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真実・篠田博之の部屋[番外26] [2001年9月13日]
真実・篠田博之の部屋
[番外26]
「夕刊フジ」8月15日号の「新天下の暴論」で、「編集会議」の花田紀凱氏が小泉首相の靖国神社参拝にひっかけで、こんなことを書いてました。
「日本人が自らの責任を棚上げし、すべての責任をA級戦犯に押しつけて、戦争の被害者面しているのは許せない(むろん指導者と一般国民の責任の重さは違う)。
 初戦で華々しい勝利を上げた時、ちょうちん行列をしてそれを祝ったのは誰だったのか」
 こんなことを書いているから、「『週刊文春』以外では無能」と評されてしまうのではないでしょうか。
 カッコ内にあるように、責任の重さの違いにおいて、国民は指導者を批判していいのです。ちゅうか、批判することで責任を果たすのです。真珠湾攻撃を国民事前に知らなかったくくらいですから、いくらちょうちん行列をしたところで一国民は戦争をすることにおける権限などありはしません。
 引用した文章の前に、花田氏は東京裁判そのものの正当性に疑問を呈しています。これはいいとして、権限のない者は責任をとる必要などあるはずがありません。
 よく政治家の汚職などにおいても、「選んだ選挙民にも責任はある」といった意見が出ます。選んだことの責任はあります。選挙で政治家を選ぶ権利を有しているのですから、その範囲で責任はある。しかし、汚職したことにおいては政治家個人が責任を負うべきであって、政治家に投票した人は、「騙された」と被害者面して責任を追及し、「次は違う人に入れよう」と思えばよい。仮に、「選んだ自分も悪いんだから」として追及をせず、再度当選させた場合には、「おまえらは一体何をしているのか」と日本国中から選挙民も批判されるかもしれません。その意味では、投票した人こそが投票した責任を果たすために、強くこの政治家を追及すべきといえるかもしれません。
 まして当時は今のように普通選挙権が認められていたわけではないので、かっぽう着を来たおばちゃんがちょうちん行列に参加していたところで、どこまでも被害者面していてもいい。やはりここでは、権限があったにもかかわらず、天皇がA級戦犯として処刑されなかったことが論じられなければならないのではないかと。花田氏のような意見は、心情的に理解はできますけど、天皇の戦争責任を曖昧にしている人が、国民の責任を問うのはバランスがおかしくはないかと思います。これって、責任所在を曖昧にするだけではないでしょうか。
 会社員と経営者の関係も同じです。会社が経営に息詰まったとします。この時の責任は指導者たる経営者がとらなければいけません。社員がボーナスカットになるのであれば、社長は降格になるなり、退陣になるなりしなければなりません。「おまえらだって関与しているではないか」と言ったところで、「おまえは会社の権限をもつ経営者だろ」と言えばよろしい。社外に対してはそうはいかないところがありますが、社内においてはこれでよいのです。
 対して、ある取引についての権限を任された部長がいるとします。ところが、この取引に失敗して、会社に大損害を与えたとします。会社側は、この部長に権限を与えたことにつき責任はありますが、この仕事についての権限を与えられ、その範囲で失敗したことはこの部長が責任をとります。
 しかし、会社経営についての権限がないのですから、一社員が会社総体の失敗についての責任をとる必要はありません。被害者面していればよいのです。
「不景気になったから、社員をリストラすればよい」という発想はここが間違っています。リストラされなければならないのは真っ先に経営陣です。
 花田氏は、雑誌の編集長をやっていても責任をとる気はなく、「編集部員だって悪い」「書き手だって悪い」なんてことを言ったりするのかもしれませんけど、そうはいかんのじゃないでしょうか。
 なんでこんなことを書いたかというと、権利と責任はワンセットということがおわかりにならない人が多いように見受けられるためです。
 雑誌が潰れた時の責任は、出版社がとるべきであり、著者は知ったことではありません。「潰れようともギャラ払え」と言っていればよい。どこでどう売るのか、どこでどう採算をとるのかについての権利を著者は有していませんから。
 同じく単行本が売れなかったことの責任も著者がとる必要はありません。「出版社が悪い」と言っておればよいのです。現実には、本に魅力がないから売れなかったりするのですけど、原理的には出版社が悪い。
 同じく、原稿の内容については、権利を100パーセント有する著者が責任をとるということです。
              *
 現実の著者と編集の関係においてはもう少し微妙な要素がからみます。
 ある原稿が訴えられて、賠償金を払うことになるとします。この時の経費は誰が負担すべきでしょうか。わりと難しい問題なのですが、私は「侵害」の部分は著者が、「損害」の部分は出版社が負うのが合理的だと考えています。著作権で言えば、盗作をやったことそのものについての慰謝料は著者が払う。そのことによって、盗作された側の本が売れなくなったことについての損害賠償は出版社が払うということです。盗作は著者の創作行為によって発生し、それ自体で精神的ダメージを与え、現実的な損害は出版行為によって生じたということです。
 この場合、抗議者と直接議論するのは書き手でいい。結果、新聞広告を出すなり、賠償金を払うなり、といった結論が出てから、今度は著者と出版社が責任分担をするということでもかまわないでしょう。というか、これが合理的です。
 仮に編集部が命じて直した部分がについて抗議があって、賠償金を払う場合はどうでしょう。編集部が直しを命じてきたものなのに、著者まで金を出すのはヘンではあります。やっぱりこれは出版社の分担でしょう。
