一つも書かせてもらわにゃ気が済まんわ、というんで書かせてもらいました。
いいですか、著者さんと出版社さんよ。これは書評でも感想でもなく、クレームだからな。本来なら、1万円じゃ済まさんで。

【プロフィール】
いわいしまこ●
1964年、岡山県生まれ。小説家。『ぼっけえ、きょうてえ』で日本ホラー小説大賞、山本周五郎賞受賞。東京MXTV「5時に夢中」毎週木曜日レギュラーなどテレビ出演も数多くこなす。現在『新潮45』にて「どスケベ三都物語」連載中。

【著書】
タルドンネ 月の町/講談社/2006.11/¥1,600
オトコ・ウォーズ/マガジンハウス/2006.10/¥1,200
永遠の朝の暗闇/中公文庫/2006.10/¥648
猥談(野坂昭如、花村萬月、久世光彦との共著)/朝日文庫/2006.8/¥400
痴情小説/新潮文庫/2006.6/¥400
黒い朝、白い夜/講談社/2006.5/¥1,500
無傷の愛/双葉社/2006.5/¥1,600
べっぴんぢごく/新潮社/2006.3/¥1,500
悦びの流刑地/集英社文庫/2006.3/¥429
女学校/中公文庫/2006.2/¥495
薄暗い花園/2006.1/¥533
死後結婚/徳間書店/2005.12/¥1,600
瞽女の啼く家/集英社/2005.10/¥1,400
合意心中/角川ホラー文庫/2005.9/¥438
黒焦げ美人/文春文庫/2005.8/¥400
チャイ・コイ/中公文庫/2005.3/¥476
嫌な女を語る素敵な言葉/祥伝社/2005.3/¥1,700
楽園に酷似した男/朝日新聞社/2005.1/¥1,500
東京のオカヤマ人/講談社文庫/2004.12/¥448
女神の欲望(中村うさぎ、乙葉との共著)/メディアファクトリー/2004.12/¥1,200
自由恋愛/中公文庫/2004.11/¥495
出口のない楽園/メディアファクトリー/2004.11/¥1,400
魔羅節/新潮文庫/2004.8/¥400
邪悪な花鳥風月/集英社文庫/2004.8/¥419
花月夜綺譚/ホーム社/2004.8/¥1,700
永遠の朝の暗闇/中央公論新社/2004.8/¥1,600
夜啼きの森/角川ホラー文庫/2004.5/¥514
淫らな罰/光文社/2004.5/¥1,500
恋愛詐欺師/文藝春秋/2004.3/¥1,333
偽偽満州/集英社/2004.2/¥1,300
私小説/講談社/2004.1/¥1,500
最後のY談(中村うさぎ、森奈津子との共著)/二見書房/2003.12/¥1,500
ぼっけい恋愛道 志麻子の男ころがし/太田出版/2003.11/¥762
痴情小説/新潮社/2003.10/¥1,400
薄暗い花園/双葉社/2003.9/¥1,300
岡山女/角川ホラー文庫/2003.7/¥476
志麻子のしびれフグ日記/光文社/2003.4/¥1,200
悦びの流刑地/集英社/2003.3/¥1,200
女学校/マガジンハウス/2003.2/¥1,400
楽園/角川ホラー文庫/2003.1/¥419
猥談/朝日新聞社/2002.12/¥1,200
黒焦げ美人/文藝春秋/2002.9/¥1,143
ぼっけえ、きょうてえ/角川ホラー文庫/2002.7/¥457
チャイ・コイ/中央公論新社/2002.5/¥1,000
合意情死/角川書店/2002.4/¥1,300
自由戀愛/中央公論新社/2002.3/¥1,400
魔羅節/新潮社/2002.1/¥1,400
東京のオカヤマ人/講談社/2001.10/¥1,400
邪悪な花鳥風月/集英社/2001.8/¥1,800
夜啼きの森/角川書店/2001.6/¥1,500
岡山女/角川書店/2000.11/¥1,300
ぼっけえ、きょうてえ/角川書店/1999.10/¥1,400

