欲望問題出版記念プロジェクト

藤本由香里[評論家]●「豊かな魑魅魍魎」のために

2007-03-07 ポット出版

 小倉千加子はかつてこう言った。
「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」
 これを読んだとき私は快哉を叫び、それまである種のフェミニズムに感じていた微かなとまどいやひっかかりが、いっぺんに吹き飛んだ気がした。

 そして伏見憲明は、ホモセクシュアルの問題や、もっと広くクィアという存在を考えるにあたって(「クィア」という考え方自体がすでに「豊かな魑魅魍魎」だが)、それをやり続けてきた人だと思う。
 それは彼自身がこの『欲望問題』の中で、『プライベート・ゲイ・ライフ』や『キャンピィ感覚』を通じて自分がとってきた立場や戦略を明らかにしている通りであり、そして私は、個人的には一貫してそれに拍手を送りつづけてきた。

 同時に伏見は、非常に示唆的な理論構築をも並行してやり続けてきた人であり、この『欲望問題』は性差別問題(同性愛差別・女性差別含めて)についての彼の考え方の集大成といっていい。
 この中で彼は、「差別を解消したいという理想」も、「性差を楽しみたいという気持ち」も、「それぞれの性別役割に充実を感じる感性」も、「欲望」という意味では同じである、といい、それらすべてを同列に並べることを考えの基本におくことを提案する。
 絶対的な「正義」などというものはないのであり、大事なのは、ジェンダーという領域の中にあるさまざまな「欲望」が、お互いの間で利益調整を図っていくことなのだというのである。
 「差別を解消したいという理想」も欲望の一つに過ぎない、という位置づけ方は確かに新しいし、それ自体は私は正しいだろうと思う。また、そう位置づけることで、議論を新しいステージに進めることができる、という側面があるのもまた事実だろう。

 それを高く評価してこの一文を終えてもいいのであるが、私にただ一つ解せなかったのは、なぜ今、伏見憲明はこんな問題提起をしなければならなかったか、である。
 この「解せなさ」にはいくつかの感覚がからんでいるのだが、小倉千加子が「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」と言った時点で、そして伏見自身がそれをみごとに実践してきた時点で、もうその答えは出ていたのではないか、と私には思えることがその一つ。
 つまり、その先問題になるのは、つまるところ運動の実践論に過ぎないはずだからだ。
 現状ではまだ強く「差別解消」を訴えていった方がいいのか。
 それとももっとソフトに理解や共感や「お、そっちの方が面白そうじゃん」と思わせる戦略に訴えていった方がいいのか。
 あるいはその両方だとして、自分はどの立場からどういうパフォーマンスをするか、ある問題についてどういう立場をとるのか。

 誰が何を主張するにしろ、それは現状判断の違いにすぎない。けっして本質論ではない。
そこで問題になるのは実践の有効性の判断だから、もちろんそのときどきで、論理的には矛盾が出てきたっていっこうにかまわない、と私は考える。
 私たちがより生きやすくなるために求められているのは、論理的な一貫性などではないのだ。だから、内向きの「論理」の要求などに答える必要はない。いや、答えてもいいが、そうした運動内部の要請に対する答えを外に向かって言う必要は、必ずしもない。
 それまで、運動の内部を見つめるのでなしに、運動が変えようとする「外部」をこそ意識し、つねに外に向かって発信し続けてきた人ならなおさらである。

 たしかに運動の中では、「やせた清廉潔白」を求める人もいるだろう。
 だが、そもそも、そこにかかわる人間に、論理と実践の厳密な一致とか、論理と行動の一貫性とか、「正しい」ことを過剰に要求するようになった運動は、害悪の方がはるかに大きいし、長続きもしない。
それは、思春期に社会主義者の両親のもとで「家庭内文化大革命」を経験し(詳しくは拙著『少女まんが魂』の中の萩尾望都さんとの対談を参照)、「運動の理想」というものが人をいかに追い詰めるかを、オーバーではなく死と向き合って実感した私の強い確信である。だから人は、いくら運動の中にいるからといって、厳密な論理的一貫性を求めて自分を追い詰める必要などないのだ。

 
……と、ここまで書いてきて、もしかしたら私は、とても的外れなことを言っているのかもしれないと思う。
 ただ、なぜか『欲望問題』を読んでいて、かつて吉澤夏子の『女であることの希望』や『フェミニズムの困難』を読んで感じた、「運動の内部の論理に追い詰められてこれが出て来た」感と同じものを微かに感じてしまったのだ。

 その結果、吉澤夏子は「フェミニズムは個人の領域に立ち入るべきではない」と言った。片方に「個人的なことは政治的である」という非常に強いフェミニズムのテーゼがあるにもかかわらず。
 そのとき私は吉澤が、なんだか違った方向に力を使わされているように思った。よしんば誰かに「フェミニストのくせに矛盾してる」と言われようが、そんな<たらいの水ごと赤子を流す>ようなことをしなくとも、「そう? でも私はこれが好きなの」ですむことなのに。

 もちろん、伏見の『欲望問題』がそれと同じであるというつもりはない。これはとても誠実な本だし(吉澤の本もとても誠実な本だ)、結論にも基本的に同意する。
 だが、私にはもう一つ、伏見が今この本を書いた、それも命がけで書かなくてはならないと思った、その内的な動機がよくわからない気がするのである。
それが運動の内圧によるのだとすると、そのさなかから逃げない伏見にエールを送ると同時に、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかと、一声かけたい気持ちになる。

 
 それともう一つ大事なこと。
 『欲望問題』では「ジェンダーフリー」をどう考えるか、というのも一つの大きな論点になっているように思えるが、これもまた、私は他ならぬ伏見によって「とっくに回答が出ている」問題だと思っている。

 なのになぜ伏見がこの中で、ジェンダーフリーとジェンダーレスはどう違うか、性差の解消抜き(ジェンダーレスにならない)で性差別解消(ジェンダーフリー)が可能か、という問題に論理的にこだわっているのかが少し不思議だ。もちろん、各論者の立場の違いが整理されていて、いい仕事だとはいえるのだが。
 「ジェンダーフリー」という言葉は私はあまり好きではないが、ジェンダー問題を解決する鍵は、「性別をなくす」ことではなくて、「人間の性別はいくつかの層に分かれていて、それぞれの層のつながりは一貫していなくてもいい」つまり、「性別をいくつかの要素に分け、それぞれを自由に組み合わせることによって、たくさんの性別のパターンを作ることができる」ということだと思う。私はこのことを伏見の著作の中で学んだ。

 たしかにそれまでは私の中にも、性差別解消を推し進めていくと、男女の性差のない、のっぺりした社会が出来上がるような不安があった。
 それが80年代末、秋里和国のマンガ『ルネッサンス』の中で「完全両性愛社会」のイメージに出会うことで、「そうか! 性差の要素を徹底的にクロスさせてしまえばいいんだ!」と思い当り、いっぺんに目が覚めたような気がした。

 そして伏見の『プライベート・ゲイ・ライフ』の中で、「性別はいくつかの層に分かれている」という考え方に出会うことで、この考え方のイメージがより構造的に説明できるようになったのである。
 『プライベート・ゲイ・ライフ』ではとりあえず、性別パターンを構成する層は「♂/♀」「男制/女制」「ホモ/ヘテロ」の三つにしか分かれていないので、<性別>のパターンは2×2×2で8通りだが、「男制/女制」はくっきりと二つに分けられるものではなく、その中で「女言葉/男言葉」だの「ダンディ/フェミニン」だの「男前/乙女」だの、いくつもの層にまた分けることができる。
 こうすることによって、それぞれの層の「男女」という性別二元法はそのままで、その層の組み合わせのあり方によって、身体的性別はその人が表現する性別の一部でしかない、まさに個人ごとに異なるn個の性の組み合わせが可能になるのである。これがジェンダーレスでなどありえないのは自明の理ではないだろうか。

 そして社会は現在、そちらの方に着々と進み始めているように思える。たとえば「乙女系男子」という言葉が、マスコミでも喧伝される時代だ。「乙女」要素はカセットのように身体的性別から切り離すことができ、それを女子が選択しても男子が選択してもいい。
 そういう意味では、私が『欲望問題』の中でいちばん「使える」と思ったのは、「イカホモ」(いかにもホモっぽいルックス)という言葉がゲイの間で肯定的に流通した、という事実である。<つまり、「真の男」と自分の間に隙間、遊びがあるという感性が、そのジェンダー表現にはある>と伏見は書く。

 社会はこれからどんどんその方向に進むだろう。そしてその中で差別も解消されていく、というのが私には一番望ましいあり方に思える。
 もっとも、伏見には、そんな答えはもうとっくにわかっているはずなのだが。

【プロフィール】
●ふじもと ゆかり
1959年、熊本県生まれ。編集者、評論家。とくにマンガ評論家として数多く連載を持つ。

【著書】
達人が選ぶ女性のためのまんが文庫100(村上知彦、夢枕獏との共著)/白泉社文庫/2004.9/¥648
愛情評論/文藝春秋/2004.2/¥1,600
少女まんが魂/白泉社/2000.12/¥1,500
快楽電流/河出書房新社/1999.3/¥1,600
私の居場所はどこにあるの?/1998.3/¥1,600

◎「週刊現代」(3/17号)『リレー読書日記』で池田清彦さんにご紹介いただきました。[『欲望問題』の評判]

2007-03-06 ポット出版

◎「週刊現代」(3/17号)『リレー読書日記』で池田清彦さんにご紹介いただきました。
伏見憲明・公式サイト :「週刊現代」で取り上げられましたをご参照下さい。

松沢呉一●macskaさんのブログへの反論[更新]

2007-03-01 ポット出版

編集部から●本コーナーの2月3日にアップした松沢呉一さん書評原稿「欲望のためのジェンダーレス教育を!」に対して、macska dot org[http://macska.org/]のブログで批判がなされました。本コーナーでは、その批判に対する松沢呉一さんの反論を公開していきます。適宜、追加していきますので、どうぞお見逃しなく!


では、macskaさんの批判に対する反論なり弁明なりをやっていきます。

ネットの文章なので、その必要があると思えば、修正箇所をわかるよう、適宜原文に訂正、改訂、補足を加えていきます。

一度にすべてを論じると混乱しそうなんので、ひとつひとついきます。

まず言葉の定義です。

macskaさんの引用した定義。

————————————————————–

A.よくある誤解だけど、ジェンダーフリーは、性差を全部なくすこと(ジェンダーレス)とは違います。ジェンダーフリーは、社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らしていこうというもの(参照)。 ジェンダーを全部なくすのではなく、バイアスや偏見をなくすためだからこそ、男性の育児休暇への配慮や男性の労働時間の縮減、女性の生理休暇や産休なども含まれるわけで。

————————————————————–

公教育の範囲において、私は【ジェンダーを全部なくす】ことを主張してます。すでに書いたように、どこまで可能かという問題はあるにしても、それを目指すべきと考えてます。

社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らすものであることを個別に立証する必要はなく、検討する必要もなく、ただひたすら教育の場ではなくせばいいと言っている。

だから、私の主張は「ジェンダーレス教育」だとしているわけです。定義通りに解釈しているだけだと思いますが、いかがでしょうか。

 
 

[3月1日 追記 macskaさんのコメントへの返信]

体調を崩して寝込んでしまい、返事が遅くなりました。すいません。

ジェンダーフリー論争のざっくりとした流れは『欲望問題』で読んでましたが、おかげで正確な経緯が理解できました。ありがとうございました。

ところが、いよいよわからなくなったところがあって、「ジェンダーレスとジェンダーフリーの区別は可能なのか」「その区別に意味があるのか」という『欲望問題』で提示されているテーマに行き着かざるを得ず、一から出直して、まずは『バックラッシュ!』を読んでみます。

それから改めて書きます。

松本侑子[作家]●同じ時代を同じように摸索し、答えを探しながら生きてきたんだな

2007-03-01 ポット出版

 本書を読んで、思わず涙が出ました。とくに、第2章「ジェンダー・フリーの不可解」には、心を揺り動かされました。

 伏見さんと私は同い年ですが、「同じ時代を、同じようなことに悩み、模索し、答えを探しながら、生きてきたんだな」とつくづくと実感したのです。

 伏見さんの御本は、デビュー作の『プライベート・ゲイライフ』以降、ほとんどを拝読していると思いますが、ゲイ/ヘテロの差がありながら、ここまで同じような変遷を経験していたのかと驚きながら、ますます共感をおぼえた次第です。

 第2章の主題は、「ジェンダー・フリーの不可解」という章題から連想されるように、昨今の「ジェンダー・フリー/ジェンダー・レス」の混乱と、それが目指すものへの疑問です。

 しかし私が注目したのは、この章で、「自分らしく生きること」と「性別二元論」の相克、それをどう克服し、今はどこへ着地したのか、その過程が告白されている点です。その記述に、私は惹きつけられたのです。

 本書によると、伏見さんは、1980年代のフェミニズムの時代に、「男らしさから自分らしさへ」というその時代の理念に従って、オネエ的な自己表現をしたところ、あまりモテなかった。

 ところが同性愛者に好かれるある種の記号としての「男」、つまりジェンダーの「欲望」に沿ったイメージを演出したところ、恋愛相手には困らないようになった。

 しかし、彼はまた別の困難に直面します。
「性愛は満たされるかもしれないが、もう一方で、自分が抱える<女制>蔑視から生じるゲイ差別の問題が取り残されてしまうことになりました。ぼくは同性愛ということでも思春期に抑圧感を抱かざるをえませんでしたが、女性的な男性という部分−−これはすべてのゲイに当てはまるとは言えませんが、少なからずのゲイに見られる傾向−−でひどく攻撃された経験がありました。それは、男女のジェンダーの格差に根ざした蔑視でしたから、ぼくは<女制>差別の当事者でもあったと言えます。」

 こうして伏見さんは、「性愛を生きようとすれば差別を再生産し、差別をなくすためには性愛を断念しなければならない」というディレンマにさらされた結果、「性愛は私的領域の中で交わされる『ゲーム』だと了解し合い、一つのパロディとして遂行していく」ようになったと書いています。「キャンピィ」な感覚もまた、「パロディ」の一つだったようです。

 それから歳月を経た今、第2章の結末では、「性別二元制」の中でも、ゲイ男性の欲望を引きうける理想的なイメージの一つに、「いかにもホモらしい人」が出てきて、いわゆる普通のヘテロ男性が考える「男らしい男」とはまた別に分化して、ゲイ独自の男制が発展していることが語られて、終わります。

 実は同じ遍歴を、私自身もたどってきたように思います。
 10代の1970年代にアメリカのフェミニズムの洗礼を受け、1980年代の20代は上野千鶴子さんや小倉千加子さんの片端から本を読みあさりました。

 私生活では「自分らしさ」を心がけていましたが、メディアで仕事をしていたことから、「女性性」の表出は、職場では、日常的に求められていました。また、意中の男性の前では、恋人になりたいために、ヘテロ男が求める「女制」の記号も表現しました。
 すると、恋愛が成就することもありましたが、相手が私に求める「女制」や「支配・被支配的な男女関係」に失望したり、疲れたりして、結局、長続きしない。恋愛の中で、性差別の再生産をする羽目になる。

