2007-08-13

ゲイバァ終了、パレード大成功、おばさん万歳!

_______________.jpgパレードを祝して催したゲイバァ伏見(リアル)ですが、大勢のお客さんにお越しいただきました。とくに2日目はトークもおおいに盛り上がり、実に有意義でした。ご来店くださったみなさん、トークのゲストの方々、誠にありがとうございました! 伏見は虚弱なくせにほとんど丸二日眠らずに飛び回っていたので、終わってからしばらくダウンしてしまい、御礼が遅くなりました。

パレードのほうも晴天に恵まれ、参加者も増えて大成功でした。伏見は今年はプレスとして歩くわけでもなくただの沿道応援でしたが(←寝坊しただけ)、ブラスの演奏に、歩く人たちの笑顔に、感動を与えられました。暑くてしんどかったけど、確実にエンパワーメントされた次第です。これだけのイベントの準備をされたボランティアのみなさんに、心より感謝申し上げます! みなさんの貢献のおかげで、今年も楽しめました。

(こんなことは本当は書くべきではないかもしれませんが)パレードの夜、明け方近くになって、ゲイバァ伏見に TOKYO PRIDE の代表理事の中田たか志さんが来てくださり、さまざまなお話を伺いました。お世辞ではなく、非常に感銘を受けました。あのパレードを成功させるために、どれだけの努力と苦労を引き受け、戦略的に行動してこられたのか! なにかそのディテールに泣きたくなるくらい、感動してしまいました(たぶん、その場にいた野口勝三さんも同じだったと思います。←ちょっと目がうるんでたもーん)。

その内容にはここでは触れませんが、ちょうどその前に沢辺均さん、野口さん、長谷川博史さんとトークで議論していた内容の良いエクザンプルのようなお話しで、LGBTの運動は他の社会運動ではありえない可能性を秘めていると、希望を持った次第です。それは「大人の運動」とでもいいましょうか。倫理主義や左翼主義に陥らずにすむことが、もしかしたらできるかもしれない。

個人的には、中田さんとはこれまでそれほど近しいわけではなく、かといって角を突き合わせるような間柄でもありませんでした。ただ、かつて二丁目を中心にやってこられた彼と、リブみたいな理念に乗ってやってきた伏見では、とくに相性がいいとも思っていなかったのが正直なところです。でも、じっくりとお話しを伺うと、いやあ、(こういう言い方は生意気ですが)この方は、本当に立派! 能力的にも、社会的なスキルの上でも、いまのLGBTの運動の中では傑出した存在ですね。伏見も学ぶことが多いのに目から鱗でした。自分よりも年上の人に、心から尊敬の念を抱けるということは、本当に幸せなことです。

パレードのボランティアなんて、文句ばっかりいわれて見返りの少ない役回りです。とくに「理事」「実行委員」みたいに責任ばかり多い役職の人は、人間サンドバックになりがちで、まるで「オマエのためにやってやったのに!」と言わんばかりの文句まで投げかけられるのが、これまでの通例です(それで心に傷を負ったスタッフ多数……)。でも、中田さんのような情熱のある方が人柱の役を担っているからこそ、あれだけのイベントが可能になっていることは間違いない。それは、しょんべん臭い若釜じゃなくて、やっぱり、酸いも甘いもかみ分けてきた「おばさん」だからこそできることなのでしょう(笑)。

*中田たか志さんのことをもっと知りたい人は、このサイトの「同性愛入門」をダウンロードしてね。

2007-08-07

小谷野敦『片思いの発見』

kataomoi.jpg● 小谷野敦『片思いの発見』(新潮社)

 小谷野敦はいつも、そこにある言説に己の実存を重ね合わせては、疎外感を募らせ、またそれを拠り所にして言葉を紡ぎ始める。

 かつては、「近代という時代が、あたかも誰もが『恋愛』をすべきだというイデオロギーを広め、ために恋愛の下手な人間を苦しめることになった、だから恋愛などしなくていいのだ」と主張し、「もてない男」を断固擁護した。 続きを読む…

2007-08-06

小谷野敦『恋愛の超克』

choukoku.jpg● 小谷野敦『恋愛の超克』(角川書店)

私は、昨今話題の「セックスレス」や「ED(勃起障害)」の傾向が、人々の生物学的な変異に原因があるとは思っていない。それらはセックスの大衆化と、マスコミによる性的快楽の礼賛の結果としてあぶり出された現象であると考える。かつて、セックスが日常的なコミュニケーションではなく、また、そこからすばらしい体験が得られるという考えが広まっていなかった時代には、夫婦間での交りがさほどなくとも、それが「病理」として問題視されることはなかった。 続きを読む…

