2009-08-19
伏見徒然草 vol.69
ネオゲイの時代 1(初出/バディ 09.9 伏見徒然草)
ゲイだからって差別されるのはまっぴらごめんだけど……一方で、ゲイって社会的にどんな意味があるのだろうかと疑問に思うことはある。男女の関係だったら、それが結婚に結びつき、子供を育てることにつながっていくという社会的な面があり、それはとりあえず持続可能な社会を作っていくためには必要なことだ。人口が増えることが良いとはかぎらないが、子供が極端に少なくなっていったら、社会は成り立たない。
もちちんぼくらは、子供を産んで育てることは国民の義務なのだからゲイやシングルはけしからん、と言われれば、ライフスタイルの選択は幸福権の追求の一つだ! とでも反論をせざるをえない(それがゲイリブだよね)。けれど、両方の言い分はどちらが絶対に正義でどちらが絶対に間違っているというわけでもないだろう。
例えば、社会の再生産が不可能な水準まで出生率が下がってしまえば、子育てに関わらない人への批判が高まることはいちがいに否定はできない。人は社会のなかでしか生存できない生物だから、その基盤が危機的な状況になっているときに「自分はそんなこと知らないもんね」ではすまされない。あるいは、地球人口が爆発的に増えている状況で、そのことでかえって資源の枯渇などが問題になる局面では、子供を増やすことがいいことだと必ずしも言えない。……何が「正しく」て何が「正しく」ないかは、相対的に捉えられるべき事柄で、ケースバイケース、立ち位置によって評価も変わってくる。
考えてみれば、同性愛というのは、単に同性同士の性愛の欲望であって、それ以上でも以下でもない。スカトロ趣味の人たちがウンコ好き以上でも以下でもないように。以上でも以下でもないことで差別をされるいわれはないが、でもそのこと自体で社会に対してプライドを持てるわけでもないし、尊敬を得ることもできない(べつに尊敬されなくてもいけどね)。
伏見は以前から、こちら(性的少数者の側)からもっと積極的に社会構想を提出していかなければならないと主張してきたが、最近、共感を抱く学術論文を読んだ。金田智之氏の発表した「セクシュアリティ研究の困難」から少し引用してみる。
「ゲイやレズビアンに関する研究が……同性愛あるいはセクシュアリティが現代人にとってどのような意味をもち、またそれらは社会的にみて、どのような位置づけをなされているのか、ということを問う視線を欠いてきたのではないか……」(関修・志田哲之編『挑発するセクシュアリティ』より)
いわれない差別が厳然とあるときにはそれに闘うことに集中せざるをえないが、それとは別に、同性愛者であることをいかに社会において価値づけられるか、という問題はこれまでほとんど議論されることがなかった。九十年代にリブをはじめた世代は、声を上げるのに必死でこうした問題を考える余裕もなかったわけだが、ある程度、同性愛が公認された差別問題になってくると、こうした議論が求められるようになってくるだろう。もちろん伏見にはそれに応えられるような学識はないので、まさに金田氏のような三十代の、ポスト九十年代の研究者にその中心的な役割りを担ってもらいたいものである。彼らがいったいどのような価値付けをしてくれるのか、あるいは、結局価値づける必要を感じないのか……実に興味深い。
さて、ここから話しは急に下世話になるのだけれど。子育てをしていない伏見が社会の再生産に対してできることは何か、と個人的に考えたときに思い浮かんだのが、男女の出会いの応援であった(笑)。婚活が盛んといわれる今日、周囲のノンケ男女に聞くと出会いを求めているわりに機会がないとぼやく連中が少なくない。それだったら、伏見が水曜日に営業しているゲイバーを男女のお見合いの場にもしましょう、ということで、ゲイのお客さんたちに自分の周囲のノンケでお相手を求めている「物件」を持ち寄ってもらうことにした。つまり、ゲイたちがノンケの仲人に積極的に乗り出そうという企画だ。そうしたら、けっこう需要がある! 男子の「優良物件」に対する女子の食いつきはなかなか迫力がみなぎっている。
これまでも、ゲイバーにもかかわらず男女のカップルも誕生させてきた伏見のバーであるが、これはなかなかのヒット企画になりそうな勢い。ここでは男子が女子を選択するという構図になりそうなので、それはそれで女子を闘犬に見立てたゲイバー的な見せ物にもなって(笑)周囲のゲイにとっても面白い。そして少子化時代の男女の出会いに貢献できるという社会的意義もある。さらにお店も営業的にたいへんありがたい。ということで、誰にとってもありがたいイベントになるかもしれない。
これって新しいゲイリブの一つなのではないかと、半ば本気で自負しているのだが、どうだろうか? 「あれが足りない、これが足りない批判」や、自分たちを弱者として敵対する社会を撃つ世界観がもはや有効性を欠いてきた昨今、マイノリティが生きやすい社会を作るには、こちらからどれだけ社会をより良く、面白くしていく提案ができるかが鍵になってくる。


