2015-01-22

ニーチェ『道徳の系譜』【要約レジュメ】

レジュメ=要約という本来のコンセプト。細かい部分はさておき、哲学書に書かれている内容をてっとり早くつかみたい方、どうぞ。節番号ごとに内容を要約し、石川なりの補足的説明も加えられたかたちでまとめています。
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※レジュメは連載形式で公開していきます。2週間に1回程度の更新を予定しています。
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序言

1

 わたしたちは、世の中のいろいろなことを知ろうして、さまざまな知識を日々取り入れている。そのわりに、その知ろうとする当の本人、自分自身については知らずにとどまっている。自分自身を知るなどということは誰もやっていないし、仮にそれを試みたとしても、自分自身をつかみそこなう。

2

 自分自身をつかみそこなうこと。それは、自分のなかに道徳的原理を見出すことだ。自分のなかを覗いて見れば、「自分のことはさし置いて、世のため人のためになにかをすることは善いことだ」とわかる原理がある。こういうものこそまちがった自己認識だ。このまちがいの理由は、道徳をあらかじめ、「自分のことはさし置いて、世のため人のためになにかをすること」、すなわち、「利他的なもの」と考える点にある。この道徳観に合わせるかたちで、自己が利他的な原理をもっているものとされてしまう。しかし、そもそも、道徳を利他的なものと考えるのは根拠のない先入見だ。この道徳的先入見と闘うことがこの本の目的だ。

 どうして、一般的には道徳的と考えられる利他的なものが先入見として批判されなくてはならないのか。その理由は、わたしのなかの「認識の根本意志」にある。根本意志は、「いかに自分は、より強く、より大きく、より元気になって、自己を肯定することができるか?」とわたしに問いかけてくる。わたしは力強く元気になるよううながされている。あらゆる生き物は、より力強く元気に生きようとする欲望があるはずだ。これを「力への意志」という。

 いまや、「力への意志」という根本原理をはっきり自覚したわたしは、これを哲学のいちばんの土台に据える。「力への意志」の観点からものごとを認識する場合にのみ、利他的なものは人間を力強く元気にしない、それを「善い」とするこれまでの道徳は先入見にもとづいた間違ったものだ、と批判することができる(利他的なものやこれまでの道徳が、どれほど生にとって有害であるかは、本論において具体的に述べられる)。

3

 道徳の批判は、価値の価値を問うことだ。道徳は価値(なにがよく、なにがわるいのか)としてある。わたしはその道徳の価値、価値の価値を問いたい。言いかえれば、これまで道徳が重んじてきた善悪の価値そのものが、よいのかわるいのかを問いたい。そのために、この道徳が成立した時点(具体的にはキリスト教道徳の発生時点)にまでさかのぼって、そこでなにが善いとされなにが悪いとされたのか、そこで生じた価値判断のよし・あしを問う(この価値の価値を問うための原理は、やはり、「力への意志」という観点にある。「力への意志」に照らせば、人間を力強く元気にしないことを「善い」とする道徳的価値判断は「わるい」となる)。

4

 この本では、これまでの道徳が成立した時点までさかのぼる。これは、いままでわたしがやってきた、道徳の起源について仮説を立てる作業の集大成となっている。そのことは、わたしの過去の著作との対応を見てもらえればはっきりわかるだろう。

5

 わたしにとって重要なのは、道徳の起源について仮説を立てることよりも、むしろ、道徳の価値という点にある。起源の仮説は、道徳の価値を問いたいがためにある。いままでわたしは道徳の価値についてずっと問題にしてきた。その代表的なものとして、ショーペンハウアーの道徳論との闘いがある。

 ショーペンハウアーは、同情を、他人に対する無私無欲の愛、自己犠牲などとして、道徳の中心に据えている。ここでは、同情が、善いこと、価値あることだ。しかし、わたしはこの価値判断を「わるい」ものとみなす。というのも、無私無欲や自己犠牲などは、生と自己自身を否定することだからだ。ショーペンハウアーは、同情というキーワードを使って、人間の自己中心性をまったく否定できるかのようにうったえている。ここには、現代的な、否を言うこと、否定への意志、ニヒリズムという病気の徴候がある。しかし、生と自己自身の本質は、ショーペンハウアーの思惑とは異なり、いつでもかならず自己という中心をもつのだ。

