2012-01-22

お部屋2305/風営法とダンスホール【追記あり】

2304/『エロスの原風景 2』の目次発表 に書いた章立てが早くも変更になって、なお差し替え原稿をまとめています。今回、洋物を入れるのを忘れていたので、『エロスの原風景』に収録した美麗フレンチポストカードに続いて、おフランスの卑猥エロ写真の原稿でも入れようかなと。

それでも一段落ついたので、チャルガを観たり、ツイッターに復帰したりしているのですが、昨日、ツイッターで、大阪のクラブシーンについて書いた「The fight for Osaka」という一文と、筆者のTerumi Tsujiという人物のツイッターでの発言、および批判を浴びると鍵をかけて議論を放棄した点などが批判されていました。

私も「The fight for Osaka」を読もうとしたのですが、冒頭で挫折しました。いい加減すぎます。

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おいおい。

●風営法制定時には深夜営業の規制はありません。
●売防法によって遊廓が廃止されたわけではありません。
●売防法によってキャバレーやダンスホールが売春行為の温床になったわけではありません。
●「欧米文化の流入が盛んになったことで乱れはじめた風紀を正す目的で制定された」のではなく、直接には戦前の法が失効したことによって制定されたものです。

この文章では風営法制定時に深夜における営業が規制されるようになったようですけど、制定時には深夜営業に対する規制はなく、深夜喫茶が問題になって深夜の飲食店の規制が盛り込まれたのは昭和30年代以降ですし(※追記参照)、ダンスホールの深夜営業が規制されたのは1980年代です。制定時の風営法はムチャクチャシンプルなのです。

遊廓がいつ廃止されたのかはネットで検索すればわかることなので省略。

たぶんこの筆者は戦前からダンスホールが存在していた事実を知らず、戦後、進駐軍によって持ち込まれたとでも思っているのでしょうが、明治時代からあったダンスホールは、昭和初期に流行しています。もうひとつの流行のピークが昭和20年代です。戦後の復活はRAAから始まったと言ってもいいんでしょうけど。

古いものを読んでいると、タキシダンサーという言葉が出てくることがありますが、これがチケット制のダンサーです。チケット制は海外でも例はあるのですが、とくに日本で普及したものであり、そういったダンサーたちが客と店外で会うことは戦前からあったことです。

売防法によって食えなくなった赤線女給らの中には、キャバレーやダンスホールで働き出したのも一部にいるでしょうが、そのためにキャバレーやダンスホールが売春行為の温床になったなんて話は聞いたことがないし、なんで1948年にできた法律が、10年後の法律のためにキャバレーやダンスホールを規制対象にしていたと言われているのかワケがわからんです。

戦前もダンスホールは法の規制を受けていたはずですけど、戦後間もなく庁府県令が失効したため、その代わりに制定されたのが風営法であり、ことさらに欧米文化云々を意識して作られたわけではないと思います。戦前具体的にどういう条文で規制されていたのかまでは知らないですけど、ここまで書いて来たように、風営法制定時には、接待青少年に及ぼす影響の観点から、ダンスホールを規制したのだろうと私は推測しています。

以上、より正確なことを知りたい人がいたら、資料はナンボでもあるので、暇な時にでも調べちゃりますけど、普通は原稿を書く人が自分で調べるこった。

この部分は本論と関係がないのでしょうし、読んでない部分については何の論評もしないですけど、いい加減なことを書いていたらダメでしょ。推測したんだったら、そうとわかるように書きましょう。ちゅうか、好き好んで、本論と関係がないことを書いて間違いを晒さなきゃいいのに。と土臭いライターは思います。

訂正すれば済むって問題なので、訂正したら、続きを読もうかと思います。
 
 
追記1:深夜喫茶等が問題になって、昭和34年に改正された段階では、営業時間に関する規制は盛り込まれておらず。詳しくは2306/風営法と深夜喫茶参照。

追記2: そんなに正確にしておく必要はないのですけど、たまたま続けて、ここに書いたことに関する記述を読んだので、補足しておきます。
戦前と違って、戦後のダンスホールは最初からキャバレー化。チケットの売上げを収入にしていた純然たるダンサーを揃えた新橋「フロリダ」などもあったにせよ、接客もする女給兼ダンサーを置いた店が多かったようです。
昭和20年代後半からキャバレーは急増。昭和29年の段階で、キャバレー協会に属するキャバレーは東京に26店あり、その大半はダンスホールからの転身。この時点で、ダンスホールはすでに流行らなくなっていたのでしょう。そのキャバレーの女給でも社交喫茶(カフェー)の女給でも売春するのはいたわけで、この傾向は、戦後すぐから始まっていたことです。あるいは戦前から。
売防法によって、赤線女給がこれら水商売に流れたのも事実ですが、ダンスホールは凋落しつつあったので、ダンスホールに流れたのは少なかったはず。また、水商売に転じて以降も売春を続けたとは限らず、赤線出身であることを隠していた銀座だか新橋だかのホステスの手記も昭和30年代に出ています。タイトルは忘れました。売春を続けたのもいましたが、単純売春ですから売防法の処罰対象ではなくて、それより警察が対策に頭を悩ませていたのは、白線です。白線についてはこちらをどうぞ。