2010-11-12

お部屋2128/ノーギャラ時代

クボケンがポットチャンネル第一回の打ち上げで言っていたんですけど、ラジオのゲストに呼ばれてノーギャラということがあるんですってね。コミュニティFMだったらわかりますが、誰もが知っているFM局ですよ。

「プロモーションということで」と言われたそうですが、その時のクボケンには、宣伝するような本もイベントもない。FMはAM以上に経営が厳しくて、ついには地方のFM局が潰れ始めていますから、なにかにつけ金を払わない方向になっているってことです。

一方、ポットチャンネルを含めて、ギャラを出すUst番組が増えていて、だったら、そっちに出た方がいいですわね。

とは言え、宣伝のためだったら、いまなお万単位の人が聴いているラジオ(コミュニティFMだったら数十人しか聴いていなかったりもしますが)にも出る意義はありますから、「プロモーションで」としてタダでゲストを呼ぶ方法も間違っていない。

つうか、今後、ラジオはそういう媒体になっていくだろうと以前から私は言ってます。じゃないと潰れます。

その時に、自前で収入を得る方法がある人はいつでもタダで出られる。私で言えばそこに出ることによって、「マッツ・ザ・ワールド」の購読者を1人でもゲットすればペイできる。本が10冊売れても、その印税では交通費にしかならないのに対して、メルマガだったら、1人でもその日の生活費になる。いきなり出て、すぐにメルマガを購読する人はそうはいないですが、その中からブログを読む人が出てきて、さらにその中からいつか購読する人が出てくればよい。どうせだったら、出演料ももらえた方がいいですが、もらえなくても出演する選択が可能です。

人によってはアフィリエイトで収入を得ている。人によってはバナー広告で収入を得ている。人によっては有料ブログで収入を得ている。これらが可能になったのはインターネットのおかげであり、既存メディアからの収入を必ずしも当てにしなくてよくなって、既存メディアの宣伝力だけを当てにする。だから、「プロモーションで」という放送局の言い分も成立します。

「宣伝力があれば」という条件であって、ワシは、コミュニティFMやUstにタダで出るのはイヤだな。趣旨に賛同するとか、知人がやっているっていうならまた別の動機があるとして。

つまり、客をつかんでいる既存媒体こそ、「ノーギャラで」が成立するようになってきているわけです。そういう媒体の社員は、多くの場合、えれえ高給をもらってふんぞり返っていることに対する腹立ちはどこまでもあるにせよ。

雑誌だってそうです。部数の多い雑誌ほど、原稿料が安くても書く意味があります。部数の多い雑誌では半分寝ながらデタラメを書いていても許されるようですしね(しつこい)。宣伝力があるのに製作費が確保できなくて困っている媒体の方はいつでも私に言っていただければ。原稿は時間がかかるので、タダで引き受けるわけじゃないですが。

聞くところによると、今後続々と出版社のチャンネルが始まるらしい。本のプロモーションということで、ギャラが出ないこともありそうですが、本来宣伝は出版社の仕事であり、著者は書くのが仕事。したがって、自分の本であっても、宣伝で動く場合は、出版社がギャラを出すのがスジなのですが(注)、もうそんなことを言っている場合ではないです。本が売れて、それによってメルマガの購読者が出てくれば、それもまたペイ。

私も本が出たタイミングだったら、一般のFMやAMのラジオのみならず、コミュニティFMでも、Ustでもタダで出ます。1冊でも売れた方がいいので。今までだって、本が出る時は宣伝のためのタダ原稿をネットで書きまくっていたわけで、その延長です。

この「黒子の部屋」も元はといえば宣伝のために始めたものです。だからポット出版内でやる意味がありました。そこにタダで書くことに費やす労力や時間が宣伝効果に見合うかどうかという問題は今なおありますが、これまでは本の宣伝するためには金を出さなければならなかったわけで、それがタダでできるんだったら、喜んでやりましょうってことです。

というタイプの人たちにとっては、宣伝利用できるチャンネルが増えることは歓迎すべきであり、そういう人たちには場が与えられる。

まだ続くのですが、長くなったので、次に回します。
 
 
:佐藤秀峰が自分の単行本の表紙イラストを拒否した件については「マツワル」で詳しく論じ済みですが、「表紙のイラストにギャラが払われないのはおかしい」という氏の主張は、本来のスジからすると、至って正当なものです。表紙は「本を売るための宣伝物」あるいは「本というブツを制作する上で必然的に生ずるもの」という位置づけにあり、中身の著作物とは別です。

このことは一般の本で考えればよくわかります。著者が提供すべきは中身の著作物だけであり、表紙のイラストを描けとか、写真を撮れとか、デザインしろとか言われない。新聞広告を作れと言われないのと同じです。私は時々自分の写真を表紙に使ったり、アイデアを提供したりしていますが、これは好意でやっている、あるいはやりたいからやっているだけです。本というブツにまつわることは出版社の仕事であり、だから、社内のデザイン部が担当したり、外部に依頼します。このことを義務づけられているかのように考えられている漫画家の待遇は不当だとするのは間違っていない。

ただし、これとて合意があれば何の問題もなく、著者が合意したのであればやるのもスジ。暗黙の了解が成立しているであろう中で、直前になってこれを拒否するのはルール違反だという意見もまた正しいわけですが、そこに至るまでのルール違反が出版社側にあったようですから、話は複雑です。これらの齟齬はまた別途論じられていいとして、このことと表紙のイラストの扱いに関する議論を混同すべきではなくて、「自分の本なんだからイラストをタダで描くのは当然」などと考えている人は、その考え自体をまず疑った方がいいと思います。

今回私が書いている「そんな時代ではない」というのもまた別の論点であって、そう言っている私でも、佐藤秀峰のその点についての主張には同意できます。あるいは「ああいう人は嫌い」という人もいますけど、この議論において、てめえの好き嫌いはどうでもいい。勝手に嫌っとけ。

出版界においてさえ、きれいに整理できていない人がいるので、こんなところで説明してみました。