第15回セミナー
「誰がためにPDFの鐘は鳴るやと
電子文書の夜明けを待つ者へ」
報告集



はじめに

一九九九年七月十三日、飯田橋シニアワークス東京にて、「日本語の文字と組版を考える会」第十五回公開セミナーが開催された。「誰がためにPDFの鐘は鳴るやと――電子文書の夜明けを待つ者へ」Acrobat PDF、電子文書の可能性をテーマに取り上げた。
司会進行は世話人・萩野生政。第一部として、発売間もないAdobe Acrobat 4.0で加わった新機能を中心技術解説をMac版、Windouws版のそれぞれについて、およその概要を紹介した後、第二部の本題に入る。テーマと講師はそれぞれ、「PDFの可能性と突きつけられる問題点」井上務(PDFイニシアティブジャパン)、「思考を固定する作業の中で――PDFが出版にもたらす意味」植村 八潮(東京電機大学出版局)の各氏にお話を伺った後、第三部に会場の参加者も交えて、恒例のパネル・ディスカッションを行う。
果たして、この新奇な技術にどのような興味・関心が寄せられたであろうか。セミナー当日配布したレジュメはPDFの実効性を確かめるため、実際に最終出力までの全行程をAdobe AcrobatとPDFを受け皿として進行された。そして、かねてからの問題として意識されていた「ワークフロー」の壁がここにも立ちはだかっていた。現実にもたらされているジレンマを技術革新の中にこのままひきずっていくのだろうか。
この際、それぞれがそれぞれの立場で感じている問題意識を再検討してみたい。そしてこの新しい技術を利用することによって、これまでの枠組みを再編成することは可能になるのかもしれない。
時間内におさまりきれず、その続きは例によって、二次会に持ち越されたあげく、過去最高の三次会出席者数を記録したのだった。


第一部
フォント作成の実際〜フォント埋め込みを中心に

■司会 DTP作業をする上でフォントとかアプリケーションのバージョンにいろいろな制約を感じてはいませんか。フォントの問題であるとかアプリケーション、どんなアプリケーションを使っていないと出力できる/できないということ。その中でPDFが印刷に使えるようになったらクリアできることがあることを期待できるかもしれない。そこで核になる技術はPDFファイルへの日本語フォントのエンベットです。フォントの埋め込みですね。一九九九年六月一八日にAdobe Acrobat 4.0J 、Acrobat4.0の日本語版が出まして、ついにPDFファイルに日本語フォントがエンベットできるという環境が、現在、実現しています。
雑誌などでかなり取り上げられていますから、基本的なおさらいとして、日本語フォントのエンベットの部分に特に特化した、オペレーションをお見せします。次に井上務さんからPDFについて、その問題点、また、どんな利点があるのか伺うことにします。
そして、東京電機大学出版局の編集者である植村八潮さんは、PDF関係の本などを積極的に出版なさっておられますが、その経験を通じ、感じておられることを聴かせていただきます。
その後、みなさんと少しお話をしていきたいと思います。

まず、はじめにAdobeAcrobat4.0 の新機能紹介、PDF作成の基本操作、出力の実際などを担当世話人の萩野が[Macintosh編]、助っ人の瀬之口氏は[Windows編]について、それぞれデモンストレーションを行います。
(デモンストレーション・略。なお、PDF作成の実際についてまとめた実用TIPS集を当日、会場にて配布した。)

■萩野 それでは後半戦に入りたいと思います。井上さんに今回、僕がお話をお願いしたのは、Acrobatの3.0が二年ほど前に出た時に、私はフォントのエンベットができないということで、すごくPDFに対してがっかりしていたんですね。まったくこんなことになっちゃってと思っていたんですが、そんな時に井上さんのお話に出会って、今はこうだけど将来はというところに少し興味が持てるようになりました。井上さんのお話を聞いて何かまたみなさんの方も、「イッチョやってみるか」というような気分になるところが一つでも二つでもあればと思って、今回、お話をお願いしました。では、井上さん、お願いします。


第二部
1●PDFの可能性と突きつけられる問題点


●井上務

これからわれわれがコンピュータとずっと関わっていかなくてはならない中で、PDFというのは非常に大きなウエイトを占めていくと思います。今日の私のセミナーは、PDFというのをどうとらえ、考えたらいいのか。問題点をどのように定義できるか、いろいろな側面からPDFのご紹介をしたいと思っております。
はじめに紙ありき PDF、あるいはデジタル・ドキュメントと言ってもいいと思います。電子文書というものを今後、われわれはどのように考えていけばいいのでしょう。書籍や雑誌に限らず、いろいろな媒体、さまざまな形態のものがありますね。しかし、紙というものを本当に十分に理解しなければ、次の世代、次のステップには行けないと思うんです。
それらの果たした社会的な存在意義は、これはもう揺るぎがない。
いま、われわれはこういう豊かな生活をしている。これまで豊かな生活をしてきたのも、紙のお陰です。誰かが考えたことを紙の上に記しておく。記述されたものを、それを誰かがまた読む。あるいはコピーや書き写されて、複数の人間の手に渡って読みつがれていく。それだけでなく、さらなる検証や実験の試みによる成果が、重ねて新しい記述としてつけ加えられていく。そして発展させていく。そのような情報を伝達するメディアとして、この何百年の間、紙に拠ってきました。話し言葉によって伝えられるもの、確かにそれは伝承としてはあるかもしれませんが、いい悪いは別として、紙に書かれてきたものに譲らざるを得ない。かつての全ての情報は紙に集積されて、私達の生活を豊かにしてきたといえるのではありませんか。
やはり情報の主流は紙が司っています。雑誌、新聞…… コンピュータが急速に発達してきてはいても、現時点ではまだまだ紙が主流です。みなさんパソコンをお使いになると思いますが、紙にプリントアウトして確認するという作業をしますよね。なんだかんだ言っても、コンピュータの上でも、紙に出力することを念頭に置いていなければ、セキュリティの問題も含めて、やっぱりこわいという現状があります。これだけ紙に――私は呪縛と呼んでいますけれども――縛られた生活をしているのは事実です。
紙の上のデータ、アメリカでは約九割。これはオフィスユースも含めて印刷物になるものの頻度、割合なのですが、約九割がPostScriptになって印刷をされるといわれています。正確な数字の統計はありませんが、日本は、多分、四割とか五割ぐらい、もっと少ないといわれています。

PDFとPostScript 現在、私どもの生活の中で紙の上に刷りたいもの、われわれが持っている英知とか、あるいはデザイン、美術的なものとか、動くものは別にしても紙の上にのせようとしているものは、ほぼ一〇〇パーセント、PostScriptという電子的な情報で表現可能になりました。これはここ三年ぐらいのことです。PDFは、このPostScriptという技術をそのままの状態で持つことができます。これは新しいAdobe Acrobat4.0、PDFver.1.3で、PostScriptの表現力全てを兼ね備えることができるようになりました。
PDFは非常に柔軟性があるものです。例えば、ページ一ページずつをばらばらに切り離すこともできます。あるいは、ドキュメント中のイラストの部分だけを取ってくることもできますし、プログラミングができれば、何が入っているか中を読んで、それを取り外したり、付け加えたりということもできますし、さらにセキュリティをかけて読めないようにすることも可能です。
そういった意味で柔軟性も、拡張性もあります。そのフォーマットは公開されています。Adobeのホームページに、何百ページもあるような技術情報の記載された、英文の仕様書があります。
それに加えて、PDFのいいところは、何といっても見る分にはただということです。閲覧したり、プリントアウトもできる。下手すると印刷においても、AcrobatReaderさえあれば。基本的にはこれで足りてしまいます。さらも、これは世界標準だということです。レイアウトされた文書において標準ということです。
表現力という意味において、印刷物クオリティの表現もできますが、それだけでなく、サイズもファイルフォーマットも何もバラバラな不統一な状態のさまざまなものを束ね、まとめることができるのです。ワープロ文書やCADの図面やExcelの作表、グラフィックなイラストなどが混在していようとも、一連のたった一つのファイルにまとめあげて画面表示をしてみせたり、こういった制限されない自由なやりとりは、もうPDFしかできませんし、それは、印刷物自体でもあるのです。それを電子的な形でやりとりすることができるうえ、さらにデータベースとしても使えてしまう。

紙=情報の器=PDF 先ほどはじめに、紙の話をしました。紙は偉大です。「紙様」は人類発展の要であったわけです。物理的にも、紙は情報の器でありますが、もうひとつ、表示装置だということがよくいわれます。ペラペラペラとめくるだけで情報を見ることができますが、一枚一枚が高精細な表示装置だと言えます。これはコンピュータではなかなかそうはいきません。
問題は情報の器です。この「情報」、この部分だけ人類はやっと、フルデジタルにできるところまで到達したわけです。そして、PDFが出てきます。PDFは紙に置き換わる、紙の情報と等価です。紙の上にのって刷られている、手書きで書かれている情報が置き換えられ、完全に置き換えの可能な唯一のデジタル技術、これに異論のある方は私と後で対決をしていただきたいと思うんですけど。
それで、印刷技術を継承することと、もう一つは紙にはできないマルチメディア性を紙の情報にも付加することができること。ビデオの表示、音声出力など。そして今度のAcrobat4.0からはメニューをコントロールすることができます。ですから、PDFの上にボタンを付けて、それをクリックするとAcrobat自体が終了してしまうというようなことも非常に簡単になります。ファイルを開いたり閉じたりもすぐにできる。
そして、これは重要なことだと思うのですが、いつでも紙に戻すことができるのです。ほかのシステムではデータベース化したものをまた紙に戻すということはなかなか大変なわけですが、PDFの場合はまた紙に戻して、また同じように日常生活を紙で過ごすということが、極論ですけれども、できる。いつでも紙に戻せてしまう。核戦争が起こり、なんだかんだいろんなことが起こって、人類はコンピュータを使えなくなった。人類はコンピュータの上で仕事はしていましたが、また紙の時代に戻る。逆行するというようなこともPDFならできます。
ここに、デジタルな世界があるとしましょう。そして紙の時代の世界があったとすると、その真ん中あたりに位置する、橋渡し、架け橋というようにPDFをとらえることもできるのではないでしょうか。ですから、PDFは紙と分離してはいないんです。紙と異質ではないととらえていただきたい。

コンピュータの中の文字表現 電子メールを読まれた時、メールをお使いの時などに、化けちゃうという体験をしたことはありませんか。特にMacintoshを使っている方にWindowsから送られてきたメールで、Windowsの方では@ABとやっているのですが、Macintoshで(月)(火)(水)になってしまっていることがあります。
コンピュータの中での文字表現ですが、コンピュータ自体はあくまでも数字の羅列で認識しています。それは、0101011とかであらわされる、0と1との組み合わせで全てが表現されています。そこではコンピュータは、グリフといわれているような文字の形を識別しているわけではありませんので、基本的に字形については何も理解していないのです。あくまでも数字が主であり、その数字と結びついて表示装置としての役割をはたすもの、それは、ビットマップやアウトラインとさまざまなのですが、とにかく、結びつけられている、それに対応するものを、画面にうつし出すというだけのことです。
けれども同じ数字の組み合わせであっても、フォントを置き換えることによって指し示す表示が変わってしまうというケースがあるわけです。これを通常「文字化け」といいます。
文字化けの話でややこしいのは、ただフォントの設定だけでなく、同じフォントを使っていても、同じ名前のフォントなんだけど年代によって字形が変わってしまったり、あるいはその文字がなくなったり別の場所に移動してしまったり、さらにややこしいこともおこります。
コンピュータというのは文字の形。字形自体を認識して区別しているのではありません。2byteの数字の羅列、組み合わせによる信号が流れてくるだけです。これはOSによっても、それから下手するとアプリケーションによっても、変わってきます。Microsoftは急速に成長していらっしゃいまして、昨日か一昨日の朝日新聞の夕刊でもお金持ちだねという話が出ておりました。本当にMicrosoftが今のWindows 2000とか、これから出てまいりますが、それらのOSが五年後に使われているかどうかというのはわかりません。誰もそれは断言することはできないでしょう。そこで、OSがなくなってしまったとしたら、今、つくっている文書は開けないかもしれないし、開くことはできたとしても、読むことができなければ、ちゃんと再現できなければどうにもなりません。エンコーディングがちゃんとなされていないデータでは、対応するフォント、字形、グリフを表示できない可能性があります。