吉澤夏子[社会学者]●「欲望問題」と「心の自由な空間」

2007-02-05 ポット出版

 この本には、マイノリティとして在ることの痛み、生き難さを、「差別問題」ではなく「欲望問題」として主題化するまでの、生きられた理路そのものが、シンプルで力強い、しかし繊細で周到な議論によって示されている。伏見の強みは、自分の頭で考えたことだけを、借り物ではない自分の言葉だけで語っているということ、しかもその論理のひとつひとつが生きられた経験に裏打ちされているということにある。だからこそ「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という言葉が、レトリックではなく真に迫って響くのだ。
 「自身の「痛み」をできるだけ特権化しないで表現するのが、伏見憲明のゲイリブでした」(18)という。「自分の「痛み」を根拠にした「正義」」をふりかざし、何の疑いもなく弱者の位置を正当化する、ということにどうしても違和感があったということだろう。伏見は、この違和感から出発し、社会と自分の関係、社会における自らの位置を正確に把捉する、「欲望も、それを生かすヒントも社会の中からでてきたものだった。敵だと思っていたものに自分の「痛み」も可能性も与えられていた」(52)と。伏見は、差別に関わる思想や運動が、容易に陥ってしまう罠、つまり弱者至上主義やマイノリティ対社会という二項対立にけっして絡めとられることがなかった。
自分が社会に内在しているという事実に立脚した視点を獲得することがいかに重要で、しかもそれがいかに困難か、はあまり理解されていない。このことをリアルな感覚として生きて、理解している、という点で伏見は稀有な存在かもしれない。私は、この本を読んで、こうした視点を可能にしているのは、最終的に、人間や社会に対する深い信頼ではないか、と感じた。「欲望問題」では、人がそれぞれに心に抱く「痛み」や不満、欲求や理想、快楽や喜び・・・そのすべてを等価な「欲望」と捉え、さまざまに人々が思い描くそうした「欲望」を、できるだけ実現できる場として、つまり相互に対立し競合する欲望を調整する機能として、社会というものを立てているからだ。
 そのことは、この本の冒頭に置かれている少年愛者の「痛み」についての叙述から、とりわけ感じることができる。読者から、少年への欲望を抑えきれなくなるかもしれない、と不安を訴えるメールがきた。この社会では、もし彼の欲望が現実にある少年へと向けられたなら、それは犯罪となる。成人同士の同性愛の欲望なら社会と何とか折り合いをつけていくことができる。しかし少年愛の場合、そうした性的欲望をもつこと自体は許されても、それを現実のものとすることは反社会的だとみなされざるをえない。ここに線引きがされる。伏見はしかし、このように慎重に論を進めつつ、少年愛(の犯罪)者と自分は地続きで繋がっているという感覚、彼と自分を隔てる線が引けたとしても、それは恣意的なもの、偶然の結果にすぎないという認識を、一貫して持ち続ける。どのような欲望をもつ人間とも、人間として繋がっているという感覚をけっして手放すことがなかった、誰のどのような欲望も他者のものとして切り捨てることがなかった、そのことが伏見を「欲望問題」へと向かわせたのだと思う。
 「欲望問題」には、人間と人間が対するとき何がもっとも大切なことか、が示されている。それは一言でいえば、他者の「心の自由な空間」を尊重するということである。他者が心にどのような「欲望」を抱こうが、それはそのままにしておく、ということである。「差別問題」は、時に絶望に囚われて、人と人を遠ざけ、硬直した色のない世界を導く。しかし「欲望問題」は、99%の絶望より1%の希望に光をみいだし、人と人を繋げ、思いがけずポップな色彩に満ちた世界を現出させることもある。たとえば、もし自分のある「欲望」が社会から拒絶されたとしたら、その「痛み」はそれぞれが心の中で「個人的なもの」として引き受けていくしかない。しかしそうやってそれぞれが「痛み」を抱えて生きていくことを「切ない」こととして受け止めてくれる人がいる限り、それはけっして「絶望」ではない。私は、「欲望問題」がそのうちに胚胎しているこのポジティヴな生への志向性に深く共感する。それを私も「個人的なものの領域」という概念によって何とか掬いとろうとしてきたからだ。
 最後に、この本には社会学的にも示唆に富む内容が多く含まれているが──性別二元論へといたるコペルニクス的転回、ジェンダーフリー・バッシングに内在するフェミニズムの陥穽、共同性とアイデンティティをめぐる考察など──、「イカホモ」という言葉や記号ゲームとしての恋愛についての叙述は、現代社会の中核的な特徴と呼応しているようで、とりわけ興味深かった。そこに、ジェンダーの編成をジェンダーに内在しつつ達成するという困難な課題を解く鍵があるのかもしれない。それにしても、現実と格闘する実践の試行錯誤の中から、ジェンダー論最先端の議論で武装された「攪乱」や「ずらし」といった戦略に行き着いていたということも、いろいろな意味で驚嘆に値する。

