2010-11-28

お部屋2136/「ごっこ右翼」の行きつくところ

今期の「マツワル」の購読者募集も無事終了しました。申し込んでいただいた方々はありがとうございました。

このところ続いているメタ視力という考え方も、かつて「マツワル」でずっとやっていたテーマです。拙著『クズが世界を豊かにする』で簡単に説明していると書きましたが、前回リンクした1730/3羽の雀とはでも、「人は空間をどう把握するのか」という話にからめてメタ視力を説明していますので、参考にしていただきたい。

ツイッターで、2132/ひさびさに「メタ視力」2133/客観のない人々2135/右翼ごっこに集う人々にツイートしてくれた方々がいて、私もそれに反応したのですが、間が空き過ぎて、「手動RTってどうやるんだっけ」と戸惑ってしまいました。

ツイッターも私は持続できなかったわけですが、3羽の雀さんはツイートをし続け、トゥギャり続け、ペースは落ちたと言えブログも更新し続けていて、内容の的確さだけじゃなく、その持続力には驚きます。

それぞれに得意なアプローチの方法や期間というのがあって、短期集中型にも存在意義がありますから、誰もが3羽の雀さんのようなアプローチをしなければならないわけもないのですが、やろうと思ってもできることではないので、私としてはただもう感嘆するしかない。

3羽の雀さんのようなタイプが、「ごっこ右翼」側には一人としていないと書きましたが、もしいたとしたら、こうまで多数の批判者を作り出し、次々と逮捕者を生み出し、訴訟で身動きとれなくなることもなかったはずです。なんて仮想は意味がなく、3羽の雀さんのようなタイプがいたら、とっくに排除されていたか、とっくに自ら去っていたことでしょう。

「他者の事情」「社会の事情」という視点が欠落し、行動原理が「自分の都合」でしかない人たちは、法といった客観的なルールさえ守れない。その都合に合致する限りは手を組めますが、合致しないものは「敵」「工作員」として排除する。その排除と敵対の体質が彼らの現在を招いており、批判する者を内部に留めておけない組織の必然です。「中国人は出ていけ」「在日は国に帰れ」などと主張する人たちは、やがて内なる他者を敵視して分裂し、敵対し、崩壊していく。まさにブーメラン。

そのことを考えても、メタな視点を獲得できる能力、客観的な視点から検証する能力がいかに重要かがわかりますし、この能力には個人差があって、その能力が欠落した者たちが集まったのが「ごっこ右翼」だったことがよくわかります。

「マツワル」で継続してメタ視力を論じていた時も、読者からの反響は多数あって、「人間が俯瞰して社会を見るようになったのは近代になってからではないか」といった指摘もされました。興味深いテーマではあるのですが、私の手には負えず、そのままになってしまってます。

地図は地理を俯瞰したものですし、山に登れば平地を俯瞰できますから、空間の把握における俯瞰能力は相当古くからあって、現実には見ることができない視点から描かれた絵画は近代以前にもあるわけですが、人間関係や社会を俯瞰することができるようになったのは近代のような気もするし、もっと古くからあるような気もするし。

たとえば神の存在を信じた段階で、神の視点から自分らが見下ろされている感覚はあったはずで、しばしば神は天空に存在するとされているように、神を想定した時に、その視点は俯瞰になっていたはずです。この空間的俯瞰は社会の俯瞰、人間の俯瞰にも通じています。

また、物語は古くから第三者の視点によって描かれていますから、その時点で俯瞰する視点、つまり客観はあったのではないかとも思われますが、神と通じる能力、国を司る能力、物語を紡ぐ能力は、今の比較ではない特殊な能力者のみが身につけていたものかもしれません。

「客観の発生と変遷」「客観の文化的差異」といったテーマについてはどなたか適切な知識のある方にお任せするとして、今現在の我々に必要なことは、他者の視点で物を見る、客観的に検証をするということの意義を確認し、それにも能力差があるってことを認識しておくことかと思います。

この能力は「あった方がいいが、自覚している限り、なくてもそうは困らない」という能力でもあります。音痴も自覚している限りはそう迷惑ではないように。

空間把握の能力が低い人は向かない職業もあるわけですが、そういった人々は全体を見渡す能力が必須の建築士には就きたくても就けないわけで、それが必要のない職業に就くことになって、日常生活ではさほど困ることはない。せいぜい道に迷いやすかったりするくらいで、カーナビのある時代には車の運転においても支障は少ない。

同じくメタ視力が劣っていたところで日常生活にはさほどの支障はない。客観的な判断、公正な判断をしなければならない職業には向かないですし、事実を調べ、検証する職業、たとえばジャーナリストにも向かないでしょうが、瀬戸弘幸がジャーナリストと名乗ったところで笑われるだけであったように、そんな無能な人物がジャーナリストであることを認めるほどこの世の中はバカではありません。

ただ、その自覚が難しいがために、「(瀬戸弘幸のように)思い込みで発言して笑われる」「「(瀬戸弘幸のように)ガセに踊らされて恥をかく」「(瀬戸弘幸のように)何が議論されているのか理解せずに発言して混乱させる」「(瀬戸弘幸のように)社会運動に関わって迷惑をかける」ということになりがちです。他人もそのおかしさがどこにあるのかがわかりにくいため、おかしさをきれいに指摘できない。

「ごっこ右翼」以外にも、こういう人たちは存在しています。

音痴も自覚はしにくかったりするわけですが、音感のある人間にはすぐにわかって、指摘されることで本人も自覚できます。視力や走る能力であれば客観的な数値によって自覚もできます。自覚ができればそれを補う工夫もできるし、他者も対応の仕方があります。

そこで、これを数値化できるよう、「メタ視力検査」を作るというのがかねてからの課題です。「SM解体新書」の打ち上げで、ゲストの尾谷幸治さんらに相談したのですが、そう簡単ではないようです。

ただ、この時にヒントはもらいました。あるところにメタ視力の優劣が出やすいようです。

続きます。