日本語PDFはフォントが命 これはフォントというかグリフといいましょうか。要はフォントですね。フォントデータの埋め込みが非常に重要な鍵を握っているということです。
例をあげますと、今昔文字鏡というのがあります。ご存じだと思いますが、あれは東大などがつくっているGT明朝とか――できる、できないは別にして――技術的にはどんな外字がこようが、どのようなエンコーディングが将来、採用されようとも、JISの第三水準、第四水準が入ってこようと、新しいフォントの規格がこようが、ユニコードのまったく違った新しいバージョンが出てこようが、それに対応するフォントがあり、そのフォントが埋め込むことができれば、そのファイル自体持っている情報の中に、PDFファイルそのものの中にそのフォント情報を持たせることも可能です。ですからPDFファイルさえあれば、百年、千年の後にでも、そのファイル情報だけで文書を一〇〇パーセント再現することも可能である上に、印刷をすることができるということになります。
今までに、フラッシュというフォーマットなんかがマクロメディアなんかでありますけれども、そういうものには文字のエンベットができますが、基本的に印刷クォリティのものを再現できるデジタル文書形式で、なおかつ文字データを組み込めて、五年先、十年先になったところで、OSが変わろうとも、どんなフォントがこようとも、フォントさえ変えればどんな形だって表現できちゃうわけですよね、正直申し上げて。
加えて、これは検索もできます。当然、エンコーディングというのはどういう数字の組み合わせが、どういう文字をあらわしているかが、明確であるわけですから、異体字でも、変体がなでも、それでもって検索のできる仕組みさえ整えてあげることができれば、検索も文字の再利用も可能です。コピー&ペーストして文字を再利用することができる。これを全部、PDFの中で実現できるというのがすごいところです。
直接関係がないかもしれませんが、これも覚えておいていただきたいのですが、今、Office 2000といわれるアプリケーションが出ていますよね。XMLをはき出して、HTMLでWord、Excel、PowerPoint間で文書の交換ができますといわれています。それでPDFとよく比較されるんです。なんだ、PDFというのはと、HTMLをご存じの方だと思われるような方が、PDFとHTMLの比較を私にしてくれというようなお話をされますが、そういう方に限ってHTMLをよくご存じでなかったりします、残念ながら。電子文書とはどういう性質を備えておくべきかという話をそういう方とすると、どうもすれ違いを起こしてしまいます。
基本的にHTMLとPDFいうのは同じではありません。次元が違うと言った方がいいと思います。実際に、SGMLも含め、いろいろなところで利用はされていますが、大成功は収めていないですね。今度出てくるOfficeも、Wordとかそういったものの中で文書をやりとりする分には非常に都合がいいです。ただし、最終出力はPDFになってしまうでしょう。それしか方法がありません。
なぜかというと、いちばんの問題点は、先ほど申し上げたエンコーディングの問題、HTMLもエンコーディングの記述をすることはできますが、細かな記述はできません。八三年だ九〇年だ、NECがどうのという記述はできませんね。そのためには大変な作業が必要になります。そういうことをやっていると、もう互換性がないHTMLというか、互換性をとるためにはDTDを一所懸命、首っ引きで解析しなければならないようなややこしい世界になってしまうといえます。

DTPなくしてPDFなし 最後に、PDFというのを考えるに当たっては、ベースとしてのDTPの知識なくしてはできません。やっぱりDTPが根っこにあるのです。ちゃんとしたPDFをつくりたいのならば、やはりアプリケーション個々の使い方をわかっていないとできません。フォントの問題などは特にそうだと思います。
そして、これからはPDFの場合、OS環境にあまり依存しませんので、Windows、あるいはMacintosh、Unix、そういったさまざまなフォーマット間でPDFをどんどんつくるということになりますので、それぞれのアプリケーション特性と同時にOSレベルでの扱い方を知る必要も生じてきます。
これまでの紙でつくってきたものは棚なんかに無造作に置いてあるわけです。そうすると、それはリアルな世界ですから、それを持ってきて見れば、これはどこに何があるかなんていうのは見られるわけです。ところが大きな企業さんなんかでは三年とか五年ぐらいで人がごろごろ代わっちゃいますよね。これからはサーバーの方にコンピュータでつくられたそういう電子文書は入れるということになるわけですね。そして、紙は残さないということになるわけです。実際の紙があれば、これは何のための資料というのは見ればわかるのですが、サーバーにそういった資料がどんどんたまっていくとなると、PDFの管理をするためのまた管理が必要になってきます。例えば、いつ、誰が、何のために、どんなファイルをつくってきたかというような整理をするわけです。ところが、それが五年経ち、十年経ちとなると、管理の方法も当初とは変わってきますし、その都度それらをつくってきた人も、どんどんいなくなりますから、たまっていく一方であっても大切な文書がありますから、捨てるに捨てられないという問題も出てきます。その解決のためにデータベースの全文検索、超高速全文検索というものが非常に注目されています。PDFも全文検索の対象になっております。いちばん有名なのはSherlockです。MacOSで使えるSherlock、文字を全部、抽出して、瞬時にそのファイルをパッと探してきて見せてくれる。こういった知識もこれからは必要になってくると思います。
みなさんDTPで一所懸命ものをつくっていらっしゃいますから、さらにこれからPDFをフィルム代わり、版代わりに使われていくのでしょう。すでにどんどんと、蓄積され、たまってきています。管理のためのファイルサーバーが自宅でも必要になってくる可能性があります。その時にファイルを探し出すために、どうしてもデータベースが必要ですが、その時点で、もうたくさんあって整理できない。同じものがたくさんあれば整理もしやすいのですが、様々なケースがある。そういう場合は、先ほど申し上げた全文検索に投げ込んでおけば、キーワードを入れるだけで必要な文書がパッパッパッと出てくる。あっ、これだこれだということで、これからわれわれはPDFと同時にデータベースにも関わっていかなくては、全文検索にも関わっていかなければなりません。

技術の新たにもたらすもの 最後にちょっとだけ、このビデオは実は英語版の3.0のAcrobatに入っていたムービーです。英語版ですので、当然、英語なんですけれども、ちょっと聞いていただきたいと思います。すぐ終わります。
ということです。このビデオは、要はアメリカの方のボランティアの団体が、目の見えない方に本を読んであげたり、リーディングですよね、あるいはラベルを読んであげたりとか、標識をやったりとか、そういったものの宣伝をしているのです。ver.1とかver.2の時代からその話は実はあるんですけれども、要はPDFファイルというのは、今、アメリカなどでは印刷業界、出版業界ではほとんどがもうDTPでつくられていまして、PostScriptで本とか雑誌とか新聞がつくられます。ですから、もう仕上がった段階ですぐにPDFができちゃうんです。PDFの中にはアーティクルという機能がありまして、どの順番で読むか、画面に表示をするかという、画面をクリックするだけでその目的の部分を画面に表示をしてくれます。そういうアーティクルという機能を設定しさえすれば、黙っていても画面が出てきて、読む順番を画面に表示をしてくれます。
その設定をするとどういうふうになるかというと、音声合成装置を使って本を読んでくれるんですね。雑誌だとか新聞だとかが版がもう解版したと同時にそれが目の見えない方が読むことができるという、バリアフリーですよね。アメリカのAdobeの研究所の中には目の見えない方なども実際にいらっしゃっていて、そういう活動をしていらっしゃる方がいらっしゃるそうなんです。それでこういうCDにこういうビデオが載っているという話を聞くと、うん、なるほどなと、やっぱりすごいなと。そういう単に日常生活、われわれが飯を食うためだけにDTPをやっていて印刷物をつくったりしているわけですね。電子化だ、電子化だ、よけいなことを言うんじゃねえということもあるかもしれませんが、そういった違った側面も実はあるのかなというふうに感じた次第なわけです。
すみません、今日はどうも、ありがとうございました。
続いては、東京電機大学出版でいろいろな本をつくる、編集者として活動されています植村八潮さんからお話をいただきたいと思います。植村さんのところからは、最近、PDFとかPostScriptのいい本が続けざまに出ていまして、お持ちになっている方も多いかと思います。PostScriptの何か本を読んだりするとPDFもおもしろくなってくる部分もありますので、参考になさるといいでしょう。今日はどんな話をするか僕は聞いてないので楽しみです。では、植村さんです。お願いします。

第二部
2●思考を固定する作業の中で〜PDFが出版にもたらす意味


●植村八潮
はじめにわれわれの出版活動というのはどういうことなのか。それは一つだけではなく、いろんなとらえ方があるのでしょうが、敢えて、一つのとらえ方から話をしてみたいと思います。
時間と空間の制約 私は編集者です。編集しているのは基本的に理工系の専門書といわれる、売れない少部数の本なのですが、好き好んで売れないわけではなく、うんとたくさん売ってみたいとは思うんですが、基本的に扱っている題材で少部数にならざるを得ないという本を多く扱ってきています。それで二十年近くやってきています。本を出すというのは、何らかの自分なりの思想とか意思とか哲学とか――そんな難しいことばかりではありませんが――何らかの考えをみなさんにお伝えしようとするわけですね。人というのは基本的に他者に対して自分の考えですとか思想を伝えようという表現欲求を持っていると思います、ベーシックな部分で。
私がここでしゃべることには、とりもなおさず一つの限界もしくは二つの限界というものがあるのです。つまり、私は目の前にいるみなさんに向かって、いま、ここで話す。二百何十人という方がいらっしゃるかもしれませんが、マイクを使って、東京ドームを借り切って、同時に使ったとしても、一万ちょっと、せいぜい二万か三万か、そういう人間にしか話すことはできませんね。ですから、少なくともこの場にいる人しか、いま、目の前にいて、同じ空間を共有する人だけにしか私の話したことは伝えられない、というのが一つ。空間的な制約というものがあるわけですよね。
もう一つは、時間的な制約があります。つまり明日になってしまえば、もう私の話は、あいつがどんなトンマなことを言ったかどうかも含めて、わからないことです。もちろん伝聞という形があるかもしれませんが、少なくとも私が言ったということをここで伝えることのできる人は、この時間と空間の制約の中にいる人達にしか伝えることができないということが、基本的な、この話すというコミュニケーションです。
例えば人が持っている「思想・思考」と言いましたけれど、先ほど井上さんは、そこで「英知」という言葉を使いました。けれど、そういったものを、今、他者というところにやろうとすると、言語と多少の身振り――というか、身振りというのも重要なコミュニケーションだと思うのですが――そういったもので伝えることで目の前にいる人にしか伝えられないとも書いたのですが、先ほど井上さんは紙に記録するということがいかにすごいことかと話されました。紙に記録するということは、つまり、この時間と空間との制約というものを取り払ってしまうわけです。つまりここにいない人にも、しかも、明日にでも伝えることができ、とりあえず、なんらかの形にして北海道だとか別のところにでも紙に記録して届けることができるようになる。これが井上さんのおっしゃった紙の重要性だと思います。