6

 同情は、広く一般的に、道徳的に善いこととされている。しかし、その同情の価値が怪しい、同情は病気のあらわれかもしない、となれば、わたしたちの道徳全体に関する信念がゆらいでくるはずだ。この事態を真剣に受け取れば、ふだんは当たり前と思っている道徳的に善いとされることの全体、道徳的価値全般の価値が疑問になるはずだ。

 たとえば、善人を褒めたたえ、価値ある存在とすることは、人間をより成長させ、実りあるものにすることの反対かもしれない。また、これまでの道徳は、人間をより大きく力強くさせるものではなく、こぢんまりと弱いままにとどめるものなのかもしれない。これまでの道徳は危険のなかの危険かもしれない。

7

 この本は、道徳の価値を問うために、その起源にまでさかのぼって、そこに生じた価値判断を問題にする。そのためには、人類の道徳的過去という、長くて、解読の難しい象形文字の全体を解読しなければならない。これは骨が折れる作業だ。しかし、この作業をまじめにやれば、これまでの古い道徳を笑って受け止めることができ、そこから前進できるようになるだろう。

8

 この本は、いままでのわたしの著作の解説書としての性格をもっている。わたしの書いたものは難しい。わたしの好むアフォリズムという形式は解釈を必要とするから。だから、今回、自分自身で解釈の実例を示してみた。この本の「第三論文」は、『ツァラトゥストラ』のなかのひとつのアフォリズムの解釈にもなっている。

第一論文 「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」

1

 レーの『道徳的感情の起源』にはイギリスの哲学者たち由来の考え方が詰まっている。レーの道徳の発生史もイギリス哲学の道徳の研究も、ふだんは誰もやらないような、自分自身を知ろうとする試みである点は評価できる。しかし、その試みは誤りではないだろうか。

2

 レーの『道徳的感情の起源』にはこうある。非利己的行為(人を気づかう行為)は、その行為をしてもらって利益を受けた人びとから賞賛されて「よい」と呼ばれた。それが道徳の起源だ。しかし、この人びとの利益、人びとからの賞讃という起源は忘れられ、いまでは非利己的行為はその行為自体が「よい」ものであるかのように感じられている。

 レーやイギリスの哲学者たちは、ようするに、非利己的行為というこれまでの道徳を理論的に根拠づけているにすぎない。しかし、そもそも「よい」という価値の根拠は、彼らの指摘するように、よい行為をしてもらった人びと、つまり、他者にあるのだろうか。

 むしろ、「よい」の根拠は、自分自身についての「よい」、自己肯定にあるはずだ。これまでの価値(道徳)というのは、他者の「よい」を根拠に、なかば暴力的に、自己否定を強いてきた(人びとのよしとするもの、社会のよしとするもの、親のよしとするもののために自分を棄てよ)。だから、自己肯定をもとに価値というものを考えなおさなければならない。

 そのモデルは「高貴な者たち」、「強力な者たち」、「高位の者たち」、古代の支配階級にある。彼らには自己肯定感がある。しかし、それは、自分の利益、自分の功利の追求から得られるものではない。功利とは「快を求め、苦を避けること」だ。これとは逆に、古代社会の戦士は、死という最大の苦しみさえ乗り越えて戦う。この緊張感のなかで、つねに努力をつづけ競い合いに勝利した者が「高貴な者たち」、「強力な者たち」、「高位の者たち」となり、負けた者は被支配階級、下層民、奴隷となる。ここでの勝者の自己肯定感は、死を恐れる者や敗者に対する優越感としてある(距離のパトス)。

 この自己肯定感にもとづき、「高貴な者たち」、「強力な者たち」、「高位の者たち」は、貴族的価値評価を生みだした。それは、死をも恐れず戦ったぬきんでた自分自身の存在を「よい」(優良)と肯定し、その自分に比べて、死を恐れ敗者となった者を、自分から見て劣っている、「わるい」(劣悪)とする。

 こうした価値判断のあり方は、利己的なもの(エゴイズム)ではないか、という批判があるかもしれない。しかし、自己肯定感や優越感を「よい」の根拠とすることは、なんら悪ではなく、むしろ生の肯定の核になっている。これを悪として、「道徳的」=「非利己的」=「無私無欲」=善とする価値評価は「道徳的先入見」というべきだ。

