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ポット出版

2007/7/18 水曜日

◎筒井真樹子さんのホームページで書評掲載


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◎筒井真樹子さんのホームページで書評掲載
http://homepage2.nifty.com/mtforum/br007.htm

2007/6/22 金曜日

『欲望問題』『男はどこにいるのか』発刊記念トークセッション「オトコ談義」のご案内


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『欲望問題』『男はどこにいるのか』発刊記念トークセッション「オトコ談義」のご案内

2007/6/13 水曜日

藤井誠二【ノンフィクション作家】●ダメになった左翼に読ませたい!?


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 伏見さんのお仕事は一貫して、自らが身を置くマイノリティの側から社会に向けて強い言葉を発信をしながら、すぐに自分の言葉を相対化し、自身が属するマイノリティ内部に向けて疑問を投げかけたりもする。自分たちマイノリティを「理解」しようとする第三者や、あまりに原理主義的になっている「味方」の人々に対しても辛辣な言葉をぶつける。そういう立ち位置を背負ってこられたという印象があります。だから当然、ときどき返り血を浴びるようなこともあるはずで、逆に言えばそれがそのマイノリティ全体が活性化し、思想的に成熟していく原動力になっているのだろうと思います。

 マイノリティが社会から受ける差別や無理解、さまざまなプレッシャーと鋭く対峙してときにはね返したり、変えていくためには、一定の「社会運動体」を牽引する必要があります。同性愛者の多岐にわたる社会運動が理論的な武装をし、成熟をとげ、広範な支持を得ることができていったのも、そうした伏見さんの自由な立ち位置が確保されてのことだと思います。

 私はノンフィクション作家としてマイノリティを取材することが多い。伏見さんのような当事者ではありませんが、私が取材する対象もマイノリティとしてなんらかの社会運動を起こしているものばかりでした。最近では「犯罪被害者」というマイノリティがどう政治的に権利を保障されるか、どう司法に参加をすることができるかという運動の第一の目標点に達しようとしています。ぼくはその渦中にノンフィクションの書き手として関わってきています。

 そういう日本のマイノリティの運動はたいがい左翼が担ってきました。ですが、左翼の最も悪いところは内部での論争や批判を許容できないところです。政党であれ、市民グループであれ、労組であれ、連合体でも同じ体質を持っています。だから世の中の現実の変化に対応することができず、いまや月刊誌に「グッとくる左翼」なんて特集を組まれて面白がられている(でも完売だとか)存在になりさがっています。

 マイノリティだった運動体や自浄能力を持てないまま肥大化し、利権集団と化したり、理念を唱えるだけで現実に起きている課題に対応できない化石のような所帯になったりしていきました。与党に批判が高まっても、左翼政党に票がいかないことについても、自己正当化と与党を攻撃するだけで冷静な自己分析ができないほどダメになっている。その答えが『欲望問題』には記されていると思いました。そしてこの本には、世の中の価値を変える、あるいはつくりかえるために、かつ傲慢にならないための知恵と経験が詰まっていると思います。

 吉田司さんの『ひめゆり忠臣蔵』ではありませんが、いかなるマイノリティのなかにいても、声を上げずにはいられない差異にこだわりぬく感性こそ、伏見さんの真骨頂だと思っています。日本の左翼はそういう感性や発言を基本的に嫌い、与党のようなぬるま湯状態を毛嫌いしてきました。でもそれが昨今の左翼の弱体を招いたのです。『欲望問題』をいまの私が読むとそういう思考ばかりが浮かんできてしまいます。逆に言えば、マイノリティの運動がどうすれば拡大や思想的成熟をしていくことができるのかというヒントもつまっているのだと思いました。

【プロフィール】
ふじいせいじ●1965年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。

【著書】
殺された側の論理/講談社/2007.2/¥1,600
少年犯罪被害者遺族/中公新書クラレ/2006.12/¥740
風光の済州島「漂流」(荒木経惟との共著)/アートン/2004.10/¥2,381
こころのブレーキがきかない(編著)/日本放送出版協会/2004.7/¥1,400
わが子を被害者にも加害者にもしない/徳間書店/2003.12/¥1,500
500万で家をつくろうと思った。/アートン/2003.11/¥1,500
この世からきれいに消えたい。(宮台真司との共著)/朝日文庫/2003.10/¥520
人を殺してみたかった/双葉文庫/2003.4/¥524
いつの日にかきっと 映画「夜を賭けて」に賭けた若者たち/アートン
/2002.12/¥1,200
暴力の学校 倒錯の街/朝日文庫/2002.11/¥740
学校が自由になる日(宮台真司、内藤朝雄との共著)/雲母書房/2002.9/¥1,800
17歳の殺人者/朝日文庫/¥2002.8/¥700
少年に奪われた人生/朝日新聞社/2002.8/¥1,300
開国マーチ(荒木経惟との共著)/実業之日本社/2002.7/¥1,900
コリアンサッカーブルース/アートン/2002.5/¥1,100
殺人を予告した少年の日記/ワニブックス/2001.9/¥1,700
「脱社会化」と少年犯罪(宮台真司との共著)/創出版/2001.7/¥800
少年の「罪と罰」論(宮崎哲弥との共著)/春秋社/2001.5/¥1,800
教師失格/筑摩書房/2001.4/¥1,800
リアル国家論(宮台真司、宮崎哲弥、網野善彦、姜尚中らとの共著)/教育史料
出版会/2000.8/¥1,800
学校の先生には視えないこと/ジャパンマシニスト社/1998.8/¥1,600
〈性の自己決定〉原論(速水由紀子、宮台真司らとの共著)/紀伊國屋書店
/1998.4/¥1,700
学校的日常を生きぬけ(宮台真司との共著)/教育史料出版会/1998.4/¥1,600
18歳未満「健全育成」計画/現代人文社/1997.12/¥2,100
など多数

2007/5/17 木曜日

◎日本性教育協会の『現代性教育研究月報』2007年5月号に書評が掲載されました。


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◎日本性教育協会の『現代性教育研究月報』2007年5月号に書評が掲載されました。