【プロフィール】
よしざわなつこ●
1955年、東京生まれ。社会学者(理論社会学、現代社会論)、日本女子大学教授。主にフェミニズム論・ジェンダー論の視点から、現代社会の「現代性」の在り処を探る。

【著書】
ジェンダーと社会理論(加藤秀一、江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
いまこの国で大人になるということ(玄田有史、茂木健一郎、小谷野敦らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
差異のエチカ(熊野純彦、荒谷大輔らとの共著)/ナカニシヤ出版/2004.11/¥2,600
世界の儚さの社会学/勁草書房/2002.5/¥2,600
女であることの希望/勁草書房/1997.3/¥2,200
フェミニズムの困難/1993.9/¥2,500

浜野佐知[映画監督]●伏見さん少し優しすぎるなあ

2007-02-04 ポット出版

 おこがましい話だが、私もまた伏見憲明さんと同じような軌跡を辿ってきたといえるのではないだろうか。先日、東京・下北沢のミニシアターで新作『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作)のロードショーを終えたばかりだが、もともとピンク映画という、日本映画の底辺とも言うべき差別されたジャンルの女監督として、20代から延々と作品を撮ってきた。公的に日本の映画監督として認められることは一切なく、私は存在しているのに、存在しないように扱われてきた。
 50代を前に、その現実をあからさまに突きつけられた私は『第七官界彷徨−尾崎翠を探して』(1998)を自主製作し、強引に認知を求めた。意外なことに、声を上げてみると、私のピンク映画にも興味を持ったり、支持したりしてくれる女性たちがいた。私は彼女たちの声を頼りに『百合祭』(2001)、『こほろぎ嬢』(2006)と3本の作品を自主制作し、借金は増えるばかり。一方で、生業としてのピンク映画もホソボソと続けているが、映画業界の認知という点では、一応認知されたようにも思われる。
 私の貧乏くさい体験などとは比較にならないゲイ差別と戦ってきた伏見さんが「マイノリティ対社会と二項対立的に捉えていた世界観がガラガラとくずれて、社会と自分が対立的に存在しているのではなくて、自分が社会の中に少なくとも片足は置いて、そこを存在の根拠としている」と、本書で書いている。反差別の旗を高々と掲げていた方がカッコ良いはずで、これは地味だが、勇気の要る言葉だと思った。ピンク映画監督の私が、地方自治体のイベントや講演会に招かれることがあるぐらい、社会が変わりつつあることは確かなのだ。
 しかし、それに続けて「ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られたように」と書くのは、伏見さん、少し優し過ぎるのではないか。一応「この社会」に何とか認知されたように見える私でも、立ちはだかる壁は依然として大きく、中でも目には見えない男たちのギルド(オヤジどもの欲望同盟?)とは「利害の調整」ですむような問題では、まったくない。私はキッカケさえあれば、ブチ殺してやりたいと思うぐらいで、こういった連中と「この社会をシェア」したいとは死んでも思わない。しかし、これがかつて感じたような「差別」の問題から、私の「欲望」の問題となっていることは、伏見さんの鋭い指摘の通りだ。「差別」に反対して映画が撮れるほど、甘い世界ではない。