3

 レーの『道徳的感情の起源』には、道徳の起源が「忘れられた」という理屈がある。しかし、有益さなどというものは、そうそう忘れられるものではないはずだ。その点では、ハーバート・スペンサーが、人類は、有益性や合理性といった「よい」ことを忘れずに、それを深めながら進化していく、としたことのほうが理屈にかなっている。もちろん、レーもスペンサーも、そもそも「よい」の根拠を功利性に求めている点で根本的に誤っているが。

4

 「よい」は「高貴」、「わるい」は「低級」、「素朴な者」、「平民」といった具合に、もともと価値をあらわす語は身分と不可分だった。「よい」は自己肯定感を意味し、それは優越感(自分が他より優れているかどうか)によって得られる。だから、「よい」とは他からぬきんでた優れた人間のことを意味し、「わるい」は優れていない、価値が低いか普通の人間のことを意味する。古代社会では、自己肯定感と社会的な地位は同じことを意味するので、価値をあらわす言葉は身分そのものを指す。

 民主主義的先入見にとらわれると、こうした考察は、たんなる階層社会の肯定に見えてがまんできないだろう。しかし、人間が他からぬきんでて優れた存在であろうとすること、その努力の結果が古代社会では身分であったことを否定はできないはずだ。

5

 古代社会では、高い身分であることは、現実的に目に見える行為と不可分だった。だから、「よい」という語は「存在する者」、「実在性ある者」、「現実的な者」、「真実の者」を意味した。ところが、貴族の階級が固定化し、世襲化が進むと、貴族が現実的な行為をしなくなってくる。すると、「よい」という語が、「誠実な者」という目に見えない心の性質をあらわしたり、「貴族的」という実質を欠いたたんなる身分上の区別をあらわすようになる。しかし、「よい」とはそもそも戦士の自己肯定感を意味するのであって、現実的な行為をともなってこその価値なのだ。

6

 貴族的価値評価が、現実の行為という実質をもたなくなり、没落してくると、僧侶的価値評価が生まれる。僧侶たちが高い身分を獲得する社会では、清浄と不浄という対立が僧侶たちよって先鋭化されている。もともと、清浄とは、禁止の順守、特定の行動をしないことを意味している。僧侶たちは自己肯定感を得るためにこれを利用する。一般的な禁止を守っているだけでは、ふつうの人びととは変わらず、自分の優位を獲得することはできない。そこで、僧侶たちは、自分たちの優位を示すために、細目にわたる禁止条項をつくりだす。戦士たちは現実的な行動をすることで自己肯定感、優越感を得た。これに対して、僧侶たちは、一般以上の禁止の順守によって、行動をしないことによって自己肯定感、優越感を得ようとする。しかし、僧侶たちのやり方は、行動して現実にかかわろうとする自然な欲望をかなり抑圧することになる。だから、病的になってくる。

 僧侶たちは、この病気の理由を、過度な禁止のほうではなく、禁止によってコントロールできない自然な欲望のほうだと考える。そこで、禁止による欲望の抑圧よりも過激な、禁欲的な修行による欲望の否定という方法を考えだし、欲望を無になるまで徹底的に否定しようとする。このような、ふつうの人びとにはとうてい不可能な自己否定を通じて、僧侶たちは自分の優位を獲得しようとする。ここに、欲望そのものを「悪い」とする自己否定的な僧侶的価値評価のはじまりがある。

7

 僧侶階級と戦士階級とは、戦争をめぐって激しく対立することになる。貴族的な価値評価にとって戦争は自己肯定の源泉である。一方、もともと行動回避的な僧侶たちにとって、戦争にかかわるなどということは、はなはだ好ましくないことだった。

 無力な僧侶階級は戦士階級から非難されたり攻撃されたりする。僧侶たちは戦士たちを憎悪するが、無力なため、直接反撃することはできない。そこで、戦士たちの貴族的価値評価に対して価値転換を行うことで復讐を試みる(“強い者は悪い、無力な者こそ善い”)。

 この価値転換がユダヤ民族では勝利をおさめた。何百年にもわたり、強国による破壊や支配を余儀なくされ、つねに独立の芽を摘まれてきたユダヤ民族は、僧侶たちの価値転換を無力な自分たちを肯定する方法として受け入れた。こうしてユダヤ人は僧侶的民族となった。