制約からの解放 紙に記録することによって広汎に伝えることが可能になります。つまり時間と空間の上での制約から解放されるのですが、そうすると解放される一方で、逆に「新たなる制約」という縛りができてしまいます。それは何かというと、思想なり、考えなりを一つの紙の世界の中に閉じ込めなくてはいけない。一つの世界を切り出して、つまり、パッケージにして、紙の中へ、例えば一枚の紙に書くのなら一枚の紙という枠の中に収めるわけですよね。それは一冊の本であるかもしれない。一冊の本という枠組みの中に、完結した世界を築きあげること。特に出版というのは一冊の本で――このへんが例えば雑誌なんかで各ページごとの特集の原稿を書くのと違うと思っているのは、基本的には一人でも複数でもいいのですが――著者といわれる人が一つの本の中での完結した世界、それがあるというのが書籍だと、僕は思うんですね。
完結した書籍の形式で本にして渡すということは、逆に言うと、「解釈をゆだねる」と書きましたが、つまり読み手の解釈というふうになるわけですよね。著者としてこういうことを伝えたいんだよというのですが、読み手が実は著者以上の素晴らしい読み込みをして、駄作と思った作品が見直しがあって名作になるなんて話がよくありますけど、つまり読み手側がどうとるかということを、著者として最大限、伝わるように書く。
私がよくやっている、特に理工学書とか学術書という教科書は、どちらかというと事実とか理論をわかりやすく書こうとか、そういうことが主体ですから、なるだけ誤解のないように書こうというのがわりと多いんです。つまり、よく作家に「どういうことを書いたんですか?」と聞くのがいかにナンセンスかというのは、「作家というのはひとことで言えないから三〇〇ページも四〇〇ページも費やして言いたいことを書いたんだよ」という言い方をよくしますよね。そうだとしても、書き手というのは、それでも一つの本の中に、なるだけ読み手に私の伝えたいことを伝えたいということで一つの世界の中に書きあげる。つまりその時に、やはり文字と画像という、画像というか絵とか図柄とか写真もありますけど、基本的には文字をベースにした部分の中で本という形の中に閉じ込めなくてはいけない。それが、逆に言うと新たな制約というのか、作家、いや書き手というか著者なんかの技量というものが伴ってきます。
私ども編集者は、じゃあ著者とどういう関係になるかというと、そもそもの本来のコンテンツというのは著者が持っているわけです。けれど、それが例えば単なる、データで考えるとテキストデータとかプレーンテキスト――という考え方でいいかもしれませんけど――それしかやってこない時に、実を言うとここで、ここにいる会場の多くのみなさん方の協力関係にもなるわけですけれど、例えば印刷関係とかデザイナーとか組版とかをやる人達との、いかにそれをわかりやすく紙面の中にまとめることができるか。つまり、だいたいこの「日本語の文字と組版を考える会」でずっと討議されてきている、「組版とはなんぞや」。それなんですが。やはり僕から見ると、いちばん誤解のないように読みやすくて、逆に言えば組版なんてことは感じられないくらい意識せずにいて、読みやすい組版がいちばんいいと僕は思うんですが、そういう形に実は英知を傾けて仕上げると。つまり著者からいただいたものをなるたけ読み手に、この場にいない読み手にとってちゃんと伝えることのために編集者という役割が一つある。あるいは編集者が例えばデザイナーとか組版をするそういう方達と協力しあって一つの本という形にそれをつくりあげていっているんだと思うんです。

固定化のもたらしたこと 紙に記録することによって、著者の思想・思考を広く流通させることが可能になりました。しかし、それに加えもう一つ、もう一つの制約があるのです。
「常に変化し続ける著者の思考・思考をその時点で止める」という言い方がいいかどうかはわかりません。わかりませんけれど、その思考を固定化する。これは編集者の役目として重要な役目だと、編集、もしくは出版に関わる全ての人にとっての重要な役目だというふうにも僕は思っています。
というのも、やっぱり著者というのは常に考えは変わって動き続けて、新しくなってもくるわけです。ともすれば書かないわけですね。例えば私が井上さんに原稿を督促するというかお願いする。井上さんに、特にPDFがそんなに素晴らしいのなら、世の人達にPDFの素晴らしさとか今後の可能性とか、べつにAdobeの立場ではなく、PDFというのは今後、われわれの世界にどうやって、生活環境にどういうふうに影響を及ぼすのか、そういうことを広めるための本を書きましょうと頼んだとします。ところが、PDFのバージョンも上がる。Acrobatのバージョンもまた上がる。決してマニュアル本を書こうとしなくても、著者の思想というのはどんどんどんどん、毎日毎日、ある意味で変化し続けている。井上さんはさっき、「二年変わらないことを言っている」とおっしゃっていましたが、そんなことはなく、井上さんの考えはどんどんどんどん変わってきているのです。そうすると、いつの時点で固定化するのか。逆に言うと著者というのは固定化することをも結構、恐れるのですから、一回、書いちゃったら「いやあ、本当はこういうことも言いたかったんだよね」という常にそことの駆け引きにもなってしまうわけですね、編集者は。だから、頼んでおけば、そのまま原稿が出てくるなんていったら、編集者はこんなに楽な商売はないですが、だいたいそういうことはありませんね。
で、二年経っても原稿が出てきませんから、「じゃあ井上さん、今度の時点でこうしましょうか」と。そういえば井上さん、どこかにいますか? 廊下にいるのかな。いないのなら言いやすいですが、実を言うと、僕はそれで二年前から井上さんに原稿を頼んでいますが、未だにもらっていないわけです。あっ、そこにいましたね。今日はなんだか公開原稿督促のようになってますが、ではいつの時点でやろうかと、またもう一回練り直して、タイミングとかいろいろはかりながら、この時点で原稿を固定化しましょうと。つまり、著者がずっと常に常に変化し新しくなり続けるところに対し、編集者としては固定化する意味をやはりお伝えするしかないんです。固定化するためにはその期間、半年とか一年間とか、自分の考えというものをある程度、止め続けて、やっぱり本の中に凝縮しなくてはいけない。編集者はそことのやり取りの中で、一回、固定化する。もちろんわれわれ、特に理工学書というのは改訂版をよくやるので、じゃあ先々経ったら改定しましょう、こういった本もそういう意味では次のバージョンの時に改定しましょうとそういうことがあるのですが、一回、この形で世にパッケージとして外に出るわけです。
この本の絡みで言うと、実を言うとこれの原著というのがトーマス・マーツさん、一応、彼は英語読みで書いてほしいと言われたのでトーマス・マーツというふうに表記したのですが、ドイツの方ですが、欧米における井上務というか、訳者で言うと広田健一郎というか、まあ、この世界ではたいへん有名な方ですが、この人の本というのは実はPostScriptのLevel2なんですね。幸いにして私のところに翻訳権が手に入った時に何をしたかというと、もうこれはPostScript3のタイミングで世に出そうと、そう思ったわけです。
ところが原著の改訂が進んでない時に訳者の広田さんと仕組んで、トーマス・マーツさん自身に、要するに改訂を依頼するわけです。まさに動き続ける中での固定化するタイミングを日本語版だけ後ろにずらしたんですね。これはシュプリンガーから英語版が出ていますが、ドイツ版もシュプリンガーですけれど、ドイツ語版が出る前に日本語版として実はPostScriptの本としてはほとんど全面改定というくらい中身が違っています。目次を見ていただくとわかりますが、そういう形で世に送り出せたということです。
同じことをこの本でもやっています。『Web Publish with Acrobat PDF』という原著のタイトルなんですが、これはAcrobatの3です。もちろん英語版です。この場合はもちろん、エンベットということが書かれているのですが、当然、4でなったことと、WebCapture とか――このあたりはWindows版ですが――そういった新しい機能を持ち込んで、欧米の方でAcrobat4.0のベータ版が出た段階で、原稿をやっぱり全部見直していただいて、それを翻訳を終えておくというか、終えておくというのはつまりベータ版が出る前に終えておいたのですが、ベータ版のタイミングでトーマス・マーツさんに全面的に入れ直してもらって、なおかつそれを日本語版のベータ版が出た段階で日本語の、つまりAdobeとの言葉の統一ですとか、画面を入れ替えるという作業をして世に出した。これは広田さんが日本語版ということで世に出した形で、やはりこちらでも、われわれも固定化するタイミングというのを見計らいながら世に出すわけです。
このような作業をしてみると常々思うのですが、特に理工学書をやっていたりすると、すごくベーシックな理論は変わらないのですが、どうしても改訂しなくてはならない部分が出てきたりする時に、じゃあそれはいつのタイミングで出したらいいんだろうかということがあります。非常に多量に売れる本ならいいのですが、御多分にもれず現在、いわゆる返品問題というふうに、およそ四割を超える返品があるというふうに言われ、また、特に出版界は今、新刊依存体質ですから、必要以上の部数をつくって多量に書店に送り込んで、とにかく一時的な売上をはかったり、棚を確保するというか、そのようなやり口が非常に横行しつつあるので、本来の適正部数よりはるかに多く刷り増ししたものを世に送り出しては、戻ってきたものを断裁しちゃうというような状況に、どんどんどんどん悪循環に、悪いパターンに悪いパターンに陥っているわけです。
それでも、本当に必要としている読者に必要な本を届けるよい方法はないだろうかというのは、やっぱり僕みたいな、とにかく、出版としてどういった本を出そうかという出版の内容について意識を向けている人間から、それを考えるとすると――それほど偉そうなことは言えないんですけれど、本当は売りたい本をつくっているんですけど――やはり必要な人に無駄のないような形で本がつくれないだろうかというのは常に考えます。そういう意味での、デジタルパブリッシングとかデジタル出版というのが、デジタルコンテンツにおける配信には一つの可能性があるというふうに思うんですね。
そういった中で、この本をつくってきた中で思うのは、ならば、この固定化がもたらしたことの意味には、「PDFが紙媒体を越える可能性」というふうに書きもしたのですが、もしデジタルデータになるだけのことだったら、いちばん手っ取り早くやるんなら、スキャンすればいいわけですね。つまり、画像のスキャナというのは一方においては非常に価値もあるわけですから、さっき井上さんがおっしゃったように、スキャニングにおいては文字の同定とか文字化けというものは絶対起こりえないわけです。ですから今、液晶のPDAとか、電子書籍コンソーシアムとか、それらを聞いてもいると思うのですが、液晶で本を読めるようにしようという動きで、現状、何をやっているかといえば、今まで出た本のほとんどを、全てスキャニングで対応しようとしています。
それはなぜかというと、それがいちばんいい方法なんです。手っ取り早いというだけでなく、いちばんいいというのは文字化けが絶対ありませんし、文字の同定という心配もない。ですから、電子図書館とかデジタルライブラリーといわれている欧米の電子図書館構想でも、基本的にはスキャニングに対してはすごく重要ととらえています。なぜならば絶対に文字化けがないわけですし、そこでの文字種の同定だとかそういう心配もないですね。
ただ、スキャニングした結果はどうかというと、確かに固定化された出版という枠の中では同じことができているのですが、その再利用という観点からは、そこにおけるデータの利用というのは、何もないわけですね、これは。ここで次のことを見ればわかるように、HTMLやPDFという形でのデジタルデータ化がなされているものは検索とか情報の再利用というのが何度でもできます。さっき井上さんがおっしゃっていたでしょう。まさにこのことですね。

