2008-02-21

お部屋1412/今日のマツワル76

自衛隊を褒めた途端にイージス艦と漁船の事故。刑法犯が少なくても、これは困ります。これをからめず、ここまでをもう一度おさらいしておきます。

前回出した数字は、「日本人の犯罪率、あるいは沖縄県民の犯罪率に比べて、米兵の犯罪率は低い。よって、犯罪を理由に、米軍に反対するのはおかしい」という人たちに対して、「比較する対象を間違っている。比較するなら自衛隊がより適切であり、それで言うと、はるかに米軍の犯罪率は高いと思われるのだから、あんたたちも一緒になって基地に反対しないとおかしいことになっちまうぞ」という話であります。

私としては、その数値をもって基地に反対すべきと言いたいのではなく、「数値が低いから、基地に反対するのはおかしい」という意見のおかしさを指摘しているに過ぎず、私は私で、強姦事件を基地反対に直結する発想に抵抗があるのはすでに書いた通り。

しかし、犯罪率が高かろうが少なかろうが、犯罪が起きた時に、その責任を負う人々に抗議し、再発防止を要求するのは当然です。

もし犯罪率で抗議することが正当か否かを判定していいのであれば、ある自衛官が強盗をやった時に、自衛隊は「ふだんは犯罪率が低いのだから、たまにはいいだろ」と言えてしまいます。

一連の不祥事に対して、国民の安全を守るべき日本政府が米軍や米政府に強く抗議するのも当然であって、今のところ福田政権はやるべきことをやっているように見えます。

対して、被害者に落ち度があるとして、米兵の犯罪を免罪するかのようなことを言う人々に強い腹立たしさがあるのもすでに書いた通り。

先日起きた泥酔した米兵の住所侵入事件も、この家の人が鍵をかけ忘れていたのかもしれませんが、だからといって、その落ち度をもって、不法侵入した側が免責されることはなく、「今後は気をつけてください」と注意を喚起されることはあっても、そもそも被害者が非難されることもない。

なのに、なぜ性犯罪となると、急に被害者に責を負わせるような発想が出てくるのでしょう。何も考えていないからですが、これは『売る売らないはワタシが決める』に書いたように、「女は肉体を社会から預けられているに過ぎず、それを『傷物』にした時に、その管理責任を問われる」ということかと思われます。

だから、自分の肉体を自分の判断で使おうとする女たちをこの社会は好まず、時に蔑視し、時に犯罪者にするわけです。

では、これを批判しているかのように見える高里さんは、この価値観から逃れられているでしょうか。逃れられていないから、どっちもどっちになってしまうと私には思えます。

今回と次回はそのことを具体的に見ていきます。

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< 餃子と米兵・番外3>

まず、【「アメジョ」は、米兵と親しくする女性たちを快く思わない人たちが反感を込めて使う言葉だ】という「朝日新聞」の定義について。

一般には「アメジョ」ではなく、「アメ女」という表記かと思います。ほぼ沖縄限定の言葉なので、沖縄の「一般」ですが。また、これまで知らなかったのですが、「アメ嬢」という言葉もあるようです。

ほぼ沖縄限定の言葉だということは、高里さんが「被害者はアメ女だ」と書いている人たちを【沖縄のことも被害者のことも何一つ知らない人たち】【沖縄の生活も知らずに】と決めつけているのは的はずれってことになりましょう。

沖縄通以外で、この言葉を知っている本土の人間はほとんどいないですから、彼女をアメ女としているのは、高い率で沖縄に住んでいる人であると推測できます。それを書き写しているだけの人たちもいるんでしょうけど、本土の人間たちだけが書いているはずはない。自分だけが沖縄のことを知っていると思わない方がよろしい。

たぶん高里さんは「アメ女」という言葉が日本全国で使用されていると思い込んでいるのではなかろうか。よくある誤解ではありますが、「こんなことを言う人たちは沖縄にはいるはずがない。だから、本土の人間だ」と発想したのでしょう。次回見るように、そういう強引な発想をする人なのです

「アメ女」の「アメ」は言うまでもなく「アメリカ」を意味します。沖縄という場所を考えた時に、この言葉には最初から蔑視の意味合いが貼り付いていると見ることもできますけど、私自身は悪い意味合いをこの言葉に見出すことができません。「米兵が好きな女」「アメリカ人が好きな女」ってだけ。言葉としてはそれ以上でもそれ以下でもありません。

「デブ専」「老け専」「ジャニ専」「外専」と同じグループに属する言葉です。これらの言葉を使用する際にも、蔑視がこめられていることも稀にはありましょうが、本来は単なる分類です。