 さらに私は、子どものころから女性的な服、キモノ、家庭的な手仕事が大好きだったのですが、そうした自分の好みは、因習的な刷り込みなのか、それとは無関係な個体的な好みなのか、うまく分析できない(今思えば、同じ親のもとで育ちながら、姉妹はそうした趣味を共有していないので、個体差だったのかもしれせません)。

 そうした迷いの結果、女らしいドレスアップをしてメイクをする時は、「女装」と語っていた時期もありました。過剰な女性性の演出それ自体を、ある種の性表現のパロディにして、自分と他者を納得させていたのかもしれません。また私自身、別人に変わるくらいの「女装」をとても楽しんでいました。演劇的な喜びもあります。

 その頃は、自分の公式サイトに女装専門コーナーも常設して、美しい女装者の皆さま方のお写真を多数、掲載していました。やがて、本物の女装者と、自分の「女装」との違いがわかるようになり、結局、今は、女装コーナーは廃止しています。

 そして現在、注目していることは、女が意識する<女制>のイメージが、必ずしも「男性にとって受けが良い外見、イメージ、性的記号」ではなくなっている明確な現実の変化です。

 女たちは、必ずしも異性の目だけではなく、むしろ自分や同性の意識や価値観を体現する外観とイメージを、理想として考えているように感じます。私自身も、同様です。

 たとえば、私自身の服装を、パートナーや男性が「???」と反応することもあれば、気に入ることもあるのですが、いずれにしても、さほど重きを置いていません。むしろ自分と同性の美意識のほうが比重が思い。

 倖田來未さんのエロカワという高い評価も、セクシーさという性的魅力が語られながら、男の目線ではなく、むしろ女の肯定的な目線が基準になっていることを思えば、性別二元制の中でも、男制、女制のイメージそれぞれが、ヘテロの硬直した欲望の視線から比較的、自由になりつつあることを感じています。

 最後に、「ジェンダーフリー」という言葉については、私も懐疑的です。
 学校では、「性差別撤廃」で良いのではないでしょうか。それは女性/男性という身体的性別だけでなく、同性愛/異性愛といった性的嗜好性も含めて、差別的な扱いに警戒してほしいという意味です。

 そして最後にもう一つ。伏見さんは、ゲイのカミングアウトは、場合によっては家族を傷つけかねない試みだったが、現在はお母様と良好な関係を築いていらっしゃることを書いておられます。
 同じようにフェミニズムもまた家族を傷つけかねない思想でした。
 親たちが当たり前のように信じてきた価値観、(男はかくあるべきだ、女はかくあるべきだ、女の幸せはこういうものだ)が、娘によって、むざむざと否定されていく。
 また娘である私自身もまた、自分が育ってきた環境の価値観や自分の過去の理想を否定しながら、あるべき自分や異性関係を探していく、という、時にはつらい問いかけ、作業を繰り返して文章を書いてきたように思います。
 しかし両親は、娘の試行錯誤から、きっと何かを感じとってくれたのではないかと思います。とくに以前は男権主義的だった父が大きく変わったことを、私は嬉しく感じています。

 伏見さんの『欲望問題』は、ご自身の思索と活動の過程、昨今のセクシュアリティをめぐる現状を、時に自己批判もまじえながら語った書物です。その率直で真摯な態度に心打たれました。
 ゲイの人だけでなく、ヘテロの女性も、男性も、自分の性愛と生き方を見つめ直す大きな機会をあたえてくれると思います。

 私はこれからも、憲ちゃんの本を真剣に読んでいきたいと、あらためて実感しています。

【プロフィール】
まつもとゆうこ●
作家・翻訳家。テレビ局に在職中に『巨食症の明けない夜明け」ですばる文学賞受賞して文筆業に。小説、海外紀行集の他、訳注つき全文訳『赤毛のアン』などの翻訳も手がける。

【著書】
海と川の恋文/角川書店/2005.12/¥1,700
ヨーロッパ物語紀行/幻冬舎/2005.11/¥1,500
アンの青春(訳)/集英社文庫/2005.9/¥762
憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言(井筒和幸、井上ひさし、黒柳徹子らとの共著)/岩波ブックレット/2005.8/¥476
愛と性の美学/幻冬舎文庫/2005.2/¥600
引き潮/幻冬舎/2004.9/¥1,300
性遍歴/幻冬舎文庫/2004.4/¥495
イギリス物語紀行/幻冬舎文庫/2004.2/¥571
物語のおやつ/WAVE出版/2003.9/¥1,400
光と祈りのメビウス/ちくま文庫/2003.1/¥680
どうして猫が好きかっていうとね(訳)/竹書房/2002.7/¥980
別れの美学/幻冬舎文庫/2001.12/¥495
赤毛のアンに隠されたシェイクスピア/集英社/2001.1/¥1,900
誰も知らない「赤毛のアン」/集英社/2000.6/¥1,700
赤毛のアン(訳)/集英社文庫/2000.5/¥800
花の寝床/集英社文庫/1999.8/¥362
グリム、アンデルセンの罪深い姫の物語/角川文庫/1999.5/¥552
偽りのマリリン・モンロー/集英社文庫/1993.1/¥457
植物性恋愛/集英社文庫/1991.10/¥381
巨食症の明けない夜明け/集英社文庫/1991.1/¥343

◎「本よみうり堂」(YOMIURI ON LINE)にて中村うさぎさんがお勧めしてくださいました。[『欲望問題』の評判]

2007-03-01 ポット出版

◎「本よみうり堂」(YOMIURI ON LINE)にて中村うさぎさんがお勧めしてくださいました。
http://blogs.yomiuri.co.jp/book/2007/03/post_d9f4.html

竹田青嗣[哲学者]●「差別」の問題を考えるとき、これがいまのところいちばん根本的である

2007-02-28 ポット出版

『欲望問題』を一読し、ある感慨を覚えた。自分が在日コリアンなので、いろいろ思い当たることがあったからだ。伏見憲明氏のことは、それほどよく知っていたわけではないが、なんとなく勝手な「仲間」意識があった。差別の問題を、単に社会問題としてだけではなくて、いわば「不遇」の感度でちゃんと考えている人という程度の理解だったが。

 私もまた二十歳すぎから三十歳近くまで、民族問題(差別問題も込みで)でずいぶん悩んだ経験がある。いってみれば、これから自分の人生をというときに、変な怪物スフィンクスに出会って、この難問を解かないと先には進ませないと言われたようなものだった。「私とはいったい何者か」というのが第一の難問で、「どうやって差別をなくすか」というのが第二の難問。はじめがアイデンティティの問いで、つぎが「社会的正義」の難問だが、ところでこの二つの問いには、なぜかすでに「正解」が存在していた。第一の問いの「正解」が「朝鮮民族として主体的に生きよ」で、第二のそれは「一切の階級や差別のない理想社会を創り出すために生きよ」というものだ。私の感度からは、これは両方とも、いわば「超自我」の声のようでどうにもなじめなかったのだが、その威力は圧倒的に大きかった。当時、ずいぶん差別の本とか、あれこれ読んだが、どういう理由だか、私にはみんな同じこと(上の正解)ばかり言っているように思った。ハイデガーじゃないけれど、「本来性」を生きるか、それとも「頽落」(=ダラク)の道を生きるか、どっちかです、みたいな。驚くべきことに、当時、そういった「正義論的構図」のほかにはどんな「答え」のモデルもなかったのである。
 
 そういうことでずいぶん悩んだのが理由で、私はいま「哲学」などを仕事にするようになった。なのに、考えてみると、差別問題についての本格的な本は一つも書いていない。どういえばいいか、正直いって、うーむ、こういうの、書きたかったなあ、と、つい思ってしまったのである。

 自分が仕事をしていないのでこういうことを言える立場ではないが、あれから日本の社会で、部落差別や障害者や性同一性障害やその他もろもろ、たくさんの差別の問題が大いに沸き立ってきたわりには、差別の本の基本構図はほとんど変わっていない、と私は思う。在日の問題でも、やっぱり四十年前と変わらず、民族とか主体性とか愛国心とかが主張されているし、ジェンダー論では男社会排撃論がまだ一定勢いを保っている。しかし、差別論は、単なる社会正義論だけで語ると決してその本質をつかめないのである。
 
 この本は、そういう正義による差別の救済論ではない。差別の問題は、いかに現行の社会の不平等や不正義を正してゆけるかという問題とは別に、もう一つのまったく異なった課題を持っている。個々人が、差別を感じることからくる不遇感やルサンチマンやリアクションをどう自己了解して、自分の生を組み立て直すか、といういわば実存的な課題である。ここでは、社会制度の改変の条件を考えるのとは別の考え方が必要である。そして、この本では、まさしく差別の不遇性を生きることのそういう微妙な側面が、著者が経験した一つの思想体験としてはっきりと打ち出されている。

 差別(的)経験はいろんな局面をもっており、だから多様な問いがわき出てくるし、さまざまな選択の場面にぶつかる。正義論的な構図では、それらの多様性は一つの正しい「答え」に収斂されていくことになる。しかし著者の声は、正しい「本来性」の道でなければ「ダラク」の道しかないよという言説の威力にあらがって、そういう人間的選択の自由の感度を届かせるものだ。こういう「差別?」の本がきわめて稀だったことを考えると、もうそれだけで、挑戦的かつ開拓的な意味をもっている。

 「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」というキャッチが、またきわめて象徴的である。

 差別の不遇を生きる人は、自分の存在のマイナス性を打ち消そうと努めるところから出発するが、その最も典型的な類型として、不正義な社会に対する「反=社会」思想が現われる。まさしく、「差別をなくすために生きる」ことこそが、自分の不遇感を取り払う絶対的な道のように感じられるのだ。たとえば革命によって理想社会を創り出すというのが、まずやってくる考え方のモデルであり、それが無理なら、ねばり強い社会批判を続けていく、という方向がつぎの方向になる。しかし、革命は成功するかどうか分からないし、いったいいつ理想の社会がやってくるかも定かでない。著者もその機微にふれているが、この生き方は、人間の当為とエロス(「欲望」)を、カント的な二律背反(理性か感性か)、キルケゴール的な「あれか、これか」(美的か、倫理的か)に必ず引き裂くことになり、要するに、原理主義的にガンガン頑張れる人以外は、ちっとも楽しくないような道になってしまうのである。

 どんな差別運動も、それ以外には道がないというぎりぎりのプロセスを経緯しているから、こういう正義の感覚に根ざす原理主義的反差別運動が不必要だった、と言うつもりはぜんぜんない。これらの運動が、社会が抱え込む差別意識の悪質な反動性に対抗する上でどれほど大きな役割を果たしてきたかということは、ユダヤ人や黒人の歴史を見ればすぐに理解できることだ。しかし、どんな反差別運動(や思想)も、その本質から言って、絶対平等や絶対正義に向かう運動という理念のままではけっして生き続けることができない。反差別の運動は、公正で開かれた市民社会の成熟へ向かうときにだけ、さまざまな市民階層の中によく根を張り、感動的な慣習や秩序にたいする持続的な改変の運動として持続することができる。

 たとえば「在日」の中では、さすがに「民族的主体性」のテーゼは、一部の(もっと言えば、日本のサヨク的陣営が期待するような)在日=反日知識人だけの看板になっていて、ふつうの「ザイニチ」の若者の中では確実に死滅しつつあり、この状況はもはや決して後戻りしない。性の問題においても、いわゆる原理主義的フェミニズムの思想が一つの時代の役割を終えつつあることは明らかである。しかし、ニーチェが力説したように、じつはその「次の考え方」が難しいのである。「神は死んだ」。それはよいとして、次に何が現われるかというと、もしわれわれが生の積極的な価値を根拠づけられないかぎり、古い倫理に根拠を求める反動、無神論、相対主義、ニヒリズムといったさまざまな「反動形態」、といったものが世界にはびこることになるだろう。

 そう、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」。そんな、正義のためだけに生きることなんてふつうの人にできやしないし、だいいち、「楽しく」ない。しかし、「差別をなくす」という社会的な希望をすっかり捨ててしまうと、われわれはどこかで生きることが「寂しく」なる。いま差別や不遇の感覚を生きている多くの人間が立っているのは、いわばそういう微妙でやっかいな地点だと思う。

 考え方を変えてみよう。必ずつぎの出口がある。たとえば全てを「欲望問題」として考えてみよう。そうすると、社会的な不正義の構造をいかに少しずつ変えてゆくという課題と、不遇の感覚を生きる自分といかに折れ合って自分の生のゲームを創っていけるか、という課題とのつなぎ目が見えてくるはずだ。伏見憲明はそう言っている。

 私はこの考えは正しい出発点だと思う。すべてを「欲望問題」として考えることは、いわば二十世紀における、支配と被支配の善悪、という構図をいったんチャラにして、代わりに、多様な欲望をもった人間がその多様性を承認しあいながら、どのように「市民社会」というゲームの中に積極的なエロスを創り出していくか、という前提に立つことだからである。私の立場から言っても、「差別」の問題を考えるとき、この立場がいまのところいちばん根本的である。「差別のない社会」というような前提で考えると、道はおそろしく遠いものになる。そうなるとじわじわ絶望だけがやってくる。さまざまな「欲望問題」が多様な仕方で承認しあうゲームを創り出すと考える。そのゲーム自体が一つの深いエロスになると、道の遠さは関係なくなる。この本は、われわれがそういうゲームをうまく設定してゆくための、一つの重要な布石になるにちがいない。
 

【プロフィール】
たけだせいじ●
1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。早稲田大学国際教養学部教授。