 無力なユダヤ人は、圧制者に対して実力でもって復讐することはできなかったので、心のなかでだけ、自分たちを肯定し、敵を呪った。それは、「惨めな自分たちのみが善い者である、高貴にして権勢ある者どもは呪われた者だろう!」というかたちをとった。

 このユダヤ的価値転換が、キリスト教に受け継がれ、今日のわれわれの価値、道徳の基礎になってしまっている。

8

 僧侶的価値評価(“強い者は悪い、無力な者こそ善い”)は、ユダヤ教からキリスト教に受けつがれる。それを可能にしたのが、パウロによって確立された、十字架に架けられた神の子イエスという道具立てだ。神がイエスをこの世に遣わし、イエスの血でもって、人類の罪をあがなってくれた。この神の愛の論理に隠されているのは、じつは、ユダヤの僧侶階級から僧侶的民族(ユダヤ人)へと受けつがれてきた、無力な者の強い者に対する憎悪と復讐心だ。

 イエスが十字架にかけられることによって人類は赦された。神は赦したのだから、神を恐れて律法を守る必要はなくなる。この論理は、神への信仰をユダヤ人(律法を順守する人びと)以外にも広めるきっかけをつくった。こうして、「弱いユダヤ民族こそ神に祝福される」というユダヤ教の価値評価が、「弱い者であればだれもみな神に祝福される」というかたちで普遍化されることになる。キリスト教というかたちで、ユダヤ教の神がユダヤ人以外へと開かれるようになって、全世界が僧侶的価値評価という餌に食いつけるようになったのだ。

 ユダヤの僧侶たちの強い者たちへの憎悪と復讐心によってつくりあげられた価値評価は、無力な人びとの報われなさを吸い上げる。それはまずユダヤ社会で勝利し、パウロの聖なる十字架という迂路(回り道)を通じて、キリスト教というかたちでローマ帝国に勝利することになる(キリスト教の公認、国教化、ローマ教会権力の確立)。

 憎悪と復讐心から生まれた僧侶的価値評価が、今日のわれわれの価値、道徳の基礎となり、これまで貴族的価値評価に対してずっと勝利しつづけてきたのも、じつは、キリスト教の神の愛の教説、神の子イエスが十字架にかけられる、という道具立てが大きなきっかけになっている。

9

 自由精神(実証主義、民主主義を信じる進歩的知識人たち)はつぎのように語る。

 キリスト教の勝利は教会権力の勝利を意味しない。歴史を見れば、最終的な勝利者は民衆であることは明白な事実だ。

 民衆の勝利とは、人種、民族、階級という区別が取り払われたことを意味する。どこにも特権的な立場はない。これはキリスト教の毒(抜きんでた強い者の存在を許さない僧侶的価値評価、神の前の“平等”の思想)が隅々まで浸透していったことの証しだ。その結果、人類の主人からの解放は、きわめて順調に進んでいる(キリスト教が広めた平等の思想は、教会権力さえ打ち倒す、宗教改革、市民革命を動機づけた)。

 いまや教会はその歴史的役割を終え、近代的な知性に逆らう反動的なものとなっている。これを批判するのが、われわれ自由精神だ。だが、もちろん、われわれが嫌いなのは教会であって、教会の毒ではない。教会のあの毒は好きだ(自分たちこそあの平等の思想の新しい担い手だ)。

 (ニーチェは、こうやって自由精神に語らせることで、平等を重んじる現代の民主主義が僧侶的価値評価の最終形態であることを示している)。

10

 僧侶的価値評価は、現実の行為でもってルサンチマン(恨み、妬み、反感)を晴らせない無力な人間のあり方から生まれている。弱い者は強い者になりたいと思うが、自身の非力さゆえに、強い者になることができない。そのため、強い者に対するルサンチマンが発散されないまま積み重なり、やがて、自分の心のなか、想像のなかだけで、「強い者、支配者は悪い」と強い者を攻撃することで埋め合わされる。したがって、ルサンチマンの価値評価は、自分の対立物に対する「否定」を言うことからはじまる。

 貴族的人間の場合、自分自身の存在に対して「然り」と言うことからはじめる。「強い自分はよい」。この自己肯定のために、自分の対立物が必要とされる。だから、自分の敵に対して感謝することもできる。貴族的人間も平民や下層民を軽蔑することはある。しかし、自己肯定感があるので、こうした弱い者に対しては憐憫や思いやりといった好意的な気持ちがある。

