2007-09-23

お部屋1330/今日のマツワル51

この10日ほど、私が遠くに行っている間に、矢野・朝木は、議員辞職勧告請願を出した人物と、その紹介議員である薄井市議・佐藤市議を訴えたのですね。バカだなあ。
http://tyubunn.blog.ocn.ne.jp/berumokku/2007/09/post_5890.html

これでやっと私の姿勢を表明することができます。私は矢野・朝木に対する議員辞職勧告請願に賛同してません。それどころか、大いに批判的です。せっかくここまで追い詰めてきたのに、なんで今更相手と同じことをやって話を振り出しに戻し、矢野・朝木に対する批判を無効にするようなことをやるのでしょう。

これについては「マツワル」ではたっぷり批判してましたが、公にすると、矢野・朝木を喜ばせるだけですので、ムカつきながらも、今まで黙ってました。それぞれが正しいと考える方法を選択すればよくて、なにもわざわざ私が否定することはなかろうとの気持ちもあって。

しかし、困ったことになりました。薄井市議に対する議員辞職勧告請願と同様、こちらの請願も中身を論じるまでもなく却下されるべきであり、それまでは様子見をするしかなくなってしまったのです。触れないのもヘンですから、掲示板に書き込む気もなくなりました。すべてとは言わないまでも、私と同様の考えの人もいて、請願によって、事は沈静化してしまった部分があります。

この状態をうまく活かすこともできたはずなのに、矢野・朝木ときたら、名誉毀損で訴えるという、考えられる限り、もっとも拙い対抗手段を選択。拙攻に対して、さらなる拙攻をぶつけることによって、「自分自身はデタラメな根拠で他の議員の辞職を求めておきながら、同じことをされると、今度は訴訟で対抗する愚劣極まりない人物たち」であることを自ら明らかにしました。ホントにバカですね。

これでもう私の姿勢を明確にしてもいいでしょう。話は「どっちもどっち」になって触れられなくなっていたのに、やっぱり相手の方が上手でした。請願を出した人たちが、これに対抗して、今度は矢野・朝木を名誉毀損で訴えて、またまた話を振り出しに戻すようなことをしないことを切に願いたいものです。

私としては、請願を出した人たちを弁護する気はなく、考え方がまったく違うため、これ以降、ともに手を握って行動できるとも思っていないのですが、矢野・朝木が他者を名誉毀損で訴える資格があるのか否かを明らかにして、矢野・朝木の訴訟がいかに傲慢で狂ったものであるかを確認しておくことにします。なお、この回は8月に書いてあったものです。

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< 東村山セクハラ捏造事件25>

前出の冊子「東村山市議故朝木明代氏の万引き・死亡事件につき正しい報道を望んで」の後半に、矢野・朝木の発行物、また、それに対抗する側の発行物が資料として転載されております。これらはすべて家庭に投函されたもののようです。ネットが普及していなかった当時も、家にいながらして、バトルを楽しめたのですね。

「東村山市民新聞」
だけではなく、その「速報版」と題された「くさのね通信」なるものも出てます。今はこの「くさのね通信」も発行されていないようです。いよいよこの当時、どこから資金が出ていたのかが気になりますねえ。これもいずれ明らかにしたいものです。

「くさのね通信」のオリジナル何号分かに目を通したのですが、「東村山市民新聞」よりさらに品がない。「東村山市民新聞」より品がないってどんなんだってことですが、事実です。

この冊子には出てませんが、これ以外にも矢野穂積はさまざまなチラシを配布してます。「東村山市民新聞」の号外というものもあって、一時は毎週のようになんらかの発行物を配布していたようです。

これらはもっぱら市議会や市役所内で配布していたものなのですが、しっかり保存していた人たちがいたのですね。

その中から、「下品」の一例として、「くさのね通信」の28号を見ていくとします。一見して、「頭に変調をきたした心身症か失語症のヒステリーハエ男」が書いたものであることがわかります。

この号は、当時、議員でもなんでもないのに傍聴にやってきては野次っていた矢野穂積が、本会議場にまで入り込んで、市議たちに注意された時の報告です。議員ではなく、議会に招かれたわけでもないのですから、注意されるのは当然です。何様だ、こいつは。

いかにもそうする事情があったかのように、自分に都合のいいことを書いてますが、どう見ても何の権利もないのに本会議場に乗り込んだってだけのことです。そこまではこの「くさのね通信」からも読みとれます。なのに、自分がルールを違反したことに対する反省はまったくないまま、叱責した議員たちを罵倒。どこまで傲慢なのか。異常なまでに「自分を棚に上げる能力」が高いのは今も昔も一緒です。

【特に変調をきたしている共産党議員団】【自分でも認める「心身症」の小松議員】【「失語症」で「ウルセエ、ウルセエ」だけの黒田議員】【錯乱気味の青木議員】
(社民連の木内議員は)払っても払っても寄ってくる、まるで「ハエ」男。眼をつりあげて、全然、意味もわかんない“男ヒステリー”】【恥の上塗りを続ける青木「ピーマン議員」】といった具合。呆れた狼藉ぶりです。

