2008-12-05

安野モヨコ『ハッピー・マニア』


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● 安野モヨコ『ハッピー・マニア 2 (祥伝社コミック文庫)

★★★★★ もう古典ですね。90年代という時代を体現する名作

『ハッピー・マニア』と時代の欲望

この10年の日本のポップカルチャーでもっとも重要な収穫が、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』と安野モヨコの『ハッピー・マニア』であることは間違いない。他のいかなる言語表現も映像表現も、この二つの作品以上には時代の核に深く届いてないし、人々の心の奥行きを掬い上げたりはしなかった。メインカルチャーを名乗るものの担い手たちは、自分たちがもはや「サブ」カルチャーの座に退いたことを、素直に認めなくてはならない。

90年代という時代は、史上初めて私たちに、物質的に満たされることを目的にしない日常を用意した。そこで私たちは、欠落を回復しようとする自我ではなく、自我そのものの意味を問うような実存形式を追求しなければならなくなった。欠落感を軸にした「生」の意味付けとは異なる「存在様式」。80年代バブルにおける過度のブランド品への志向やグルメの追求は、ある種、それまでの貧しさへの反動として生じたルサンチマン現象だった。そして、一通りの贅沢を「体験」してみた末に、それらが自分たちの「生」を必ずしも納得させるものでないということも明らかになった。だからこそ、経済のバブルが弾けても、人々は本当のところそんなに慌てたわけでもないし、経済学的な数値を回復しなければと躍起になったわけでもなかった。

こうした中、(かつて革命を求めた)男の子たちの文化が至った一つの道は、私たちの現実の外側に異なる現実を打ち立てることだった。あるいは、現実から自閉することで、自分だけの世界を確保することだった。空想の王国を創り出すことで、平坦な日常をいきいきとした時間に変える契機をつかまえようとしたのである。これは、現実にはオウム事件をもたらすことになったわけだし、表現としては、オタクを経て、『エヴァ』という文化現象に結晶した。

しかし、この方向での道は、その物語が日常と離れていればいるほど、その着地点を見出す困難さもまた生じた。オウムは周知通り、悲惨という言葉さえ通り越して、滑稽な惨劇を記憶に留めることとなった。『エヴァ』のラストも、壮大なイマジネーションのうねりの果てに、アダムとイブの創世神話に回帰するという陳腐な幕切れとなった。王国への夢想は、強い動機を与えてはくれるが、その結末はそれゆえにまた空しい。夢はまさしく夢でしかないのだ。そして、物語の果てに虚無がまた立ち現われた。

一方、(かつて二級の社会構成員として私的領域に封じ込められていた)女の子たちの文化がたどった道は、男の子たちのように解決を性急に現実の外に求めたり、自分だけの王国に自閉したりするのではなくて、日常という空間をリサイクルすることだった。言い換えれば、日常性の徹底的なエロス化。コギャルやガングロといったキャラの登場は、まさしく日常を日常の異化によって成し遂げようとするプラグマティックな試みだった。それは、小さな起承転結の集積によって、そこにある空間をテーマパークのようにアトラクションで満たす企画だ。そのリアリズムは、社会や歴史という項を自らの「生」に繰り込んでは存在しえなかった女の子たちが、逆説的に編み出した「暮らしの智恵」と言っていいだろう。

そうした女の子たちの欲望のヘソを上手く捉えたという意味で、『ハッピー・マニア』ほど時代的な作品はない。これはセクシュアリティやエロティシズムというアトラクションを用いて、延々と繰り返される平凡な日常を、いかにして非凡化するのかを追求した物語である。

重田カヨコは、アルバイトと言えども自分の生活を支え、親に頼らずに暮らそうとする自立した女だ。しかし、その自己実現はあくまでも性愛というステージにおいてのみ求められ、社会的なスケールを自らの「生」に導入しようとは思わない。そうした社会的サクセスへの断念と無関心が、前提条件として存在している。ステップアップしたならしたなりに大変だし、しないならしないなりに大変だ、それなら、コストのかかるステップアップよりも、身近な恋愛においてハッピーになればいい! 彼女は、生活水準が相対的に底上げされた成熟社会における当然の合理を選択している。

その瞬間瞬間の快楽に生きるハッピー・マニアには、ハッピー・エンドはありえないし、物語の内部を駆け抜けること自体が日々の高揚を維持する唯一の方法になる。それはハッピーを終わらさないためのマニアックな選択でもあるわけだ。

そうした方法論を物語に導入したことで『ハッピー・マニア』は、少女漫画の定式はおろか、女性のセクシュアリティの幻想すら破壊し尽くしてしまった。結婚は女の幸せのゴールなぞではなく退屈の始まりであること、セックスは恋愛関係の保証にはならないこと、エロティシズムが非日常を設定すればするほど盛り上がる「形式」にすぎないこと、恋愛関係にない相手とのセックスがけっして心の傷になどなったりしないこと、高揚感のない男女の関係性が案外人生においては重要なものにもなりうること、人はあまりにも安直に恋愛に陥ることができ、運命の人は複数存在する可能性があること……。

安野モヨコはこうした冷厳な「事実」と「真実」を喜劇にすることで、近代のロマンティック・ラブ・イデオロギーの甘い残滓を無意識に乗り越えてしまった。

欲望が結実する瞬間を捉えようとするハッピー・マニアに終着点があるとすれば、当事者が欲望の自己実現を否定するときだろう。それはとりもなおさず、いきいきとした時空を生きることをあきらめることであり、自由という未知を探ることから降りることだ。とすると、女の子たちが選んだハッピー・マニアの道もまた厳しいものだと言える。なぜなら、そうした日常を生き抜くことは、圧倒的なタフさを必要とし、エンドレスに走り続けることを余儀なくされるからだ。

男の子たちが陥った王国の夢と虚無への道を繰り返すか、女の子たちが発明した絶え間ない欲望の設定とタフな疾走の道を進むのか。どちらにしても私たちの未来はまだ、茫漠とした原野の中に広がっているとしか言い様がない。

*初出/安野モヨコ『ハッピー・マニア』(文庫版解説/2001)