小谷野敦『江戸幻想批判』

edo.jpg● 小谷野敦『江戸幻想批判』(新曜社)

私たちが過去の時代を振り返るとき、すでにそこには以前に観た映画やテレビドラマ、あるいは小説や劇画などから与えられた情報が頭の中に埋め込まれていて、過去のイメージは実体のごとくそこにある。それはだれかによって捏造された過去かもしれないのに、そういう時代が存在していたかどうかを疑うことはほとんどない。

考えてみれば、歴史とはつねにだれかから聞いたお話でしかないのだ。みずからそれを検証する技術や特別な意欲を持たない私たち一般大衆は、「権威」から与えられた情報を信じるしかない、のである。 続きを読む…

2007-08-04

豊田正義『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』

toyoda.jpg● 豊田正義『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』(飛鳥新社)

 ウーマンリブ→フェミニズムと、70年代初頭から「女らしさ」「性別役割り分業」を問い直す動きが活発化してきた。現在では、生物学的性「セックス」とは別に、社会・文化的性を示す「ジェンダー」という言葉が、行政の場ですら用いられるほど一般化している。

 そこで問題にされてきたのは、主に女性のジェンダーであったが、女性のジェンダーに疑問に付されるのならば、当然、それと相補関係にある「男らしさ」も以前のままではいられない。家事の分担、育児への参加などが、女性の運動の側から求められてきたのは周知の通りである。 続きを読む…

D・モリス『セックス ウォッチング』

sex.jpg● D・モリス『セックス ウォッチング』(小学館)

 現在、男女の性について語ることは、極めて政治的な行為となっている。男らしさ、女らしさを「本能」という言葉に還元しようものなら、フェミニストらから「保守反動」との反発を免れないだろうし、すべてをジェンダー(社会的性差)の問題として片付けようとしても、多くの人の実感から、それは政治主義的すぎる、という評価しか得られない。

 結局のところ、どこまでを生得的な資質で、どこからが社会的に獲得する傾向なのか、そのバランスへの配慮こそが、性を語る言葉の立場を位置づけざるを得なくなっている。

 この本は、そのことを非常に意識して書かれている男女の性史だが、著者が動物行動学を背景とする立場故、比較的、生物学的な要因を重視する視点に立っているようにも読める。 続きを読む…

北山晴一『男と女の「欲望」に掟はない』

otokotoonnna.jpg● 北山晴一『男と女の「欲望」に掟はない』(講談社)

 一昔前まで恋愛や性、夫婦関係といったテーマは、大の男が論じるような問題ではなかった。男というもの、そうした「私事」は女子供に任せて、天下国家を憂えていればよいと。けれども、1980年代以降、消費社会の成熟による性秩序の「規制緩和」とフェミニズムを通過した女たちの自立化によって、男たちも旧態依然たる「男らしさ」に寄り掛かってはいられなくなった。

 女性の性的主体の獲得と、対等な関係への要求に対して戸惑うばかりの男たちは、対処の仕方を求めてマニュアル作りに専念したり、一方的に女性に奉仕するアッシー君やミツグ君に変貌したりもした。あるいは、遺伝子やら「本能」を持ち出してきて、マッチョな「男神話」を強迫的に繰り返し、男とは本来こういうもの、と開き直ろうともした。 続きを読む…

榊原史保『やおい幻論』

yaoi.jpg● 榊原史保『やおい幻論』(夏目書房)

 本書の著者の定義によれば、「やおい」とは「女性による、女性を対象とした、男性同性愛をモチーフに使用した小説」ということになる。一般にはあまり知られていないが、こうした嗜好の小説や漫画のマーケットは、驚くべき規模で存在している。小さな町の本屋さんでも、「やおい」本の棚を持った書店は珍しくないのである。

 にもかかわらず、「やおい」という言葉があまり一般的に知られていないことが示すように、「やおい」自体についてはほとんど語られてこなかった。当事者がそれを避けてきたと本書にあるが、確かに「やおい」小説の作家が一冊の本として「やおい」を論じたものは、これが初めてだろう。 続きを読む…

2007-07-31

障害者の生と性の研究会『知的障害者の恋愛と性に光を』

● 障害者の生と性の研究会『知的障害者の恋愛と性に光を』(かもがわ出版)

 具体的な話しは説得力を持つ。『知的障害者の恋愛と性に光を』は読者に障害者の性の問題を他人ごとにしておけないほどの切実さを抱かせる。

 「映画を観に行く時でさえ、二時間トイレが我慢できるか、トイレをしたくながら困るなあと、そんなことを考えながらデートを繰り返すのね。でもだんだんテクニックを覚えてきます。あたりを見回して人柄のよさそうな女性を見つけて『どうかトイレに連れて行ってください』って頼むんです」 続きを読む…