【著書】
「自分」を生きるための思想入門/ちくま文庫/2005.12/¥740
人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想/講談社/2004.12/¥2,700
愚か者の哲学/主婦の友社/2004.09/¥1,400
よみがえれ、哲学/日本放送出版協会/2004.06/¥1,120
近代哲学再考:「ほんとう」とは何か・自由論/径書房/2004.01/¥2,100
現象学は<思考の原理>である/ちくま新書/2004.01/¥780
哲学ってなんだ/岩波ジュニア新書/2002.11/¥740
言語的思考へ 脱構築と現象学/径書房/2001.12/¥2,200
天皇の戦争責任(加藤典洋、橋爪大三郎との共著)/径書房/2000.11/¥2,900
プラトン入門/ちくま新書/1999.03/¥860
哲学の味わい方(西研との共著)/現代書館/1999.03/¥2,000
陽水の快楽 井上陽水論/ちくま文庫/1999.03/¥680
二つの戦後から(加藤典洋との共著)/ちくま文庫/1998.08/¥700
はじめての哲学史(西研との共著)/有斐閣/1998.06/¥1,900)
現代批評の遠近法/講談社学術文庫/1998.03/¥820
現代社会と「超越」/海鳥社/1998.01/¥4,000
正義・戦争・国家論 ゴーマニズム思想講座(小林よしのり、橋爪大三郎との共著)/径書房/1997.07/¥1,600
エロスの世界像/講談社学術文庫/1997.03/¥820
世界の「壊れ」を見る/海鳥社/1997.03/¥3,800
恋愛というテクスト/海鳥社/1996.10/¥3,398
エロスの現象学/海鳥社/1996.06/¥3,107
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/講談社学術文庫/1996.04/¥800
ハイデガー入門/講談社選書メチエ/1995.11/¥1,800
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1995.11/¥1,300
<在日>という根拠/ちくま学芸文庫/1995.08/¥1,068
「私」の心はどこへ行くのか 「対論」現代日本人の精神構造(町沢静夫との共著)/ベストセラーズ/1995.06/¥1,760
自分を活かす思想・社会を生きる思想(橋爪大三郎との共著)/径書房/1994.10/¥1,800
ニーチェ入門/ちくま新書/1994.09/¥720
力への思想(小浜逸郎との共著)/学芸書林/1994.09/¥1,748)
自分を知るための哲学入門/ちくま学芸文庫/1993.12/¥740
エロスの世界像/三省堂/1993.11/¥1,553
意味とエロス/ちくま学芸文庫/1993.06/¥950
恋愛論/作品社/1993.06/¥1,800
はじめての現象学/海鳥社/1993.04/¥1,700
身体の深みへ 21世紀を生きはじめるために3(村瀬学、瀬尾育生、小浜逸郎、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1993.02/¥1,796
現代日本人の恋愛と欲望をめぐって(岸田秀との共著)/ベストセラーズ/1992.10/¥1,553
世紀末のランニングパス:1991-92(加藤典洋との共著)/講談社/1992.07/¥1,845
現代思想の冒険/ちくま学芸文庫/1992.06/¥740
「自分」を生きるための思想入門/芸文社/1992.05/¥1,300
自分を知るための哲学入門/ちくまライブラリー/1990.10/¥1,300
陽水の快楽 井上陽水論/河出文庫/1990.04/¥466
批評の戦後と現在/平凡社/1990.01/¥2,136
現象学入門/NHKブックス/1989.06/¥920
夢の外部/河出書房新社/1989.05/¥1.942
ニューミュージックの美神たち/飛鳥新社/1989.01/¥1,300
ニーチェ(For beginnersシリーズ)/現代書館/1988.06/¥1,200
世界という背理 小林秀雄と吉本隆明/河出書房新社/¥1,600
現代思想の冒険/毎日新聞社/1987.04/¥1,300
<世界>の輪郭/国文社/1987.04/¥2,000
意味とエロス 欲望論の現象学/作品社/1986.06/¥1,600
陽水の快楽 井上陽水論/河出書房新社/1986.04/¥1,300
物語論批判(岸田秀との共著)/作品社/1985.09/¥1,200
記号学批判 <非在>の根拠(丸山圭三郎共著)/作品社/1985.06/¥1,200
<在日>という根拠 李恢成・金石範・金鶴泳/国文社/1983.01/¥2,000

ぼせ[研修医]●「正しさ」を疑い、「あちら側」を忘れない

2007-02-27 ポット出版

本書は「欲望問題」の視点から、差別問題、ジェンダーフリー問題、アイデンティティへの懐疑(クィア理論というのかな?)に議論を投げかけているようです。しかし、僕が最初に本書を読み終えたときの感想は

「ふぅむ」

というもので、それほど大きな驚きもなく、かといって、すごくツマラナイというわけでもなく、伏見氏の主張も納得出来るモノだし…てな、無感動なものでした。それは、伏見氏が言っているように、利害が対立する場所としての社会で、それらを互いに尊重し合いながら妥当な線引きを見極めるという発想自体は「しごく当たり前のこと」だと感じてしまったからだと思います。

もちろん、伏見氏のように明瞭に言語化しながら暮らしている人はそう多くないとは思いますが、生活感覚として非常に納得のいく論理を「欲望問題」は提示してくれていると感じます。また、「自由の相互承認」や「リベラリズム」という考え方にも通じるのかなーと僕は感じました。うんうん、そうだよね。なるほどなるほど。伏見さんやっぱり分かりやすくて読みやすいなぁ。すごいなぁ。と。

しかし、せっかく感想文を頼まれたのにそんな内容じゃちょっと送れないなぁと思って、本書を何度か読み返してみました。そこで、僕はようやく分かったんですが、伏見氏は「正しさ」の根拠を疑うことをしているんですね。そのことに気が付いてから、自分の頭のなかでウマく連結されていなかった各章がすごく有機的な一貫性をもった構成になっているんだとだいぶ分かってきました。

反差別運動を支える「正しさ」、ジェンダーフリー運動を支える「正しさ」、アイデンティティ懐疑を支える「正しさ」。でも、それらの「正しさ」に普遍性を与えるような明瞭な根拠はなく、むしろ「正しさ」ですらなく、そこにはただ「欲望」があるだけなのだ。そう伏見氏は異論を唱え、そして、新しい枠組みを提出したということなんでしょう。社会はさまざまな欲望が共存した場所であり、事後的にしか「正しさ」を規定できないという主張に従えば、いまこの瞬間を生きている僕たちがリアルタイムに「正しさ」を受け取ることはできません。つまり、先見的に「正しさ」を設定した上での運動、行動、考え方…それらに根拠なんてなく、かつ、そのような先見的な正義を設定するやり方はいずれ実生活と乖離し、下手すれば生活を脅かす存在にもなりうるということです。

さらに、おそらく意識的にでしょうが、「過去の自分」をもきちんと批判対象として、人間の陥りやすい優しさや正しさといったものに、徹底的に決別しようとしています。かつての自分を奮い立たせてくれた根拠、存在や行動に理由を与えてくれた正義を、いま再び、自らの意志で問い直す。自分で自分の爪を剥ぐような強い苦痛を伴った作業なんじゃないかと思います。楽なほうへ流れていく僕みたいな人間には、もう尊敬の一言しかありません。

そして、これら伏見氏の主張・行動も1つの「欲望」と捉えてみると、実生活から乖離した言説や当事者の痛みに根拠を求める差別運動といった「欲望」よりもずっと懐が深くて、少なくとも僕には、世の中をよりよい方向へ動かしていくのに有用な議論だと感じます。

せっかくなので、最近僕が出くわした「カミングアウト原理主義問題」について欲望問題の枠組みで考えてみます。カミングアウト原理主義問題というのは、このごろのネット界隈でゲイの可視化を促進するにはどうするか?ということが話題になってきたことから始まります。リブ志向のゲイブロガーなど(僕もそちらに分類されると思います)は「ゲイの可視化はカミングアウトからしか始まらないんじゃないか」という立場を大なり小なり持っているわけですが、そのような主張がこの1年くらいでわずかばかりですが勢いを見せつつあります。僕自身も「個人の私的な動機によるカミングアウトが、結果的に社会を少しずつ変えていく」とブログで書いたこともあります。

するとそれらへの反論として「カミングアウトできない人たちも世間にはたくさんいる。カミングアウトできる人間はまるで自分たちがエリートかのような視点で、上からものを言っている」という主張が見られるようになりました。「カミングアウト原理主義」だとして、ゲイブロガーたちの主張に批判が入った格好です。

僕自身の私的な感想として「カミングアウトしてからのほうがラクだし楽しいし、周りの人たちは僕をきっかけにしてフォビックな状態から簡単に抜け出しているし、怖がらずにもっとカミングアウトすればいいのにー」という、すごくバカっぽい私的感覚を表明しているだけなのですが、それが「エリート気取りで、カミングアウトできない人を見下したような言い方だ。俺達の気持ちも考えろ」という反論をされることをどう考えればいいんだろうと思っていました。だって、カミングアウトしたくなければしなきゃいいだけじゃないですか。こちらとしては個人の意見としてオススメはするけれど、それを強制する気なんてさらさらないんです。(この対立って、「欲望問題」のジェンダーフリーとジェンダーレスの境界はどこか?という決着の付かない論争構造と似てますよね)

でも、「欲望問題」の枠組みを借りてしまえば、「カミングアウトできない→つまりカミングアウトできる人よりも社会的弱者→俺達の気持ちを考えないなんてサイテーだ!」となってるだけなんですよね。当事者の痛みを「正しさ」として、カミングアウトするかしないかを権力関係の図式に落とし込んでしまってるんですね。一方、僕自身も「好きでカミングアウトしてるし、それでいーじゃん。結果的に社会の役にも立ってるし」と当事者の快楽やある政治的立場を「正しさ」としてエクスキューズしている節がありました。そんな両者はきっと分かり合えないだろうなぁと思います。

そもそもカミングアウトをするかしないかを「正しさ」で測ることは不可能です。まさに、さまざまな環境におかれたさまざまな個人のカミングアウトに対する「欲望」があるだけで、その視点においてカミングアウトする人と、カミングアウトしない人は等価な存在になります。カミングアウトすることが偉いわけでも、カミングアウトしない痛みが優先されるわけでもない。不毛な議論を繰り返すのではなく、おのおのの欲望が最大公約数として実現されるような道を探っていければいいのだろうと思います。そしてそれは、カミングアウトを強要しないことであるとか、殊更にカミングアウトという行為を非難しない立場であるとか、そういう当たり前の結論になるわけです。

近年、とくに若年世代でカミングアウトをするゲイが増えていますが、これはきっと、「より多くの人たちがカミングアウトするという欲望を選択できる社会になりつつある」という意味で歓迎すべき変化かなと考えればいいんでしょうね。そして一方で、カミングアウトしていない人たちへの配慮、例え07.2.27ば「もう少し社会が優しくなったらカミングアウトしたい」とか「とにかく私はカミングアウトするつもりはない」とか、そういう様々な欲望を持った他者を考えることを忘れてはいけないのだろうと思います。

伏見氏が『魔女の息子』で書こうとしていた「あちら側とこちら側」。その意味が、本書を通じて少しだけ理解できたような気がします。

【プロフィール】
ぼせ●1980年生まれ。第15回バディ小説大賞受賞。研修医。

おかべよしひろ[東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長]●自分と重ね合わせてみて

2007-02-26 ポット出版

 大阪生まれで大阪育ちの自分が、仕事の都合で東京に移り住んだのが1992年の春。あれからもう15年になりますが、その間に我々同性愛者をとりまく状況は大きく様変わりをしました。東京に来た頃は、まだゲイムーブメントとかゲイリブといった動きが身近ではなく、一般社会に向けてメッセージを発信する、などということは思いもよらなかったし、また、もしそういうことがあったとしても、自分がそれに参加するだなんてとてもじゃないけど考えられませんでした。
 
 二丁目の片隅で(よく通ったバーは厳密には三丁目でしたが)、週末にひっそりと(うそ。結構にぎやかに)お酒を飲む、普通の「ホモ」だったのです(ほんの15年前の当時、まだ「ゲイ」という呼称すら今ほど一般的ではなかったなんて、今の若い人たちには想像できるでしょうか?)。
 
 それがどうしたことか、そんなクロゼットな自分が、こともあろうに東京のど真ん中である渋谷の街を3000人もの「同志」が歩く、東京レズビアン&ゲイパレードの実行委員長を務めることに。しかも2回も。「一公務員の自分がこんなことしちゃって大丈夫なわけ?」「一体自分、どうなっちゃてるの?」「でももう後には引けないし・・・」、と半ば捨て鉢(笑)になってここ数年走ってきました。とはいえ、全方位的にカミングアウトしてオープンリーゲイとして活動しているわけでもなく、「これくらいまでなら大丈夫かな・・・」などと薄氷を踏む思い(大袈裟)で姑息にというか中途半端にというか(笑)、ともかく「今、自分のできること」をやってきた、という感じでしょうか。

 こういった自分のあり方の「変容」を振り返ったとき、たとえば、伏見さんが若いときに大きな悩みや苦しみを抱え、それを解消するためにまず問題を立て、それに立ち向かい続けてきた、というあり方と自分のそれとはずいぶん違うということを感じます。自分は、ゲイであるという自認を持った思春期のころから、ゲイであることで理不尽さや不自由を感じたりしてきたはずなのに、それが「問題だ!」などと思う回路を持っていなかったのです。「お、自分はフツーとは違うみたいだぞ! バレないようにしなきゃ・・・。」(実際は大阪弁)と思っただけで、「それをなんとかしたい!」などと建設的な方向に意識が向くことなどなかったのでした。
 
 しかし、ちょうど東京に来た頃から、徐々にゲイムーブメントが起こり始め、時代が動き出すことになりました。時代の声に接するなかで、自分のなかで潜在的にあった(と思われる)混沌として言葉にもならなかった思い(つまりゲイであることで受けざるを得ない理不尽さや不自由さなど)が徐々に整理されて、自分の言葉となり、そしてその言葉を表現する場が与えられたり、行動する場が与えられたりするようになってきたわけです。ようするに、時代の動きに導かれてというか、影響されてというか、揉み解されてというか、その時々に必要だった(もしくは、やりたかった、やりたくなった、やらされた(笑)、などの)小さなアクションを徐々に徐々に積み重ねていくうちに、いつのまにかこんなふう(どんなふう!?)になってしまったわけです。
 
 このように、自分のあり方の「変容」を振り返ったとき(『欲望問題』のなかで、伏見さんは私のこういった「変容」についても鋭く分析してくれています。ナルホド!)、常に私は「時代」に導かれてきたということができるのですが、一方伏見さんは、「時代がどうだから」などということに突き動かされてきたわけではなく、自分自身で問題意識を明確にし、問いを立て、それに立ち向かってきたわけです。つまり、伏見さんは私が導かれてきた「時代」というものを切り拓き、創ってきた張本人(もちろん彼一人の功績ではないのでしょうが、その中心的存在であったことは確かです)だといえます。

 この『欲望問題』は、その「時代のフロントランナー伏見憲明」の思想の軌跡を知るうえで恰好の書です。後代になって第三者がある人物の思想の変遷を整理する、ということはよくおこなわれるのですが、本人が、しかもまだ第一線で活躍しているさなかにこのような仕事をしたということに私は非常に興味を覚えました。ジェンダーやセクシュアリティの問題やそれらを取り巻く状況は、それほど短時間でいろんなことが変化していくのだ、といえばそれまででしょうが、それを自分自身の手で整理したというところに、伏見さんの研究に対する誠実さを感じます。そしてその視線はつねに未来へと向けられており、彼の問題意識に対する視座は、私にもいろんな示唆を与えてくれました。

 冒頭に書いたように、私が東京に来たのが1992年。そして、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』でデビューしたのが1991年。彼がリードしてきた「時代」を、新宿二丁目という街で感じ続けることができたのは、とても幸運なことだったと思います。同世代(というか同い年)としても、今後の活躍に期待しています。

【プロフィール】
おかべよしひろ●1963年大阪市生まれ。高校教員。東京レズビアン&ゲイパレード2005・2006実行委員長。東京プライド理事。セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク事務局長。

◎オンラインマガジン「SEXUAL SCIENCE」で伏見氏がインタビューを受けました。[『欲望問題』の評判]

2007-02-25 ポット出版

◎オンラインマガジン「SEXUAL SCIENCE」で伏見氏がインタビューを受けました。
http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2007-3/ss0703-1.htm

川西由樹子[ライター]●絶妙なパラフレーズに、汁まみれの感謝を

2007-02-24 ポット出版

《どうしよう……あたし、すっかり熱くなってる。このままなにもかも、溶けて流れていっちゃいそう……》

『欲望問題』のプルーフ版を握り締めたわたしの手は、絶頂を迎える直前のように強張り、震えきっておりました。全身の汗腺という汗腺から、あるいは鼻孔やら唇から、さらには下半身の敏感な箇所にいたるまで、熱くじっとりと、はしたないほど分泌物にまみれていくのを感じたんです。