2007/5/14 月曜日

長田真紀子さんの書評コラム(Love peace clubのサイト内)で取り上げられています。


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長田真紀子さんの20070404付の書評コラム「批評は読んでからにしろ」Love peace clubのサイト内)で取り上げられています。([2007/04/04] 反論するのは命がけ『欲望問題』伏見憲明の表示をクリックしてください)

2007/5/8 火曜日

◎北海道新聞で掲載された香山リカさんの書評が同新聞ホームページで公開されています。


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◎北海道新聞で掲載された香山リカさんの書評が同新聞ホームページで公開されています。
http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20070325/1.html

2007/4/25 水曜日

◎宮崎留美子さんのホームページで書評掲載「欲望問題を読んで共感したこと」


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◎宮崎留美子さんのホームページで書評掲載「欲望問題を読んで共感したこと」
http://miyazakirumiko.jp/Essey110.htm

2007/4/22 日曜日

小倉康嗣[社会学者]●参与する知へ━━大地に足を着けて、ただ純粋に生きていくために


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 僕は『欲望問題』を、「知」と「生きること」のつながりを問い、そこに「参与する」ための回路を切り拓いていく試みとして読んだ。

 僕は学問の世界の人間の端くれであるが、昨今の一部のアカデミズムの雰囲気に、ある違和感を感じていた。当事者性をうたう言説やマイノリティ(弱者)に寄り添う言説、あるいは研究者の政治的立場性を問う言説が増産されているが、それはたんにそういう「ポーズ」が巧妙になっただけで、結局は、研究者コミュニティという小さなコップの中だけで通用する言葉を空回りさせているだけではないか。もしかしたらそれは、偽善の巧妙化という妙な事態を招いてしまっているのではないだろうか。そもそも学問は「いかに生きるか」という実践的な問いとともにあったはずだが、「ポーズ」が巧妙になったぶん、かえってその問いと正直に向き合う愚直さを忘れてしまっているのではないか。そんな違和感である。

 そんなとき、『欲望問題』が刊行された。この本は、そんな僕の違和感をシンプルな言葉でひとつひとつ読み解いてくれた。

 僕がこの本から受けとったメッセージを端的に言うならば、「いかに生きるか」という生き方の次元では、いろんなことが自分と地続きになり、誰もが当事者になる。その根っこの次元にまで降りていこう。そして、そこから立ち上がるコミュニケーション(相互了解やつながり)の可能性を見いだしていこう、というメッセージである。

 たとえば「ゲイ」というカテゴリーに属するかどうかという次元では当事者じゃなくても、生きづらさや苦しみ、あるいは快や喜びの経験のなかで自らの居場所を見いだしていかんとする「生き方」の次元では、誰もが当事者ではないだろうか。たとえ同じカテゴリーに属しているという意味での当事者性だとか、同一の理念を共有していなくても、存在可能に向かって懸命に生きんとする生き方の次元にまで降りていくと、そこに経験の重ね合わせの可能性が生まれ、「自分ごと」(=当事者)として了解されてくる。そこから新たなコミュニケーションの可能性がひらけてくるかもしれない。

 実際、伏見さんはこの本のなかで、小児愛者の経験と(小児愛者ではない)自らの経験とを重ね合わせ、そこに横たわる地続き性を感受していく。「小児愛者」というカテゴリーの次元では当事者じゃなくても、生き方の次元にまで降りていくと、小児愛者の経験が痛いほど「自分ごと」として感じとられてくる。「あそこにいたのは自分だったのではないか」(p.14)と。そんな了解を深めていくなかで「ぼくもまたこの社会に責任を負った」(p.61)という自覚を強めていくのである。

 伏見さんはこの本で、差別問題、ジェンダーフリーの問題、脱アイデンティティの問題といった個々具体的な問題をあつかっている。けれども、それらは訴えたいことの間口にすぎないのではないだろうか。むしろ、この本で強く訴えられていることは、それらの問題を「欲望問題」として仕切りなおすことで、「いかに生きるか」という生き方の次元にまで降りていき、自分と地続きな関係性の網の目に「参与すること」なのではないだろうか。そしてこの本は、そのための根本原理を探求した本なのではないか。

 90年代のゲイ・ムーブメントの初期に「ぼくの中ではまだ『社会は敵だ』という意識が強かった」(p.44)伏見さんが、「敵だと思っていたものに自分の『痛み』も可能性も与えられていた」(p.52)ことに気づき、「そのときになってやっと、ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られた」(p.55)という。これは決して保守的な物言いではない。むしろ、こういう感覚のなかから問題が提示されるとき、マジョリティが対岸の火事とみなしがちなマイノリティの問題も「自分ごと」として受けとめられてくる、そのラディカル(根源的)な地平を照射した物言いであろう。「欲望問題」として仕切りなおすとき、マイノリティにとっても、マジョリティにとっても、社会が自らの「生き方」に切実に関わってくるものとして(つまり、「参与しうるもの」として)、受けとめられてくるのだ。

 むしろ問題なのは、参与しないポジションからの批判や告発であろう。冒頭に述べた、僕が一部のアカデミズムの雰囲気に感じていた違和感も、そこに端を発しているのかもしれない。

 たとえば、僕が属している社会学界とのからみでいえば、「客観性」や「政治的正しさ」の御旗のもとに、学問主体である研究者自身が、自らの学問の足元に横たわっているはずの「いかに生きるか」という実践的問いと(つまり自分自身と)向き合わずにきたのではないか。「客観性」の御旗は、決められた手続きで「実証」さえすればいいという態度を再生産し、(流行理論を振りかざす研究にありがちな)「政治的正しさ」の御旗は、「懐疑」さえすればいいという態度を再生産しつづけてきた。それは、ポストモダン思想による「客観性」(あるいは「超越性」)批判を経たあともなお、当事者性をうたうポーズとは裏腹に、研究者コミュニティという小さなコップの中で超越的に措定された「他者」「倫理」「正義」といった理念を盾にすることによって、自らの学問の足元(=生き方の次元)を掘り下げることをしてこなかったのではないか。つまり、自分と地続きな関係性の網の目の当事者として参与してこなかったのではないか。