 本書でもっとも力点が置かれているのが「ジェンダーフリー」への疑義だが、ここで伏見さんは、かつては同志と思われたフェミニズムの学者たちを痛烈に批判している。「この社会」に優しくなったぶん、フェミニズムにキビシクなったように見えるが、これはご自身も書かれている通り、ある時期の自分に対する理論的な総括でもあるのだろう。
 ジェンダーや性差の解体は、人の生活実感から幸せや快楽を失わせると主張されているが、実際ピンク映画はジェンダー、それも相当古臭いヤツによって成立している。私はそれをブチ壊すことに執念を燃やしてきたが、ジェンダーがなくなったらピンク映画も無くなり、私は生業を失うことになる。つまり、私は伏見さんが批判する学者の先生方と同じように、批判する対象によって飯を食ってきたと言えるのだ。反省しきり。
 しかし、セクシュアリティについては、伏見さんとは異なって、ジェンダーによらない可能性も強く感じる。それは人間についてだけでなく、自分が飼っている猫たちや亀、鯉などとの間に、セクシュアルな交感を夢想するのだ。これをレトリックと思われては困る。私はマジなのだ。
 たまたまアーシュラ・K・ル=グウィンの『世界の果てでダンス』(白水社)を読んでいたら、自作の「闇の左手」について書いたエッセイがあった。有名な作品らしいが、SFに無知な私は、今回初めて知った。60年代に発表されたこの小説の舞台は、ゲセンという惑星。住人たちは、普段はノンセクシュアルで、発情期になると両性具有となり、パートナーとの関係で女の体になったり男の体になったりする。数人の子供の母親が、別の子供たちの父親でもあることが珍しくない。
 作者は「思考実験」と呼んでいるが、このエッセイでは、ゲセン人を異性愛者に限定してしまったことを後悔し「愚かで独断的なセックス観」だったと自己批判している。そこまで視野に入れれば、私の夢想するセクシュアリティは、目下のところ、ゲセン人がもっとも理想に近いだろう。伏見さんは「電信柱を見ても欲情する人はいるわけですからジェンダー・カテゴリーがなくてもセクシュアリティはあって不思議ではない」と笑っている。私はまさにその電柱タイプかもしれないが「それをもって既存の性愛を全否定」する気は、もちろんない。しかし、こうした揺れ幅は、多くの女の人たちにも共有されているのではないだろうか。
 なお、キャッチの「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」には、若干の疑問が残る。今回の果敢な発言に対する、さまざまなリアクションを想定してのことだろうが、何か踏み絵のように働かないだろうか。私は命がけで撮った映画を、笑って観てほしい方だが、むしろ伏見さんには、本書をもって参議院選挙に立候補してもらいたい。ここには、マッチョな政府や社会をもくろむアベやイシハラより、この社会を柔軟な視点から評価し、少しでも良くしていきたいと願うスピリットがみなぎっている。伏見さん、その時には、お金はないけど、全力で応援しますよ。

【プロフィール】
はまのさち●1948年生まれ。映画監督。1971年監督デビュー。1984年、映画製作会社・旦々舎を設立。同社代表取締役。性を女性側からの視点で描くことをテーマに300本を越える作品を発表。
旦々舎HP◎http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/

【著書】
女が映画を作るとき/平凡社新書/2005.1/¥740
【主な監督作品】
『こほろぎ嬢』(尾崎翠原作/2006)
『百合祭』(桃谷方子原作/2001)
『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』(尾崎翠原作/1998)