《どうして……こんなに巧みに、あたしのいちばん敏感な部分を……》

 真っ赤に熱せられた鉄板の上のバターも同然に、肉体が、理性が溶解していくのを感じます。わたしは『欲望問題』を胸に抱いたまま、法悦の境地で大地へと溶け崩れていったのでした。

       *

 いきなり自分語りに入ってしまって恐縮ですが、わたしが本書から受けた衝撃を表現するためには、どうしても己の過去にさかのぼる必要があります。

 わたしの半生のいたるところで出会い、反面教師的な意味も含めて人生に強い影響をもたらしてくれたのは、ある種の「正義の味方」のかたたちでした。

 最初のそれは、わたしが幼稚園児のころにはじまった、宗教という名の「正義」でした。家族全員が某新興宗教の信徒となってしまったため、特殊な価値観を連日連夜、コレでもかとばかりに注入されたのです。そこでは、「正義」という表現の代わりに「真理」などの用語がつかわれてはいたものの、「絶対的に正しい概念」を信仰するよう全身全霊で求められたという意味では、まさに「正義」に四方八方を包囲された状況だった、と言えましょう。

 次にわたしが接した「正義の味方」たちは、反体制的なイデオロギーを信奉するかたがたでした。小学校の低学年から登校拒否をはじめる、という非常識な生き方をしてきたおかげさまで、わたしは思想的に左のベクトルをお持ちの種族に偏愛されるカラダになってしまったのです。

 とりわけ難儀な思いをしたのは、中学生(相当の年代)のころに出会った、児童精神科のお医者さまの対応でした。その先生は「登校拒否という生き方は、素晴らしい!」と、しつこいほど熱く激しく狂おしく、わたしに説いて聞かせたのです。彼の論拠は「現代の社会は間違っている。登校拒否とは、その病んだ社会が生み出した学校という機関に反旗を翻す行為だから、素晴らしいのだ」とのことでした。

 いいトシをされた斯界の権威に面と向かって礼賛された思春期のわたしは、正直言ってアタマをかかえてしまいました。ほかの登校拒否児の事情は知りませんが、おそらく学校に行かなくなった理由は千差万別でしょう。なかには、「イデオロギー的な正義を体現して」そのような人生を選択したキャラがいても不思議はないのかもしれませんけど、わたしに限って言えば、どう考えても「学校が悪いんじゃなくて、あたし個人の問題(内因性)」としか思えないのです(長じて以降、メンタル系に詳しい人物にわたしの経歴を話したところ「え、あなたの場合はADHDだから不登校になったんじゃないの? それ以外の理由はありえないと思ってた」と指摘されたことがありましたっけ。その分析の正誤はわかりませんが、「正義の具現として、登校拒否児に!」なんてトンデモ系にしか思えないロジックよりも、ADなんとやらのほうが、はるかに説得力があるような。少なくともその場合は、わたしの「内因性なんじゃん?」という実感と符合しますしね)。

 さらにわたしの場合、生まれついてのヘンタイ(性的少数者)という属性も、正義の民との接触の機会を、いやがうえにも激増してくれやがりました。十代も終盤のころには新宿二丁目などの性的少数者のコミュニティに出入りするようになったのですけど、当時はレズコミュニティといえばフェミニズムがもれなくセットで付いてくる、といった時代だったもので、それこそ無数の「正義の味方」とソデ摺りあうハメに陥ったのです。やがて90年代初期の、セクシュアルマイノリティ当事者がマスメディアに台頭する時代になっても、わが「同族」の主張する言説は、やはり「正義」に基づいたプロパガンダが大半でした。本当に、ごくごく一部の例外——このたび、ポット出版から新著を刊行された作家など——を除いて。

 宗教、反体制的なイデオロギー、そして性的少数者のコミュニティ。わたしがかつて身を置いてきた共同体は、クローンされた薄気味の悪い生き物ではないかと本気で疑いたくなるほど、似通いまくっていたものです。自分の信じる「正義」が絶対だと信じて疑わない体質をしている、という意味で。

 人生のいたるところで出会ってきた、「正義の味方」たち。そのたびにわたしは筆舌につくしがたい違和感を覚えて、彼らのプロパガンダを蹴散らし、あるいは全速力で逃亡しては、こんにちに至るのでした。

 まず、自分以外の家族全員がハマってしまった宗教については

「ハア? 『自分たちの祈りが世界を平和に保ってる♪』? ——あの〜、世界にはそれこそ命を懸けて反戦活動に邁進されるかたがたもいらっしゃるっていうのに、自分の好きな時間に好きなだけやる『祈り』でこの世を平和に保ってるだなんて……どこまで増長しまくりの選民意識に凝り固まったオナニー信者どもよ、アンタらってば!!」

 そんな具合に矛盾を覚え、距離を置くことに成功しました。

 一方、中学生時分に浴びせられ倒した反体制的プロパガンダには

「先生は『子供の自主性を重んじる』ことをモットーにしたお医者さまでしょ? あたしは本気で考えたすえに『自分の登校拒否はあくまでも内因性のもので、学校、ひいては社会の側に問題があるとは思えない』と実感してるんです!」

 といったフレーズを盾に、なんとか逃げ切りました。

 この精神科医とのやり取りは、もうひとつの大きな疑問、後年振り返ってみると「一生モノの財産」としか言いようのない概念をも、わたしにもたらしてくれました。それは

《登校拒否児だろうと年端もいかない中学生だろうと、この社会を構成する一分子だって事実に変わりはないじゃん。なのに、「みんな現在の社会システムが悪い!」で片付けちゃっていいわけ? ひとつひとつの分子には、なんの責任もナシなの?》

 という思いです。この疑問は「学校に行けないカワイソウなお子ちゃまのしたことだから」という理由で、被害者側に一生の傷を残しかねない犯罪の常習者を野放しにしたりしていた、精神科医をはじめとする「立派な大人」への不信感から生まれた気がします。

 その後もサヨクなかたたちと血みどろバトルを繰り広げたりといろいろあったものの、幼児期や思春期に出会ったひとびとの攻略は、さほどの難易度ではなかったのかもしれません。なぜなら、人間は一生思春期の多感な少女のままでいるわけではありませんし、ある程度の年代に達すれば、生まれ育った家庭から自力で離脱することも可能なのですから。

 問題は、「ヘンタイ」という要素です。「元登校拒否児」というアイデンティティはありえても、「ヘンタイ」は一生つきまといます。とりわけわたしの場合、かつては「べつに男が苦手ってわけじゃないし、いままで異性相手に恋愛したことがないだけで、あたしってばきっとバイセクシュアル♪」などと漠然と思っていたのが、二十歳ちょい過ぎくらいに骨のズイから信頼できる男性との結婚話が進んだ結果、さあ式の日取りを決めなきゃね、という段階に至ってはじめて

「あたし……やっぱ無理みたい。どんなに人間的に信頼できても、人生のパートナーと股間を濡らす相手は、女のヒトじゃないと……関係者のみなさま、ごめんなさい!!」

 と、ヘンタイとしてのアイデンティティを、このうえなく堅固に確立してしまったのですから。

 わたしが二十歳そこそこのころ、軽い気持ちで在籍したゲイとレズビアンのサークルやその周辺でも、「強制異性愛社会撲滅!」「アンチ・ヘテロセクシズム!!」みたいな「正義」のプロパガンダがさかんに飛びかっていました。

 ここでもまた、「正義の味方」が自分の理想を突きつけてくる——幼いころのパターンの繰り返しです。

 子供のころのわたしを苛烈にバインドした、宗教という名の「正義」。思春期のわたしに不信感を抱かせた、反体制的イデオロギーという「正義」。さらに、一生ついてまわるだろうセクシュアリティの関連コミュニティで出会った、この世界の大半を占める異性愛者(をスタンダードとする振る舞い)へのアンチテーゼとしての「正義」。それらの「正しい、とされること」にことごとく反発を覚えずにいられない自分は、どこか根本的に間違っているのではないか? 問題は、相手の主張ではなく、病的なまでにアマノジャクなわたし自身の側にあるのでは……? 

 プチサイズの脳をフル稼働させて、当時のわたしは考えに考え抜きました。そうした末に、ようやく違和感の正体の片鱗らしきものに、指先が届くのを感じたのです。

「正義」の主張の一部には、うなずける部分もなくはない(唯一、宗教に関しては、一片の正当性をも感じられませんでしたが)。けれど、この生身の「カラダ」が、どうしてもそれを受け入れられないのだ——これが自問自答した結果に得た回答でした。

 似たような現象を、そう遠くない時期に経験していることにも気づきました。なんのことはない、異性と性的関係を結んでいたころのわたしの生理的反応(人間的にはそれなりに信頼できるんだけど、実際にハダを合わせてみると、やっぱ無理みたい)は、「正義」に対して抱くそれの、みごとなアナロジーになっているではないですか。

「そっか。これって理屈がどうのこうの、じゃなくて、ほとんど生理的な問題なんじゃない?」この考えに行き着いたときにはじめてわたしは、長年覚えてきた「正義」への反感を、わかりやすい言葉で表現する方法に気づいたのです。

《ごたいそうな主張も、けっきょくのところは、それを唱える個人の「好き嫌いの問題」にすぎないんだ……》

 つまり、社会、あるいは世界全体に向かって声高に唱えられる正義も、しょせんは当人に都合のよいロジック、個人的な事情を投影した主張にすぎないのではないか?と。

 しかし、この「個人的な好き嫌いの問題」というフレーズは、なんともスワリが悪いといいますか、急所を貫く槍の鋭さに欠けています。なにかもっとましな言い回しは、見つからないものでしょうか。

 あたしのアタマじゃ、いくら考えても、理想的な表現なんてヒネリ出せないのかも……そんな具合に、ほとんど諦めの境地を漂っていたわたしの前に突如として差し出されたのが、伏見憲明著の『欲望問題』なのでした。

        *

 自分語りが長くなりすぎて、まことに失礼いたしました。とにかく、わたしが本書について言えることは

《あたしの長年のワダカマリを、よくもまあみごとに、簡潔かつ適切な表現に換言してくれたもんだわ……!》

 これにつきます。それこそアナタ、いちばん敏感な箇所を、絶妙なテクで刺激されちゃったんですアタシ、とでも言いますか。

 熱せられたバターの勢いで、心もカラダも長年の疑問も、心地よく溶解していくのを感じます。汗だか血だか涙だかヨダレだか鼻水だか、あるいはもっと不穏なワケのわからぬ汁で全身全霊をずぶ濡れにしたわたしは、『欲望問題』を前に、ただただ感服するばかりなのでした。

【プロフィール】
川西由樹子(かわにし・ゆきこ)●1967年、東京生まれ。最終学歴は小学校低学年中退という、類例をみない低学歴ライター。これまでに手がけた仕事は、スタンダードなライター業務のほかに、RPGゲームソフトのシナリオ、FM放送やネットの音声番組の構成台本、エロ小説や漫画の原作など、ムダに守備範囲が広い。エンタメ系小説書き志望で、かつて一度だけミステリー系文学賞の最終候補に残ったことがあるものの、その後の経過は笑うしかない、という。めげずに今後も、とりあえず応募の努力だけは続けるつもりらしい。

ブログ:『虹色坩堝(にじいろ・るつぼ)』
http://yukiko-k.jugem.jp/

【著書】
『Q式サバイバー』/七つ森書館/1999.10/¥1,575
【共著】
『女の子と女の子のためのエロチックブックCarmilla(カーミラ)』全10巻/ポット出版/2002.7〜2005.12/各¥1,890
『H大作戦! キスから羞恥プレイまで』/徳間文庫/2001.9/¥599
『カサブランカ帝国—百合小説の魅惑』/イースト・プレス/2000.7/¥1,365
『Hの革命』/太田出版/1998.2/¥1,365

田辺貴久[ライター]●強く生きる自分を応援する優しい本

2007-02-23 ポット出版

 いつだったか、運動会の徒競走で、順位を付けるのをやめて、みんなで手を繋ぎ合って一斉にゴールする映像を見たことがありました。かけっこが苦手な児童への配慮ということなのですが、なんだかその光景が妙に気持ち悪く映ったことをよく覚えています。徒競走って、競争なんだから、順位つけなくちゃどうしようもないんじゃ…と。でも、足の遅い子への配慮という「優しさ」のようなものを盾にされると、違和感を覚える自分がまるで心ない人のようにも思えてしまい、いったいどう考えるべきなのか、はっきりと答えが出せずにいました。いま思えば、そういう違和感も、本書で語られる「差別問題」や「ジェンダーフリー議論」が内包している「弱者至上主義」というものと根を同じくするものでした。

 世にあふれる様々な問題を「欲望問題」として読み解き直したとき、どういう世界が待っているのか、きっといい方向にいくと信じたいけれど、もしそうでなかったらどうなるのだろう。この社会の「胆力」の真価が問われますね。「痛み」をかざせば顔パス状態だった世の中を、「痛み」も「楽しみ」と等価として天秤にかけるように組み替えるとき、社会のみならず僕たちが考えなければならないことは、「痛み」を訴えること、それから「痛み」を受け止めることに対して、もっと真剣になるということだと思います。

 いままでは、おもちゃ売り場でだだをこねるように「痛い痛い」と繰り返せば、聞いてくれる人がいたけれど、ただ「痛い」と言うだけでは、誰も聞いてくれなくなるわけで、多くの共感を得て、認められる「痛み」とするには、それだけの説得力が必要だし、そもそも自分の多くの共感を得るべき「痛み」かどうか、まずは自分の中で真剣に考えなければなりません。

 「痛み」を訴えられた方としても、やすやすとそれを受け入れていいものなのか慎重に考えなければなりません。本当にその「痛み」は聞くべきものなのか、それを受け入れることで自分たちが不当に損することはないのか。それを考えた上で耳を傾けるというセンスが必要です。さらには、たとえそれが耳を傾けるに値する悲痛な「痛み」であっても、それを却下せざるを得ない場合もあることを自覚しなければなりません。その判断によって「痛み」の主にはそれを飲み込んでもらわなければならない。そういう判断を、自分たちに委ねられているということを忘れてはならないのです。

 筆者は「線引きすることの暴力」という言葉を使っていますが、それを自覚した上で、「欲望問題」というものさしを取り入れ、より正当に多様性が認められる社会を目指そうとするのか、それともいまのまま、どんな「痛み」にも「優しい」自分でありつづけるのか、本書は僕らにどちらを求めるのかを問うているのだと思います。

 さあ、どうしよう。僕は、だれかに「痛み」を強いることになったとしても「欲望問題」に賛成したいです。真剣に向き合って考え抜いて出した答えなら、「痛み」を強いることになっても、自信をもってその判断を下せるはず。それならきっと納得できるはずです。社会の中で生きる以上、そうでなくてはならないと思います。

 自分の周りを見渡してみると、自分を煩わせているいろいろな問題が、実はいろんな「痛み」を内包したものだと気付きます。その中で、知らず知らずのうちに、より「痛い」ほうに視点を合わせて、そこに優しくすることで、自分にはね返ってくるだろう別の「痛み」から逃げていたように思います。もちろん、常に利己的である必要はないし、自分が損をしたって「痛み」を受け入れることだって大切です。それを受け入れないことがかえって自分の「痛み」になることもあるわけですから。