 「知」が生成される学問活動の土壌は、人びとの生活経験の土壌と地続きであり、研究という営みはその「地続きの土壌」において実践的=参与的に検討されていくべきものであろう。そして学問主体たる研究者も、研究者である以前に生活経験をもったひとりの生活者であることに変わりはない。その意味で、「知」の最終判定人は現実を生きている生活者である。

 そういった学問姿勢をつらぬこうとするとき、そこから引き出されてくる知見の確からしさも、妥当性も、この「地続きの土壌」における人間相互のかかわりあい(コミュニケーション、相互了解)としてしか成り立たない。翼をもち空高くから見えた(ような気になった)超越的な視界も、大地に生きる僕たちがよりよく生きるために生かされるものでなければ「絵に描いた餅」である。それを生かすためには、大地まで降りてその生かし方を検討し合うことが必要なのである(むしろ問題とすべきは、その検討し合う場で、皆が参与可能なコミュニケーションが行なわれているかどうかということであろう)。

 そのためには、研究者も、研究対象ばかりに語らせるのではなく、なぜその研究をし、どういう問題意識をもち、それが自身の欲望や経験や実存とどう関連しているのか、自らの研究の根っこにある自分自身を語らねばなるまい。そこからしか「地続きの土壌」でのコミュニケーションは始まらないからだ。『欲望問題』は、まさしく著者自身の欲望や経験や実存を切開しながら、そのことを問うている。だから「命がけで書いた」作品なのだ。そして「命がけで読んでほしい」という帯の言葉は、理念や理論という盾でごまかさずに、自分と正直に向き合い、純粋に自分を入れ込んで読んでほしい、つまり参与してほしいというメッセージなのではないだろうか。

 「知」も人間の経験的所産であることにかわりはない。理念や理論といった「知」の上澄みだけを一足飛びにとりだして消費するだけでは、それを本当に理解し生かすことはできないだろう。「知」が生成される現場である「地続きの土壌」にまで降りていくことが必要なのである。この本には、著者が自らの経験と向き合い、おのれと時代とを切り結びながら、現在の思想を形成するに至った経験のプロセスが正直に、ありありと開示されている。そこに、「知」が生成される土壌たる「経験の大地」がある。

 ポストモダン思想による批判以降、理論的にも方法論的にも従来の枠組みの問い直し(脱構築)の議論は盛んになされてきた。しかし大事なのは、そこからどこに向かうか(どう生きていくか)、である。あとは「経験の大地」にしっかり足を着けて、現実によって試されながら、「生成」と「創造」に向かってただ純粋に生きるのみである。

【プロフィール】
おぐらやすつぐ●1968年生まれ。社会学者。立教大学・東京情報大学・東京外国語大学・慶應義塾大学非常勤講師。エイジングやライフストーリーをめぐる社会学的研究を軸に、現代日本人の生き方の可能性を探りながら、<生き方としての学問>への方法論についても探究している。

【著書】
高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー/慶應義塾大学出版会/2006.12/¥5,880
社会調査入門——量的調査と質的調査の活用(K・F・パンチ著、共訳)/慶應義塾大学出版会/2005.2/¥7,350
同性愛入門[ゲイ編]——Welcome to the GAY Community(共著)/ポット出版/2003.3/¥1,760
定年のライフスタイル(共著)/コロナ社/2001.4/¥1,785
フィールド・リサーチ——現地調査の方法と調査者の戦略(L・シャッツマン=A・L・ストラウス著、共訳)/慶應義塾大学出版会/1999.6/¥2,730
近代日本社会学者小伝——書誌的考察(共著)/勁草書房/1998.12/¥15,750

2007/4/20 金曜日

掛谷英紀◎「後ろめたさ」の倫理


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 この本を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、3月18日の朝鮮日報で紹介されていたレイモン・アロンの次の言葉である。「正直で頭の良い人は左派にはなれない。」

 著者の誠実な人柄は、文章の端々から滲み出る思いやりや労わりの情から十分過ぎるほど伝わる。また、著者の頭の良さは、これ程難しい問題を易しい言葉で表現できることからも疑いようがない。難しいことを難しく語れる人は、大学には私も含め余るほどいるが、それは頭のよさが足りないことの証でもある。正直で頭の良い著者は、フェミニズムという左派思想といずれ決別する運命にあったというのは言い過ぎだろうか。

 「左派」を本書に即して定義すれば、「われわれマイノリティは常に正しい」というイデオローグである。しかし、他者を尊重する心を持つ者が「われわれ」の外とのコミュニケーションを続けていけば、そのイデオロギーが間違いであることに気づくのは時間の問題である。

 本書の指摘は、既に多くの論者によって指摘されてきたことの焼き直しに過ぎないとの批判はあるだろう。それでも、私がこの書に大きな価値を見出すのは、「頭の良くない」左派の人たちが、本書を読むことで「頭を良くする」ことが可能と思われるからである。実際、極端な左派と位置づけられるような人々からも、この書には好意的な書評が寄せられている。同じ問題を指摘してきた従前の書には、そのような力は全くなかった。

 では、この書で与えられた指針によって、マジョリティとマイノリティの和解は常に可能といえるだろうか。残念ながら、その答えは「ノー」だろう。なぜなら、世の中には「正直でなく頭の良い」左派も存在するからである。彼らは、「われわれマイノリティは常に正しい」というテーゼが間違いであることは十分理解している。しかし、そのテーゼを看板に、自分に都合の良い結果を引き出せる限り、彼らは嘘を言い続ける。そのようなソシオパス(良心をもたない人)たちとの和解はまず不可能だろう。