 このように、外に対する責任の主体は著作権者であることの表示において発生する。つまり、個人の原稿は個人が責任を負い、署名のないもの、社員の名前で出したものは、出版社が責任をとる。そして、それを販売したことによる責任も出版社がとるということになります。
 しかし、個々の編集者とライターとの関係はそれとは別に論じられなければならないところがあります。
 原則として書き手は一人で原稿を完成させるべきです。しかし、編集者がそれを手伝うことがあってもいい。このことは既に書いた通り。そして、口出しできる範囲もそれにともなって増えると考えていいのではないか。原稿を完成する行為に力を貸している度合いに応じて、原稿内容にも介入できるということです。著作権法を根拠にするのではなく、人間と人間の関係を重視した時には、これが私にはしっくりとくる考え方です。
 本来は下請けの工場が全部自分たちでやるべき作業を、機械メーカーの社員が必要がないにもかかわらず手伝ってやっていたような場合、ボルトを作り直せと言われたら、「いつも手伝ってもらっているからなあ」と、メーカーの横暴な要求にも応えざるを得なくなるのが人情です。また、メーカーが原材料を用意してやっているのに、それを使わず、別の材料を使ってきたとしたら、「おいおい、どうしてあっちの材料を使わないんだ」ということになりましょう。
 となると、著作権やら契約やらとは全く別のレベルにおいて、編集部が資料を提供してやっている、取材のセッティングをしてやっている、書く内容を提案してやっている、といった作業があればあるほど、口出ししてもいい、口出しすることに著者は対抗しにくいということです。
 私自身、編集部がノータッチの原稿でとやかく言われたら腹立ちますが、関与している場合には、わりと素直に受け入れられます。本来はやる必要のないことをあちらはやってくれているのですから。
             *
 では、ここまで述べてきたことを、私と「創」の編集部との関係においてみていくことにしましょう。私と編集部の間には、連載内容についての具体的な合意はほとんどありませんでした。特に、これをやってはいけない、こういう内容を入れて欲しいという条件もほとんど提示されていません。そもそも、写真の扱いがどうなのかさえも明示されておらず、にもかかわらず催促だけはしてくる。著作権使用料も払わずに、です。要するに、何もかもがアバウトでデタラメで、権威だけはふりかざしたいのがあの雑誌です。
「創」側からなんらかの条件提示があって、そこから私の原稿が逸脱しているということであれば、私は納得します。また、編集部が資料を提供してくれる、取材交渉をしてくれる、アイデアを提供してくれる、といった作業があったのなら、私は編集部からのいくぶん横暴な要求であっても飲んだかもしれません。
 しかし、現実には編集部はノータッチの原稿であって、にもかかわらず、原稿内容に介入し、文章を無断で改変するとあっては、黙っているわけにはいきません。
 そもそも篠田氏には、原稿の権利は100パーセント著者にあるのだということさえ理解できていなかったのだと思います。だからこそ、無断で原稿を削除したり、書き換えたりできたわけですし、写真を無断で外すこともできたのです。ここまで著作権に無頓着な人が雑誌の編集長をやり、やれ表現の自由だのなんだのを論じていることに呆れるしかありません。
 また、原稿の変更を命ずるのであれば、それ相応の約束事が必要であり、それがないのだとしたら、論理的にこちらが同意できる理由を提示するなり、心情的にこちらがそれに同意できる関係を作っておくべきでした。そんなもんなーんもないままの思いつきで言ってきただけですからね。自分が思いこみたいパブリックイメージとはまるで違い、実体は単なるいばりたがりのオヤジです。
 一連のやりとりを見ていただければおわかりのように、篠田氏は「原稿を書かせてやっいる」との意識が非常に強い人のように見受けられます。著作権的に言えば、「書き手は原稿を使わせてやっている」ということになるのを理解できず、「金を払う側」ということに依拠して、自分が偉いかのように勘違いしてしまったのでしょう。
 非常に篠田氏らしいのですが、ここ最近の篠田氏の名刺にはズラリと肩書きが並んでいます。複数の人が報告してくれ、名刺をFAXしてくれた人、実物も見せてくれた人もいましたが、ドクター中松的な名刺であり、編集者の名刺としてはかなり異様でしょう。権威主義者の性格が見事に表現された名刺です。篠田氏と知り合いになったら、真っ先にこの名刺を見てください。
 さらに、篠田氏の対応で驚いたのは、篠田氏は批判対象に反論権を認める気がまったくないことです。「批判対象に反論させる気はない、だから、特定の個人、特定の団体を批判しない」と最初から明言すればいい。それなら私も従うまでです。
 このような雑誌は、被害者救済という観点から、あり得る二つの選択のひとつを選択していると言え、私はこういう雑誌があってもいいと考えます。
 前回書いたように、メディアが反論権を認めることによって初めて掲載責任をメディアは果たし、書き手が100パーセント自分の書いたことに責任をとることもできます。書き手と書かれた側とが論争し、それを誌面に出す。書き手が間違いを認めたら、そのことを誌面に出す。さもなければ、書かれた側が救済される方法がない。
 反論権を認めたくないのなら、特定の対象を批判する原稿を掲載をしないことです。さもなければ、メディアも書き手も責任を放棄して、トンズラすることができてしまう。篠田氏のようにです。
 反論されるのが嫌なら、誌面で勝手なことを書くんじゃねえよ。
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