 でも、どんな「痛み」や「欲望」が自分に向かってきても、絶対に譲るわけにはいかない「痛み」や「欲望」については、常に意識していたい。僕はそのことに少し鈍感でした。そういうものをきちんと意識しておくことが、自分にとっても他人にとっても真剣に「痛み」それから「欲望」と向き合うことになると思うし、それはつまり真剣に「生きる」ことだとも思います。そう考えると、本書からは生きるための「勁さ」も貰ったのかも知れない、なんて思います。
 

たなべたかひさ●
1982年、千葉県生まれ。専門出版社勤務。『Queer Japan Returns』(ポット出版発行)では、0号から参加し、原稿を書いている。

ホーキング青山[芸人]●伏見さんが提示した本質を芸人として庶民の目線で伝えていく

2007-02-21 ポット出版

この本を読ませていただき、まず最初に感じたのは「なんて重い本だ」ということ(笑)。
正直読み始めたときは「これは重いし堅苦しいし、読みづらい本だなあ」と思ったが、読み進むうちに「ここまで書かないと伏見さんの考えは伝わり切らないし、表現し切れないんだ」ということがよく分かった。
で、そこまで分かるとこの本は面白い(笑)。ただこういう問題ってもっとオープンにすべきだと思ってる。“史上初の身障者お笑い芸人”としてやってきたオレはとても強くそう思う。それにはこの本はちょっと取っつきづらすぎないかな?という気がした。むろん、前述したようにここまで書かないと伏見さんの考えは伝わり切らないし、表現し切れないから仕方ないというのは分かるんだけど。

これまで伏見さんとは三度ご一緒にお仕事をさせていただいた。いずれもすごくクレバーで、デリケートかつ複雑に絡んだ性をはじめとするあらゆる『差別』の問題を誰もが興味を持てる“オモシロさ”と“分かりやすさ”をもって語る「差別問題を一般化する力」を持つ方だと思ってる。
忘れられないのが、はじめてお会いしたときに舞台でオレが乙武をネタにして笑いを取ってたら、伏見さんから「青山さんはそうやって乙武さんを悪く言うけど、ボクなんかからすると乙武さんはオナペットであり、あんまり悪く言われると困っちゃう」と言われた。ひっくり返った。立場が変わるとここまで見える風景、景色が変わるものか?と大笑いしたっけ。
でちなみに「乙武はそんなに良くて、オレのことはどう思ってんの?」と聞くと「次元は違うけど同じ被差別者のマイノリティー」だって。要するに友だちにはなれても恋人にはなれない、ってことだろう。ゲイじゃないオレは、こう言われて本当はホッとするところだが、なぜか妙に悔しかったりして(笑)。
そんな伏見さんの本だから、つい“オモシロさ”や“分かりやすさ”を求めてしまう。それだけに最初のギャップは大きかった。

といろいろ書いてしまったが、オレのこの本の総合的な感想は「面白かった」の一語に尽きる。っていうかやっぱりご自身が差別運動に挺身しながらここまで差別という問題を客観的にとらえ、体系化してしまうという技はそう簡単に真似できるものではない。
おかげで差別問題というものの構造が改めてすごくよく分かったし、ホモということや少年愛ということをただの差別問題でなく欲望の問題と明示してくれたことで昨今の性犯罪の病理、本質がよく分かった。解決策がないという現実も……。
芸人である以上、こうした世の中で起きることから目を背けるわけにはいかない。伏見さんみたいな人がこうした問題の本質を提示し、それを芸人は庶民の目線で庶民に伝わるように表現し、皆に関心を持ってもらえるようにする。
その意味でもこの本で昨今の性犯罪の本質を理解できたことは本当にありがたい。

伏見さんに言われた言葉で忘れられない言葉がある。
「まあ私たちはゲイと身障者という立場は違うけど、でも同じように“いわれなき差別と戦ってきた”という意味では“同志”なんだから、お互い頑張りましょうね!」
このとき伏見さんの言われた言葉がこの本を読んではじめて分かった気がする。
そして、オレみたいな生まれながらにしての身障者はその現実も伏見さんよりはるかに受け入れやすかった。
ゲイの方が自分がゲイだという現実を受け入れ、そこから周囲の理解を得て、そして世の中の差別と戦っていくというプロセスには、同じ被差別者のマイノリティーとはいえ、オレら身障者とはまったく異なる苦悩があったことを、この本を読んではじめて気づいた。
そうなのだ。あのとき伏見さんがオレに「同志」といってくださった言葉は、実は伏見さんが謙遜しておっしゃった言葉だったのだ!この本を読むまでまったく分からなかった。伏見さんすみませんでした。自分の浅はかさが情けない……。

ともかく、この本は本当にあらゆる人が読んだ方がいい本だと思う。これ読んだら今の性犯罪の本質はじめ、差別の問題が分かり出すのだ。性犯罪に関しては絶対に容疑者をただ悪者にする感情論だけじゃ片づけられなくなる。そうなってはじめて差別の問題が他人事でなくなり始めるのだ。

【プロフィール】
ホーキングあおやま●1973年、東京都生まれ。“史上初の身体障害者のお笑い芸人”としてデビュー。
HP;ホーキング青山 オフィシャルホームページ
http://www.hawkingaoyama.com/
ブログページ
http://blog.hawkingaoyama.com

【著書】
お笑いバリアフリー・セックス/ちくま文庫/2005.9/¥680
日本の差法(ビートたけしとの共著)/新風舎文庫/2004.11/¥562
ホーキング青山の傍若無人/創出版/2004.8/¥1,400
Listen!〜あなたに聞いてほしい話(共著)/2004.5/¥1,500
日本の差法/新風舎/2002.10/¥1,300
身障者・お笑い芸人という生き方/エイ出版社/2002.7/¥1,400
UNIVERSAL SEX/海拓舎/2002.1/¥1,400
七転八転/幻冬舎アウトロー文庫/1999.12/¥457
笑え!五体不満足/フーコー/1999.11/¥1,600
言語道断!ホーキング青山自伝/情報センター出版局/¥1,165

竹下真一郎[大学生]●他者と繋がろうとする切実さ

2007-02-20 ポット出版

私の不勉強と読書内容の偏向のためであるが、本書は、伏見氏の論考、特に2000年以降の雑誌『クィア・ジャパン』やゲイ雑誌『Badi』への連載記事などの内容から外れるものではないように感じられた。私は、過去の著作からは、「正確な分析だけど、みもふたも無いなあ」というのが、伏見氏の著作に対する印象であった。それはつまり、私が「読書を通じて安心したいタイプ」であり、もっと言えば、本の著者に対する「甘え」──「自分の価値観を権威によって肯定して欲しい」という欲求──があったというだけの話であり、恥ずかしい話である。

また、著作をちゃんと読んでいないからだと叱られそうだが、伏見氏の著作には、他人の生き方を茶化して痛烈に笑いのめす箇所と、一方で他人の痛みを深く理解しようとするような箇所があり、どうしても統一的な「伏見憲明」像が浮かんで来なかった。しかし、本書を通じ、雑誌等で見られる「怖いオカマ」スタイルと、あとがきで「命がけで書いた」と告白するような「真面目さ」とが、「伏見憲明」という1人の人格の中に同居しているということが、何故か腑に落ちた。腑に落ちてみると、単に、自分の「好き嫌い」や直観を誤魔化さずに発言する知識人が珍しいというだけのことだったのかもしれないという気がするし、「ゲイ・リベレーション(こう言われることを好まないかもしれないが)を引っ張るような知的な人=真面目で観念的で耳に心地いいことを言う」という勝手な決めつけが私の中にあったのだろう。またしても恥ずかしい話である。

本書からは、伏見氏の「人が他者と繋がろうとすること」に対する何か切実な想いが感じられた。本書の内容から外れることかもしれないが、私は、今までのところ孤独ではなかったし、恵まれた人生を送って来たのだなあと思う。そしてそれ相応にだらしなく育った。

『欲望問題』は、未成年の同性に性的欲望を抱く男性のエピソードから始まっている。かつて大学時代に、「アナタはゲイで、人生を謳歌してるでしょ?ゲイであることが今何か大変ことなの?」と遠まわしに言われたことがある。今でも私は、例えば「セックスに関して、何をどこまで許容できるのか」と詰め寄られれば、上手く答えることができない。成人の男性が好きな同性愛者である自分は、今の日本では、安全圏内に入っている上、幸せなことに、だらしなくても生きていられる。

そういう中で、私は、他人の痛みを感じ取れているのだろうか。映画を見れば過剰に感動したりするのに、果たして生身の他人とぶつかり合っているだろうか、ぶつかった上で相手を理解しようと努めているだろうか。最近そういう痛い「ぶつかり」を一つ経験したような気がする。

家の中のことで家族の1人と口論になった際、それまで積もっていた思いを一気にぶつけ、私は相手を言い負かしてしまった。そんなことは生まれて初めてだったし、いつかは一言ガツンと言ってやろうと思っていた。しかし、自分の言葉で、いつも強気な人間があんなに取り乱してしまうとは思ってもみなかった。

自分は何がやりたかったのだろう。決まっている。『欲望問題』の中の表現で言えば「痛み」を「正義」と錯覚して、更に、相手の気持ちをずたぼろにしたいという欲望にも基づいて動いていたのだろう。この場合、私の家の中における「欲望問題」は、「痛み」「楽しみ」の他に、「恨み」のファクターも介在しているのだろう。
相手は、私の欲望どおりにずたぼろになりながらも、私の言葉を受け止めてくれた。しかし私は相手の何を受け止めているだろうか。今も相手は私の言葉で苦しんでいるのかもしれない。

今まで家の中で等閑視されてきたことを暴き立てたいという私の「欲望」は、結果的に皆を幸せにしないのかもしれない。「私は家という小さな社会の一員として、家族1人1人と向き合いたい」。こう言えば学校の先生に褒めてもらえそうな気がするが、それはつまり「欲望問題」なのだ。伏見氏が「欲望問題」と言ってくれたおかげで、私も家のことを冷静に考えられる気がする。

一方、私は「日本」という大きな社会に対しては「憎しみ」も無いが「痛み」も無く、「楽しみ」の関係性しか持っていない。しかも、かなりだらしない種類の「楽しみ」の関係性だろう。
結局、『欲望問題』で伏見氏は、「読書で安心したい」という私の甘えをまたしてもぶち壊してくれたわけだが、今の自分には必要な読書体験だったと思う。ところで、こうして感想文を書くと、大体「いい子偽装の反省文」のようになるので、自分でもどれ位本音なのだろうかと疑問ではある。

【プロフィール】
たけしたしんいちろう●1978年、福岡県生まれ。大学生、政治学専攻。

大原まり子[小説家]●『欲望問題』を読んで感じた、3つのメモ

2007-02-19 ポット出版

 この本を読んで、いろんなことを考えさせられました。
 メモのようなものですが、少し書かせていただきたいと思います。

(1)少年について 〜『鎮魂歌(レクイエム)』(グレアム・ジョイス)

 大人になる前の少年が好きだという性的嗜好をもつ、28歳の同性愛者の青年からのメールによって、伏見氏は深く考え込んでしまいます。個人の欲望と、社会は、どこまで歩み寄ることができるのか。あるいは、できないのか……と。

 ロリコンという言葉があります。ロリータ・コンプレックスの語源となったウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』のロリータは16才。ミドルティーンです。
 幼児・小児を対象とした性愛・性的嗜好をさすペドフィリアと区分した方がいいと思います。

 グレアム・ジョイスの『鎮魂歌(レクイエム)』(浅倉久志訳)という小説があります。本作で英国幻想文学賞、他にも世界幻想文学大賞を受賞している評価の高い作家です。
 妻を亡くしたまだ若い教師が、旅先の聖地エルサレムで、さまざまな不思議な事件に巻き込まれるうちに、教え子である女生徒の性的魅力に惑わされ、関係を持ってしまったのでは……という、後悔と懺悔とエロスに満ちた幻想にとらわれる物語です。
 性的な魅力のある10代の女性が、まだ生徒であり子供であるという社会の枠組みの中にあることよって、矛盾と禁忌が生じ、恐怖に彩られた幻想が生まれるのです。

 殺人が社会から容認される日は来ないでしょうが、ペドフィリアも同様でしょう。
 ですが、10代については、社会(文化)がはらむ矛盾が大きいと感じています。当の10代にある人たち自身が、宙ぶらりんの悩ましい状態にあるような気がします。

(2)ジェンダーフリー/ジェンダーレス 〜SF「自然の呼ぶ声」(小松左京)

 ジェンダーフリーと聞いて、特にジェンダーフリー批判・反動の流れの中で、その言葉を初めて聞いたので(不勉強ですみません)、まっさきに連想したのは、小松左京の傑作SF短編「自然の呼ぶ声」でした。

 遠い未来、地球から遙か隔たった星域で、連続殺人事件が起こります。この星では、遺伝子改造により、人類はM類とF類に分かれているのですが、殺人はすべて、M類がF類を襲うものでした。

 ストーリーの途中で、Mは元男性、Fは元女性であることが明かされますが、この社会において、M/Fの差異は、わずかに身体に残る器官の痕跡と情緒や思考パターンです。平衡のとれた知的生産に双方が必要なのだといいますが、まあ統計的には、ないよりはあった方が有意という程度。

 言葉づかいや習俗に差はなく、なんとなく見た目で、どちらなのかはわかるという感じでしょうか。M/Fは、職種(技術者を表すTや、理論家のThなど)による差と同様、記号上の区別にすぎないと思われていました。
 そして、孵育室で人工的に生まれてくる住人たちには、男性(メイル)と女性(フィメイル)が何なのかもわかりません。生殖と遺伝子を管理することで、地球が植民星を支配・搾取していたのです。

 社会的危機を解決するため、450年の冷凍睡眠から目覚めさせられた一人の(本物の)男によって、“現代人”たちは男と女の意味を知り、性ホルモンを抑制する食糧を食べないことで、やがて本来の姿へと変貌してゆくこと、そして新しいつき合い方が始まることを示唆しつつ、物語は終わります。

 この小説が書かれたのは、実に43年前の1964年。
 性の起源は約38億年前だそうですが、性欲の本質は他者への侵食であり、根底には暴力がひそんでおり、おかしな形で抑圧されると暴発してしまう。大事に至らないために、ジェントルマンとか、恋愛とか、さまざまな型・ルール・フィクションが作られてきたのではないでしょうか。

 ジェンダーフリー/ジェンダーレス論にもさまざまなものがあることを、本書で知りましたが、そういった思想を運動として進めてゆく時、個人の生活の中で、どうしても何か違和感を残すと伏見氏は感じるのです。
 ジェンダーフリー/ジェンダーレスは、SFではないか、という、私が最初に受けた印象は、当たっていると思いました。本来はSFのような表現形式、もしくは論考によって表されるべき思想だったと思います。