 それでも、絶望する必要はない。われわれは民主主義の世の中に生きている。不正直な人がごく少数であれば、正直者集団による和解の結果を、世の中のスタンダードとしていくことは可能である。マーサ・スタウトによれば、ソシオパスは25人に1人とのことである。であれば、正直者に十分勝算はある。

 もう一つ、この書が高く評価されるべき点は、著者が吐露し続ける一種の「後ろめたさ」の感情である。養老孟司氏は、著書『超バカの壁』で「後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人」であると述べている。とすれば、著者は最も大人らしい大人の一人であろう。こういう大人が今の日本の論壇には少ない。

 最近、リベラリストが、選択の自由と基本的人権の尊重を二枚看板に掲げつつ、自由に溢れた理想郷を語るのをよく見かける。彼らは、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と言う。しかし、その議論は「普遍性テスト」を経ていない。少数の人がその選択をした場合は迷惑をかけなくても、多数の人がその選択をすると社会が立ち行かなくなるものもある。実は、同性愛もフェミニズムも、ともにそういう側面を持つ。これは、それらのコミュニティに繁殖能力がない(あるいは低い)ことによる。多数の人が次世代の人間を産み育てる行為から降りてしまうと、高齢者福祉をはじめとする基本的人権の維持は不可能となり、リベラリズムは破綻する。

 もちろん、だからといって、選択の自由に制限をかけるのは不当である。ただ、その一方で、それらの選択をあくまでも一部の例外としておかなければ、社会全体にダメージを与える点も忘れてはならない。現在の世論が性的マイノリティには親和的で、フェミニズムに敵対的であるのは、性的マイノリティは自らの存在が例外であることを承認する一方、フェミニズムはそれを良しとせず、自らのイデオロギーを社会全体に押し付けているからだろう。現在のフェミニズムは、男女共同参画という形で政府に入り込み、市民の私的な選択にまで干渉し始めている。多様な生き方が共存する社会を目指していたはずのフェミニズムが、いつの間にか、特定の行き方を強要する全体主義の担い手へと変貌してしまったのである。これは、フェミニストたちに後ろめたさの情が欠如していることに起因していると言えよう。

 こういうと、私は性的マイノリティやフェミニストだけに後ろめたさを強要しているように聞こえるかもしれない。もちろん、そんなつもりはない。私自身も、自らの著書において、「学歴エリート」としての後ろめたさを背負って生きることを宣言している。
 学歴エリートの行動様式を全ての人に押し付けることで社会が不全に陥ることは、過去の啓蒙主義が失敗を繰り返してきたことからも明らかである。その意味で、学歴エリートも後ろめたさを持たねばならない集団である。しかしながら、被差別集団となる機会が少ないせいか、学歴エリートは後ろめたさを感じる能力に最も乏しいマイノリティとなっている。これが学歴エリートの暴走を生む。フェミニストに学歴エリートが多く、また学歴エリート集団の外でフェミニズムが共感を勝ち得ない理由もここにあると考えられる。

 次にわれわれが目指すべきことは、伏見憲明氏が「立派な人」ではなく「普通の大人」と称される社会を作ることではないだろうか。そのためには、後ろめたさの文化を社会全体に浸透させる必要がある。それに成功したとき、当たり前のことを「命がけ」で書かなければならないような時代は終焉を迎えるであろう。

【プロフィール】
かけやひでき●1970年生。筑波大学講師。メディア工学の研究の傍ら技術者倫理教育にも従事。著書に、日本の「リベラル」(新風舎)、学問とは何か(大学教育出版)、学者のウソ(ソフトバンク新書)がある。

2007/4/13 金曜日

神名龍子◎理よりも利


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『欲望問題』は、私がこの10年間に渡って考え続け、発信し続けてきたことが、私よりもずっとわかりやすく、そして私よりもずっと穏当に(笑)表現されている。

「差別問題」の「欲望問題」への置き換えと同じことを、私は「理よりも利」と表現してきた。ここでいう「理」とは、たとえば第2章で言及されているフェミニズムのようなイデオロギーと考えていい。「利」とは欲望追及やその実現に他ならない。社会運動の動機とは、人が世の矛盾や非合理にぶつかったとき、その解決を目指すことであるはずだ。

しかし従来の反差別運動には致命的な問題点がある。それは、何らかの絶対的な「正義」を掲げてしまうということ。これは必然的に「自分が正義をにぎっているのだから、自分と意見を異にするものは悪である」という考え方になる。

フランス革命直後の恐怖政治やスターリニズムも、基本構造はこれと同じことだ。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、このようなあり方を「民意を問う手続きの欠如」と喝破した。

本書に寄せられた書評でいえば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という意見は、まさにその典型かと思う。このような考えは加藤氏のいう通り、必然的に「正義」と呼ばれる「超越的」基準を要請することになるが、ではその「超越的」基準を誰が定めるのかという問題が生じてしまう。

「差別問題」では、その「誰か」とは「弱者」であり、つまりは「弱者」の特権化という話になってしまう。しかしそれならば、反差別の主張において「平等」を唱えることは、なんと欺瞞にみちた行為であろうか。

しかもこのような問いの立て方では、結局のところ、誰が「正義」をにぎるにふさわしい特権者(=弱者)になるのかという問題が生じる。これもまた「調停不可能な利害対立」と考えるならば、最終的には弱肉強食だけをルールとする、パワーゲームを演じるよりほかない。恐怖政治やスターリニズムに粛正がつきものなのはこのためだ。

しかし私の考えでは、利害対立が調停不可能なものに見えてしまうのは、「超越的」基準としての「正義」を要請することに原因がある。

たとえば中世ヨーロッパではキリスト教道徳は「超越的」基準としての「正義」だったが、このキリスト教道徳という「正義」が支配していたからこそ、ゲイは社会と和解することが不可能だったのではないか。キリスト教道徳のみならず、カントの形而上学的道徳論や、その現代版の焼き直しともいえるロールズでも同じことだが、いずれも「民意を問う手続きの欠如」という欠陥を持つ以上、「正義」とは抑圧を正当化するための大義名分に、容易に転化する。

