2006-02-28

書評『息子たちと私』

*初出 現代性教育研究月報 2006.1

ishihara.jpg私の散歩のコースにはグラウンドがあって、日曜日にはよく小学生のサッカーチームが練習や試合をしている。それを見守る親御さんたちの様子を眺めながら、親の気持ちというのはいったいどのようなものだろうかと思うときがある。彼らの多くは私と同世代なのだが、私には子供がいない。それに負い目を抱くことはないのだが、ある種のうらやましさを感じないとは言わない。

石原慎太郎著『息子たちと私』は、世間的に有名な家族の記録としても面白く読めるが、男親にとって子供はいかなる存在なのか、という点において好奇心をそそられる一冊だ。石原氏はそこで、子供の成長、兄弟関係、仕事、スポーツ、性、旅、結婚といったテーマを、具体的な子育ての経験とともに語っている。それは氏の人生観そのものだ。

氏の子育てに対する考え方は、こんなエピソードに端的に表れているだろう。

三男が「小学校の頃、入りたてに上級生からいじめられていたらしいので、それを聞いて私が喧嘩の仕方を教えたら功を奏して、逆に彼が相手を押さえつける立場に」なった。

父親として子供を甘やかすばかりでなく、競争の厳しさを学ばせ、闘うことをしっかりと教えるのだ。海や外国へ連れて行って、過保護ではない環境を肌で体験させる。子育てにおいて三世代同居の有益さを見直す……といった強さへの志向や、伝統的な家族の再評価は実に石原氏らしい。

親から子供、そして孫へと連なっていく環「を抱かずに人間は、確かに生きることも出来ず、死んでいくことも出来はしまい」という最後の言葉は、確信犯的な煽りなのかもしれない。子供を持てない人たちへの配慮のない物言い、との批判も招きそうだが、保守か革新かといった政治的な対立軸を安易に持ち込むことは、かえって氏の望むところだろう。行き過ぎた平等主義や弱者主義に釘を差す態度は、一つの見識として否定できるものではない。

私が心動かされたのは、成人した息子に、自分の仕事について理解のある言葉をかけられ、「血の繋がった息子が私の人生の総体として本質的に理解してくれているという嬉しさ……その満足といおうか、その安息の中……」と述懐しているくだりだ。連綿と繋がる血の時間軸の中に自分を位置づけ、思いを次ぎに託していくというのは、人間にとって何よりの着地点なのかもしれない。

我が子に期待する親たちの背中に、私が抱くうらやましさのようなものも、そこの部分だったと思う。それは多くの人間が経験することではあるが、それ以外ではなかなか得難い自己承認の形なのではないか。独身者としてプライドを持ちながら生きつつも、その困難さに考えるところの多い私は、それを深く実感する。だから子育てをしなければならないとは考えないが、それに替わるだけものを得るのは、並大抵のことではないだろう。そして家族を形成していくことの価値はけっして低く見積もれない。

そんな当たり前のことを、生き生きとした体験とともに伝えてくれるところに、この本の魅力がある。そして、氏の数年前のベストセラー『弟』も、実弟の故石原裕次郎への血の思いを深く掬い上げた、愛情溢れる回想録になっている。

蛇足だが、もし石原氏の子供に、娘がいたら、あるいは障害者やゲイが生まれていたら、氏の人生観にはどのような違いが生じたのか思わずにはいられない。果たしてそういう経験をしなかったのは、氏にとって幸福なことだったのか、不幸なことだったのか。

●石原慎太郎『息子たちと私』(幻冬舎)1575円