村瀬学『13歳論』

murase.jpg● 村瀬学『13歳論』(洋泉社)

 振り返ってみるに、90年代というのは「子供」という存在が問い直された時代だったと言えるかもしれない。援助交際、酒鬼薔薇聖斗、学級崩壊…。それまで「子供」という枠組みの中に押さえ込まれていた人間という生物の何かが、噴出し始め、「大人」の価値観を動揺させ続けた。

 そうした中でさまざまな議論が起ったが、本書は子供と大人の境界を13歳という年齢にすることに徹底的にこだわった「13歳論」である。だからといって、著者は成人年齢を引き下げることによって単純に「早期厳罰主義」や「早期一人前主義」を訴えているわけではない。「いま一度『子ども』というイメージと、『大人』というもののイメージを、明確な理念のもとに見直す作業」をすべきだと提案している。 続きを読む…

梁石白・高村薫『快楽と救済』

kairaku.jpg● 梁石白・高村薫『快楽と救済』(NHK出版)

 本書は、『血と骨』の梁石白と、『レディ・ジョーカー』の高村薫という当代のエンタテイメント作家による対話。と言うより、現代という時代をもっとも鮮烈に描く二人の作家による時代批評、と言うのがふさわしいかもしれない。

 対話の中でも「彼らが選びだす言葉や、言葉によってつむぎ出される世界の姿は、私にはどうも手の届かないものになっている」(高村)と疑問を呈された純文学にかわって、高村や梁の作品はいまや時代を映し出す鏡になっている。文壇に自閉した純文学が大衆に見捨てられつつある一方で、時代とシンクロする物語はエンタテイメントの分野に確実に育っている。 続きを読む…

四方田犬彦『狼が来るぞ!』

ookami.jpg● 四方田犬彦『狼が来るぞ!』(平凡社)

 本書は雑誌で連載されていたコラムを再構成して一冊にまとめたものである。が、読者に散漫な印象を与えないところは、著者の卓抜な文章力と、ふところの深い世界観によるのだろう。とくに紀行文での鋭い筆致は、読者に新しい世界像を提示する。

 例えば、イランでは女性が外出時にかぶるチャドルについて語る。それは大方の日本人にとってはイスラムの宗教的な敬虔さの象徴に見えるわけだが、四方田はイランの女子大生のこんな言葉を紹介する。 続きを読む…

高橋源一郎『あ・だ・る・と』

ada.jpg● 高橋源一郎『あ・だ・る・と』(集英社文庫)

 人々がAVビデオに求めるものは、「本物」なのか、「本物っぽさ」なのか。

 一般的には「女子高校生もの」を消費するユーザーは、その作品に「本物の女子高校生」の登場を求めていると考えるのが妥当だろう。しかし、いまどきのユーザーには、AVに登場する「女子高校生」のすべてが「本物」ではなく、ほとんどが「本物っぽい女子高校生」であることくらい周知の事実だ。そのことが折り込み済みで、「女子高校生もの」が消費されている、としたら、すでに「本物の女子高校生」の向こう側に、それとは異なる「女子高校生」への欲望が胚胎してるとは言えまいか。 続きを読む…

2007-07-29

本日、参議院議員選挙

とりあえずまだ雨は降っていません。しっかり投票所に行って、自分たちの思いを候補者に託しましょう。なんだか明日未明までドキドキしそうですね。あとは祈るばかりです。一票で負けることもありますから、悔いの残らない選択を!

2007-07-28

「私」から「私たち」から「私」へ

右を見左を見、周囲を気にしてゲイバーに入店した時代をおぼえているひとは、
もはや少なくなった。

ゲイ同士知り合ってもふつうに名字を名乗り合うことがなかった過去に、
現在リアリティを感じる者は多数ではないかもしれない。

でも、たかが十数年前、ぼくらは新宿御苑でゲイの集団で花見をするのに、
差別の恐怖と闘わなければならなかった。

ついこの間、90年代でさえ、同性愛者のイベントをするのに、
会場に警備員を置かなければならないこともあった。

友だちに性的少数者であると告げることすら許されなかったのは、
遠い昔のことではない。(いや、いまでもそれは続いている)