 ルサンチマンの人間は、自分が敵とみなす者を邪悪な存在としてしか受け止めない。ここには一方的な敵意がある。そのため、強い者を実像とはほど遠いひどい案山子(怪物)に仕立て上げる。この怪物に歪曲された敵の像をもとに、怪物に比べれば自分は幸せだ、と勝手に自分の幸せをとりつくろう。

 貴族的人間は、能動的な人間として、幸福と行動を切り離すことはない。幸福は、実際に現実に向かって行動し、敵や世界といった自分ならざるものに立ち向かうことでこそ得られるものだと考える。

 ルサンチマンの人間は、受動的な人間として、幸福と行動を切り離している。幸福は、麻酔、昏睡、安静、平和、安息日、気休め、寝そべりといった、行動しないこと、敵や世界といった自分ならざるものにわずらわされないことに求められる。しかし、このように現実にかかわらないことで、ルサンチマンはいつまでも持続することになる。こうして、ルサンチマンを隠し持ち、復讐の機会を待ちながらも、敵の前では自分を卑下するような、怜悧な(抜け目ない)人間が生まれる。

 貴族的人間は、自分のより強く大きくなろうとする本能に忠実で、敵に対して向こう見ずに立ち向かう。この率直さ、素朴さでもって、敵に対するルサンチマンもすぐに現実の行為でもって発散されてしまう。むしろ、より強く大きい自分となるために、自分と同等あるいはそれ以上の優れた敵、尊敬できる敵を求めさえする。

 ルサンチマンの人間は、「悪い敵」、「悪人」をねつ造して、そういう怪物とは反対の「善人」を考え出し、それを自分とする。ここに、「強い者は悪い、弱い自分こそ善い」という価値評価が生まれる。

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 貴族的人間にとっては自己肯定としての「よい(優良)」という概念が第一で、「わるい(劣悪)」という概念は二次的なものだった。一方、ルサンチマンの人間にとっては敵とみなした者に対する「悪い」という概念が第一の重要性をもっていた。ここで「悪い」とされているのは、ほかならぬ貴族道徳での「よい」者、高貴な者、強力な者、支配者だ。ルサンチマンの毒々しい眼差しによって、「よい」者たちは「悪い」者へと意味を変えられてしまったのだ。その理由はルサンチマンの人間の被害者の視点にある。

 征服民族である貴族的種族は、共同体内では、お互いの監視やライバル関係のなかで力のバランスを保っている。しかし、(侵略や戦争の際)共同体の外部と接触するとなると、平和な共同体のなかで閉じ込められていた力を解き放ち、獲物と勝利を求め野獣のようにふるまう。彼ら自身、貴族的人間の視点から見れば、このふるまいは誇らしいものだ。

 しかし、この野獣のようなふるまいによって蹂躙された被害者の目には、貴族的種族は「野蛮人」、「悪い敵」といった悪い存在にしか映らない。つまり、この被害者としての視点が、「よい」者を「悪い」者に変えてしまうのだ。

 貴族的人間とルサンチマンの人間の視点の対立は、ヘシオドスの語る冷酷で残忍な青銅時代と輝かしい栄光の英雄時代の区別にもあらわれている。これは同じ時代を二つの視点から見ているにすぎない。同じ時代(英雄たちの活躍した時代)が、英雄たちによって蹂躙された被害者の末裔の視点から見れば冷酷で残忍な時代(青銅時代)となり、英雄たちの末裔である貴族の視点から見れば栄光の時代(英雄時代)となる。

 現在では、ルサンチマンの人間の視点が優勢で、あの貴族的種族のもっていた野獣のような恐ろしい本性を人間からなんとか取り除こう、人間を家畜に仕立て上げよう、と望まれている。それが文化の試みだと考えられている。しかし、そうすることは人類の退歩であって文化とは正反対の試みだ。むしろ、人間を恐れたほうが望ましい。というのも、今日の問題は、人間が恐ろしいものをもたなくなってしまった点にあるからだ。いまでは、おとなしくて凡庸な、蛆虫のような人間がより高い人間として自分を自負するまでになってしまっている。

12

 「強い者は悪い、弱い者こそ善い」とするルサンチマンの人間の価値評価はヨーロッパ全体を覆い、いまや「わるい空気」が満ちている。
だから、善悪の彼岸の(ルサンチマンの人間の価値評価を超えた)女神にこう祈りたくなる。恐るべきところのある人間、そうした人間の完璧さ、極上の出来栄え、幸福、強力さ、勝ち誇っている姿をひと目見たい! 貴族的価値評価を体現した強い者をひと目見たい!