PDFは「つくり手主体」のメディア 発信者と言っていたのは、ここでトーマス・マーツさんのこれ、パブリッシャーをここでは出版社とは訳さないで情報発信者と訳しているのですが、つまり出版者――近代流通システムとしての、つまり話し手を、人を著者とするならば他者というのを読者と置いた表がありますが――ここで出版者というのは「者」と書いています。こういう出版「者」という表記の仕方は当然、あるわけですが、つまり発想としてのパブリッシャー、つまり単に会社としての出版「社」ではなくて、編集者とか営業だけではなくて、例えばデザイナーとか様々な人達の総体として、つまり書き手がそのまま出版「者」になるかもしれませんし、そういった意味で出版者という言葉をここでは使っています。
つまりここでの出版者は従来型の出版社というよりは、もっと言うならばパブリッシャー、つまり情報発信者ととらえた時に、HTMLとPDFを比較するとよくわかるわけです。先ほどもありましたけど、このHTMLとかPDFになれば情報の検索とか再利用というのは可能になります。ところが、ここで大きな差があるのは、HTMLというのは、ここに「読み手主体」と書いてあるのですが、つまり読者の環境の中でそれを読んでいます。
ところがPDFというのは、ここに「つくり手主体」と書いておいたのですが、本をつくるのとまったく同じ発想でつくることができる。つまりこの本の中で一ページ中に、例えばこれでもタイトルとか一部、二部、三部の置き方とか、紙面の中でどうつくるか工夫するかとか、そういうものを全部、実は発信者、情報発信者側が紙の上に固定しています。これはPDFでまさにそのまま情報発信者側が固定した、つくり手側が固定したまま、なおかつ情報の検索とか再利用が可能になるというのがPDFファイルだという、これは出版社側から見た時のPDFドキュメントの魅力なわけです。
レジュメ中の対向ページに、「HTMLとPDFの比較」というふうに挙げてあります。これはトーマス・マーツさんがつくられた『インターネットのためのAcrobat/PDF』からのそのまま引用転載です。つまり、この本の中に書かれているのは、要するにHTMLとPDFというのは補完関係にあるという形で、井上さんは「欠点を補足」するというようなことをおっしゃっていましたが、一応、トーマス・マーツさんは、どちらがよりすぐれているというのでなく、お互いが補完の関係にあるんだということを言っています。
今の話の中で特に重要なのは、「文章の見栄えを決めるのはだれ?」というところです。つまりHTMLは「ユーザー」、これは原著ではつまり翻訳ではユーザーと書いてあるのですが、ユーザーというとアプリケーションのユーザーというふうにとられてしまってもいけないので(読み手)というふうにカッコして入れていますが、つまり読者ですよね。要するにもうみなさんご存じように、画面のサイズとか環境とかインターネットエクスプローラとネットスケープにおいてとか、そういう形によって同じHTMLファイルでも見方が変わってしまうわけですよね。だからHTMLが出た初期の頃、それをかつての出版とかデザイナーという立場の人から見ると非常にいやだというような声があがったのはこの理由だと思うんです。だけど著者なりデザイナーなり、特にデザイナーといわれる人達はとことん考え抜いて、この紙面の中にこういう形で配置するわけですよね。これをこのまま読者に届けたいと思うわけです。文章の見栄えを決めるのは、PDFは「つくり手」なわけです。原著ではここに「Author」と書いてあります。「Author」というのは単に著者と訳さなくていいと思うので、本の中では「つくり手」と訳していますが、つまり情報の発信者側の方が文章の見栄えも決めることもできるし、それは同じ意味で「レイアウトが表示環境において変わるか」というのは、「変わる」と「変わらない」というのは、同じそういった意味だと思います。
つまり、PDFがすごいというのは、著者とかAuthorとかパブリッシャーとかといわれる人達が一つの枠の中に閉じ込めた形をそのまま読者に届けられる。注意深くもう一回言っておきますけど、それは、いい、悪いではないんですね。そういったものが必要なんですね。だからその向こう側にHTMLを置いておけばわかるように、あるいはT-Timeを置いていただければいいと思うのですが、このPDFの素晴らしさは、著者とかつくり手側に紙面を仕上げる、世界を閉じ込める決定権にあるということだと思うんです。これは出版活動にぴったり重なる。今までのわれわれがやってきた紙の出版活動にぴったり重なるんですね。