そうした状況が変化していったのは、
それを変えようと思ったひとたちが、少しずつの勇気を持ち寄ったからだった。

目の前の困難を「私」として乗り越えるだけでなく、
「私たち」として向き合う「政治」をはじめたからだ。

「私」の状況は「私」の力で実現したと思いがちだが、
それを背後で支えたものへの想像力を持たないひとは多い。

それどころか、「大きなお世話だ」と思っているひとも珍しくない。

悲しいことに、寝た子を起こさないでくれ、
という「苦情」も相変わらず耳にする。

けれど、そのひとたちの「自由」でさえ、勝手に出来上がったものではない。

もしそう思っているのだとすれば、それは傲慢だ。

時代は変えようとしないかぎり変わらない。

「私たち」の問題として解決すべき事柄は、「私たち」とともにある。

そのことと、「私」がどう生きるのか、という課題はつねに同時平行してある。

「私たち」を「政治」とするのなら、「私」は「文学」かもしれない。

そのふたつは不可分であり、生きるための両軸だ。

「私」をしっかり生きることも、「私たち」の課題と向き合うことも、
どちらも人生には必要なことだろう。

「私たち」としての「私」を考えることは、「私」をよりよく生きるために、
不可避な機会に相違ない。

捨て身で「私たち」であろうとしているそのひとに、花束を。

不器用に「私たち」であろうとしているそのひとに、万雷の拍手を。

2007-07-27

参議院選挙比例区って!?

特定の候補者を当選させたい人は、党名ではなく、個人名を書かないとそれが反映されないんだそうです。意外とそのことが知られていないようで、伏見もつい最近まで分かっていませんでした(人のこと言えない)。だから投票場では●●●○○○とフルネームでちゃんと書きましょうね。

選挙もいよいよ大詰めですが、さまざま巻き返しもあり、メディアでそれなりに取り上げられた候補者もそのことだけでは票につながらず、奮闘努力しているようです。人々の投票行動に影響を与えるって難しいですね。有権者の一人として、他人任せでは自分たちの思いを国政に反映させることはできないんだと真摯に受け止め、しっかりと投票に行きたいものです。最後までがんばれ!

2007-07-21

小山内美智子『車椅子で夜明けのコーヒー』

● 小山内美智子『車椅子で夜明けのコーヒー』(ネスコ発行/文藝春秋発売)

 そもそも「障害者の性」といったことが問題にされること自体、へんな話だ。なぜなら障害者というのは特別な人ではなく、ハンデキャップを抱えた「ふつう」の人のことなのだから。そこに性の営みがあって然るべきであり、それが語られてこなかったという事実に、彼らが置かれている状況の厳しさが現れている。そういう中で、『車椅子で夜明けのコーヒー』は、障害者が自らの性に対する率直な思いを綴った希有な本だ。 続きを読む…

藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』

fujimo.jpg● 藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』(学陽書房)

 藤本由香里著『私の居場所はどこにあるの?』は、「少女マンガが映す心のかたち」と副題にあるように、少女マンガを通じて、現代の女性たちがどのような心の問題を抱え、その欲望を変容させてきたかをたどる女性史になっている。

 著者はフェミニズム関連の書籍を作ってきた編集者だけに、フェミニズム批評とも言えるスタンスで、それを分析、解釈している。 続きを読む…

小田切明徳/橋本秀雄『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』

● 小田切明徳/橋本秀雄『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』(かもがわ出版)

 90年代に入り、ゲイ→レズビアン→バイセクシュアル→トランスセクシュアルと、性的少数者たちのカミングアウトが拡大してきた。皆、それまで隠蔽されてきた差別の問題を訴え、自己の存在を肯定的に取り戻そうと、力強く宣言した。

 そうした流れの中から、これまで決して世間で語られることのなかった性的存在、インターセクシュアルの人たちも「叫び」をあげるに至ったのが、『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』である。 続きを読む…

2007-07-14

バーバラ・マクドナルド/シンシア・リッチ『私の目を見て』

● バーバラ・マクドナルド/シンシア・リッチ『私の目を見てーーレズビアンが語るエイジズム』(原柳社発行/ウィメンズブックストア松香堂発売)

 僕には86歳になるゲイのボーイフレンドがいる。彼は新宿のど真ん中で独り暮らしをしていて。いまも元気に町を闊歩している。幸いなことにいたって健康で、その歳になるまで風邪ひとつ引いたこともないというから驚きだ。

 彼と知り合ってから僕はいろいろなことを発見した。例えば、彼の頭の回転は僕などよりもよほど速く、少々口が回らないということはあるが、知力にはまったく衰えがない。物事を見る目が聡明で、様々な分野の情報に通じている。86歳という年齢のイメージからは想像もできないほど知的なのだ。それは僕の、老いることはボケること、というステレオタイプを見事なまでに壊してくれた。 続きを読む…