私の場合には最初からフェミニズムにはコミットできなかったので、伏見氏のような「転向」の経験もない。その理由をとりあえず3つ挙げておく。

まず差別の問題を考える以前から「理よりも利」という考え方を持っていたということ。これは私は司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』から学んだ。具体的には薩長連合の話である。

第一次長州征伐の際には、薩摩藩は幕府側についており、西郷隆盛などは幕軍の参謀だったから、長州は当然薩摩を憎悪する(それ以前に薩摩が会津と手を結んで長州を京から追い落としたという経緯もある)。薩摩は薩摩で「長州は毛利幕府を作るつもりではないか」という疑念があり、両者は政治的には調停不可能な対立関係にあった。この当時、誰もが「理」(政治的イデオロギー)の側面の状況から、薩長の同盟は不可能だと判断していた。

ところが第2次長州征伐を目前にして、坂本竜馬が薩摩名義で長州に武器を買ってやり、長州からは薩摩に米を送らせる。「理」を棚上げして、鉄砲や軍艦、米などが行ったり来たりしているうちに両者の感情が和らぎ、互いに手を結ぶことの「利」を悟るようになる。

一握りの頑固なイデオロギストを除けば、人々が「理」にしたがって行動するのは、それが自分の「利」につながっていると確信できる限りの話なのだ。

私がフェミニズムにコミットできなかった、2つ目の理由は、ゲイと違ってトランスジェンダーや性同一性障害が、性を変える存在だからだ。この場合、多くのフェミニストに見られる「男女対抗図式」は非常に困る。この図式にしたがって考えると、トランスジェンダーは敵対するカテゴリーの一方からもう一方への「寝返り者」という話になってしまうからだ。

それでも私のようなMTFならばまだ救いがある。「男=悪(ショッカー)」を裏切り、「女=善」の側について積極的に「フェミニズム=正義」にコミットすれば、ちょっとした仮面ライダーの気分を味わえるかも知れない(笑)。しかし、これではFTMはまったく立場がなかろう。そもそも「男女対抗図式」が性別についての真理だとは、今も昔もまったく実感できないのだ。

3つ目には、フェミニストが唱える「性差否定」にまったく賛成できないということだ。これにはさらに2つの理由があって、まず「差別」についての考え方である。確かに差別は差異を利用して行なわれるが、差異が差別の本質であるわけではない。もちろん、性差が性差別の本質であるわけでもない。したがって性差別をなくすために性差を否定しなければならないという主張には、まったく妥当性を感じない。

もうひとつは、そもそもトランスジェンダーや性同一性障害が、性差を前提とした「欲望」の問題であるということだ。たとえば性同一性障害の当事者が「私は男ではなく女だ」というとき、この発言は「男と女は違うものだ」ということを自明の前提としている。

したがって性別(それがセックスであれジェンダーであれ)の否定ないし相対化が、トランスジェンダーや性同一性障害の当事者にとって何の救いももたらさないことは明らかだ。そもそも根本的に前提が異なるからだ。性差の否定が、実は性差別の解消にとって必須ではないということに気がつけば、フェミニズムという「正義」にはまったく用がない。

では具体的に、「利」の側面からどのように性同一性障害の当事者とマジョリティーとの利害調停が可能なのか。当たり前の話だが、両者に共通する利害を見つければよいのである。

これまで、セクシャルマイノリティーは自身を説明するに当たって、自分(たち)がマジョリティーとどう異なるのかという点に力点を置いてきたように思う。私は逆に、一見して異なる両者の間に、性というものをどの程度に掘り下げて考えれば共通点が見つかるのかということを考えてきた。共通点である以上、マジョリティーもそれを手がかりにいて、セクシャルマイノリティーに共感することが可能なはずである。

ここで私の考察はいちいち書かないが、代わりに本書で伏見氏が挙げている例から一つ取り上げてみれば、「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって…」(P11)というのがそれに当たる。好みや性癖というものは、「こういう好みになろう」と思ってなるわけではない。それはセクシャルマイノリティも、いわゆるマジョリティとされている人達でも、同じことなのだ。「一見して特殊に見えるセクシャリティにもみなさんと同じ基本構造がありますよ」という指摘はきわめて重要なものだ。

これは前述の、「トランスジェンダーや性同一性障害が性差を前提としている」ということにもいえる。実は現在、保守派からのセクシャルマイノリティの差別はほとんどない(皆無とはいわないが)。しかし、それとは別に不幸な誤解が存在する。それは「セクシャルマイノリティはジェンダーフリーの賛同者だ」という誤解なのだ。保守派がセクシャルマイノリティを批判する場合、背景にはこの誤解がある。

なぜこんな誤解が生じたのかといえば、ジェンダーフリー教育で性の相対化をする際にセクシャルマイノリティを例に挙げることが多いということと、実際にジェンダーフリーにコミットするセクシャルマイノリティが存在するからだ。しかし、

・ゲイやトランスジェンダー等の多くのセクシャルマイノリティのカテゴリーが「性別二元制」を前提としていること

・ジェンダーフリーにコミットしているのがセクシャルマイノリティの中でもさらにラウドマイノリティーであること

などを冷静に説明すれば、この誤解はかなり解ける。現に私はこの説明で、保守系の有名オピニオン誌の編集者をはじめ、何人もの人々の説得に成功している。この場合は「性差否定」に反対することが互いの共通の利益になっているといってもよい。

他にこんな例もある。性同一性障害の当事者の、戸籍上の性別変更がまだ認められていなかったころ、その実現を目標としていた時の話だ。戸籍上の性別変更の実現は、「当事者にとっての利益の追及」という視点からのみ主張されることが多かった。これを、マジョリティとの共通利益の問題として立て直したのである。