 こう祈りたくなるのも、ヨーロッパの人間の卑小化と平均化の光景が、見る者をうんざりさせるからだ。いまでは、より大きくなろうと欲するものは何ひとなく、すべてが、下へ下へと落ちてゆき、より薄っぺらく、よりお人よしで、より利口で、より快適で、より凡庸で、より無関心なものへと落ち込んでゆく。人間はいよいよ「より善く」なってゆく。

 このように、恐れるべき人間がいなくなったということは、人間への愛、畏敬、希望、意志を失ってしまったということだ。これを人間という存在を否定するニヒリズムと言わずしてなんと言おう。

13

 ルサンチマンの人間の価値評価がヨーロッパ全体に広がった理由、「わるい空気」の原因はどこにあるか。その起源はキリスト教道徳(奴隷道徳)の成立にある。

 蹂躙される仔羊(弱者)が、猛禽(強者)に対して「猛禽は悪い」と怨むこと、「自分たち仔羊こそ善い」と考えること、こうした態度じたいは自然なことだ。もちろん、この態度が猛禽の行為をやめさせるわけではないが。

 ところが、弱者は、あるがままの現実に反して、強者は弱さも選択できたのではないか、自分たち弱者は強さも選択できたのではないか、と誤った推論をはじめる。こうして、「主体」という原因が現実の背後につくりあげられ、現実はその結果だと考えられるようになる。

 主体は、強さも弱さも自由に選択できるとされる。この主体という存在を信じることがキリスト教道徳の成立の核になっている。主体によって、ルサンチマンの人間の「強い者は悪い」、「弱い者こそ善い」という価値評価は、たんなる反感ではなく、つぎのように理屈をともなって正当化される。

 強者には、弱さも選択できたのに、あえて自分の主体の意志によって弱者を苦しめる強さという悪を選択した罪がある。強者は悪人だ。弱者には、強さという悪を選択することにあらがって、自分の主体の意志によって弱さを選択した功績がある。弱者は善人だ。

 ここで弱者は、自分のたんなる弱さを、まるで功績であるかのように欺瞞している。このように欺瞞する理由は、弱さを主体的に選んだものと解釈し、自分の苦しい現実に肯定的な意味を与えて、自分を保存することにある。

 この自己保存の試みは、霊魂の不滅の信仰に進む。主体は不滅であって、弱さを選んだ善人(弱者)の主体には来世の幸福(浄福)が待っており、強さを選んだ悪人(強者)の主体には最後の審判における罰が待っている。主体への信仰を来世にまで拡大することが、キリスト教道徳における救済の論理を可能にしている。

14

 自由な主体を信仰することによって、弱者の弱さは功績になった。ここから、弱さを積極的に追求しようとする態度が生まれる。キリスト教道徳は、弱さを徳として価値転換し、人間の追求すべき理想とした。報復しない無力は善良さに、びくつきは謙虚さに、憎悪を抱く相手に対する屈従は従順に、攻撃しない弱さや臆病さは忍耐に、復讐できないは、敵に対する赦しや敵に対する愛に変えられる。こうして、弱いままであること、より弱くあることがめざされるようになる。

 しかし、この追求は簡単なことではない。それは進んで不幸になろうとする態度だからだ。そこで、キリスト教道徳は、徳を積み、地上で不幸である者(弱者)にはやがて神の国における幸福(浄福)が待っているとする。地上で幸福である強者よりも、未来の浄福を約束された弱者のほうが、「より幸福」とされるのだ。

 さらに、キリスト教道徳は、地上で幸福である者(強者)にはやがて最後の審判における罰が待っているとする。この最後の審判の場面は「正義」と呼ばれる。しかし、じっさいのところ、ここでいわれている正義とは、弱者の強者に対する報復を意味する。キリスト教道徳は、報復を否定して、敵を憎まず、復讐せず、愛のうちに生きるとするが、最後の審判という最終場面に期待しているのは、強者という敵を憎み、強者に復讐し、勝利することなのだ。これは、じつは、弱者も強者になりたいと願っている証拠でもある。