(3)運動/欲望、そして小説

 伏見氏自身の運動との関わりや、違和感を含めた実感が丁寧に書かれており、その中から、とりあえず1つの結論にたどりつきます。
 「正義」に陥りがちな運動ではなく、各自の「欲望」(不満や痛み、欲求や理想のことをまとめて本書では欲望とよんでいます)を表明して、互いにその利害をすりあわせてみてもよいのではないか、と。
 社会の基盤を整備・運営する仕事というのは、堅苦しくておよそ色気もなく、時に強権的にもならざるを得ない営みだと思います(私はみんなのために真面目に基盤整備・運営する人々を常々立派だと思っています)が、そこへ、リアルな生活の実感というか、とりあえず、各自の切実な「欲望」を言葉で表明してみてはどうか、というのです。
 ただ不快だとか、嫌いだとかいうのでなく、何故不快に感じるのか、何故痛みを感じるのかを考える過程も、議論を深めるきっかけになるでしょう。

 この国での女性、ゲイをめぐる状況は、ここ30年に限っても、ほんとうに良い方向に変わりました。
 私自身の長年に渡る大きな変化は、自分が女性であることをじょじょに受け入れ、女性である自分を好きになったことです。そして、私自身は授かりませんでしたが、子供たちを可愛いと感じるようになりました。
 ヘタなのですが料理も好きになりましたし、家を整える家事がどれほど大変で、人生の中でどれだけ大事なことか、その価値がわかるようになりました。
 カソリックの女子校に10年間通ったことも、良かったと感じています。

 ジェンダー、セクシュアリティのあり方自体が変化・多様性を見せ始めているという著者の実感も書かれています。「雄っぽいんだけど、雌っぽさがあるところ」という著者の友人のセクシュアリティに、私も大いに共感します。
 自分の中にある女性的なものを認め受容して、かつ強度を保っている男性は、まだ数少ないですが、このタイプは、かなりのもてゾーンに入ってくるのではないかと踏んでいます。

 私はファッションが大好きですが、その理由の大半は、さまざまな型を演出することができるからです。
 似合うに合わないはあるとはいうものの、服を着ている内に、それなりに似合ってくるから不思議です。なじんでくると、案外中身もそういう人になっています。
 型のようなものは、意外に簡単に変わってゆくのでしょうね……。

 あとがきに「この本はパンクロック」であり、「リアルであることこそが、ぼくのパンクです」とありますが、この表明は、伏見氏が小説を書き始めたことと無縁ではないように思います。
 小説は、私たちの生活同様に、思想だけでできあがっているわけではありません。それどころか、思想なしでも充分に成立するのであり、その本質は芸だとわたしは思っています。芸とは、艶っぽさです。
 最後に──伏見さんには、パンクで艶っぽい小説を期待しています。

【プロフィール】
おおはらまりこ●1959年、大阪生まれ。小説家。80年、「一人で歩いていった猫」が第6回ハヤカワSFコンテストに佳作入選し、デビューする。94年、『戦争を演じた神々たち』で第15回日本SF大賞受賞。99-01年、日本SF作家クラブ会長。02-03年、読売新聞読書委員会委員。

HP:アクアプラネット
http://park6.wakwak.com/~ohara.mariko/welcome.htm

【著書】
笑劇(岬兄悟、松本侑子、瀬名秀明らとの共著)/小学館文庫/2007.1/¥619
笑壺(岬兄悟、森奈津子、梶尾真治らとの共著)/小学館文庫/2006.7/¥600
SFバカ本 電撃ボンバー編(中村うさぎ、岩井志麻子、瀬名秀明らとの共著)/
メディアファクトリー/2002.3/¥1,200
銀河郵便は三度ベルを鳴らす/徳間デュアル文庫/2002.2/¥619
SFバカ本 天然パラダイス編(岬兄悟、田中啓文、松本侑子らとの共著)/メ
ディアファクトリー/2001.11/¥1,200
超・恋・愛/光文社文庫/2001.10/¥457
SFバカ本 人類復活編(北野勇作、岬兄悟、小室みつ子らとの共著)/メディア
ファクトリー/2001.8/¥1,000
イル&クラムジー物語/徳間デュアル文庫/2001.3/¥676
アルカイック・ステイツ/ハヤカワ文庫JA/2000.11/¥520
SFバカ本 チャーハン編(岬兄悟、谷甲州、森奈津子らとの共著)/メディア
ファクトリー/2000.11/¥1,400
SFバカ本 黄金スパム編(岬兄悟、安達遥、友成純一らとの共著)/メディア
ファクトリー/2000.11/¥1,400
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間デュアル文庫/2000.10/¥648
血(小池真理子、手塚真、夢枕獏らとの共著)/ハヤカワ文庫JA/2000.6/¥580
日本SF論争史(巽孝之、小松左京、筒井康隆らとの共著)/勁草書房/2000.5/
¥5,000
リモコン変化 SFバカ本(小室みつ子、かんべむさし、波多野鷹らとの共著)/
広済堂文庫/2000.3/¥600
彗星パニック SFバカ本(岬兄悟、いとうせいこう、村田基らとの共著)/広済
堂文庫/2000.2/¥600
戦争を演じた神々たち/ハヤカワ文庫JA/2000.2/¥700
チューリップ革命(高瀬美恵、四谷シモーヌ、森奈津子らとの共著)/イース
ト・プレス/2000.1/¥1,300
SFバカ本 ペンギン編(岬兄悟、岡崎弘明、友成純一らとの共著)/広済堂文庫
/1999.8/¥552
みつめる女/広済堂文庫/1999.6/¥495
SFバカ本 たいやき編プラス(岬兄悟、伏見憲明、東野司らとの共著)/広済堂
文庫/1999.5/¥571
屍鬼の血族(江戸川乱歩、柴田錬三郎、半村良らとの共著)/桜桃書房
/1999.4/¥2,300
SFバカ本 だるま編(岬兄悟、山下定、松本侑子らとの共著)/広済堂文庫
/1999.3/¥552
SFバカ本 白菜編プラス(岬兄悟、とりみき、岡崎弘明らとの共著)/広済堂文
庫/1999.1/¥571
月の物語(安土萌、倉坂鬼一郎、若竹七海らとの共著)/広済堂文庫/1999.1/¥762
恋物語(古井由吉、増田みず子、連城三紀彦らとの共著)/朝日新聞社
/1998.12/¥1,500
ブランドの花道(藤臣柊子との共著)/アスペクト/1998.12/¥1,400
スバル星人/プラニングハウス/1998.12/¥840
SFバカ本 たわし編プラス(岬兄悟、梶尾真治、斎藤綾子らとの共著)/広済堂
文庫/1998.10/¥571
変身(倉坂鬼一郎、久美沙織、岬兄悟らとの共著)/広済堂文庫/1998.3/¥762
侵略!(かんべむさし、牧野修、小中千昭らとの共著)/広済堂文庫/1998.2/¥762
タイム・リーパー/ハヤカワ文庫JA/1998.2/¥720
SFバカ本 たいやき編(岬兄悟、伏見憲明、森奈津子らとの共著)/ジャストシ
ステム/1997.11/¥1,600
血(小池真理子、篠田節子、夢枕獏らとの共著)/早川書房/1997.9/¥1,600
戦争を演じた神々たち/アスキー/1997.7/¥850
戦争を演じた神々たち2/アスキー/1997.7/¥1,700
処女少女マンガ家の念力/ハヤカワ文庫JA/1997.5/¥560
SFバカ本 白菜編(岬兄悟、大場惑、谷甲州らとの共著)/ジャストシステム
/1997.2/¥1,845
アルカイック・ステイツ/早川書房/1997.2/¥1,359
吸血鬼エフェメラ/ハヤカワ文庫JA/1996.8/¥544
SFバカ本(岬兄悟、梶尾真治、村田基らとの共著)/ジャストシステム
/1996.7/¥1,845
仮想年代記(梶尾真治、かんべむさし、堀晃、山田正紀との共著)/アスペクト
/1995.12/¥2,136
オタクと三人の魔女/徳間書店/1995.11/¥1,456
恐怖のカタチ/ソノラマ文庫/1995.11/¥524
ネットワーカーへの道/ソフトバンク/1994.8/¥1,456
戦争を演じた神々たち/アスペクト/1994.7/¥1,845
エイリアン刑事2/ソノラマ文庫/1994.7/¥524
エイリアン刑事1-上/ソノラマ文庫/1994.6/¥485
エイリアン刑事1-下/ソノラマ文庫/1994.6/¥485
恐怖のカタチ/朝日ソノラマ/1993.10/¥971
ハイブリット・チャイルド/ハヤカワ文庫JA/1993.8/¥720
イル&クラムジー物語/徳間文庫/1993.7/¥505
吸血鬼エフェメラ/早川書房/1993.7/¥1,553
タイム・リーパー/早川書房/1993.5/¥1,456
エイリアン刑事2/ソノラマノベルズ/1992.12/¥728
石の刻シティ/徳間文庫/1992.5/¥466
エイリアン刑事 下/ソノラマノベルズ/1991.12/¥728
エイリアン刑事 上/ソノラマノベルズ/1991.11/¥728
メンタル・フィメール/ハヤカワ文庫/1991.11/¥447
未来の恋の物語/徳間書店/1991.8/¥1,262
電視される都市/双葉文庫/1990.10/¥466
ハイブリッド・チャイルド/早川書房/1990.6/¥1,748
やさしく殺して/徳間書店/1990.4/¥971
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間文庫/1989.4/¥427
大都会の満タンねこ(いのまたむつみとの共著)/ビクター音楽産業/1989.5/
¥1,262
魔法の鍵/集英社文庫/1989.2/¥360
銀河郵便は三度ベルを鳴らす/徳間書店/1988.10/¥980
スバル星人/角川書店/1988.8/¥420
物体Mはわたしの夢を見るか?/ソノラマ文庫/1988.8/¥420
電視される都市/双葉社/1988.7/¥690
イル&クラムジー物語/徳間書店/1988.2/¥980
青海豹の魔法の日曜日/角川文庫/1987.8/¥380
処女少女マンガ家の念力/角川文庫/1987.3/¥380
石の刻シティ/徳間書店/1986.12/¥980
未来視たち/ハヤカワ文庫JA/1986.11/¥380
金色のミルクと白色の時計/角川文庫/1986.8/¥420
大原まり子・松浦理英子の部屋/旺文社/1986.1/¥1,300
処女少女マンガ家の念力/カドカワノベルズ/1985.6/¥640
ミーカはミーカ トラブルメーカー/集英社文庫/1985.1/¥300
銀河郵便は”愛”を運ぶ/徳間書店/1984.12/¥980
銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ/ハヤカワ文庫JA/1984.4/¥466
まるまる大原まり子/シャビオ/1984/¥880
S-Fマガジン・セレクション 1981(亀和田武、神林長平、岬兄悟らとの共著)
/ハヤカワ文庫JA/1983.4/¥560
機械神アスラ/早川書房/1983.3/¥850
地球物語/ハヤカワ文庫JA/1982.5/¥360
一人で歩いていった猫/ハヤカワ文庫JA/1982.1/¥320

片岡義博[記者]●伏見さんへの手紙

2007-02-18 ポット出版

編集部から●これは、伏見氏宛に届いた私信メールです。本人の了解を得たうえでここに紹介します。


こんにちは、伏見さん。片岡です。
このたびは、新著「欲望問題」を送っていただき、ありがとうございました。さっそく読みました。そして、これはいい!と思いました。

どう「いい」のか、うまく言い表せないのですが、自分なりに表現していくと、まず痛みの解消を楽しみと等価な「欲望」として了解可能な次元に開くことで、差別を現実的に解消していく新たな理論的枠組みを提起したこと。

フェミニズムがはらむ性差解消志向を指摘し、性差解消による抑圧からの解放と性差に基づく快楽を等価に扱うことで、差別問題の特権性を相対化したこと。

ジェンダーフリーを唱えるフェミニストの言説に具体的な日常生活での実践性、現実性を明確に求めたこと。

自分が生の基盤を置く社会とかかわることの正当性と方法を示しながら、より生きやすい社会を実現していく道筋を示したこと。

そして、それらは自分の経験を基にこれまでの思想と行動を批判的に考察することによって生み出されたものであり、本書自体が筆者のこれからの生き方の宣言となっていること。

加えて、それらが実に明快な表現と論理で示されていること。

うーん、われながら生硬で不器用な説明。でも、よくぞ書かれたと思いました。そしてこの本で展開された思考が、伏見さん自ら社会に働きかけ、また社会から働きかけられるという、伏見さんと社会との往還運動の結果到達した地点であることを深く了解させられました。

以下、雑文です。
本の各所に傍線を引き、深くうなずきながら各所に「!」を記しましたが、1カ所「?」を付けたところがありました。65ページ「ぼくらはそれを一つひとつ解決するだけの知恵をもう持っているのではないでしょうか。それだけの知を作ってきたのではないでしょうか。ですから、ぼくはいまはただ、人間の持つ胆力に賭けたいと思います」。

話は飛ぶのですが、この本、特に第2章を読みながら、僕はヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」を思い出していました。

人間の女に恋した天使が永遠の命を捨てて人間に堕ちる物語。人間賛歌の映画とされていますが、当時(約20年前)、僕はちょっと違うことを感じていました。それは言葉にすればこういうことです。「人類って、世の平和と秩序を求めて不断の努力を続けているようだけど、天使の世界が体現する平和と秩序の世界って、案外つまらないものなのかもね」。映画では人間になった天使の頭にかつて着ていた鎧が落ちてきて、堕天使は自分の頭から流れる赤い血をうれしそうに眺める(だったと思う)。これが人間の「痛み」ってやつか、と。

なぜこの映画を思い出したのか。多分それは、性差の解消によって差別がなくなった社会が、痛みのない「平和と秩序」の天使世界と重なって見え、性差による痛みと同時に性の歓喜と悦楽も味わえる社会が、現代の人間世界のようにイメージされたからだと思います。

「ベルリン天使の詩」はさらにこうも誤読していけます。「人は生の喜びを得るため、同時に痛みを引き受けたのだ。いや、痛みさえ生の喜びの一部なのだ」と。

そんなふうに当時考えたのも、同じころ売れていたあるニューエイジ本の影響があったのだと思います。表現は違うと思いますが、その本にはこんなことが書いてあった。「人間が恐ろしいこと、愚かなことをやめないのは、それが結局、面白いゲームだからなんだよ。この世界はホラー映画みたいなもので、みんなホラー映画が大好きなんだ…」。

苛烈な苦痛や絶望のただ中にいる人々には何ともお気楽な発想です。でもあまりに邪悪なこと、残酷なこと、愚かなことがこの世からいっこうになくなる気配が見られない理由を考えるとき、そう考えざるを得ないなあ、と。つまり、それは人間がそれを選択してきたからなんだ、と。

さてそこで前述の「?」の箇所です。紀元前からずーっと同じようなことで苦しんできた人間は、苦しみから解放されようとし、それなりの知恵も蓄えてきたはずです。ただそれを有効に行使してこなかった。なぜか。バカだから。いやいや天使になりたくなかったからです。そして人間は永遠にジタバタする。ジタバタすることで人間は人間なのだから。そう言っちゃうと身も蓋もない?ニヒリスティック?それを今言っても仕方ないじゃないか。それはそうだ。

ところで話はまたすごく変わりますが、本の冒頭に少年愛者の相談メールが記されています。彼にこんな反社会的な返信を送ったらどうなるんだろうか、と考えてしまいました。どうなるんだろうか…。

「あなたは不運である。少年愛を法律的、倫理的に禁じる時代と場所に、あなたは不運にも少年愛の欲望をどうしようもなく抱える男性として生きている。時代と場所さえ違えば、あなたの切なる欲望は容易に満たされたかもしれない。あなたは自身の不運を嘆きながら、充たされない欲望に身もだえしながら、その一生を終わるかもしれない。生きる甲斐なく、生を閉じるかもしれない。しかし、あなたはそれ以外の可能性があることを知っている。あなたは自分の実存の根幹をなす自らの性欲を実現することなしに死ぬことはできないと考える。あなたは少年を誘うことができる。誘いに乗らなければ襲うことができる。そして何の罪もない少年に取り返しのつかない傷を与えたという倫理的な責め苦を自ら背負って生きる。あるいは法的な罪をあがなうべく刑に服す。傷つけられた少年が私の息子だった場合、あなたは私によって殺されるかもしれない。それでも、あなたはあなたの実存をかけて少年を襲う。
あなたは、より現実的な選択肢として、この国が保障する自由と経済力にものを言わせ、東南アジアで身を売る少年を人知れず買うことができる。誰にも言わなければ、誰にも責められずに自分の欲望を満たすことができる。あなたはあなたの実存にとって大きな意味を持つものを得るだろう。そして同時に大きな意味を持つ何かを失うだろう。それが何か、今は明確には分からない。そこに踏み出すかどうか。あなたは自ら選ぶことができる」

かつて「人を殺すことはなぜ悪いのか」という問いが一世を風靡(?)したことがありました。さまざまな回答の中で特異な回答が一つあったのを覚えています。誰の回答かは覚えていません。すなわち「人を殺すことが、あなたの実存にとって絶対的な要請ならば、あなたは人を殺すべきである」。

収拾がつかなくなってしまいました。伏見さんの本に刺激されて思いついたことを脈絡なく並べてしまいました。結論などなく、いや、伏見さんが命がけで書いたこの本を多くの人にぜひ読んでもらいたいというのが結論です。

長いメールになりました。添付すると、はじかれるかもしれないと思って張り付けて送ります。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・最終回

2007-02-18 ポット出版

最後に
『欲望問題』を勧める理由

沢辺●さて長い時間話して来たんですが、いままで議論したことの他に『欲望問題』をめぐって野口さんから言っておきたいことってありますか?