戸籍上の性別変更が認められないと、身体は女性だが戸籍上は(したがって法的には)男性という人が増えつづける。そういう人が強姦の被害に遭っても、法的には強姦罪が成立しない(強制猥褻は成立するが)。では女性が強姦被害に遭ったとして、犯人が「女性ではなく性転換した男性だと思って襲ったのだ」と言い張ったらどうなるか。この供述では犯人には「強姦」の犯意はなかったことになるが、強姦罪には過失の処罰規定がない。したがってこの場合、強姦罪は成立せず、強制猥褻で立件するしかない。しかしこうしたことが度重なれば、やがて強姦罪は有名無実化してしまう。これは社会秩序の維持という点から、重大な問題ではなかろうか。

相手にもよるが、保守派であるほど社会秩序を重視するから、これは通用しやすい。「身体は女性だが戸籍上は男性」(あるいはその逆)という人間が増えると社会秩序や性の秩序が混乱するだろうから、身体と戸籍を合致させた方がよいのではありませんか、というのである。このようなプレゼンテーションによって、戸籍上の性別変更の実現は、単なる「当事者にとっての利益の追及」ではなく、「マジョリティとの共通利益の問題」になる。

これはおそらく「マイノリティとマジョリティの対立図式」を自明の前提としている人達には考えつかないだろう。

だが、マジョリティに向かって「私たちの考え方と、あなたたちの考え方は対立するものだ。我々の考えの方が正しく、あなたたちが間違っている」というのと、「これが私たちの希望でもあり、あなたたちの利益でもある」というのと、どちらが話が通りやすいか。

だから私は「理よりも利」というのである。社会運動それ自体が目的化しているような人たちは別にして、少なくとも問題の解決を目指すための活動なら、最終的に「利」が得られなければ何の意味もないからだ。

●フェミニズム批判について

保守派からのフェミニズム批判(ジェンダーフリー批判)が、「性差否定」や「過激な性教育」についての批判だというのは、本書で指摘されている通りではある。しかし、フェミニズム各派が華やかに(?)百家争鳴を演じていた80年代には、このような状況は存在しなかった。それはなぜか。

フェミニズムが何を考えようと、それが仲間内での妄想であったり、象牙の塔の中で現実から乖離した思想が叫んでいるぶんには、それはたいした問題ではない。後者は、大学の存在意義や「そもそも学問とは何か?」という観点からは問題なのだが、さしあたって人々の生活を直接に脅かすものではない。そうである限りは、これほど批判の声があがるわけがないのである。

問題は、男女共同参画社会基本法の成立以降、フェミニストが行政や教育などの分野に入り込んで、「性差否定」や「過激な性教育」を人々に押し付け始めたということにある。

もちろんフェミニズムの「中身」に賛同できないからこそ、保守派は批判の声をあげるのだ。それは間違いないのだが、本質的には、その賛同できない思想を「公権力によって人々に押し付ける行為」こそが、保守派によるフェミニズム批判の対象であるといってよい。

また、ジェンダーフリーが「性差否定」か否かということは本書でも取り上げられているが、私の記憶では、フェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といい始めたのは、およそ2000年前後から以降のことではなかったかと記憶している。「性差が性差別の原因なのだから性差をなくさなくてはならない」という主張は、それ以前には当たり前に存在していなかっただろうか?

2000年前後というのは「フェミニズムは性差を否定する」という批判の声があがり始めた時期と一致している。そこでフェミニストが「性差否定を目指しているのではない」といいだしたのは、「性差否定」が世の男女の大半から支持されないということを自覚しているからだろう。

ところが「性差否定を目指しているのではない」というのは、あくまでも表向きの発表に過ぎない。伏見氏が本書で、

>よく誤解されるのは、ジェンダーフリーだから男女の便所は同じでいいのとか、風呂もいっしょでいいのかと攻撃する人がいるのですが、それはフリーではなく、ジェンダーレスというんですね。(P109)

と引用しているように、現在では「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」という表現が好んで用いられる。

もっとも、この引用の直前には瀬地山角氏の名が挙がっているのだが、彼は伏見氏が引用したのとは別のところで、「トイレ一つとってもすごい装置、トイレを通じて私たちが男であるか女であるか確認させられる、問いつめられる装置なんだ、ということに思い至ってほしい。」という発言もしている(『人権尊重都市品川宣言10周年記念 男女平等推進フォーラム ハートフルしながわ2003《みんなちがってみんないい》』、2003年12月12日)。さて、トイレを暴力装置だというのはジェンダーフリーなのか。それとも瀬地山角氏はジェンダーレス論者だということでよいのだろうか?

それはさておき、実は「ジェンダーにとらわれない」ということは「ジェンダーレス」と同義なのである。

たとえば、男性でも女性でもよいが、誰かある人が自動車を買おうと思いついたとする。そのとき「オレは男だからトヨタを買う」とか「アタシは女だから日産を買うわ」という人は、まずいない。つまり、どの自動車メーカーを選ぶかということは、性別(それがセックスであれジェンダーであれ)とは無関係に選ぶ。こういう場合、メーカーの選択を「ジェンダー」とは呼ばないだろう。

これと同じように、「ジェンダーにとらわれない」とか「ジェンダーからの自由」ということを突き詰めれば、必然的にジェンダーはなくなる(ジェンダーレスになる)のである。なぜなら、ジェンダーはモノではなくコトだからだ。「ジェンダー」が人々から忘れられた状態でさびしくゴロンと転がっているということには、絶対にならない(笑)。

両者が同義である以上、「ジェンダーフリーとジェンダーレスの線引き」は無意味であろう。むしろ必要なことは、「ジェンダーフリー=ジェンダーレスが必要な領域」と、そうではない領域との線引きとを考えることだと思う。しかしそれには、まず「差別」について考える必要がある。

●「差別」について

「差別」とはさしあたり、「あるカテゴリーに不合理に劣位の価値付けをすることで、自分をそのカテゴリーに属する人よりも高位に置き、それによってアイデンティティ補償をすること」だといえる。つまり、確かに「差別」は差異を利用して行なわれるが、差異が「差別」の本質であるわけではない。

