2010-11-30

お部屋2137/「ごっこ右翼」のアンバランス

読んでいない方は以下を先にお読みください。

2132/ひさびさに「メタ視力」
2133/客観のない人々
2135/右翼ごっこに集う人々
2136/「ごっこ右翼」の行きつくところ
 
 
「ごっこ右翼」(©ミハルちっく)関連のエントリーはアクセスが多いです。ヤツらの正体を知りたい人が多いのでしょう。私としては「メタ弱視」「客観なき人々」を体現している例として「ごっこ右翼」を取りあげているだけのことで、「ごっこ右翼」の批判に主眼があるわけではないのですが、今回も「ごっこ右翼」の特性について続けることにします。ほとんどは過去に書いたことですが、私自身、その意味が当時よりも見えやすくなってきていますし、読んでいない方も多いでしょうから、改めて説明する意味もありましょう。

前回、軽く触れたように、「SM解体新書」の打ち上げで、興味深い話を聞きました。

ある種の病気の人たちは、文章を朗読することができないのだといいます。文字は読めているのに、それをそのまま同じ文章として再現することができない。そこに自分の世界観が投影されてしまって、もとの文章を保てないらしいのです。

この話を聞いて、病気とまではされていないながら、より軽い同様の例があるのだろうと気づきます。文章の朗読はできても、その解釈において、自己の世界観が投影されて、その文章が本来もっている客観性が保てない人たちです。

言葉や文章の解釈にはブレがあって、そこに個性が入る余地があるにしても、言語はそれ自体、客観的なルールに基づいています。感情や思想、事象を伝えるために言語を道具として使用するわけですが、客観的なルールを無視して、自分の都合で言葉を理解すると、表現されたものを正しく解釈できず、また、正しく表現することもできない。

このことから、私は「客観のない人たちは、言葉や文章に自己の世界観が投影されやすく、他者の文章の解釈や、自己の文章の表現において、客観性、普遍性を保てない傾向があるのではないか」と考えました。

具体的に言えば、他者の文章の解釈において「自分勝手な読みをする」「言ってないことを言ったかのようにとらえる」「言っていることを読み取れない」といった傾向、自己の表現においては「言葉の誤用が多い」「誤字脱字が多い」「一般には使用しない語法を説明なく多用する」「数字の間違いが多い」といった傾向です。

これらは単なる不注意や誤解、手癖によっても起きるものであり、私もしばしばやってます。おっちょこちょいな性格じゃなくても、これらから完全に逃れられる人はいないため、いくつかの例があったところで、それをことさらに取り出すべきではないでしょう。また、言語的能力が劣っている人、言語的知識が乏しい人にとっても起きやすいことなので、その差を排除して「メタ視力検査」に応用することは困難ではあるのですが、ひとつのメドにはなりそうです。

以前も書いたことですが、根本敬が言っていたことです。彼が興味を抱く「ある種の人たち」は、名刺に肩書きをズラズラと並べたがります。だいたいは聞いたことのない団体名で、中には自分一人でやっているような団体名も入っている。しばしばそこに誤字があると。

「肩書きを並べることにそうも熱を入れながら、なんで校正しないんだ」「みっともないのに、なんで刷り直さないんだ」って話です。このアンバランスさにこそ、この人物の内面が正しく表現されています。「自分を大きく見せかけたい」と渇望することから、自分の存在が小さいことを認識できているだろうことが推測できる。そのわりに第三者からの視点が欠落している。

コンプレックスが強く、なおかつ客観がない性質が重なった時に、こういう名刺を作り出してしまうようです。

このようなアンバランスさは、「ごっこ右翼界隈」にもよく見られます。国家を憂いて、日本文化を守らんとする人たちが誤字だらけ。YouTubeにもまとめられてますので、笑ってやってください。

プラカードや立て看の文字は、全体のバランスなどに気を取られて間違いやすくはあるのですが、できたものを見れば気づくってものです。それでも気づかず、「言葉の不自由な朝鮮人」と叫んで、公道で恥を晒すのが「ごっこ」らしさです。

1度や2度ならともかく、この数の多さには何かしらの意味がある。なにしろ、あれだけの人数がいても、誰もそれをおかしいと思わないのですから、これは集団の特性と見ていい。「厚顔無恥」とは「ごっこ右翼」のためにある言葉でしょう。

「日本語の消滅の危機」を理由に移民反対を主張しているくせに、誤字混じりのプラカードを胸にぶら下げる瀬戸弘幸は、旧仮名遣いを知りもしないくせに、戦前の本を持ち出してバカを晒したことがありました。

詳しくは1764/瀬戸弘幸とは 10・ルサンチマンとしての右翼活動をお読みいただきたい。言葉に対するこの鈍感さはいかにも「ごっこ右翼」らしいです。ここで私は「コンプレックス丸出しの権威主義者」と瀬戸弘幸を評しています。

瀬戸弘幸に限らず、「ごっこ右翼」界隈のアンバランスさは、マスコミに対する姿勢においても見られます。マスコミを左翼だの売国だのと非難しながら、いざとなるとマスコミ報道に頼る。ある記事がどうして信用できないのか、そして、ある記事はどうして信用できるのかを論証しているならいいのですが、信じたい記事は鵜呑みにし、信じたくないものは「マスゴミ」として信じようとしない。つまり、彼らにある基準は「自分の都合」だけです。

瀬戸弘幸は、何を思ってか、「ジャーナリスト」と自称して、見事笑いものになり、そこでジャーナリストであることの根拠として出してきたのが「読売人名録」。プッ。

しかも、「読売人名録」に出たのは出版者、出版人としてであって、ジャーナリストとしてではないらしきこともわかってきて、以降沈黙し、「自称ジャーナリスト」ならぬ「詐称ジャーナリスト」として認知されるようになります。

権威が大好き、マスコミが大好きなのですね、瀬戸弘幸は。本当はジャーナリストとして脚光を浴びたかったのに、「内部告発」や「FBI」に踊らされ、ベランダのウンコに翻弄される滑稽さばかりが脚光を浴びてしまいました。「座礁ジャーナリスト」とでも言いましょうか。

こういうところがダダ漏れになるマヌケさ、子どもっぽさが「瀬戸ちん」と呼ばれて皆に愛されるところだったりするわけです。「せとちんは勉強ができないけど、憎めない子なのよね」と近所のおばちゃんたちに言われている子どもみたいなもんです。

同エントリーには黒田大輔もまたマスコミが大好きであるとの話を書いています。さすがに瀬戸弘幸がニューリーダーと持ち上げた人物だけのことはあります

このところ話題の黒田大輔の無様な遁走ぶりも瀬戸弘幸譲りであり、この人物の言動を見ていると、「メタ弱視」「客観なき人々」の特性がよくわかり、「ごっこ右翼」界隈の未来までが鮮やかに見えてきます。

次回は「著作権とメタ弱視」編に入ります