PDFとHTML この表について、もう少し話しをしておきましょうか。「画面上での閲覧に適しているか」というのは、「非常に適している」というのがHTMLで、「うまくレイアウトすれば適している」というのがPDFです。もう一つ、「印刷に適しているか」では、HTMLは「あまり適さず」とありますが、PDFは「うまくレイアウトすれば適している」、そもそも紙としてつくったものだったら、これはもう印刷に適しているもなにも、紙の紙面を想定してつくっているということにおいてはいちばん向いているのは当たり前の話ですね。上の方に「文書の新規作成(変換ルーチンを使わずに)」で、HTMLは「HTML作成ソフトで」か、HTMLは直に書き込めますけれども、PDFの場合は「かなり困難」というのは、つまり「DTPなくしてPDFなし」というのはまさにこのことで、直に書き出せないというのは一つの問題で、これから本当に次のバージョンで例えばPDFを直に書くとかPDFの構造化とか、そういうのは当然、お互いの世界を侵略しあうというのがこのアプリケーションソフトのバージョンアップの世界で常にあることですから、当然、次は文書の構造化ということもあるでしょうし、この本の中では最後の方にダイナミックなPDFの、つまりサーバーにおける動的なということですが、「ダイナミックなPDFの作成」なんてことにまでふれてはありますけど、それはだいぶプログラミングに知識があったりなど、そういう方に必要な話になるだろうと思うのですが、現在においての文書というのはDTPなくしてはありえない。われわれ出版活動の側からすると、DTPはもっとわれわれのツールの身の回りにあるものですから、出版活動の枠の中でPDFをとらえるということはまさにDTPあってのPDFだというふうに思います。
日本の出版業界にとってのPDF そして、最後になりますが、PDFは日本の出版にとって、どういうものになるのか。PDFをよく「電子の紙」という言い方をします。まさにこれは「電子の紙」という実にいい言い方だと思うんです。ということは、つまり、どういうことなのかというと、紙でできなかった、デジタルデータという形での検索や索引ということもできますけれど、その思想のいちばんの根幹にはやはり紙しかないと、そういうことなんですよね。紙でやってきたことが、それに加えてこんなことができたらもっと素晴らしいのになということを考えた時に、電子化しているというだけであって、全く紙と違うところでの土俵枠でPDFというものを議論していても、それには意味がないんですね。
われわれにとって、なぜPDFがごく近いところにあるかというと、実を言うと、先ほどから紙とか出版の制約と言ってきましたけれど、本来、出版の人達はあまりそういうものは制約とはとってないんです。なぜならば、制約もなにも出版人というのは、その世界で仕事をしてきたわけで、その世界では、まだまだできることはいくらでもあるわけで、その世界の中での仕事をしてきた人間にとって、そこから外に出ようとしたならば、べつに出版以外のことはいくらでもあるわけです。べつに映画を撮ってもいいですし、より、お茶の間に届けたいというのであればテレビドラマもいいかもしれない、あるいは音楽。様々なことがあるわけだけど、とにかく紙の中での仕事という出版というものを、べつに制約というふうにはとらえていないわけですね。けれども、改めて、逆にPDFと比較することで、ああ、そうはいっても紙にこういった制約といえば制約があるんじゃないかと、そういう話ですよね。
そのように考えると、われわれの今後の出版活動というのも、近未来的に紙を前提に続くだろうと。近未来的にというのは、エクスキューズばかりくっついちゃうんですけど、つまりわれわれ、ここにいるみなさんがそうであるように、僕がそうであるように、本とかそういったものから知識を学んできた人達がこの世の中からいなくならない限り、おそらく、紙というものをベースにした出版は残るだろうとそう思っています。
はじめに、紙ではなくてマルチメディアの教科書で学んだなんていう人達が出てくると、もう、頭の構造はちょっと僕らの中では想像つきませんが、そうするとなると大学の教科書とか小学校の教科書も、マルチメディアで学ぶという時代がやってくると思うんですよ。
さらに言えば、逆に、マルチメディアの教科書で育った先生が小学校とか中学校で教える段階になるまで待たなくてはだめだと思うんですね。つまり世の中における情報伝達の決定権が、紙で学ばなかった人達が世の情報伝達の決定権を担うところにたどり着く時代まで待たなければ、紙という文化は今後とも間違いなく継承されうるというのは事実なんです。もちろん、伝達したからまた紙がなくなるかという話ではないですけどね。
ただ、あるジャンルにおいては間違いなく紙というのがなくなるというふうにいわれているのが、実は僕なんかも多少、関わらざるを得ない学術出版の世界で、そこでは紙というのはなくなるだろうというふうにいわれています。世界最大の出版社の一つと言っていいエリズビア、エリズビアというのはほとんどイコールエリズビア・サイエンスなわけですが、欧米における学術論文のジャーナルは、アメリカの学会を除いてほとんど独占してしまっているエリズビア・サイエンスというのは、一二00のタイトルをデジタルテキスト――エリズビアのSGMLの形式なんですが――それをいろんな形で、図書館とか何かに売っていく作業を今しているんです。彼等は間違いなく、そろそろ紙はやめたいと思っています。「もう紙に戻ることのないデジタル化の道である」とはっきり、社長も含めて言っていますが、学術論文、特に学術情報の流通という世界においてはわりと短い期間の間でデジタル化というのは完了するのではないかといわれています。
ただ、それも、デジタル化が終了しても、いつでも紙が出せるようなやり方をしているわけですね、彼らは。これがPDFの出版ということの一つのとらえ方だと思うのですが、特に少部数でもう読者がわかっている。でも、その読者は絶対、この本、この情報を出したなら買うであろうと、そういう世界では、さっき言ったような学術情報なんですが、例えば核融合とか遺伝子、そういうものは世界中で買う人がわかっているんです。
例えばそれが八〇〇部とします。でも八〇〇部にべつに一万円つけても買うという人達がいる時に通用しているやり方だとも思うのですが、それらの人達に適切に、でも八〇〇プラスあと三〇〇かどうかが目に見えないという時に、今までだったら当然、一一〇〇刷るわけです。べつに八〇〇で、あとは好きな時にオンデマンドで刷りましょうというのが、今の学術情報だけでなく普通の大学の教科書もそういう方向に来ていると思います。欧米、特にアメリカの大学の出版部ではオンデマンドを積極的に取り込んでいて、学部のインプリントのような教科書なんていうのは、今、どんどんオンデマンド化しているんですね。必要な時だけ必要な部数をつくる。
大学の教科書をつくっていると往々にして経験するのは、今年の学生の履修申告は何人というと一八〇人とあがってくるわけです。そうか、一八〇人かというので期待していて一八〇部になるかというととんでもなくて、だいたい九〇部ぐらいしか売れないわけですね。これ、必修じゃなかったのかというような話をするのですが、選択だったらもっとひどくて、三分の一くらいが教科書を買わないです。今の学生さんって。試験が近づくとちょっと売れたりするんですね。
だからだいたい四月になってもうほとんど売れなくなって、定年前の先生の本なんていうのがあったりするのですが、在庫を見ると二〇〇部しかない。その先生しか使わないというものがあるんですね。あと、定年まで三年だからもつかななんて計算するんですが。
今年、あったんですけど、在庫が五〇部しかない。生協さんのオーダーが一〇〇部、あがってきているんです。なぜならば履修申告者が一五〇人というわけですよ。生協もちゃんと一五〇に対してバカ正直に一五〇請求しないで一〇〇しか請求してこないんですが、在庫が五〇なんですね。刷ろうか刷るまいか、定年が最後だしというので刷らなかったんですが、ちゃんと売れた冊数が四九冊だったんです。ところがこれが、試験が近づいて、残業していたら誰かが八時ぐらい、二部の学生だったんですが、コンコンとやってきて「この本、買いたい」と言うんですよ。「おまえ、何時だと思ってんだ。普通、こんな時間、本を売らないよ。なんなんだ」と言ったら、「これから試験です。実は教科書持ち込み可だった」と言うんですけどね。余談でした。
オンデマンドだったら、「じゃあ、待ってな」と言って、ここでシュッシュッシュッと刷って、「そのかわりこれ高いよ」と言って倍の値段ふっかけて売るということも可能なわけですよ。PDFというのはそれを可能にしてくれるんじゃないかと思っているんです。
つまり、少部数出版で仮にPDFで仕上げておいて手直しをしながら出版の時期を待つというのは、逆に言うと、もう本も先にないというか、PDFというものしか先にない。オンデマンドで売っていく。常に著者がどんどんどんどん変わるわけですから、そのたびに手直ししていく。これで本当に市場性なり何なりがわかるという時に出版という形態をとる。これは起こると思います。起こると思うというのは広く今の書店業界の流れの中で起こるというのではなく、今言ったようなわれわれの教科書販売とかそういった世界の中から確実に起こってくると思います。
その前に書いた「いつでも紙に置き換えられる」というのは、いつでも紙に置き換えられるような仕事が、現時点では僕はPDFには向いていると思います。ですから当然、PDFをWebにのせるとかそういうやり方として使い道というのはあると思うのですが、出版人としては僕はあんまりそっちはよく見えませんし、わかりません。それはわからないから後でほかの方に聞いていただいた方がいいと思います。
むしろPDFの利用の仕方というのは、やっぱりこういう紙面という、しかもべつにこういう縦横の比率のこの中での仕事、紙に刷るというのを前提としたつくりというのが、出版から見るとすごく手慣れた世界というのかな、そういうものでつくっていくというのがやはりメインじゃないかなと思っているんですよね。それをプリントアウトするかしないかは別問題ですけど、それにいちばんPDFが向いているというふうに、つまりわれわれの持ち駒でやれる仕事というんでしょうか。だから逆にPDFに対する抵抗感がわれわれには低いとも言えると思います。
ですから「紙の出版物の再利用」というところで「ワンソースマルチユース」なんてよくいわれる言葉ですが、でも本当にワンソースマルチユースなんてあるのかというのが、僕自身ちょっとクエスチョンの部分があるのですが、例えば読者との関係を考えた時に、一つのソースでそのまま使えるなんて世の中全然なくて、いくら自動変換するからといっても、そう話は簡単にはいかないだろうとちょっと思う時もあるんです。PDFというのも今の少部数出版に近い発想ですが、PDFでやっておけば、この場合のマルチユースというのは、とりあえず本でつくってしまったものもそれでもいいという人にはWebに置いておいて、そちらでダウンロードする課金のシステムでダウンロードしてねというやり方ですね。
ダイヤモンド社さんが『週刊ダイヤモンド』を去年の秋口ですか、フルDTPで『週刊ダイヤモンド』を作成することが可能になった時点から、今、Webでページ単位、あるいは記事単位で値段を付けて売っています。最低二〇〇円かな。特集を丸ごと買っても五〇〇円かな。週刊ダイヤモンドの最新号が買えます。PDFです。丸ごと買っちゃうと雑誌を買うよりは高くつきますからそういうことをする人はいませんが、過去のバックナンバーとか、あるいは特集だけ読みたくて買う人がわりとこれを利用しています。ダイヤモンド社さんのねらいとしては、むしろその結果、紙の購読につながればいいんだよという発想だそうです。フルDTPにするといつでもそういう形でのWebでのページ売りなどそういうことが可能になります。
『ハーバードビジネス』だったかな、富士ゼロックスがやっているやり方はもうちょっと変わっていて、そもそも特集だけを、特集によってすごく売れる雑誌というのが、特集専門雑誌みたいのがあるわけですよね。『ハーバードビジネス』なんていうのが、そういう雑誌なんですけど、そういうのは号によって、つまり特集によってすごく売れる号と全然売れない号があるわけです。もちろん編集者はいつでもすごく売れる号を考えて特集を組むんでしょうが、結果としては売れる売れないが出ちゃう。そうすると、つい最近のバックナンバーでも売り切れちゃったりということがよく起こるんですね。その時にPDFでバックナンバーを買ってねというやり方が次に進んでいくという意味でのワンソースマルチユースです。
「可搬性のある電子出版」と書いたのは、それでは、PDFのビューアーというのも当然、考えられるわけですから、今、日本では電子書籍コンソーシアムで、アメリカではオープン……ブックとかいろいろな様々な例の液晶で本を読もうという動きがみなさんもご存じの通りあると思うのですが、その中でちょっと変わったコンセプトだと思っているエブリブックというものがあります。ちょっとご用意してお見せすればよかったのですが、エブリブックはだいたいアバウトで英語サイズで見開き二面、だからだいたいこういった本がそのまま液晶二ページなんですね。日本の電子書籍コンソーシアムのねらいも、当初、二ページだったんですけれど、結果的に今は一ページでつくることに決まって、試作品が出きていますが、エブリブックは見開き二ページ、しかもオールカラー、450ppiというのは結局、カラーだから450なんですけど、普通の液晶ですよね。日本の電子書籍コンソーシアムのような高精細液晶ではなく普通のカラー液晶で見開き二ページの本なんです。ただ、値段がすごく高いんです、これ。なんで高いんだろうかというと、つまりエブリブックのねらいというのは、図書館等における専門書なんかのビューアーという考え方があるんですね。つまりマイクロフィルムなんかを図書館へ行って見たりするという環境がありますけども、そういうマイクロフィルムを見る機会からするとはるかに安く、端末を何台も置けるようになるだろう。そこで、非常に高度な専門書とか学術書とか、貴重な価値あるかつての歴史的な古文書とかを読むためのPDFビューアーというのがエブリブックのねらいなんじゃないかと、僕はWebを読んで勝手に考えていますが、そういう流れは出てくるんじゃないかと思います。つまり、そのように、きわめて少部数だけれども必要とする人達に必要な情報を伝えたいと思った時にPDFでつくるというのは出版人として考えてもいいかなというふうに思います。
あともう一つ、ここには書きませんでしたが、PDFの可能性としてやはり伝えておかないといけないのは、実はわれわれが出版活動という時に、出版社を仮にメーカーだとすると、つくるための装置は何も持たないメーカーなわけで、カッコよく言うとパブレスなんですね。つまりそれは外部の印刷会社さんなり製本所なり、それで印刷会社さんは装置産業とかいわれてますけど、ああいったところに全部ゆだねて、カッコいいんだか悪いんだか知らないけど、よく「電話と机さえあれば出版はできる」なんていう言い方を昔からよく聞きます。自分のところには何もなくても、まあ、やっぱり悪く言うと人のふんどしで仕事をしているところもあるわけですね。著者に原稿を書いてもらって、印刷会社とか製本所さんにつくっていただいて、しかも在庫も持たなかったり、在庫はどこかの倉庫に置いてある。
そういった形でやっていると、実を言うと出版社というのは内部的にはあんまり技術的なものは何も知らないわけですね。極端に言うと、こういった、ここの場でこれだけ熱心な人達が登場するPDFなんていう場でもありながら。多分、すみません出版社の方、何人くらいいらっしゃいますか? 中でもDTP関係に携わっている方、手をあげていただけますか。ああ、ほら、ほとんどいないね。
つまり、普通の出版人にとってはPDFなんてのは、なかなか興味を持たないというんでしょうか、そういうわけです。だいたいそもそもそういう技術的な革新が及びにくいわけですから。未だ私の知っている多くの人達は著者のテキストデータと原稿が来ると、紙の原稿だけ自分が利用して、フロッピーとかデータはそのまま著者に……。著者からメールで送られたりすると、それは困るから、じゃあ印刷屋のどこそこに投げてよなんて、頼んじゃうというのがあるんです。自分だけは紙で校正・赤ペンをやる。これは本当に多いわけです。
だけど、そういう人達はともかくとして、その結果、どうなったかというと、例えば紙型は誰のものかと、印刷会社の人はよくご存じでしょうが、「裁判で紙型は印刷会社のものだったんだよ」とか、「いや、それはそういうことじゃないんだ」とかよくありますね。じゃあ、フィルムは誰のものなんだ。「フィルムは、あれはやっぱり出版社のものじゃないか」と出版社の人達はいつも話をしていますが、印刷会社の人達は「当然、いや、私どもの資産です」なんて言うんですね。「印刷会社の資産だったらフィルム検版料なんて取るなよ。自分達の資産だったら自分達の手弁当で検版しろ」とかってよく言うんですが。そういう話は別として、つまりわれわれコンテンツ産業だなんてカッコいいこと言っていながら、コンテンツは全然、外にあるわけです。お任せなわけですよ。
デジタルパブリッシングで、特にPDFという本当に紙をつくる感覚でつくることのできるツールが登場したことによって、もしかするとPDFでつくるということで、デジタルコンテンツをここでやっとというか、初めてというか、出版社自身の手にとり戻すことができるのではないか。デジタルコンテンツという形でのPDFをつくることによって、初めてそれらを自分達の管理の下に置けるのではないかと思うんですね。
DTPとかPostScriptはとても無理だ、歯も立たない。われわれはやっぱりオペレーションは専門の方にお願いしするのが当然なわけですし、そう簡単にはいかないんですが、PDFだったらなんとか自分達のところに取り戻せるのではないかという可能性を、今後検討したいと、そんな話をみなさんと考えていきたいと思っています。
ですから出版社にとってコンテンツを取り戻す、そもそも本当のコンテンツというのは著作権者である著者にあるのですが、それを世に問うという形で加工した側の出版社の権利というのは、今、著作権法の中でも出版権というのは書かれていないから非常に弱いのですが、その中ではちゃんとものを押さえるということが大事なのではないか。
光文社さんが光文社文庫のテキストを売っていらっしゃるのですが、なんでやったかというと、光文社文庫として紙で本を出していたら、富士通系のオンラインの本を売っているところがその光文社文庫の著者とどんどん独自に契約していてデジタル化権というものを著者とそこのオンラインのショッピングモールという本を売っているところで独自に契約して、光文社文庫が軒並みねらわれてしまったということからなんですね。
光文社自身の出版契約は紙の本の契約にとどまっているわけですから、それをノーとは言えないわけです。それで慌ててじゃあデジタル化権を設定しようと思ったら、デジタル化権を設定するというのは権利をあずかるということで、当然、権利をいつでも使えるという立場にいなくてはなりませんから、自らデジタル出版をしない限り、著者からデジタル化権はあずかれないわけですね。というようなことから光文社は光文社文庫というのをWebで売り始めたという経緯があります。
それをやるとなると、やっぱり、光文社さんはすごく大変なわけです。なんかサーバーの専門知識のある人を雇ったり、いろんなことをやるんですが、もしかするとPDFならばもう少し簡単にそういったことが、出版社の技術にも、扱う題材にもよるのですが、デジタルコンテンツを出版社に取り戻すということもまたPDFによって可能になるんじゃないかなというふうに、付け加えてですけれど思っています。出版の側から出版を続けていく中でPDFの登場によって、とりあえずお話ししようと思ったことなどです。どうも、ありがとうございました(拍手)


