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ポット出版欠歯生活
第8回奥歯が砕ける

書き手北尾トロ
[2003-05-03公開]

 最初は威力があった鎮痛剤もすぐに効かなくなった。緊急病院に行こうかとも思うが、できれば医科歯科大で見てもらいたいし、ガマンできないほどの痛みではないので動くに動けないところがある。だが、なんとかなるのも昼間の話。夜になるとジリジリ痛みが増し、夜中には最高潮。寝るに寝られない状態になる。なんの対策も打てず、ただ痛みが収まるのを待つだけの自分が情けない。
 最低なのは、やっと眠れたと思ったら、勢いよく上下の歯を噛み合わせてしまい、電気が走ったような激痛で目が覚めるときだ。ガンガン響くアゴを押さえながら洗面所に行き、うがいで痛みをまぎらわせようとするが、そんなものは気休め。患部冷却用のパットを貼り、波が引くまで耐える。そんなことが一晩に三度もあった。
 日曜になると鎮痛剤の飲み過ぎでフラフラになってきた。食欲はあるのだが、血の流れがよくなるのか、食後に痛くなるのでスープを流し込む程度。歯と歯が触れるのを極力裂けるため、口が半開きのバカ面で押し通すしかない。
 その間にも症状は悪化の一途をたどっているようで、右下の歯茎ははっきりわかるほど腫れ上がっている。顔半分宍戸錠である。
 それでも救急病院に行かず、月曜の朝イチで医科歯科大に行くことを選んだのは、執刀医に診てもらいたいこともあるが、ぼくが歯の痛みに慣れているからだろう。
 思い出すのは15年ほど前の正月のことだ。あれはまったくひどかった。
 大晦日から始まった痛みは年が明けてもまったく引かず、鎮痛剤も今治水もさっぱり役に立たない。しかも最悪なことに、痛みの元がどの歯なのかさえ、よくわからない。右上ということは確かなのだが、そこはすべて銀の被せ物に覆われている。当時のぼくには、被せたところほど、また虫歯になりやすいという知識すらなかった。
 痛みの波状攻撃と鎮痛剤の飲み過ぎに寝不足が加わり、ぼくは何をしたか。風呂に入ったのである。アホだ。血行がよくなると、痛みはさらに強まった。動揺したぼくは表に飛び出し、走り出した。ますます血の流れはよくなる。もう、どうしていいかわからない。立て続けにタバコを吸い、水を飲み、歩き続けるだけだ。しまいには歌い出した。歌っていると、その間だけは気が紛れるのだ。だからずっと歌いまくり、朝まで夢遊病者みたいに歩きまわった。
 1月2日、やっと探した歯科医に駆け込むと、医師はすぐにかぶせた銀歯を外して言った。
「こりゃひどい。よくガマンしたねぇ、たいしたもんだ」
 あのときほど、ホメられてうれしくなかったこともない。細かいことは忘れたが、銀歯の中が虫歯になり、溜まったガスが内側から圧力をかけたとか、そういう原因らしかった。
 あの絶望的な痛みを思えば、十分守備範囲だ。外見はみじめだが、苦痛は3段階評価のレベルB。少しだけでも眠れることがその証明である。
 あと一日。月曜になればすべて解決する。そう考えると苦痛も和らぐ。
 だが、解決はしなかったのである。月曜の朝イチで医科歯科大に足を運ぶと、担当医が休みだったのだ。別の医師が診てくれたのだが、腫れた歯茎を切開するわけでもなく、抗生物質と痛み止めをくれてレントゲン写真を撮っただけ。水曜日にならないと具体的な治療はしてもらえないことになった。
 たった2日ではあるが、落胆の気持ちで過ごす時間は長い。抗生物質の威力に期待するしかないが、効き目はわずかだった。相変わらずの腫れと痛み。仕事どころではない。
 待つ待つ待つ。そして水曜。食欲がないためげっそりやつれた顔半分宍戸錠が再び窓口へ。
「あ、これはまずいな」
 最奥の仮歯を取った担当医が呟く。ん、どうしたんだ。レーザーメスで歯茎を焼いたときに雑菌が入ったとか、そういうことじゃないのか。
「歯が砕けています。こうなると抜くしかないな」
 写真を見ると、仮歯の下にわずかに残った自前歯が裂けたようになっている。砕けた歯が歯茎を傷つけ、化膿してしまったようだ。かろうじて生き延びていた歯も、こうなると一巻の終わり。抜くしか方法がないのだという。
 すぐに麻酔がかけられ、10分後には抜歯完了。溜まっていた膿を掻きだせば一件落着だ。あとは腫れが引き、傷口がふさがるのを待って今後の処置を考えることになった。
「とりあえず様子を見ます。予定通りインプラント2本で済めばいいですが、奥がなくなったとなると場合によっては入れ歯も考えたほうがいいかもしれない」
 不吉な言葉をかけられ、真っ暗な気持ちで治療室を出たぼくは、よろよろとトイレに入り鏡を覗いた。右下の奥は何も見えない。前歯からの白い歯並びが手前の仮歯でプッツリ切れて、あとは闇だ。
 ぼくはとうとう3連欠歯男になってしまったのだった。

第7回●苦肉の策 第9回●連鎖反応
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