野口●繰り返しになりますが、自分自身の信念や理念が社会、他者との関係の中でおかしいんじゃないかと気付いた時に、人はどうやってそのことを自分の生き方の中に繰り込んで、考え方を紡ぎ、自分に還元していくのか、また他者との共生を可能にしていくのか、その普遍的なプロセスを探求した問題としてこの本を受け取って欲しいと思っています。

沢辺●すごく偏った見方かもしれないけど、長い間、反差別運動を僕は僕なりに興味をもって見てきて、89年の藤田敬一さんの『同和は怖い考』では、部落解放運動を巡って、当事者だけがそれが差別かどうかのジャッジをするという考え方は間違っている、被差別者の不利益は全て差別が原因だと言うのはおかしい、という主張がなされ、その視点がかなり衝撃的だった。

その次に小浜逸郎の『弱者とは何か』という本が出て、これも僕にとっては差別問題をきちんと考え直していく流れきっかけになった。今回の伏見さんの本はその流れの中にあり、いろんな意味でそれらを越えていると思う。

まさに被差別の当事者として、理論的な意味での差別運動のオピニオンリーダーというポジションから、さらに差別の問題から欲望の問題として物事を転換していくという新たな視点を示したと思う。日本の差別問題を巡る言説の中でこの本は重要な転換点に位置づけられると思ってるんです。

野口●反差別運動というのは往々にして運動自体を自己目的化しやすいんですね。とりわけ抑圧が強かった人、ルサンチマンを強く抱いている人は、差別問題という枠組みに乗ることでメタに立とうとする傾向が強くなる。その枠に乗れば社会を否定し、抑圧の対象を否認することができ、マジョリティより優位に立てますから、ある意味楽というか快感になるんです。

そうした状態を一旦全てリセットして作り直すというのは最初にも言ったように、そんなに簡単なことではない。この本で伏見さんはそれを実行した。これは反差別運動の成熟形態と言えます。

今後の反差別運動、社会運動はこの本で提示された視点を繰り込んで成熟していく必要があると思います。先に述べたように反差別運動は「正義の純化」が起こりやすいので、そういう領域で、フロントランナーであった人が成熟形態に移行していく道筋を提示したのは画期的だと思います。

差別の問題、社会問題に関心がある人、特に若い世代の人にぜひ読んでほしい。きっと、何か受け取れるものがあるのではないかと思います。

「命がけで書いたから命がけで読んでほしい」と書いてありますが、むろん伏見さんも読者が命がけで読んだりしないことは十分分かっているわけです。面白いと思うのも思わないのも、またどのように読むかのかも読者の自由であるということは当然で、そんなことは十分分かっているんですね。

ただ、人は表現をする場合、他者へ何らかのメッセージを伝えたい、受け取ってほしいという思いを抱いている。ある場合その思いは軽いものかもしれないし、楽しんでもらおうというものかもしれない。

しかしこの本において、伏見さんが他者へ受け取ってほしい気持ちはこうした言葉でしか表せなかったのだと思います。このような言葉でしか表現できない思いを込めた本を書かざるをえないときがあるということなんですね。この言葉は、伏見さんのそうした「倫理性」の表明と考えたらよいと思います。

そして、こうした本では読み手もどう生きてきたのかが問われてしまうんですね。自身の信念を補強することに終始していたり、捉え返すことをやってこなかった人は、面白くないでしょうし、ともすれば感情的な反応しかできないかもしれない。

しかし、自分の生き方を考えざるを得なかった人や、自身を一から作り直さなければならないような経験をした人には伝わるかもしれない。その意味で読み手の「倫理性」もまた問われてしまうのだと思います。

沢辺●ありがとうございました。

北原みのり[LOVE PIECE CLUB代表]●読後、もやもやした気分が続いている。

2007-02-17 ポット出版

 「欲望問題」、むちゃくちゃ「絶妙」なタイミングで手にした。というのも、私、ちょうど、「差別問題って、ものすごーくめんどーだー!」な事態に直面していたものだったから。

 ラブピースクラブ(私が運営しているマンコ持ちのバイブ屋)が出しているメルマガに、一通のクレームメールが来たのだ。「男との同居」を書いているスタッフの連載エッセーに対してで、内容を手短にするとこういう感じ。
「私はバイセクシュアルだが、あなたの男との話は、つまんない、うざい」
 スタッフはそれはそれは衝撃を受けた。やっぱり傷つくよね。うざい、だなんて・・・。悲しむスタッフには「めげないで続きを書くのよ!」 と励ましたのだけれど、私にとっての問題は、ここから、始まった。というのも、そのスタッフが、次のメルマガでの同居話の全面撤回&謝罪しちゃったのだ。
「この異性愛社会の中で、ヘテロの話はありふれてつまらんどころか、抑圧になるのかもしれません。申し訳なかったです」
 あれ? と思った。読者からのメールを読み返しても、「あんたの話は抑圧的じゃ、差別じゃ」とは書いていない。「つまんない、うざい」である。だったら「つまんなくてゴメンナサイ」だろ、とスタッフに聞いた。「なんで謝ったの?」 こういう答えが返ってきた。
「だって。前にも、レズビアンの友だちに言われたから。この異性愛社会でヘテロ話は抑圧的だって・・・」

 セクシュアルマイノリティの運動が間違っていた、単なる言葉狩りになってしまった、と言いたいのではない。この場合、完璧に受け手の問題だ。そしてこれは、そのスタッフ特有の問題ではないように思う。被差別者が一転、差別者として糾弾された時の反応の過剰さ。リベラルであるほど「マイノリティの痛みは正義」と思考停止してしまう鈍感さ。それは特にものめずらしいことではない。差別者になる自分は許せない、という自分への誠実な姿勢が、もっと複雑な「差別」を生み出すという差別スパイラルみたいに。
 そのスタッフは「差別問題」にセンシティブでありたいと生きてきたマンコ持ち、私の信頼するフェミ友、反差別運動に長く関わってきた市民派だ。なんでそんな風に謝っちゃったの? 私の中で、「差別問題、なんでコンナコトになる?」というような、ジリジリした気分が募った。

 そんな時に本書が届いた。だからなのか。おお! そうよそうよそうなのよぉとうなづき、リアルに理解できる箇所、たくさんあった。反差別運動が持つ硬直した感じが、伏見さんの体験からよく伝わった。もちろんそれはフェミとしての私自身の中にもある硬直感かもしれなく、ああ分かる分かる、と思う一方、あちゃ、と首をすくめる箇所もあった。そして、今回の「メルマガ事件」の意味づけから、差別問題への違和感・共感など、私の中で「整理」できたような爽快感があった。
 一方、フェミの「正しさ」への伏見さんの「嫌悪」(に感じた)に共鳴しながら呼んでいると、うっかりフェミを、フェミとしての自分も嫌いになりそうになった。伏見さんはフェミがお嫌なのね・・・と、80年代のフェミ本を取り出して読み返して、あの頃は良かったなぁ、と慰めたくもなった。オヤジは敵! と拳をあげる70年代リブの手記を探しだし溜飲を下げたくなった。そういう意味で、私にとっての「フェミ」、私の「痛み」は、私自身の「癒し」であり「欲望」であるというのは、伏見さん、確かにその通りです、とうなだれたくもなる。
 ・・・と、ごちゃごちゃと、いろんな感情を揺り動かしながら一気に読んだ。

 それでも。読後、もやもやとした気分が続いている。「欲望問題」 それでいきましょう! と、伏見さんの言う「パンクロック」のビートにあわせてイエェーイとは言えない(それを私に期待されているわけじゃないでしょうが)複雑な気分でいっぱいだ。どの箇所に? と言えば、それは「だからフェミはだめなんだ」というような調子のところではなく、「保守的に読める」かもしれない調子の点ではなく、伏見さんが繰り返し語る「社会」ってものに対する視線の「高さ」に、最後までついていけなかったからだと思う。
 
「(他者の欲望をできるだけ可能にする議論、そして)その結果が社会の成り立ちと維持に矛盾しないように、いっしょに考えていく、それが大切だと思います。そういう場として、ぼくはこの国を他の人々と共有していきたいと思います」
 政権放送のように、本書の伏見さんの言葉はキラキラと眩しい。「責任」を持つ大人、とはこういう感じなのだろうなぁ、と私は遠い目になる。私自身は「社会は敵だーころせー」とか、そんなすてきな言葉を吐きたいわけじゃないけれど、「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という本書の副題を借りるならば、「人は社会を維持するためだけに生きているのではない」とやはり言いたくなる。
 「社会を維持する」とか「社会に責任を負う」とか「社会を営む」という伏見さんの言葉の数々の「主語」に、私はいるのか、いるんだろうなぁ、いるんだろうけどなぁ・・・・というモヤモヤが、読後、消えないで残っている。そのモヤモヤの正体を、私も伏見さんみたいに「誠実に考えよう」と思う。
 

●きたはらみのり
1970年、神奈川県生まれ。1996年、日本で初めて女性が経営するセックスグッズショップ
LOVE PIECE CLUB(http://www.lovepiececlub.com/)を立ちあげる。同代表。

【著書】
ブスの開き直り/新水社/2004.9/¥1,400
ガールズセックス(小田洋美、早乙女智子、宗像道子との共著)/共同通信社/2003.10/¥1,300
オンナ泣き/晶文社/2001.4/¥1,600
フェミの嫌われ方/新水社/2000.8/¥1,400
男はときどきいればいい/祥伝社文庫/1999.6/¥533
はちみつバイブレーション/河出書房新社/¥1,200

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第七話

2007-02-17 ポット出版

共同性の意味をもう一度再考してみよう
━━『欲望問題』第三章「X-men」のエピソードから

沢辺●振り返って考えると僕はいま50歳だけど、10歳代から「家族帝国主義」という言葉も含めて、家族や共同性にからめとられるのにすごく反発してきた。しかしもう一回戻って、いまや配偶者がうちにいないと、俺一人に成ったらどうなるんだろうという不安感を如実に感じると、人がいてほしい、自分以外の他者といっしょに何かをしたいという欲求はかなり強烈にある。やはり共同体は必要なんですよ。

ただ、従来の共同体の負の面、いやなところをできるだけ薄めて共同体のよさを生かすという視点が、この年齢になって出てきた。共同体そのものを否定するのではなく、その在り方を改善したほうがいいんだというふうに気持ちが変わった。その自分の気持ちと、伏見さんが『欲望問題』の第3章で取り上げた「x-men」のエピソードが深くリンクして感動したんですね。

野口●いま言われた共同性の意味をもう一度再考することが重要ではないかという指摘は重要だと思います。近代社会は個人の自由がだんだんと確保されていく社会ですが、その自由は、経済的な自由、財産権や私的所有権を確保するということからはじまり、貧しさからの解放や政治的自由の獲得、生き方の自由の確保という方向へと向かっていきます。

つまり与えられた役割にしたがって生きなければならない社会から、多様な生き方を選べるような社会を少しずつ作っていくようになる。

そのときに自分にとって重要だと考える共同性を生きる場として選ぶことが当然ある。そうすると、沢辺さんがいうように、どういう共同性なら正当化されうるのか、またよりよい共同性の形とはどういうものかを考える必要が出てくるんですね。家族という共同性もそうだし、ゲイという共同性もそうした選択した共同性だといえます。

ゲイに関しては、自分がゲイだという確信は、向こうから疑いようのないかたちでやってくるという点では、非選択的なものですが、それを生き方として選ぶかどうかというのは本人次第ですから、その意味ではゲイも選択的な共同性なんですね。さまざまな共同性は、人々の生きる意味を供給するという形で社会の中に存在しており、さまざまな共同性の意味をもう一度考えなければならないのだと思います。

一方、共同性があるから対立や争いが生じる。だから共同性自体を解体していかなければならない、という論議がある。クィア理論なんかもその一つですね。同性愛というカテゴリーは近代の産物で、近代ヨーロッパという特殊な歴史的・社会的条件のなかで生まれたものであり、異性愛/同性愛という対立枠組みができることで同性愛者差別が生じてきた。

だから同性愛者として異性愛中心の社会に異議を唱えるということは必要なことだけれども、同時に同性愛/異性愛の二項対立的枠組みを作り上げている社会システム自体を解体しないと差別はなくならないというわけです。この考え方は理路としては、性別二元制が男女差別の源泉だというのと同じですね。男女というカテゴリーを作り上げる性別二元制という土台を解体しないと男女差別はなくならないというのと同じ論理構成といえる。このような理路は「論理的」には「正しい」。

同性愛差別にしろ女性差別にしろ、同性愛/異性愛や男/女のような対立する土台自体を解体すればなくなるのはまちがいない。カテゴリー自体がなくなるわけですから、カテゴリーを前提にして初めて存在することになる差別という現象は当然なくなる。

しかし「論理的」に「正しい」ことが、人間にとって「正しい」とは必ずしもいえない。なぜなら、先に述べたように共同性は人に生きる意味を供給するための不可欠なアイテムだからです。人間は実存の基底に不安を抱えているために、さまざまなかたちで何らかの共同性を必要としています。人類の歴史から共同性がなくなったことがないのはそのためです。

ですから、人が差別をなくすために共同性自体の解体を選択するかといえば、そんなことはしないんですね。自身の欲望の条件のなかから差別の解決をはかっていくというのが、人間の一般的なありようですから。人がそうした共同性を必要としなくなって初めて、その共同性を解体する条件が整うわけです。先の二項対立の土台自体を解体するという理路は、人の欲望の条件を満たさない場合、問題を「論理的」に「解消」しているだけで、「解決」するものでないんですね。

沢辺●本質的なものごとのとらえ方として異論はないんだけど、一方で、僕は懐疑的なところがあって、気分として共同性に対する嫌悪感って意外にない?