第三部
Q&A
会場との
質疑応答

■萩野 ではこの後、みなさんも交えて、いろいろああだこうだとお話をしてみたいと思います。
■萩野 では、これからディスカッションに入りたいと思います。今日は、もう既に使っていらっしゃる方がかなりいて驚きました。というのは、Acrobat4.0Jが発売されましたが、僕の興味は、まずフォントのエンベットとか、実際の出力に実用できるのどうか。しかし、まだ発売して間もないこともあって、それに関する反応が、まだあまり出てきていないように思っていましたから、今回のセミナーではまだ、使われていない方が大多数だろうと予想していたのですが、実際すでに多くの方が試されていることから、ちょっとどんな質問が出てくるか怖いです。
はじめに、井上さんに聞いておきたいのですが、以前、PDFになる前にDTPの諸問題を片づけておかないと大変なことになると、そのようなお話を伺いました。そして、それから二年程かかって、ようやく新Acrobatを手にすることになりました。そのあたりはどのように感じていらっしゃいますか?
■井上 すみません、会場のみなさんに質問なんですが、DTPでまだ問題点を抱えているという方、手をあげてください。現状のワークフロー中に個別に抱えている問題とかでなく、会社独自の問題、例えば予算がなくて設備投資ができない、周辺機器が買えないなどというような話ではなく、技術的な側面から派生する問題で、これはまだだめだとか、これをなんとかしないことには致命的だというような、問題意識を感じていらっしゃるという方、手を上げていただけますか。
■萩野 どなたか、それについて何かありますか。すぐには出てこないでしょうから、おいおい考えていただいて、また後ほどご意見を伺うことにして、先を進めます。今度は植村さんにお聞きします。このところ立て続けに、PDFに関する本を出されましたが、興味を持って読んでおられる方、読者というのはどのような方でしょう?
■植村 いや、読者が誰かというのは、実を言うとなかなか出版社でもよく見えてないんです。見えてないというのが、そもそも営業力がないということなのかな。「おまえの本、どこにもないぞ」というお叱りばかりいただいているので、お叱りをくれた人がどういう人かはよくわかりますが、基本的には今日、会場にいらっしゃる方と変わらないと僕は思っています。やっぱり自分でつくり出す側の方達、多分、もっぱら読むだけの人は興味はないでしょうし、訳者の広田さんと言っていたのは、今回の『インターネットのためのAcrobat/PDF』がAcrobat4.0日本語版対応の一番最初の本ですが、ふつうは、はじめに出る本は「超図解」や「できるシリーズ」のようなマニュアル本なわけですが、マニュアル本以前にこんな本をつくっちゃっていいのかなと、実はそういう話をしつつも、世に出してしまったというのが今度の本です。そのようなことから、もしかすると、ついうっかり、単なるAcrobatユーザー、つまりExcelとかWordを使うような人が、うっかり買ってくれたらいいなと思っていたら、やっぱり、この本を望む人しか買ってくれなくて、うっかりも買ってくれなかったって感じです。
■萩野 この本をお持ちの方はどれくらいいますか。ああ、まだまだ売れそうですね、これでね。
それでは、次に振っていきますが、この時間、壇上に日本プロセスの足立さんをお呼びしました。今回のレジュメ最終ページにもちょっと書いていただいています。
環境がそろっているといないとに関わらず、Acrobat4.0の新機能を使って、日本語フォントをエンベットしたPDFドキュメントの作成がすでに可能だという事実があります。しかし、受け皿として出力の側で対応していなければ、フォントを埋め込もうと何だろうと、それは、もう仕方がありません。DTPの最終データとして使うにあたって、どれくらい実状で安心していいのか。それで、ここ数カ月の間、各誌でPDF出力の実験・検証をしていますが、日本プロセスさんでその何件かのお手伝いをなさっているのを見て、出力の現場から実際のところをお聞かせ願えないものかと思い、お出で頂きました。
■足立 どうも、はじめまして。日本プロセスの足立と申します。製版会社の人間です。今の萩野さんのお話なんですが、今のところ、フォントエンベットができるようになって非常に嬉しいなと思っている、自分達のお客さんはWindowsのMSアプリなどをフィルム出力して本をつくりたいと、そういうお客さんが非常にAcrobat4.0については関心が多いようです。Windowsからの出力見本というものをお持ちしていますので後ほど見ていただきたいと思います。
それから、先ほども瀬之口さんの方で、WindowsのTrueTypeの中で埋め込めないフォントがある。あれはWindowsの標準フォントだったのかOfficeの標準フォントだったんだか、HGフォントですが、そのことだけ注意すれば、今のところはフィルム出力はできます。ただ、これが一色なのか四色なのか、イラストなのか写真なのかということによって、若干変わってくる問題はありますが、MSアプリからの出力については、自分のところでは問題なくできております。
■萩野 何度も言いましたが、今回のレジュメもさまざまな試みをしています。今回の出力は東京書籍印刷さんでやっていただきました。自分達で作成したCIDフォントをエンベットしたPDFを作成し、実際、入稿したのはPDFのファイルのみでした。そのような形で、これも一つの実証として使えるということですよね。
瀬之口君は出力も何かトラブルとかありました?
■瀬之口 指名が出てしまったので非常に言いにくくなってしまったんですけど、確かに前回七月号でMac版でエンベットをしたPDFを入稿して出力していただいて、今、発売している八月号の方でWindows版のAcrobatを使ってPDFで入稿しました。両方とも最終出力はなんとか間に合わせたという感じになったんですけど、まず、実際、製作側としては工程数が一つ増える。うちはデザインチームを中で抱えているんですけども、工程数が一つ増えるというのが、やっぱりデザインチームにとっては非常になんかひっかかるというか、作業上、ワークフローがくずれるという部分でひっかかりました。
もう一つ、やはり実験していただくということで、印刷会社さんに最初からテストデータを渡して様々な出力実験をしていただいて、正直言ってエラーだらけでした。Photoshopデータのビットマップの部分が色かぶりを起こしたり、まともに出ませんでした。最後は、かなり力ずくな方法で無理矢理出力してもらいました。その時は、本当はLevel3でやりたかったんですけれども、Level3の方にたまたまモリサワフォントを入れていないという印刷会社さんの都合がありましたので、モリサワフォントをエンベットできませんでしたので、それはそうなっている以上、仕方がないということでなんとかLevel2で帳尻を合わせたという感じでした。
逆に、Windowsの方は全てTrueTypeを使って、TrueTypeをエンベットしたという形で行わせていただいて、まあ二度目ということと、逆に、じゃあべつに印刷会社さんで持っているLevel3でフォントがのっていようとのってなかろうと、TrueType全書体エンベットしているからいいじゃないかということで、普通のコンポジットしたPDFファイルで問題なく一発で出力できました。
実際のデータ量ですけど、Windowsの方が見開き二ページでフォント全てエンベットして、うちの場合、画像がほとんどキャプチャーなのでそんなに重くはなりませんが、今まではPSファイル入稿でPS書き出ししていると70MBか80MBになったファイルです。実データだけでも、アプリケーションファイルだけでも24MBぐらいあったんですけど、PDF化したことで1.1MBにまで落ちました。うちとしては珍しいんですけど、フロッピーで入稿すると、印刷会社の営業マンさんが「これですか? いいんですか。本当に入っているんですか?」みたいな話になりました。なんか逆に容量が少ないファイルも、今のフロッピーって大丈夫なのかなという不安の方がちょっと強かったんですけど。そういう形で、逆にWindowsの方が素直に出せたという部分は非常によかったと思います。ただ、逆に、社内で、うちはAカラーで校正しているんですけど、コンポジットした状態でPDFをつくって、それを入稿するデータをすると、コンポジットした状態でしかAColorに送れないんですね。CMYKに分版して再合成するという出力が、チェックできないので、それがワークフローとしてうちの中ではそこが問題かなと。でも、いつもWindowsはトラブルばっかり抱えてましたので、そういう意味ではちゃんとPDFにして見えた段階でもデータが返ってくることはないという意味ではよかったのかなと思います。
■萩野 そうですよね。今回のレジュメは、スペックシートにも書きましたけど、結局、最終的には一.数MBになってしまったので、メールに添付してヒュッと遅れてしまいました。これを仮に全部、アウトライン化したとすると、結構な容量になります。31MBぐらいになっちゃうから、これだとさすがに送るのは辛い。まあ、そういうのを考えるとやっぱり、よくできてるなと思うんです。
出力とかDTPとか、そういう面以外の PDFの利点って何かありますか。井上さんにお聞きします。
■井上 DTPというような枠ではとらえてほしくないです。もうDTPの問題点というのはある程度、出尽くしているし、それに、PSLevel3になった時点で、ハイクォリティ・プリンティングに関して問題点というのもそんなに出てこなくなったんです。
DTPといっても、OfficeのユーザーさんとかにDTPとか言っても拒否反応をするだけなので、電子ドキュメント、電子文書をつくる、コンピュータの上で文章をつくる時にグレースケールというイメージがあるんだよとか、カラーのイメージ、ビットマップがあるんだよとか、要は最低限そういうところまでは知ってほしいんですけど、ここ一年、二年の間に、結構、みなさん、レベルアップしてきて、そのへんが底上げされているので、そのへんのことは問題点として言わなくなっちゃった。特にここに来ていらっしゃる方に対しては、PDFについては白黒二階調の場合はG4圧縮とか、あるいはFAXなんかで使われているような圧縮がきわめて効率よく圧縮ができるということとか、グレースケールの場合とカラーの場合は、Acrobatの場合はJPEGという方法と、もう一つはZIPという方法ですね。前はLZWという方法でやっていたんですけど、今はZIPですね。ライセンスの問題があってZIPになっちゃたんですけど、そのZIPとJPEGの圧縮の違いを知ってほしい。
例えばカラーの問題だったらRGBとCMYKがあります。もっと言うなら、カラーマネージメントのことを知ってほしい、DTPと非常にリンクしてくるわけですけど、そのへんも、今、手を上げていただいたとおり、一応、DTPに関しては基本的に問題はもう出てこなくなっていて、お金の問題とか、人の問題だけだという部分になってきているので、じゃあPDFになった時にどうなのかというと、PDFならではの問題点があります。例えばフォントの埋め込みに関してはこうですとかという話はあるかもしれませんけど。
電子ペーパーという、紙という器を超えてデジタルという形で、紙にのっていた情報を扱うという時に、パラダイムシフトがおきる。いろんなものが変化するわけですよね。そこでDTPというような概念にとらわれないで、さっき話したように、印刷物が完全に電子的な形でデータベース化できる。自分のパソコンから過去につくった印刷物を見ることができる。わざわざ取りに行かなくてもいい。これだけでもすごいインパクトがあるんですが、まだそこまでいってないというだけの話。
例えば校正をこれから多分、PDFでやられると思います。これからいちばんインパクトが大きいだろうと実感されるのは校正です。電子校正、PDFで校正が始まった時に、あっ、これはPDF、おもしろいと思われるんじゃないかと思います。特にフォントのエンベットという問題は、細かな色の問題はとにかく置いておいて、いずれはそうやってカラーマネージメントはみんなキャッチアップしてくるでしょうし、DTPの問題もクリアになっていくでしょう。ワークフローの問題とか校正の問題とかデジタルに、今まで紙に出さなくては保存できなかったものが、全部、電子の紙になっちゃうんだというところで、ネットワークのスピードが速くなります、印刷の校正作業が自宅でできるなんて今まで考えられなかったことができるんだよとか、そっちの方で大きなPDFならではのおもしろさが出てくるというふうに思います。