ここも今の矢野穂積とまったく同じで、論理で勝てないと、相手にレッテルを貼って、罵倒を繰り返すだけになります。「ネットオタク」だのと壊れたテープレコーダーのごとくに繰り返す様子はみなさんご存知の通り。こうなっている時は追い込まれているわけです。

以前書いたように、矢野・朝木は、自分でやっていることを他人がやるとヒステリックに攻撃します。自分の方がひどいことをしていてもなお攻撃する。天才的棚上げ能力者です。

もし他人が矢野・朝木」を「変調をきたしている」などと評したら、途端に名誉毀損などと騒ぎ立て、果てに本当に訴えかねないでしょう。無実の人間を訴えることになんら痛痒を感じない人たちですから。

しかし、裁判になったら、自分で使用している以上、訴える資格なしということになるはずですので、こいつらが今までどんな言葉で他者を批判してきたのか、確認しておく必要があるでしょう。

ここで「ピーマン議員」とされた青木というのは青木なち子(菜知子)議員のことです。市議会議員から、都議会議員になった人物で、のちに民主党に移籍してますが、以前は日本社会党に所属。現在は政界から退いています。まだ50代ですから、政治家としてはこれからの人ですが、矢野・朝木を見ていて、政治がイヤになったのかも。

この青木議員に【保守顔まけの「特権意識」】なんて言葉を投げつけるわけですが、議員でもないのに会議場に入れると思い込む特権意識を先になんとかすべきでしょう。

この青木議員は、草の根に対して毅然とした態度をとり続けていたために、矢野・朝木は彼女を目の敵にし、「くさのね通信」でとりわけ罵倒を繰り返しており、青木議員を【アホキピーマン議員】と呼び、【アホカ、アオキ】とも書いてます。この時代、中身がないことを指して、「話がピーマン」という言い方が少しだけ流行ったことがありますが、このフレーズがよっぽど気に入ったらしい。センスのなさがよくわかりますね。中身がないのでなく、頭の中にウンコが詰まっている矢野だけのことはあります。

「朝木明代が生きている時代はよかった」なんてことを言いたがる人たちは、実のところ、朝木明代が生きていた時代のことを知らずに言っているのでしょう。私が会った範囲で、生前の朝木明代を知る人たちは、今の朝木直子とさして変わらず、矢野と一体化した存在であったと言います。だったら、「よかった」はずがない。

日付がないのですが、おそらくこの「くさのね通信」は1988年の発行です。少なくともこの時までには、矢野は今と同様の変調をきたし、朝木明代はそれに従っていたわけです。

朝木明代が議員になったのは1987年のことです。つまり、議員になった時点で、ほぼこの調子であったであろうことが想像でき、議会での発言さえもすべては矢野の作文だったとも言われています。

市民団体である草の根の事務所がオープンしたのが1982年。1階を喫茶店として、2階を事務所として使用。この頃に矢野と朝木は知り合っています。宇留嶋瑞郎著『民主主義汚染』にはこうあります。

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喫茶店「ミッシェル」の二階は、矢野と明代の活動の拠点となっただけてぜなく、二人がプライベートな関係を深めた場所でもあったようだ。

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「プライベートの深い関係」をもとに、議員としての明代には、矢野穂積がベッタリと付き添っている以上、「朝木明代が生きている時代はよかった」なんてことがありえないことがよくわかろうというものです。

朝木明代が市議に立候補したきっかけは、選挙の応援をやったことにあります。1983年、矢野が経営する学習塾を手伝っていた蝦名裕が市長選に立候補して落選。蝦名は1985年に都議会議員に立候補して4000票を獲得するも落選。この蝦名は、草の根の中心メンバーだったのですが、その後、決裂した模様。

1986年に「東村山市民新聞」を発行し始め、翌1987年に中山千夏が参院選に立候補した際に選挙協力をし、矢野と明代は東村山の責任者となって、市内で6000票を得てます。それだけの集票ができれば、確実に市議に当選できると彼らは計算したのでしょう。

その当時の朝木明代のイメージをよく伝えるチラシがあります。「スタートします 東村山市民情報センター」と書かれたチラシです。「市民情報センター」というのが何かよくわからないのですが、おそらく市議選に出馬することを決意していて、それに向けての土台作りを始めたのでしょう。

このチラシには、「応援します」として、中山千夏と矢崎泰久が写真入りで推薦文を出しており、永六輔も【私も応援しています】と一文を寄せてます。

一市議の推薦者としてはこの上ない布陣です。おそらく推薦者の名前も効を奏して、明代は最下位当選を果てします。

もちろん、今となっては後悔してましょうし、これ以降、名前が出てこないことから、3名とも縁を切っているのでしょうが、「草の根」が今なお存在する基盤を作り出した以上、この3名の責任は重いと言わざるを得ません(続く)。

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