野口●共同性を嫌だと思っている人があんまりいないということ?

沢辺●いやいやいっぱいいるということ。現実にはゲイという共同性がベースにあるからこそ、ハッテン場とか含めて十二分に楽しんでる面はあるんだけど、同時に家族や会社、組織に縛られたくないっていう気分が多くの人に同居しているような気もする。

マルクス主義的なものの見方の残像みたいなものも結構あって、雇われている人だと、会社にうまく利用されないよう気をつけたりと、会社も共同体の一つとすれば利用もするし利用されることもあって、自分の自由と折り合いをつけていくための問題解決の場として考えていかないと決してその場をうまく生きられない感じがするんだけど、なんか突然アプリオリに空気として共同体嫌悪があるような気もする。

ただしそのことは徐々に減っていくのかなという気もしていて、そんなに心配もしていないところもあるんだけどね。もちろん本質的には、野口さんがいったようにみんな共同性をそこそこ楽しんでいるわけですよね。親の嫌なところはあるにしても、切り捨てるなんていうピュアな生き方なんかしないで、いい歳こいても親に金出してもらって利用もする。僕はそれを悪いことだと思っているわけじゃないんです。

野口●なるほど、何らかの共同性による拘束を嫌がる人が増えてきているのではないのかということですね。それについては僕はこんなふうに考えています。

人間は実存上不安を抱えた存在なので何らかの共同性を必要としてきたのですが、一方で近代社会は人間の自由を推し進めることで共同性からの解放を実現してきたわけです。その結果、現在の人間は、共同性の希求と共同性からの解放という相反する欲望を抱え込まざるをえなくなっているんですね。

特に日本は独身でも生きやすい社会的条件が整ってきている社会だと思います。夜の一人歩きも大きな危険が伴うわけではなく、24時間開店しているコンビニのネットワークが整備されてきているように、独身者でも不自由を感じない社会になってきた。

すると不安や不自由を強く感じるようになるまでは、できるだけひとりで生活したいという気持ちを持つ人が増えてくるんですね。ですから不安や不自由を感じなくなるような社会的条件が整えば、さらに一人で生きたいという人も増えてくるかもしれない。

ですが、これは年齢とも相関性があるでしょうね。年を経て自分だけの欲望の追及よりも、我慢するコストを払っても関係の欲望を選択するかもしれない。

雇用に関して言えば単位時間当たりの労働者一人の生産性が非常に高くなり、組織に所属しなくても安定的な収入を得ることができるようになれば、一人でやっていけるようになるかもしれない。ただこれは今のところ一部の特殊な職業でしか実現していませんね。

いずれにせよ共同性の拘束と自由の希求をどのように調停するか、その社会的条件が何なのかをさまざまな共同性にクラス分けして考えていく必要があると思います。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第六話

2007-02-16 ポット出版

それは社会に承認される可能性を持った主張か
━━これからの社会運動の命題

野口●僕の感じでいうと、人が社会性を獲得していくための前提条件は、沢辺さんが言われたように、自分の考えや意見を受け止めてもらえて、違和感も含めて率直に意見をやり取りでき、お互いの考えを鍛えていけるような場面をもてるようになることだと思うんですね。もう一つは、多くの人がある状態をおかしいと思ったときに、例えば、一票を投じたら政治が変わりうるような、自分たちの考えが社会政策として反映されうる条件が実現してくることだと思います。そうすれば、その感度は広がっていくはずなんです。

多くの人は社会を動かしがたいと思っていて、人々がそうした実感をもつのには必然的な理由があるわけなんだけど、思想の課題はその理由をはっきりさせることと、どのような条件が整えば人々が社会とのつながりを実感できるようになるのかを明らかにすることです。

沢辺●そのときに大切なのは、正しさということを先におかないということ。これも竹田青嗣さんのパクリですけどね(笑)。

野口●「これを私は正しいと思う」という投げかけはいいんですね。大切なのは、互いの意見をすり合わせること。批判されたときにキチンと受け止め、納得がいくようなものなら、対話の過程で変えるのをいとわないことです。「正しさ」はそのような形で成立するものなんですね。

ルソーは『社会契約論』で統治権力の正当性の根拠を一般意志とよびます。一般意志とは何かというと、ルソーは変な言い方をするんだけど、要するに各人の共通の利益ということを意味していると考えればよいと思います。共通の利益が実現するように権力が行使されずに、一部の利益だけが確保されるような事態に対して批判を差し向けることができるというんですね。つまり、統治権力において特殊意志が一般意志を僭称するとき、その権力は批判され、一般意志を実現していくときにのみ正当化できるわけです。

ルソーのこの考えは社会批判の正当性の根拠を明らかにしたものだと考えることができます。つまり、近代社会では各人は対等の権利を持って存在しているために、そこでは特定の誰かの利害を先験的に優先することができず、各人の共通の利益のみが「正しさ」の根拠になるということを意味しているわけです。これは非常によく考え抜かれた論理です。

たしかに私たちは社会政策や制度に対する批判を、暗黙の内に想定した万人の共通の利益を基準にして展開しています。その政策や制度が万人の利するものではなく、一部の人間だけの特殊利益になっているという根拠によって批判できると考えているんですね。もちろん一般意志とは実体としては存在しない、概念として想定されるものですが、この想定によって制度批判が可能になるわけです。逆に、このような概念を想定しないと、万人が対等な権利を持った社会において制度批判を行うことはできないんですね。

では一般意志が実現するための条件は何なのか。ルソーはそれを特殊意志をもった強大で巨大な集団が存在しないことだとします。別の言い方をすると、特殊意志が一般意志を僭称するようになる条件は、強大で巨大な特殊利害を持った集団が社会のなかにいくつか存在していることだといってもよいでしょう。これもよく考えられた原理です。

もし特殊意志をもった集団が巨大で強力な力を持っていた場合、その組織の統治権力への影響力が大きくなるので、特殊利害が統治権力の権力行使に強く反映されるようになるわけです。そうなってしまうと一般意志の名を借りて特殊意志が追求されるようになってしまうんですね。

では次にそうした特殊意志を持った巨大で強力な集団が存在しないための条件は何かを考えてみると、これもいくつか取り出せます。統治権力との係わり合いで言えば、政権交代が可能な二つ以上の政党が存在することが重要になります。もし一つの政党だけが統治権力に関わるようになり、特殊意志をもった集団がその政党との結びつきを強めれば、集団の影響力が強まりますから一般意志が実現しにくくなってしまう。

ですから、つねに政権交代が可能になるような二つの政党が存在していることで、政権与党と特殊意志をもった集団の結びつきを緩めたり、特殊意志を持った集団の強大化を防ぐようにしなければならないんです。

例えばアメリカの二大政党制の場合、共和党、民主党の支持母体に強大な力を持った利害集団が存在して、それぞれの政党と密接に結びついているわけですが、日本の場合、政党の思想やイデオロギーと集団の思想が純化した理念で結びつきにくい社会なので、政権が交代すれば特殊意志を持った集団は、今まで支えていた政党を鞍替えして新たな政権与党を支えるようになりやすいと思います。そうすると特殊意志をもった集団の力は相対的に低下するんですね。

このように思想としては一般意志を実現していくための条件を一つずつ確定していくことが重要で、その上に立って個々の具体的な政策内容や手段を決定していく必要があると思います。これからの社会運動も単に反体制・反社会的立場に立てばよいというものではなく、自分たちの主張が社会に承認される可能性を持ったものか、一般意志にかなっているのかを考えて行動していかなければならない。それがまた実践を支える理論を鍛えるための場になるわけです。

沢辺●さっきも言ったけど、かつて公務員をやっていたこともあって、公務員の友達も多いんです。この4、5年、俺がつき合っている数少ない公務員の中にも、「給料さげてもいいよ」という公務員がいるんだよね。不景気なときに公務員の給料がなかなか下がらないから、相対的に突出するわけですよね。僕も「おめえら高いよ」と言うわけで、社会もそういうトーンになるでしょ。こうした例は[公務員である自分の給料は一般意思に適応してるのか]を気にしてるってことだと思う。

また、人間は自分の目に見える直接的な利害だけで生きているわけじゃなくて、他者からの承認も求めちゃうもんだと思うんだよね。例えば医者だからといってともかくいっぱいお金もうけましょう、という人ばかりじゃないよね。承認を得るためにがんばる人がいるんだと思う。

野口●自分たちの利害が政策に直接反映できるようになると、利害の追求に求心化されていくんですね。最近大阪市で明らかになってきた同和行政の問題もその表れだといえますし、医師会や郵政団体のような政権与党を支える集団の問題もその一つですね。

人は自分たちの生活条件を少しでもよくしたいという思いがあるので、もし自分たちの利益が簡単に実現するようになれば、常識を欠いた利益でも保持して手放さないようになる。特殊利益を実現するルートが確保されれば、自分たちの主張が妥当なものかどうか問い直すことがなくなるんです。

重要なのは、そうならないための社会条件は一体何なのかを一つ一つ考えて、一般意志を実現するためのグランドデザインを描いていくことです。

尾辻かな子[大阪府議会議員]●声も出せない人がいることを忘れてはいけないと思う

2007-02-16 ポット出版

伏見さんは、私がまだ自分のレズビアンとしての自分に正面から向き合えていない頃から、ゲイとして社会的な発信を続けてこられた大先輩にあたります。この度はその伏見さんの書評を書く機会を頂けて、非常に光栄です。しかし、私が伏見さんの著書の書評を書くというのは正直とてもプレッシャーがきつく、何度も読み返しながらかなり苦労しました。以下の文章は、私の感想と思って読んで頂けると幸いです。

伏見さんは本書で言います。「差別—被差別」とする構図の中には、すでに被差別の側に「正義」を含んでいる、と。「正義」をふりかざすのではなく、「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だと捉えなおすことで、対話ができるようになる、と。痛みに声をあげることのすべてが正義をふりかざしていることになるのか。私にはよくわかりません。それは、私がまだ30代はじめという年齢であり、自分たちを一方的正義とみなしていた社会運動が下火になってからの世代だということもあると思います。また、正義の押し付けだと、声をあげるのが誰なのかによっても、状況は変わるでしょう。

今回、厚生労働大臣の柳沢さんの発言をめぐっても「差別発言」という意見と共に「言葉狩り」だという意見がでてきました。もし、マジョリティたちが自らの権力性に気づかずに、声をあげる人々に対して、正義を振りかざすなというとき、マイノリティが声をあげたこと自体をつぶすことにならないかが心配です。そういう意味では、マイノリティが声をあげにくい状況にあることに、より繊細にならなくてはならないと思います。現在の同性愛者の活動ですが、私の目から見ると、むしろ自分たちの内なるホモフォビアと闘い、自らのあり方を自己否定しながら、政治的に大きな声をあげることをためらってきたのではないかと思えます。

伏見さんは、いろいろな意見を調整する場としての政治の重要性を語っています。議員の仲間内で使う言い方に、「振り上げた拳の下ろし方を誰か考えたらな、いつまでたっても下ろされへんで」とか「どこで落としどころつける」などといった表現をします。さまざまな意見がある場で、お互いの意見を尊重しながら妥協点を見つける作業をするわけですが、そのスキルを当事者たちが身に付けることは、伏見さんもご指摘のように、これからとても重要なことだろうと思います。

次にジェンダーフリーに関する部分です。伏見さんは、性愛は男女の記号のゲームであり、ジェンダーは楽しみや喜びの中から改変していくことができうると書いています。確かにジェンダーをめぐる状況は、異性愛者も同性愛者も、10年前と比べたら随分変ってきていますし、そこには私も希望を持っています。しかし、私の職場である地方自治の現場は、まだまだこの部分に関しては遅れている場所です。男とは、女とは、家庭とは、と堂々と語る議員たちが圧倒的多数を占める中で、私としては、ジェンダーフリーそのものに懐疑を向けるより、バックラッシュの側と対峙する姿勢をとらざるを得ません。残念ながらこれがまだ、日本の政治の現実です。

私は同性愛者であることを名乗って、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスをしている段階です。ただ、次の世代には「ゲイやレズビアンであることは、それは自分の個性の一部でしかない」といえる人たちがでてくるでしょう。このことがアイデンティティ・ポリティクスの成果であり、アイデンティティ・ポリティクスの寿命を迎える時なのだと思います。しかし、そのためにも今はまだ、日常を共に生きている人間としての同性愛者たちの可視化が必要だと思います。

また、ゲイとレズビアンの共通点と差異に目を配ることも重要です。レズビアンは、まだゲイほど可視化されていないように思えます。テレビの中にゲイを公言するタレントはいても、レズビアンを公言するタレントは登場していません。女性と男性の給与格差は、データで見れば厳然としてあります。これが、レズビアンの経済的貧困につながっています。

日本もモザイク状で、状況は複雑です。東京や大阪などの大都市で若いうちからオープンに生きている人が増えているのは事実だと思いますが、私のところに来ている相談メールを読んでいると、地域によっては、カミングアウトしたらそこでは生きていけなくなると思っている人も、まだたくさんいることが分かります。

「痛み」も「楽しみ」も等価な「欲望問題」だということで、伏見さんは社会との対話を喚起します。この目指すべきところは、私も同じです。ただ、議員として私が決して忘れてはいけないことは、最も抑圧されている人々の中には、声を出すことも、対話のテーブルにつくことも難しいことがあるということだと思います。

この本には、賛否両論さまざまあるでしょう。しかし、伏見さんの狙いは、きっとその賛否両論を引き起こすこと、読者一人ひとりがどう考えるのかを問うことなのではないかと思います。その決断に心からの敬意を表します。

【プロフィール】
おつじかなこ●1974年生まれ。2003年4月から大阪府議会議員。次は国政にチャレンジすることを表明している。2005年8月の東京レズビアン&ゲイパレードで同性愛者であることを公表し、同時に著書『カミングアウト〜自分らしさを見つける旅』(講談社)を出版。
公式サイト http://www.otsuji-k.com/

【著作】
パートナーシップ・生活と制度—結婚、事実婚、同性婚(共著・杉浦郁子、野宮亜紀、大江千束編)/緑風出版/2007.1/1,700
災害と女性〜防災・復興に女性の参画を〜(共著)/ウィメンズネット・こうべ編/2005.11/800(税込み)
カミングアウト—自分らしさを見つける旅/講談社/2005.8/1,500
みんなの憲法二四条(共著・福島みずほ編)/明石書店/2005.5/1,800
かく闘えり!!—2003年統一地方選挙議員をめざした女たち(共著・甘利てる代編)/新水社/2003.10/1,700