校正は、私ももう何回かは雑誌関係でやりましたけど、印刷物というかレイアウトされた状態でPDFとして上がってきたものを校正をするわけです。もうみなさん、印刷物をつくっていらっしゃるから私があえて言う必要はないと思うんですけど、例えば一〇〇ページものの印刷物をつくるとする。カタログだとしましょうか。ものによって編集作業が違うので、一ページあたりいろんな製品が載っているような一〇〇ページもののカタログでカラーのものをつくったとしましょう。そうすると、一人の人がそれ一点だけやるわけじゃなくて、ほかにも数点いろんなものをやるわけです。校正をする人がお客様だとか、あるいは社内の人間だとかといって、コピーするのだけでも一〇〇ページをさらに五部とか、下手すると一〇部ぐらいコピーするわけですよね。それを配ってまた返してもらって、それを今度はまた集約して、またそれをDTPに流して、またそれをコピーして渡してというようなことで、もう、一点つくるだけで、一カ月もしないうちに机の上は紙の山でしょう。これがなくなっちゃうんですよね。なくなるぐらいのパワーが実はあります。
実際、画面で見たら辛いと思われるかもしれませんけど、今や普通の人達だって一七インチモニターを使ってますよね。DTPはもう二〇インチモニターを使っているわけですよね、普通。これで四サイズ、フルに表示をしてやる。右側にDTPのA4のQuarkかなんかの画面を出しておいて、左側にAcrobatの画面を出しながら、校正されてきたもの、チェックされてきたものを修正、直していくというようなことができるようになっていきます。
今度、Acrobat4.0の注釈という機能が付くわけなんですが、これがまた威力があります。うまく使えば紙の消費量が激減してしまうし、効率も非常によくなる。容量が小さいですからメールに添付することもできるというような話になるわけですね。
私は思っているんですけど、単に校正という話では、レイアウトの校正だけではなくて、原稿の文字校の時からPDFで進行できます。なぜかというと、テキストで書かれてきたもの、一太郎でもWordでも何でも構わないですけど、それでとにかく文字を校正しに編集者に戻しますよね。そうするとWindowsでつくってきたものをMacで開くと文字化けしちゃうわけですよ。それだけでもおかしいでしょう。それから、修正をしましょう。直さなくてはいけない。ここはこうした方がいいという指示をテキストエディタなりWordでは直接入れられないわけですよね。誰がいつどこを直したかわからないわけです。色を付ければいいとかいろいろありますが、PDFにしちゃったら関係ないですね。だから文字の校正の時からもうPDF校正というのが僕は適しているのではないかと実感をしております。特に難しい漢字を使われる方はエンベットをして渡されるのが非常に効果的ではないかというふうに思っております。
■萩野 ありがとうございます。今、回覧しているものの説明をおねがいします。
■足立 今、回覧しているもの、面付けされているコンセンサスをとっているものは、A4のものを四面付けしているものが本来のものです。面付けするのにColloco、今週ですか発売になる予定のAcrobatのプラグインで供給される面付けソフトです。それを使って面付けする時にA5に縮小しています。こういうところに持って歩くのに小さい方がいいので縮小して、A5×四面になっております。それがWordとPowerPointのものです。PowerPointのものについては、それもA4なんですが、裁ち分を取っています。これは二・七パーセントの拡大を一ページあたり二.七パーセントの拡大をして、断裁できるように裁ち分を取った面付けされたPDFです。
それから、文字のもの、そちらの方が折ってしまいましたが、折らないで見ていただくとありがたかったのですが、あれはPageCompというUnixでのアプリケーションで、PSのヒラギノを使って実際の書籍をつくっています。二百何十ページあります。通常はそのPSファイルで製版しているのですが、PDFを利用した場合のワークフローの一環としてやったもので、そのUnixからはき出したPSファイルを同じヒラギノフォントが入っているMacintosh内に持っていってPDFに単ページをして、二百何十ページのPDFをつくって、同じようにCollocoで面付けをして、そして飾りものだとか背帳だとかというものをPDF上で付けたものです。ですから、回覧したものがちゃんと表裏のノンブルになっているかどうかわかりませんが、実際はそれが二十何台あって一冊の本になっているものです。
それからもう一つ、インクジェットのプリンタで出した、面付けされたものがあったと思いますが、これは試しにやっただけで、そこでMac版でつくった、ヒラギノフォントに置き換わっているPDF、面付けされたPDFをWindows側のAcrobatで開いて、HPの大判プリンタで出したものです。これはWindows側にはヒラギノのTrueTypeを入れてありますので、フォント情報を見た時にはTrueTypeのヒラギノに変わっていました。それでインクジェットで出したものがあります。
みなさんに回覧できなかったのですが、これがA4×四面付けのWordのものです。これもフィルム出力のものを今日持ってこないで、インクジェットのものをお持ちしました。これのPDFの使い方の中で、フィルムが安全に出るかということが一つあります。今、井上さんも言われた校正、校正で使うと非常に便利です。今のワークフローの中で面付けされたものがフォントが入ってないパソコンでこのこのように出せるものがあったかなと思っています。
自分達のワークフローはこういうものを作業現場でつくって、この面付けされたPDFをネットワークで出力現場に送っています。出力現場では、このMSアプリの場合については面付けしません。製作現場で面付けをしてしまう。単にPDFA4がパラパラ出てくるのはもう当たり前の話ですので、面付けされたもの、MacでつくったものがWindowsのパソコンから通常のインクジェットのプリンタで出てしまう。もしくは普通のレーザープリンタで、縮小印刷になりますが、出てしまう。そこで面付けの間違いがないか何も問題ないかということができるんだと思います。ですから、ただ単に、出る、出ないは、もう問題なく出ますので大したことじゃないと私は思っております。
■萩野 非常に、力強いお言葉をいただいたような気がします。かなり様子見をされているような出力屋さんとか印刷屋さんとかもありますので、これだけ「全然、大丈夫だよ」と言われちゃうと(笑)、なんかちょっと僕自身も拍子抜けをしてしまったというか、こんなに構えなくてもよかったのかなというような気がしてしまいます。
じゃあ会場の方から質問とかご意見とか何かありましたら発言いただきたいんですが。
■鈴木 ホウナン印刷の鈴木といいます。萩野さんにうかがいたいのですが、CIDフォントが出ることによってプリンタフォントの必要性が……。
■萩野 なくなると思います。僕自身はだいたいPowerMacG3のDT233というやつを使っていて、MacOSは今、8.5.1でやってますけれども、最初、8.5.1が出た時に、何かの雑誌に買ってきてすぐ入れてみたけれど、すぐ使えないという判断を下したみたいなことが書いてあって、ええっとか思ったんですけど、確かに8.5.5の時はそうかもしれないですけど、今、アップデートされて1になっているやつは全然、問題ないと思いますし、あるとしたら何かソフトウエアのプロテクトとかそういったたぐいのこと、フォントがインストールできないとか、そういうことだけだと思うんですよ。個人的にはフォントベンダーということで、自社のフォントしか使ってませんし、自社のフォントはnewG3にも入るように最初からなっていますので、ほとんどのことで不自由を感じていることはないですね。
AcrobatのWindows版との絡みの話ですけど、それに関しても機能差はありますが、直接DTPに直結するような機能差ではないと思うし、今後、年内にでもそういった例えばWebCaptureの機能は入ってくるとAdobeさんの方から聞いてますので、あんまりそれに関して驚異を感じるということはないです。それよりCIDとAcrobatとATMの関係というのは、今後、いろんな文字コードに対応するとか、今までのOCFフォントというのが、厳密に言うと公開されているフォントフォーマットじゃないんですね。各社それぞれなんとかして出してきたわけですが、CIDというのは完全に公開された仕様で、仕様書なんてインターネットを見ればほとんど載っているわけです。昔はSDKの契約をして、ファイルがいっぱい送られてきて、それを一所懸命読むとかそいういうふうなものでしたが、今はそうやって手に入りますから、そういうのに従ってつくっていけば、書体、デザイン以外の動作に関する不明瞭なところとかバクッているところというのは、各社がCIDフォントフォーマットになっていく中で自明になっていくことじゃないかと思っています。
瀬之口君は、Windowsで今日どのようにやったのでしょうか。
■瀬之口 はい、じゃあマシンとOSですが、私は会社ではPowerMac七千番台のものを使っています。製作部の方では、当然、全員G3を使っています。私はWindowsコーナーを持っているので、Windowsの方はPentium2の233です。今日、デモをしたマシンはMMSの120ですので、Normal Pentiumです。でも使えないことはないかなと。OSですけど、一応、私は8.1です。社内では8.5にしているものが半数ぐらいというところでしょうか。
■萩野 Windowsの方は。
■瀬之口 Windowsの方は、僕はやむなく98にしていると。本当はしたくないんですけど、記事の都合上、98にしているという状態です。あんまりフォントを入れるとすぐに飛んでしまうので、それがちょっといやなんですけど、とりあえず98にしています。あと、Windows、Macがいつまでもつかみたいなことですけど、逆に、もつと信じるしかないですよね。
■萩野 どっちもね。
■瀬之口 いや、もうMacは、ここまではワークフローができているのであれば、少なくともこの業界では間違いなく生き残るでしょう。逆に一般ユーザーもあれだけiMacに傾倒していれば、十分、しばらくもつのではないかと。どっちにしても、今、買っても三年後には相当、遅いマシンとなってますので、それはまたその時に考えればいいんじゃないかなと思います。
■萩野 ほかに何かありますでしょうか。
■道広 編集者の道広と申します。埋め込み可能なフォントが出てくれば、印刷を前提とした場合にはいい時代になってきたのかなという気がするんですけど、電子文書として考えた場合に、井上さんのお話の中で、検索性ということがちょっと話に出ていたんですけど、それをちょっと教えていただきたいんです。例えば、単語がページをまたがっていた場合でも検索はできるんでしょうか。
■井上 ページが分かれてしまうとできないと思います。PDFは実はもともと英語仕様というか、要は英語の場合はスペースで文字が切られますよね。次の行にいく場合はハイフンという分綴の仕組みがありますよね。そういう仕組みだけで最初、設計ができています。あと、実際にテキスト属性で「TouchUP」というのを使っていただくとわかりますけれども、一行単位にしかオブジェクトとして中にはないんですね。ページにわたる検索でたまたま次のページにいくような場合は技術的にまだできないと思います。ただ、まあ、どうなんでしょうね。そういうのはいずれは改善されていくんでしょうね、としか言いようがありません。
■道広  あと、それと関連して、将来も含めてどのようなエンコーディングが使われていても、検索や文字の再利用ができるというふうにあるんですけど、これがちょっと意味がよくわからないんですが、エンコーディングが変わったらもう検索できないんじゃないかなと思うんですけど。
例えばマイクロメートルという意味でμmと書いたものを検索したい時に、μmというのは本当はギリシャ文字の文字コードとアスキーを切り替えて扱うべきなのに、現状DTPでは単に1byte文字として扱っていて、フォントの切り替えで対応しているために、文字としてはあくまでもmmとしか使っていない。そういうふうなものでつくられたものを検索しようとしたら、結局、ミリメートルとマイクロメートルが全部、一緒にひっかってくるんじゃないかなと思うんですけど。
■井上 その問題は全てに該当する問題だと思うんです。それは特殊な文字を使った場合とか。あくまでも文字コードの番号で検索せざるを得ない部分とうのがあるし、そういうふうに置き換えをされてしまったものに関してはしょうがないというのがありますけど。先ほどの、検索ができるという話は特殊なケースではなくて、今回のPDFのフォーマットが1.3というバージョンに上がりましたけれども、この中には中国語とか韓国語とか、それから日本語の現状、今、ほとんど一般的に使われている全てのエンコーディングテーブルが内蔵されているんですね。これは、ちょっと画面を見せて動かしてもらえると、今、お見せできるんですが。