「アメ女」も、その言葉が指し示す内容、つまり「米兵が好きな女」を蔑視する人たちが、当然のごとくに、この言葉を蔑称として使用するってだけのことです。蔑称して使用されている頻度が高ければ、そういう存在を蔑視している人が多いことを反映しているだけです。

検索してみたところ、今まで「マツワル」では2度この言葉を使用しています(103号、264号)。2度とも否定的な意味合いはなく、むしろ肯定的に使用しているとさえ言えるかもしれない。

かつてのパンパンたちは、巷間言われるように、生活のためにやむなくやっていたとは必ずしも言えず、とりわけ洋パンは、「好奇心」「アメリカへの憧憬」「自由の渇望」「性的欲望」といったものが先行しているケースが少なくないことが街娼調査の数値に残っていて、その部分における意識としては、今の「ぶらさがり」「ブラザー系」「アメ女」とさして変わらないという趣旨の文章です。

金のためであれば、何も「米兵専門」「黒人専門」「白人専門」などと、客を狭める必要がなく、洋パン、和パン、黒パン、白パン、ゴマパンといった区分がなされていたこと自体、彼女らの意識を雄弁に語ります。

国に縛られ、家庭に縛られ、道徳に縛られ、世間に縛られていた女たちが、敗戦によってやっと自立した選択ができるようになり、その象徴的な存在がパンパンでした。だから、こそ旧来の価値観に縛られた人たちはこれを叩いた。

この「パンパン」という言葉も、リアルタイムにカストリ雑誌などで使用されているのを見ると、多くはフラットな使用法であり、単なる街娼の意味しかない。「改造」1949年12月号では表紙に「パンパン」という言葉が大書されていることは264号で述べた通り。あるいは「街娼」「闇の女」といった言葉より親しみを込めている用法も多いもので、「パン助」「パン公」でさえも、そのように使用されていることがあります。

この頃のパンパンたちと直接の接点をもっていた人たちは、同情もあるにせよ、多かれ少なかれ、そこに主体的な意志を見出すことになって、時に共感、時に親しみ、時に敬意を抱くこともあり、それが言葉にも反映されていたわけです。

しかし、太平洋戦争が終わったことによって始まった彼らの闘いは、性病予防法や各種条例によって潰されます。ついには売防法で街娼たちが街から消え、「生活のためにイヤイヤやっていた」という解釈が広がるとともに、「パンパン」という言葉は蔑称として使用されるケースが増えていきます。

結局のところ、売防法によって売春が違法にされ、そのために売春する女たちへの蔑視が強まったということでしょう。そういう意識を持つ人たちが増えると、必然的に言葉自体がそのように使用されるだけのことです。

旧来の価値観に依ったままで、より好意的にこれをとらえようとする人たちも「生活のためにやむなくなったのであり、望んでいたわけではない」として、本人たちの主体的選択を否定し、戦争の犠牲者としてしか見なかったわけです。

果てに、その意義をこうまで肯定的に語る私に対して、「パンパン」という言葉は蔑称だとして、原稿から削除することを要求する雑誌まで出てくる始末。てめえらが蔑視しているからって、押しつけんなよ。

そのパンパンと通底する存在として、私は「アメ女」を出しているわけで、この言葉を蔑称とされることには腹立たしい思いがあります。ネットにも出てましたが、「アメ女にはブスが多い」という指摘には納得せざるを得ないところがあるにせよ、別にいいだろ、米兵が好きだって。基地に反対の私でも、個人の嗜好性をいちいちとやかく言うつもりはない。えれえ美人の兵隊がいたら、ワシだってセックスしたいぞ。アメ女を蔑視しているヤツらはしたくないんか。

自分がそうとしかとらえられないからって、「朝日新聞」が【米兵と親しくする女性たちを快く思わない人たちが反感を込めて使う言葉だ】と断定してしまうと、そういう人たちの手に言葉を手渡してしまうことになりましょう。勘弁して欲しいなあ。

米兵の弁護人が「あなたはアメジョですか」と聞いたのは、「米兵とのつきあいがありますか」と聞いているだけでしょう。

それによって裁判官の心証を悪くしようとの計算があるにせよ、この言葉を悪い意味で使用したと無条件に受け取る側にこそ、「米兵とセックスする」「米兵とつきあう」という行為やそういう人たちに対する蔑視があるのではないか。

高里鈴代さんは、自分の意識が言葉に投影されて、「アメ女」というだけで腹を立てているとしか思えないわけですが、ここでは「アメ女であろうと、ヤリマンであろうと、処女であろうと、既婚者であろうと、中学生であろうと、老婆であろうと、強姦は強姦」という論理をぶつけない限り、女たちを守りきれないし、くだらん自己責任論と闘いきれない(続く)。

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