15

 キリスト教徒は、この世の苦しみに耐えながら信仰、愛、希望のうちを生きる、という。しかし、そう生きられるのも、来世の「神の国」における勝利を思い描いているからだ。だから、彼らもまた、強い者になりたいと願っているのだ。

 この神の国を見るために永遠の生命というものが考え出される。永遠の生命という考えから、善人は天国へ、悪人は地獄へというダンテの描いたような来世のイメージが生まれる。しかし、天国と地獄は別々にあるのではなく、キリスト教の天国はそのなかに地獄を含んでいる。トマス・アクィナスのいうように、天国の浄福とは、罪人である強い者が地獄の責め苦を罰として味わうのを、弱い者が眺めてよろこぶ場面のことだからだ。キリスト教の天国は、永遠の愛ではなく永遠の憎悪が創った。

 この天国のイメージは、教父テルトゥリアヌスの描く神の国によく現れている。テルトゥリアヌスは、現世の見世物の残忍な快楽を戒めたが、その神の国は、キリスト教徒にとって最高に残忍な見世物となっている。そこでは、異教の神や王、ローマの地方総督や哲学者、戦車競走の馭者や槍投げの競技者といった、キリスト教を迫害する権力者や肉体的に優れた強い者たちが永遠の炎のなかで苦しんでいる。こうした罪人として、テルトゥリアヌスがとくに望んだのがイエスを辱めたユダヤ人だった。この憎悪に満ちた神の国での復讐の場面を思い描くことを、テルトゥリアヌスは「信仰」という。

16

 「よい」と「わるい」(貴族的価値評価)、「善」と「悪」(僧侶的価値評価)という二組の対立した価値は、幾千年にもおよぶ長い戦いを交わしてきた。僧侶的価値評価が優勢となったいまでは、戦いは一人ひとりの精神の場面で行われる。高度な精神ならば、自分の内側で行われるこの戦いを意識しているはずだ。

 貴族的価値評価と僧侶的価値評価の戦いは、象徴的にいえば「ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ」という標語にまとめられる。歴史はこの二つの価値評価の相剋として考えることができる。それは、つぎのような流れになる。

 貴族的価値評価を体現するローマは、僧侶的価値評価を体現するキリスト教に反自然的なものを見て、「全人類に対する憎悪の罪」があるとして迫害した。一方、キリスト教はローマに対して『ヨハネ黙示録』のような復讐の物語をつくりだした。この対立のなかで、キリスト教は、その道徳を巧みにあやつって、ローマだけでなく地上の半分もの人びとを飼い馴らすことに成功した。ここに僧侶的価値評価の勝利が生まれる。

 貴族的価値評価はルネサンスに体現されて復活したこともあったが、宗教改革というルサンチマン運動によって滅ぼされてしまう。ここでも僧侶的価値評価が勝利する。

 それでも、フランスには貴族主義が残っていた。しかし、これもフランス革命というルサンチマン運動によって打ち倒されてしまう。こうして、僧侶的価値評価の勝利は決定的になったかに見えた。ところが、このフランス革命のなかから、ナポレオンという貴族的価値評価の体現者が現われた。

17

 ナポレオンの登場で問題は終わったのだろうか。貴族的価値評価と僧侶的価値評価の対立は片付いたのだろうか。ナポレオンは敗北した。現代はむしろ僧侶的価値評価が支配する時代なのだから、ナポレオンの示した貴族的価値評価との対立の問題は先のばしされただけではないのか。くすぶっている対立の炎を再び燃え上がらせることを願い、意欲し、うながすべきではないだろうか。

 しかし、貴族的価値評価と僧侶的価値評価の対立の問題は、これまでたどってきた記述だけでは決着をつけるのが難しい。もちろん、わたしは決着をつけるつもりだ。さしあたって、わたしの最近の著書のタイトルでもある「善悪の彼岸」という標語は、貴族的価値評価である「よい」と「わるい」とを超えて、という意味ではない。これは、僧侶的価値評価である「善」と「悪」とを超えて、という意味であることを十分理解しておいてもらいたい。

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