「差別」を考える上で重要なことは、「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」と、「差別の動機」なのである。

ここで重要なのが、近代社会の基本原理である「法の下の対等」と「機会の平等」だ。たとえば同じ交通違反をしたのに、男性は反則切符を切られ、女性は見逃してもらったということがあれば、これは誰でも不公平だと思うだろう。また国立大学を受験するのに、男性はセンター試験で700点以上、女性は800点以上をとらなければならないという決まりができたら、フェミニストでなくても「それはおかしい」と思うのではないだろうか。

さらにいえば、このような社会原則が存在しなければ、「差別」という概念が存在しない。江戸時代に商人の家の子に生まれても、「士農工商」を当然の社会秩序だと思っていたら、そこに「差別」という判断は生じようがない。

つまり「カテゴリーに対する合理・不合理の基準」ということでいえば、これは「法の下の対等」と「機会の平等」がどれだけ現実的に解決可能かという問題になる。

昔の婦人参政権運動などはその典型だろう。タテマエでは近代社会であるはずなのに、その実現が充分とはいい難いから(女性に参政権がないから)、それをなんとかしろというのは、必然的に生じた運動だったと思う。

ところが社会の原理を、まったく別の原理に立脚する「家庭」という領域に持ち込むと、おかしなことになる。家事を男女が半分ずつ行なわなければならないという「原理」は、今の日本の社会では共有されていない。それは個々の夫婦が、それぞれ話し合って決めればよいことであり、妻が家事を担当しようが、逆に夫が家事を担当しようが、それぞれの夫婦の自由であるはずだ。あるいは、どちらも家事を担当するが、妻は毎日料理を作り、ゴミ出しは夫が担当するというのでもよい。何から何まで男女が同じでなければならないという「正義」には、正当な理由がない。つまりそれは、この社会の「正義」ではない。

もう一つの「差別の動機」だが、これは前述の通り「アイデンティティ補償」である。つまり差別をする者は、何らかのアイデンティティ不安を抱えている。そのこと自体は気の毒な話ではあるが、しかしその解決を、不当な価値付けを用いて、他者を一方的に利用して行なうことは不当である。この「不当」ということは、「法の下の対等」とつながっており、「法の下の対等」とは「誰もが社会の成員として対等」ということを意味しているからだ。誰かが他者を、相手の人格を無視して一方的に「手段」として利用することが許されないということが、「差別」を不当だといえる、この社会での「根拠」になっている。

もっとも、私はこれも単純に善悪の問題とは考えない。むしろ美醜の問題ではないかと思うことがある。差別をする者は、アイデンティティ不安を感じていながら(そしてそれはしばしば劣等感でありながら)、それを打ち消すために一方的に他者を利用して、偉そうに振舞う。そういう行為は「悪」でもあるが、それ以上に「醜い」。もう少しくだけたいいかたをすれば、「差別」は「悪いこと」であると同時に「ダサい」ことでもある。

アイデンティティ不安を抱える者は、「差別」が悪いことだと頭では知っていても、それを容易にやめようとしない。それは罪悪感よりも、差別によるアイデンティティ補償から得られる快(エロス)のほうが大きいからだ。

逆にいえば、もし差別をすることによってはエロスが得られないとすれば、人は差別をすることが馬鹿々々しくなるだろう。つまり「差別」の動機を失うことになる。だから私は「差別」に対しては、道学者然として振舞うよりも、「ダセェ!!」と切り捨てるほうが効果的なのではないかと思っている(笑)。

●互いの良好な関係のために

ところが困ったことに、これでもセクシャルマイノリティの生き難さは、たぶん解決しない。なぜかというと、セクシャルマイノリティの生き難さの理由は、このような「差別」がすべてではないからだ。

「差別」と「偏見」は従来の反差別運動では混同されて語られてきたが、「偏見」は単なる認識の問題であり、アイデンティティ不安がなくても生じる。しかも私の考えでは、「偏見」は必ずしも責められるべきことではない。責めるというのは、相手に責任があって初めて可能になる行為だが、「偏見」の責任は必ずしも「偏見」の持ち主にあるとは限らないからだ。

一般の男女の在り様というのは、誰でも大まかにはわかる。ところがその程度の経験や知識では、セクシャルマイノリティを前にした場合、相手(セクシャルマイノリティ)についてどう判断したらよいのか、わからなくなる。セクシャルマイノリティと接する特別な理由でもない限り、相手を遠ざけるか、自分から遠ざかるかするのが最も手っ取り早くて無難な対処法だ。私は、このような対処法に対して「悪」のレッテルを貼り付け断罪する気にはなれない。誰だって、自分に可能な精一杯の判断で、自分の平安を守ろうとするものだ。

このような人々にとって、セクシャルマイノリティは判断不可能な存在であり、判断不可能であるがゆえに「不安」の源泉である。少なくとも互いにとって好ましい関係を作ることを目指すなら、このような場合に必要なのは、断罪や糾弾ではなく、相手の不安を取り除いてやることだ。

そのためには、セクシャルマイノリティは自分を説明する言葉を、できるだけ相手の腑に落ちるように鍛え上げる必要がある。したがってその説明は独善的なものであってはならず、またセクシャルマイノリティの特殊性ばかり強調するのも上手くない。この点で私が本書に感心したのは、

>ゲイも個人個人は男性文化の中で育ちますから、むかしは見られる側の感覚はそれほど強くなかった、というより見る立場、目としてしか存在していなかったかもしれません。(P126)

という表現だった。これは一般の男女の「見る/見られる」というセクシャリティの非対称性を前提とした説明になっている。しかもそれによって、男性ゲイの性質(むかしの)の表現に成功し、さらに考えれば、同じ「同性愛者」であってもレズビアンのありようはまた違うのだろうなということも想像がつく。

