2007-11-03

お部屋1366/今日のマツワル60

今回の募集は今のところまあまあ順調。気分をよくしてまたまた更新。とは言え、今回はあまり面白くないですけど、資料として役立てていただければ。

< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド 第1714号>>>>>>>>>>

< 東村山セクハラ捏造事件29>

東村山問題については、多くの人がすでに飽きているようです。ずっと興味を持ち続けることは無理な話で、2011年の選挙の前に再度盛り上がればいいかとも思ってます。

敵さんも、動きを起こすと、それを餌にして反応が起きることを察知してか、あまり動きが見られなくなってます。何を言ってもデタラメな思いつきですから、そりゃ叩かれるのは必至です。

そんな中、「エアフォース」は着々と矢野・朝木のデタラメぶりを記録すべく更新を続けていて、私ももうひと踏ん張りしようと思うのですが、取材に行く暇がありません。東村山は遠くてなあ。FM茶笛の入間はもっと遠いけど。

取材に行くまでは、資料になりそうなものを出しておくとするかな。

以前紹介した「スタートします 東村山市民情報センター」と書かれたチラシの裏面はすべて朝木明代のプロフィールです。これをすべて転載します。なにかしらの資料にはなろうかと。

単なる事実の羅列ですので、著作物ではなく、よって全文転載したところで何の問題もないことを確認しておきます。

————————————————————–

1944年9月 東京生まれ。

1960年3月 東村山町立東村山中学卒

1963年3月 都立武蔵高卒
    4月 三菱銀行入社

1966年4月 結婚・一男二女の子育て。共同保育も。

1975年9月 地域の子供会活動に参加。お年寄り達の協力もえて、たこづくり、諏訪神社でのサマーキャンプを行うなど、さまざまなイベントを実行。ユニークな企画、大胆な行動で東村山の「ボランティアおばさん」の実力を発揮。
   11月 76年度市教育委員会主催「婦人学級」の企画員として参加。以後、社会教育、公民館の学級・講座の企画員として活躍。

1976年10月 東村山市老人保健福祉事情(「老人地域サービス」)のボランティア活動に参加。いちはやく「老人問題」に取り組みました。

1977年8月 「老人地域サービス」発行の老人向けミニコミ誌「まつかさ」の編集にボランティアとして参加。以来、編集長。

1977年12月 「公民館の保育室を考える会」を結成、公民館に保育室を実現、育児期の母親が公民館を利用やしすくしました。

1980年4月 化成小PTA副会長。PTAの改革に努力。
   11月 「地域のお年寄りと主婦たちで「月曜大工ボランティア・グループ」をスタートさせ、お年寄りの知恵と技術をもとに、つくった竹製のベンチを街かどや公演に置いて、喜ばれました。

1981年3月 文化団体から推せんされ、東村山教育委員会の第5期社会教育委員に就任。社会教育行政の改革に取り組みました。この時期から、子供やお年寄りの問題だけでなく、視野を社会全体に向け始めました。
   年5月 電気いじりや工作の好きな地域の子供たちの声をもとに「少年電気クラブ」を発足させました。
   6月 地域文庫「西宿子供文庫」を主催。読み聞かせやイベントなどを通して、読書ずきの子供たちを育てました。

1982年9月 近所のひとりくらしのお年寄りの「孤独な死」に衝撃をうけ、「金曜昼食会」を企画、ひとりくらしのお年寄りや障害者の交流の場づくりをスタートさせました。5年目に入った現在も毎週続けています。
 精神障害者の家族会主催のバザーの企画、実行に協力するなど、ハンディキャップをもつ人たちと共に歩む「ボランティア活動」をめざしました。

1983年9月 国が認めた全国2番目のミニFM放送局の開局に協力。チーフプロデューサーとして番組制作を担当。

1984年8月 地元「有力者」たちが卒業生に募金をし、庭園を寄付するなど盛大に行おうとした「私立化成小学校110周年記念事業」について、「協賛会」の「募金運動」に、くらしを考える庶民の立場からストップかけました。二重に税金をとることになる「義務教育の私費負担」を否定した都の「通達」や、強制募金を禁止した都「募金条例」に違反したことが決め手でした。いつも庶民や弱者の立場にたって理路整然。地元「有力者」も舌をまく、法律にも明るい、実力の持ち主です。

1985年7月 都議会議員選挙に、非武装・平和・反原発、教育問題、自然保護、リサイクル、食品公害の問題を掲げて、無所属で立候補した「えびな裕さん」の応援。政党によらない、ふつうの市民が主人公の「政治」を訴え、クリーンな手づくり選挙で、市内4000票を獲得。
   12月 お年寄り自身が「老人問題」を考えるためのお年寄り中心とした「高齢化社会研究会」を発足させました。

1986年1月 友人の主婦たちと共同経営で、リサイクル・ショップをオープン。
 2倍以上の高値で前市長が買い取った七中建設用地代替地問題(廻田町)について、「監査請求」を行いました。東村山市の歴史上初めて、監査委員が、この「請求」を認め、1億4千万円もの市がうけていた損害を取り戻すことができました。市議会でもうやむやにされた問題にしぶとく取り組んで解決させたガッツの持ち主。権力をかさに、利権・金権にむらがる「おごりの政治」には、最後まで徹底して斗います。
   5月 「東村山市民新聞」の三代目編集長に。
   6月 参議院選挙で、東京地方区から立候補した「中山千夏さん」の「政党政治がひどすぎる」という考えに共感、東村山市の責任者として応援。市内6000票を獲得。
   7月「高齢化社会研究会」の世話人代表として、ひとりくらしの老人のための「老人アパート制度」実施の運動をスタートさせました。
   9月 文化団体の推せんで東村山市立公民館の第4期公民館運営審議会委員に。
   10月 シンポジウム「原子力発電の安全性を考える」を企画。
   11月 「地域を考える草の根市民の会」をつくり、「市民情報センター」をスタートさせる。
 市が決めた「ごみ収集有料化」は、同日選挙304議席」後の「おごりの政治」の象徴みたいなもの、庶民いじめの二重課税はお断り。くらしを考える主婦の立場から、「有料化」を白紙に戻す運動に取り組んでいます。

————————————————————–

「斗う」という漢字を使用していることから、たぶん矢野穂積が書いているのでしょう。

自画自賛が気になりはしますが、選挙に向けたビラはたいていこんなもんです。それ以外はとりたてておかしさを感じません。

これでは左派リベラル派は騙されてしまいましょう。つうか、現に騙されてしまったわけです、中山千夏、矢崎泰久、永六輔らの協力もあって。

おそらく「明代の時代はよかった」と言う人たちは、このようなイメージのみを根拠にしていて、実態は知らなかっただけでしょうが、どうやら銀バエ男と明代がはっきりと増長し始めるのはこれ以降、つまり1980年代後半に入ってからのようです(続く)。

< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド mat@pot.co.jp>>>>>>>>>>