■植村 やっている間に横からひとことコメントしておきますけど、つまり逆に言うとわれわれ、特に僕はと言うべきかもしれませんけど、出版の編集者というのは出来上がった紙面での仕事しかしてなかったですよね。例えば昔、活字なんて本当に鉛の時代は、半分ずつに削って外字をつくるとかそうことをしたりとかいろいろあるんだけど、それはともすれば最後に紙に固定するということで、要するに読者に届けばいいという仕事をしてきたわけですよね。
だけど、多分、これからは、その時にどういうコードの文字を埋めたのかという知識がやっぱり編集者には同時に問われるようになるんじゃないかと思います。つまり、今のミューとマイクロのことを知っていらっしゃるということはその知識がある人なんだけど、ほとんど多くの理工系編集者はミューとマイクロとか、あるいはサブスクリプトとか、要するに添え字にVのO(オー)とやる時に、O(オー)の代わりに0(ゼロ)を使っているんですよ。やっぱり例えば我々理工系だと、電圧Vのアウトという意味で、向こうの本というのはちゃんとVに下付のoというのが入るんですが、日本の活字の古い本を見ると、ほとんど0(ゼロ)が入ってますよね。これは、その方がやっぱり見やすかったからだというのがあって、結構、伝統的にやっているんですね。でも、こういうことはこれからは許されないというのかな。だからそういう知識も問われるだろうなというふうには思っています。ちょっと、別な見方のお話ですけど。
■井上 今、画面に出ていますけど、これはCMapと呼ばれる、これはTrueTypeもCID構造を持っていますので、このCIDのCMapという構造が、なんでCIDじゃないと埋め込めないかという理由にもなるんですけど、これはエンコーディングテーブルが埋め込めるという最大の理由になります。このエンコーディングテーブルというのは、要はこの文字の、これは中国語ですよね。中国のエンコーディング、それが日本の場合、一応、これが全てです。よく見ていただくと、ほとんど、今、現状、使われている、全部ではないですが、パソコン、MacとWindowsで使われているフォントの中でのエンコーディング。これだけ、一応、埋め込まれます。使えるということですね。これ以外は使えませんということです。
ただし、これに準拠した形で埋め込めるようなものであれば、使えます。ですから、グリフは違うんだけど埋め込んじゃったよということはあり得ると思うんですね。
■萩野 これに関するファイルというのは、Acrobatの製品を買うとPDFになっています。
■井上 これは、CD-ROMに入ってたかもね。
■萩野 これは入っていたかどうかわからないですけど、中国語のCIDフォンとの文字セットのグリフの一覧とか、日本語の Japan1-2というんですけど、日本語のDTDというのはJapan1-2といって八七一〇字ぐらいで構成されているんですけど、そういう一覧表が入っていたりして、結構、中を見るとお宝が隠れているので、なかなかAcrobatのCDは楽しめます。
レジュメを印刷してもらった東京書籍印刷の伊東さん、いますか。この前、話した時に、印刷した側の意見、実際、初めてやってみたという感じの感想をちょっと聞きたいんですけど。
■伊東 東京書籍印刷の伊東です。作業的にほとんど出力に関して問題はなかったのですが、先ほど校正というところがあったんですけども、今回、メールで送られて来ちゃったと。その時に、印刷会社ってだいたい校了者に渡しつけて印刷の方にまわすんですが、メールで来た時にその代わりになるものというのは、実際、本当はどうするべきなのかということを聞きたいんですけどもね。
■萩野 そうですよね。校正紙を付けるべきでした(笑)。はい。それとこの前、おっしゃっていた、じゃあ最終的にできたPDFは誰のものみたいな。
■伊東 そうですね、基本的に今までデータをつくったところに、データがある。つくったところにフィルムがあるというのは、多分、印刷会社の主張だと思うんですよ。今後、例えば電子化になって、PDFファイルを売っていくとか、そういう話が出た時に、PDFは誰のものみたいな。印刷会社って本当に出版社とかそういったところに返さなきゃいけないということはあるんですか。
■植村 これからそういう契約が相当出てくると思います。今までわれわれ出版社と印刷会社の契約というのはあまりないですよね。というか、少なくともうちはなかったというのが正しいんですけど、出版社によってはだいたい著者とも契約がなかったりするんですけど、つまりこれはいったい誰のものという契約は、マルチメディアをやっている人達は結構そこをやってますよね。例えばCD-ROMをつくってマルチメディアのコンテンツをつくった時に、実を言うと中身は出版社が提供して契約でお金を払ってつくったとしても、そのCD-ROMをつくりあげるためのツールとかある種のプログラムがマルチメディアをつくる会社なり、あるいはプログラムの会社なり、今は、印刷会社が多いですけれど、そういうある種のプログラムが使われていることが結構、あったりしますよね。
その時の契約があったり、あと、例えばディレクターなんか使うとちゃんとそれに使ったというロゴを入れようとかあるじゃないですか。そういうのがこれからもっと厳しくなってくるんじゃないか。つまり契約というバイアスが今後、働くんじゃないでしょうかね。今までみたいに簡単に、紙型、フィルムは誰のものかという問題、物理的にフィルムはそこあるからいいけれど。というのはつまり物理的にフィルムは結局そこに、出版社から言うと、激しい言い方すると、なんだか人質を取られているような思いもあるわけですよ、印刷会社にフィルムがいっちゃっているというのはね。
だけどこれからは逆に言うと、自分のところにだってちゃんと置いておくことができるぞみたいな気持ちというのはありますよね。だから逆に言うと、多分、そこのところにこれからのルールづくりが必要になると思います。PDFファイルは誰のものだろうって、考えてみると著者のものだと言われた時に、われわれはもっと弱い立場にありますよね。
だから多分、著者からいただいたものをPDFという、最終的にこういう形で仕上げたのは出版社の英知によって出来上がったんだということを、われわれは著者に対してちゃんと言えるような出版社じゃなくてはこれからはだめなんじゃないかなと思っています。
■萩野 すみません、もうほとんど時間がないので、あとお一人ぐらい、どなたにいきましょう。
■太等 太等と申します。PDFというものを知った時に、あまり自分の仕事になるような気はしなかったんですけど、異常にショックを受けたのは、もう二年か三年ぐらい前ですけど、ソニーが全世界に持っているわけですけど、そこに設計図とか技術資料を配布しなきゃいけない。仕様の変更というのは頻繁に起こるわけで、全世界にそういう技術資料を配布する時にいちいち本社で刷って郵便で送るというようなことでは間に合わないということで、そういうものを全てPDFにして配信するというその作業をやっている人の実際の実物も見せてもらってレクチャーを受けた時に、これはすごいなということを思ったんですね。だから、自分の仕事になるかどうかわからないけれども、とりあえず重要な情報でかつ発行部数が少ないようなものに関しては、いずれこういうものになってしまうだろうという期待というか予感みたいなものを持っていたんです。
たまたま去年、五〇〇部ほどしかつくらないものがあって、どうしようかという時に、じゃあPDFでやっちゃおうかという話をしてつくったことがあるんですが、実際にQuarkでつくって、それを変換したのですが、変換そのものはもう高速で簡単なんです。頼まれていたわけではないのですが、目次ページをクリックすると当該のページに飛ぶというようなリンクをはる作業をやったんですが、しおりとリンクをはる作業が非常にかったるくって、非常に原始的というか手作業で、もし例えば索引ページから当該のページに飛ぶようなことをやろうとすると、例えば索引なんかだと何百項目にもなることが考えられるわけで、そういう点でちょっと。その時はver.3.0でver.4.0は使ってないのでわからないのですが、そのへんのところは何かいい方法があるんでしょうか。
■萩野 井上さん、何かありますか。
■井上 一つは、やはり最大のオーサリングツールとしてはですね、オーサリングツールってわかりますよね。オーサリングツールとしては非常に見劣りがするんですね。今回のver.4.0ではその部分ではいろんな発展がありますけど、4.0のことですか、それともそれ以外の話ということですか? 4.0も少し触れた方がいいですか。
 太等 そうですね。例えば仕事の仲間の方でいろんなツールを使ってそういう工夫をされているというような情報があればありがたいです。
■井上 はい。じゃあ、まず4.0のことを簡単に触れますけども、4.0は今まではこういう右側にしおりだとかサムネールというのしか出せなかったですよね。「しおり」「サムネール」をタグでこうやって簡単に見ることができるというのと同時に、別にウィンドウを一つ開くことができます。こいつはこの「しおり」の部分だけをこうやって表示させて、両方表示させることができるとか、長いしおりの文字を、こういうふうな形にすると画面を見ながらみれますよね。というのが一つあります。それから「移動先」というのができます。この「移動先」は何かというとリンクの一覧です。これは一回、スキャンしなくては出てこないんですけど、今までは「移動先」にはリンクボタンがどこにあるのかわからなかったんですよね。それが今回からは一覧できるようになります。
その他にもアメリカで売られている拡張機能、プラグイン、そういったものが日本でも少しずつ、今、開発が進んでいます。例えば、マルチドックというのがありますけど、ああいうもののやつは画面を二つ出しておいて、リンク先とリンク元を同時に表示をさせておいて、それを切り替えることができるとか、しおりをつくるのを自動的にさせるのに。
ああ、そうか、しおりの話に関しては、例えばWordだとかは自動的にしおりがつくられます。これは目次のところが自動的にしおりになります。これはPDFメーカーという今回のver.4.0の、標準では付いてきませんけど、Adobeからダウンロードするというやつですね。そういったしおりを自動的につくる機能とかはPageMakerからもできるようになりますし、それからFrameMakerなんかでもできるようになるという、今後、そういうふうになってくると思います。あと、 InDesignなんかでも当然、できるようになる。けれど、やはり現状ではデフォルトではありませんので、アメリカに売っているものを買ってくるか日本でつくってもらうか、つくられるのを待つか、現状はどちらかしかないです。
■太等 WebPageを変換した時にはそういうリンク情報なんかはどうなりますか。
■井上 そのまま入ります。あれはWebCaptureの機能ですね。
■太等 どうも、ありがとうございました。
■萩野 本当はもっとやりたいんですけども、お時間の方がもうなくなってしまいました。申し訳ありません。
最後に、まとめというのではないのですが、僕の感想なんですが、何度も言ってきましたけど、これまでだったらいろんなことっていうのはなかなか高いものを買って揃えなくてはできなかったんですが、これはもう本当に自分の手元にあるもので何でも試してみることができると思います。先ほどの検索の件なんかにしても、やってみればすぐにわかることですよね。そういった形でみなさんがいろいろ使ってみる中でどんどんどんどんいい使い方というのは見えてきて、おもしろい仕事のやり方、ワークフローというのが形づくられてきたらおもしろいなと思います。
井上さんの方で、PDFのメーリングリストというのをやってまして、そちらの方、カタログとかもかなりありますので、そうですね、もう古いやつから言うと2からありますから、そういうのを見るとよろしいかと思います。
あと、何人かの方から、タイトルの「誰がためにPDFの鐘は鳴るやと」というのの「やと」というのは何だと言われりしたんですけど、これは文章なんですね。これ、誰のために鐘が鳴ってんだ、そういうことじゃないと。「ゆえに問うなかれ、誰のために鐘が鳴るやと。それは君のために鳴るなれば」ということなんですね。だから、みんなが使いたい時に使うという、みんなのために鳴っているんだよというような、おこがましいことを込めましてこういうタイトルを付けさせていただきました。もしかするとその鐘がみなさんにとっていい鐘の音になるといいと思いますということで、今日は閉めさせていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

 
(15回セミナーまとめ●高野幸子)


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