2008-12-05

山内昶『ジッドの秘められた愛と性』


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● 山内昶『ジッドの秘められた愛と性 (ちくま新書)

★ 現在の感性からすると、あほくさ…としか思えない本だが、まあ、こういう言説が行き交っていた時代もあったということで。怖いもの見たさならお勧め(笑)

僕は一応、”ゲイ・ライター”などと名乗ってジェンダー/セクシュアリティ論を展開している立場なのだが、恥ずかしいことにアンドレ・ジッドについてはこれまでほとんど関心を抱いたことがなかった。もちろん、思春期には『狭き門』くらいは読んだと思うし、彼が同性愛者であったと言われていることもそれなりには知っていた。が、いつか同性愛を主題とした『コリドン』くらいはちゃんと読んでおかなきゃねーと思うくらいで、今日に至るまで著作をひもとくことはなかった。

しかし、この『ジッドの秘められた愛と性』を読んで、彼に対する関心は俄然高まった。へぇー、こんな人がいたんだーと、同じ同性愛者として誇らしい気持ちになったほどだ。著者の山内昶氏がジッドの著作から引用している言葉に触れるだけで、彼のゲイネスが熱く伝わってくる。

「…異性に対する好奇心はまったくなかった。もし私の身振り一つで、女性の秘密がすべて発見できたとしても、あえてそうした行動をしなかったことだろう」(1)

(売春婦との経験について)「私が勇敢だったのも、眼を閉じて自分の腕の中にモハメッド[マグレブの少年]を抱いていると空想したからだった」

(『コリドン』について)「私の本の中で一番重要なもの」

(『コリドン』の序文)「…それは現存しているのだ。私は存在するものを説明しようとするのだ。そして、それが存在していることをふつう人は認めようとしないから、その存在が人のいうほど本当に嘆かわしいことなのかどうかを検討し、吟味しようとするのである」

これだけ並べてみるだけで、いかにジッドという人が己の同性愛についてこだわり、その人生の中で同性愛者として生きることの可能性を探っていたのかが窺える。たぶん、多くの同性愛者が自分自身と共通する心象をそこに見出し、ある種のわかりやすい同性愛者像を思い浮かべることだろう。

しかしながら、本書のテーマは、ジッドが「あくまでも心因性の仮性同性愛だった」ということを追求することにある。ジッドが肉体関係のない妻を「愛し」、併行して少年たちと情を通じ、晩年には女性の愛人に子どもをつくらせてたことなどに注目し、彼を単なる同性愛者ではなく、多型的な性を実践した性解放の先駆者として描き出そうとしている。

僕のようなジッド初心者には、何が彼の真実であったかはわからない。はっきり言って「真性同性愛者」であろうが多型倒錯であろうが何でもいい。しかし、この著作全体を読んで気になるのは、その結論の性急さである。

例えば、引用(1)に対して著者は、「この一節からは異性にまるで無関心だったとは思えない。むしろ抑圧が激しかっただけに、かえって女性の秘所への強い好奇心が読みとれる」という解釈を持ってくる。この引用の前後に何かそれらしきことが語られているのならともかく、「この一節から」だけではどうしてジッドの語った内容と正反対の解釈が可能になるのか読者には不可解でしかない。少なくとも、精神分析の俗流解釈を「動物占い」程度にしか評価しない僕には、あまり説得力を持たなかった。

あるいは、「仮性同性愛」という概念もそもそもよくわからない。著者によれば、「真性同性愛の原因となる器質的変異がジッドの場合にはなかった」ことを、ジッドと親しかった人の所見を引いて結論づけるのだが、それでは、多くの「真性」同性愛者は器質的変異があるのか。同性愛をめぐる生物学的な研究は多々あるが、現在もいったいどこに「器質的変異」があるのかが議論になっているくらいで、生物学的「原因」はまだよくわからないのだ。まして、ジッドの時代の人たちの所見を根拠にして、「仮性」を結論づけるのはかなり無理がある。ちょっと見が健康そうで、異性愛者の男性とかわらないから「仮性」だとするのなら、現在のほとんどの同性愛者は「仮性」だということになってしまう。

どうも著者の論証は強引すぎるし、「仮性」「真性」といった言葉の定義も曖昧だ。そういう意味では、該博な知識が華麗に披露される一方で、理論的な精緻さを欠いた研究書ではある。

そして、現在のセクシュアリテをめぐる議論の中に本書を位置づけると、全編を通じて流れている著者の”志向性”が浮き立ってしまう。「秘められた愛と性」という表現をタイトルに持ってきたことが象徴するように、秘められたものにこそ「本質」が隠されていて、それをつまびらかにすることでその対象の真実に到達できる、という感性そのものだ。ミステリーを解き明かしていくような文体が渇望しているものは、いったい何なのか。僕にしてみると、ジッドの真実よりは、その”志向性”を促す著者の欲望自体に関心がある。いや、関心ではなく違和と言っていいかもしれない。

僕らの世代はすでに、感覚的に、そうした人格と性がイコールで結びつくような近代主義的な性意識を抱きづらくなっている。その人の性の内側を開示することで、何か「本質」という言葉で表現したくなるような核心に触れられる、というロマンを持ちえないのだ。だから、オナニズムや同性愛の歴史や理論的解釈に関する膨大な知識が羅列され、フロイトやユングの理論が真理のごとく前提とされ、そこからジッドの「本質」に迫っていくような本書の構成自体が、どこか時代的な風景を思い起こさせてしまう。

郷愁と言っては失礼だが、齢70歳を越える著者の生きた時代感覚と、セクシュアリティという近代の装置そのものを彷彿とさせる一冊であることは間違いない。

*初出/文学界(2000.3)