ただし私は、こうした説明の言葉を鍛え上げることを、セクシャルマイノリティだけに課された義務だといいたいのではない。第一、それではあまりにも効率が悪い。

それよりも、マジョリティとの言葉のキャッチボールの中で工夫されてゆくものだと思う。セクシャルマイノリティは、マジョリティ側の反応を見ながら、「この部分は上手く伝わったようだな」とか「これについての説明はもう少し工夫が必要だな」と判断し、さらに工夫を重ねてゆけばよいのだ。つまりは、マジョリティとの共同作業である。この場合にも、マイノリティとマジョリティの対立図式を前提とすることには、どのような「利」も期待できない。

●再びフェミニズム批判について

こうしてみれば、加藤秀一氏の「そもそも利害対立の調停など不可能である」という決め付けがいかに不毛なものかということもわかるはずだ。また、このような主張は「調停不可能」を強弁するために、リアリティのない現状認識を示すことにもつながる。

たとえばイダヒロユキ氏は、「過剰に典型的なモテ服に合わせようとすることをやめるということだ」と述べているが、やめたければ勝手にやめればいい(笑)。それともイダ氏は実際に「モテ服」の着用を強制されているのだろうか。それは具体的に、どこの誰によって強制されているというつもりなのか。「モテ服」を着る・着ないということは、エロス獲得のゲームの中で用いられる「手段」の一つに過ぎず、現状でも、その「手段」を選択するかしないかは、本人が勝手に決めればよいことだ。それどころか、エロス獲得のゲームそのものからおりてしまっても構わない。

>また「男らしさ追及しない、おしゃれ、明るい性格、性分業反対、異性愛、ボーイッシュ女性好き、セックスにあまり興味なし、非論理的で感情的な男性」などになっていくということだ。

とはどういうことなのか。そんな男性は今でも当たり前に存在するだろう。どこを見まわしても、けっして「生物的男性はすべて1種類の男性」であったりはしない。私は東京在住なので念のため、立命館には「1種類の男性」しかいないのか? とインターネットを介して立命館在学生に尋ねてみたら、「学内には色々な種類の男がいます。同時に同じぐらい女性もバリエーションに富んでいます。ウチは偏ったフェミニストが多くて困っています。」という答えが返ってきた(笑)。やっぱりね、そうだろね…。

「適切に人を男女だけでなく多様に見ていこうとする実践」をしていないのは、イダ氏の方ではないだろうか。

また、「性別二元制は永久不変ではない」という主張にも、まったくリアリティーがない。イダ氏が挙げている「インターセクシャル、トランスジェンダー、FTXのTG、トランスヴェスタイト」は、性別二元制をベースとした派生型に過ぎない。「サードジェンダー」という語も挙がっているが、男性性とも女性性とも無縁な「第3の性」というものを、私は実例としてはまったく知らない。ただそういう言葉(理念)が存在するに過ぎない。

また、時代も文化も異なる様々な世界の中で、性別はひとつ(つまり性別はない)という文化は存在しない。また「性別三元制」や「性別四元制」を当然と考えている例もない。それはなぜなのか。

逆に、「男/女」という概念は、「上/下」「左/右」「前/後」と同じく、普遍的に存在する。そして性愛の在りようにも、あるていどの幅をもって普遍性がある。

たとえばギリシャ神話には、ゼウスが浮気をし、その妻であるヘラが嫉妬するという話がいくつも出てくる。ギリシャ神話は、現代の日本に住む私達から見れば時代も文化も異なる世界の物語であるにも関わらず、私たちがこの図式を理解するために、何か特別な説明を要するということはない。文化人類学などの助けを借りなくても、ギリシャ神話の中で語られる様々な性愛のありようは、小学生でも容易に了解することができることを、私たちは「知っている」のだ。

フェミニズムでは、誰でも「知っている」この事実を、つまり「性別二元制」や性愛の在りようが持つ普遍性を、まったく説明できない。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、小浜逸郎氏が説明している(P111)。ただ、伏見氏はそれを「生物学的な基盤」とか「生物学的な要因」と理解しているようだが、私の考えでは、そこが違う。小浜氏はいわゆる「本質主義」を唱えているわけではなく、基盤になっているのは「物質としての身体」「客観存在としての身体」ではなくて、「身体観」だと考えた方がよいと思う。

たとえば、健常者である私には腕が二本ある。「私には腕がない」あるいは「私には腕が三本ある」と思い込もうとしても、やはり私の腕は二本にしか見えない。視覚だけでなく触って確かめても、やはりそうとしか思えない。

これは簡単な例だが、「身体観」は一種の概念ではあっても、考え方しだいでどうにでも変えられるというものではない。「どうしてもこうとしか思えない」という種類の認識を含んでいる。

「性別二元制」や性愛がもつ普遍性の根拠は、このような「身体観」に基づく身体性が、時代や文化の違いを越えて人類に共有されているという点にある。

それゆえ、小浜氏の説明と、伏見氏の「しかし、厳密にいえば、性別は身体によって成立しているというよりは、社会の規範によって区分されている。つまりジェンダーだと言うことになる。」(P110)という見解とは、矛盾しない。ただ伏見氏がここでいう「社会の規範」が、「身体観」の共通性によって生じ支えられていると考えればよいのである。

もし仮に、人々がみな自分の身体について「どうしてもアメーバのようなものとしか思えない」という「身体観」を共有しているとすれば、「男/女」という概念はその普遍性どころか、概念そのものが生じなかったに違いない。「上/下」はともかく、「左/右」や「前/後」という概念を持つこともなかったかもしれない。

これはセクシャルマイノリティでも例外ではない。たとえばMTFの性同一性障害の当事者であれば、乳房や女性器を自らの身体の一部として、自分が見ても他者が見ても「どうしてもこうとしか思えない」という形で欲する。性転換手術を受けたいと願う欲望とは、つまりそういうことなのだ。ここにはフェミニストが耽溺するような「理念の戯れ」が入り込む余地はない。

【プロフィール】
じんなりゅうこ●1964年東京生まれ、トランスジェンダー当事者の立場から性の問題に取り組み、インターネット上で随時発表を続けている。

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